「ねえ。」心底あきれたという調子を、一語一語に込めて、真由嘉は言った。「いくら、初めてお話を書くと言って、なにもそのための原稿用紙まで手作りすることはないんじゃないの。」30センチの定規を手にして、B4版の白紙に罫線を引く準備を始めた僕の姿を、その少し碧みがかった両方の瞳でしっかり見据えながら、真由嘉は続けた。「いくら、外が記録的な猛暑とは言っても、近所の『100均』までは、歩いてもそんなに時間はかからないんだから。罫線引きに汗をかくより、往復15分に汗をかいた方がよっぽど効率的だよ。」真由嘉は、僕が座っている食卓兼用の机から少し離れたところに置かれた、二人がけのソファに、ちょこんと腰をかけて、両足の上においた腕に顎を載せるようにしてこちらを見ている。真由嘉の言葉には答えないで、20マス×20行の400字原稿用紙を作るため、僕は白紙に慎重に定規をあてて、長さを測りながら罫線を引くためのポイントを鉛筆で打ち始めた。

 携帯の呼び出し音が鳴って、しばらく小声で遣り取りをしていた真由嘉は、ピンク色の本体をパチンと二つ折りにして、床に投げ出してあった小物入れに放り込むと、「今から聡士と希美ちゃんが、こっちに来るって。二人ともバイト終わったらしいよ。」と言った。ボールペンで慎重にポイントとポイントを繋ぎながら、「うん。」と僕は返事をした。それから、ちょっと気になっていたので、一言付け足した。「二人が来るなら、下着つけといたほうがいいよ。」瞬間、眉根にわずかに皺を作ってから、真由嘉はソファの背に無造作に置かれたブラジャーに手を伸ばした。「ここの部屋、ものすごく暑いのよね。まして、今時扇風機しかないんだから。ブラなんかつけてたら『汗疹』が出来ちゃう。」本気で腹を立てた様子で、ソファに座ったまま真由嘉はさっさとTシャツを脱ぐと、下着を身につけ始めた。そんな 真由嘉を、横目でちらりと見て、僕は再び線引き作業を続けた。ただ、上半身裸の白い姿が、しばらく残像のように僕の中のどこかの空間に留まったような気分だった。

 何を書くかは、すでに決まっていた。数日前に起こった、考えようによってはちょっと衝撃的な出来事を材料に、僕と真由嘉を中心にして、現在音信不通の黛響子のことを搦めて、友人の聡士や希美、健太郎、達夫達を脇役に、虚実相半ばする言わば「私小説」風の中編小説を書いてみるつもりだった。特に、連絡が取れなくなる直前の黛響子が皆の携帯に残したメールの文面「ありがとう、とだけ言っておきます。」という言葉は、それを受け取った僕たちの中に多少の波紋を投げかけたのだ。だから、小説の書き出しは、その文言から始まる事になる。「『ありがとう、とだけ言っておきます。』その一言を僕たちの携帯に残して、三浦美佳は僕たちの前から姿を消した。それは、日本中が猛暑にうだっていた8月の最終金曜日のことだった。」そして、僕の中ではすでにお話の最後の場面も出来上がっていたのだ。それは、こんな風に終わる。「強烈な西日を避けるためにカーテンを閉め、そのため薄暗く熱気の籠もった部屋の中で、僕と茉莉花は小さなソファに並んで腰を下ろし、まるでそれ自体が発光しているかのようなカーテンをいつまでも見つめ続けていた。」

 坐り続けているのに疲れたのか、真由嘉は立ち上がると、隣の台所へ入っていった。冷蔵庫のドアを開ける音がした。やがて、硝子コップの触れ合う音。そして、それに液体を注ぐ音が聞こえた。僕は、原稿用紙の罫線を引き続けた、間もなく、用紙の一枚目が完成するところだった。

と、ここまで書いたとき、インターフォンの呼び出し音が短く鳴った。電話形式のインターフォンなので、受話器を取り上げると、濁った声で「黒猫ヤマトの宅急便です。お届け物を持ってあがりました。」と言う。せっかく調子よく書き始めたのに鬱陶しいなと思いつつも、階下の電動ドアのスイッチを押す。数分後、ドアチャイムが鳴る。印鑑を持って、玄関まで行き、ドアを開けると、そこには身長が一メートル九0は在りそうな男が立っていた。心底吃驚した。その男の面立ちは明らかに日本人とは違っていた。アジア系の人間ではない。インド、中近東……? ただ、その服装は確かに「黒猫ヤマト」の宅急便業者のものだったし、そのおとこの手には、先日ネットで注文した書籍が入っているはずのアマゾンの見慣れた小型の段ボール箱が抱えられてある。動揺の思いをぐっと抑えて、「ごくろうさま。」と言ってドアを大きく開けると、男は「ありがとうございます。受け取りの用紙に印鑑をお願いします」ととても流暢な日本語で話しながら、受取証をこちらに差し出した。その顔立ちとその口から滑らかに発せられる日本語との間に、おおきなギャップを感じながら、紙を受け取り、強く印鑑を押しつけた。紙と引き替えに荷物をこちらに渡すと、男はにっこりと笑い、もう一度「ありがとうございます。」と言ってから、静かにドアを閉めた。ドアが閉まる寸前、こちらを見ている男の左右の瞳の色が微妙に違うことに私は気がついた。緑と赤。こちらの目の錯覚かと思ったけれど、ドアは閉まり、それを確かめるすべはもうなかった。