そして、小林はゆっくりと落ち着いた声音で言った。「見えるんだよ。新緑の木々のまだ密々と茂る前の木の葉の間に。」「何が、見えるんだ。」小さな明かりに灯された小林の横顔を見ながら、私は尋ねた。「色々なものが。」小林は言った。「色々なもの。」私は、尋ね返した。しばらくの間をおいて、小林は私の方に顔を向け、そして言った。「色々なものが見えるんだ。」それから、一度口を閉じ、そして続けた。「ルオーの絵のように。ルオーの絵のように、生い茂った緑の葉の間に、父や母の顔、祖母やそして写真でしか知らない祖父の顔が見えるんだよ。」「絵の話をしているのか。」小林の言葉の真意が掴めぬまま、私は言った。小林の閉じた口元に、かすかに微笑の影が浮かんだ。「絵の話じゃないよ。現実の話だ。新緑の木の葉の間に、亡くなった人達の、いやそれだけじゃない、昔飼っていた犬のルビやカナリヤのサチ、近所の友達とこっそり餌をやっていた捨て猫のシロとその仔猫たち、そんなものを中心にして、腎臓病で小学校4年生の時に亡くなった橋田くんや、中学時代交通事故に巻き込まれて死んだ渡辺君や、さらに自分の知らない多くの顔、あるいは人間だけじゃなくてたくさんの生き物たちの顔が、にこにこ笑いながら木の葉の間から覗いているんだよ。」それから、上目遣いに小林は私を見ながら言った。「不思議だろう。」私は、椅子に座り直した。不自然な格好で座っていたのだろう、お尻が痛んだ。「幻だよ、いや錯覚だ。」そう、私は言った。「木の葉に反射する光の加減で、重なった木の葉の影がなにかそんな風に見えることがあるのだよ。」小林は、静かに首を振った。「錯覚でも幻覚でもない。それは、確かにそこにいるのだよ。ただ、こんな事を真顔で言ったところで、到底信じてはもらえないと思うけれども。」私が口を挟む前に、小林はゆっくりと続けた。「それに、僕は嫌じゃないんだよ。木の葉越しに、多くのものに見られていることが。」落ち着いた声音だった。「見られている、というよりは、見守られているような感じがするので。」小林の話は、私には一向呑み込めないものだった。ただ、淡々と話す小林の様子の中に、まるで異常なものを感じないのも事実だった。文字通り、彼は自分の見るものをごく当たり前にありのままに語っている風なのだ。ただ、気懸かりに思えたのは、そんな小林がここ数日、何の連絡もないまま仕事を休み、携帯にも応答をしなかったという点だった。真面目で、人当たりの柔らかい小林は、職場の中でも、皆から親しまれ、信頼も置かれている男なのだ。そんな小林が、ここしばらく無断で欠勤しており、職場の同僚達は、連絡のつかない一人暮らしの小林の身を案じて、一番親しくつきあっていた私が、代表して彼の様子を見にいくということになったのだ。小林の自宅は、緑が豊かに残る郊外山の手のマンションで、職場から私鉄に乗って30分程の所にあった。玄関のチャイムを押すと、程もなく小林自身がドアを開け、外に立っている私の姿を認めると、申し訳なさそうな表情を一瞬浮かべて、私の中に入れてくれた。カーテンの閉められた奥まった部屋に案内され、小さな明かりの前で、彼の口から話されたのが、「見える」ということだったのだ。

 「いつから、見えるようになったんだ。」と私は尋ねた。小林は、ちょっと考える風であったが、「実は、子どもの頃には、たまにこんな事があったんだ。他の子には見えないものが、僕にだけは見えているらしい、という事は。」私は、そのまま小林の話を聞くことにした。「ただ、それも一時的なことだったようで、小学校の中学年くらいからは、そんなことはまるでなくなった。それが、今年の春、木々の若葉がしだいに緑を増して来る頃になって、不意にまた見えるようになったんだ。緑の葉の間に色々な、恐らく亡くなったものたちの顔が見え始めたのだ。」そこで、小林は一息ついた様子で、私の方を見た。「馬鹿な事を話していると君は思うだろう。」そう小林は言った。「でも、なぜ仕事を休み、窓にカーテンを掛けて君は室内に籠もっているんだ。」私は尋ねた。小林は、「見られていることが嫌ではないと先程言っただろう。ここいらは緑がたくさん残っている地域だから、おそらくカーテンの向こう、窓の外にも、新緑の風景が広がっている事だろう。その新緑の木の葉の間からたくさんの顔が覗いているという、その情景が君は見たくないからではないのか。」そうであるならば、乱暴なやり方ではなく、そのことを糸口にして一度医療にかかるよう、私は小林を説得してみるつもりだった。小林はしばらく考える風だったが、やがて言った。「嫌ではない。これは本当のことだ。ただ、眩しいので。最初はそうでもなかったのに、日が経つにつれて、それらの顔に見つめられていることが次第に眩しく感じられて、やがて外に出づらくなってしまったんだ。」私は黙って小林の言葉の続きを待つ他はなかった。「あるいは。」と小林は言った。「僕は見てはならないものを見ているのかもしれない。それは僕の意志や希望とは関係なしに、見えてしまう、ということではあるのだけれど。そして、見てはならないものは、それがとても目映いものだから、見てはならないのかもしれない。ちょうど、太陽の光を直視すると、目が眩んで何も見えなくなってしまい、思わず目をそらしてしまうように。そんな風に僕も又、それから目をそらして家籠もりをしてしまったのかもしれない。太陽は嫌いじゃないのだけれどね。」小林の目には、私がどのような表情を浮かべて自分の話を聞いていると映っているのだろうか。小林は申し訳なさそうな口調でさらに言った。「ただ、最近気が付いたのだが、木々の緑が色を濃くするにつれて、実は見えていた顔が木の葉の背後に次第に隠れ始めているのだ。だから、新緑が青葉に変わるここ数日の内に、顔達は僕の視界から隠れてしまうことになるだろうと思う。そうすれば、眩しさに妨げられることもなく、普段通りに外出も可能になる。仕事にも出られるようになると思う。だから、君にはとても迷惑をかける事になるのだけれど、急な発熱のため、連絡もままならないまま、ここ数日欠勤をしてしまった。ただ、体調も回復しつつあり、病院にも行って治療を受けたので、間もなく出勤できると会社の方には伝えてもらえないだろうか。無断で休んだ点についてのお詫びと、当然のペナルティも覚悟している事も言い添えてもらって。」小林の話を聞き終えて、どうしたものかと私は考えた。結論はすぐに出た。急な発熱によるここ数日の欠勤ということで、会社や同僚には話をすることにした。小林自身が実際どのような状態であるのかは、私には判断出来なかった。なにしろ、私には「見えない」のだから。ただ、小林はこうして庇うに足るだけの好人物だと、私も職場の皆も考えているのは確かなことだったので。