発想の森 「犬」

         すずき みのる

やはり犬を飼おうと決めたのは、二代目のジャービュ(変な名前だが、我が愛犬であった)
が死んで、一月ほど立った頃だった。

二代目と書いたのは、ジャービュには初代がいたからだ。シーズ犬の初代ジャー(普段は
短く約めてそんな風に呼んでいた)は、事情があって長期間預けたペットホテルで衰弱し、
帰国して迎えに行った時には、がりがりに痩せて立ち上がれないほどの状態になっていた。
ホテルに対して責任を問うよりも、心おきなくジャーを預かって貰える知り合いを一人も持た
なかった自分に対して、腹立ちと後悔を感じた。かかりつけの獣医の所に急いでジャーを
運び、治療を施してもらったけれど、二日ほどして死んだ。亡骸を引き取りに行った際、
まだ若い獣医は、「昨夜、ジャービュが太いうんこをして、これで何とか回復をするのでは
ないか、と期待したのですが。」と言った。

二代目のジャービュとは、十三年間暮らした。ほとんど突然と言っていい形で、初代ジャ
ービュを失って、このまま一人で暮らす事が辛く、すぐに次の犬を飼うことにしたのだ。犬種
は初代と同じシーズだった。頭が良くて、陽気で、少し気位の高さを身につけた初代ジャー
ビュの魅力は、他の犬種を選ばせなかったのだ。二代目は、人なつこく甘えんぼで、そして
体が弱いせいか、少し神経質で臆病なところのある犬だった。抱いてやると、やがて腕の中
でうつらうつらし始める姿が、いじらしかった。皮膚が弱くて、体のあちらこちらの皮膚を年中
赤くしていた。薬を塗ると、それを嫌がるのか、自分で舐め取ったりもしたものだ。雷が大嫌い
で、遠雷を聴き留めるとそわそわし始め、やがて本格的な雷雨になると、飼い主の側から離れ
たがらなかった。特に、ある年、この地方を襲った大きな地震の後では、情緒が不安定に
なって、幾晩も真夜中の部屋を歩き回り、突然闇に向かって吠え出し、静かにしろと言っても
鳴き止まなかった。やがて、少しは落ち着いた状態に戻ったけれど、そばに誰かがいないと、
そわそわするようなそぶりはその後死ぬまで残った。晩年の二年間ほどは、ずっと患っていた
白内障が悪化して、両目ともほとんど見えない状態であった。それでも散歩に出たがり、しかし
外に出るとすぐに自宅に引き返した。やがて、後ろ脚が弱り、歩けなくなり、寝たきりのような
状態になって、最後は寝床にしていた籐編みの浅い籠の中で、愛用のバスタオルにくるまれて、
死んだ。それは、梅雨明け間近なある夜の事だった。静かになったジャーの側で、こちらもごろり
と横になって、ジャーの姿をいつまでも見ていた。外を吹き渡っているであろう雨もよいの風の音
が、室内にいてもはっきりと聞こえるような気がした。

二代目のジャービュが死んで、一人での暮らしが始まった。仕事柄自宅にいることの多い自分
に、生前のジャービュは側にいてもいなくても、常にある温もりとしてその気配が感じ取れる存在
だった。しかし、その気配もジャービュが死んで以来、一日一日が過ぎてゆくにつれ、私の周り
から次第に薄れ消えていった。その変化を寂しく感じながらも、もう犬は飼うまい、そんな事を
思っていた。

ある夜のこと、寝床に横になったまま遅くまで本を読み、疲れて灯りを消し、やがて寝入った。
何時なのかわからなかったけれど、不意に目が覚めた。エアコンのタイマーが切れ室内が暑く
なったせいか、そんな事をぼんやり考えながら、暗闇に目を開けていた。すると、不意に蒲団の
すぐ側に、何かの気配を感じた。薄闇の室内に、もちろん何かいるはずはない。にもかかわらず、
確かに何かの存在を感じるのだ。不審を感じて身を起こそうとしたが、体は強ばったようになって
いて、全く動かない。やがて、微かな音が聞こえ始めた。それは、畳の上をなにか固いもので軽く
引っ掻くような音だった。その音が、蒲団の周りを軽やかに移動していく。それは、聞いた覚えの
ある音だった。初代ジャービュも二代目も、寝付きの良い犬だったけれど、しかし、時折は夜中に
目を覚まし、部屋の中を歩き回る事があった。特に、二代目のジャービュは、地震以来しばらくは
そんな状態が続いて、畳を爪が引っ掻く音で、何度もおこされた経験があったのだ。今聞こえる
その音は、あの時犬たちが立てた、部屋の中を歩き回るその音なのだった。もちろん、部屋の中に
何者の姿も見えない。乾いた小さな音が聞こえるばかりだ。その音は、蒲団の周りを数回廻った
ところで、ふっと消えた。その後には、沁みるような闇の気配が鼓膜を圧迫するばかりだ。恐怖は
まるでなかった。ジャービュが来てくれたのだ、そう思った。死んだ後も、頼りない飼い主の事を気に
掛けて、来てくれたのだ。胸の奥に、小さな温もりが灯ったようだった。

やはり犬を飼おうと決めたのは、二代目のジャービュが死んで、一月ほど立った頃だった。三代目
もシーズ。名前は、ジャービュと付けようと思う。