夕影町(その1)
                                       

 それは、大きな地震の後で起こり始めた現象だった。ごく局地的な現象、私の職場を含む半径2、3キロの範囲に生じた現象で、しかし局地的とはいえ、なんとも奇妙なものであった。

奇妙といえば、きっかけとなった地震自体がおかしなものであった。確かに巨大な揺れにみまわれたにもかかわらず、建物にも人間にも全く被害が発生しなかったのだ。それこそ、コップひとつ割れることはなかった。その瞬間、その地域にいて、働いたり、家事にいそしんだり、勉学に励んだり、あるいは特になにもしていなかった人まで、すべての者が大きな揺らぎを確かに感じたにもかかわらずだ。

 そして、その不思議な地震に襲われた日の夕方になって、その現象は生じたのだった。それはまるで、現実世界全体にうっすらと1枚のベールを被せて、そのベールに誰かがどこかから特別な映写機でひとつの映像を映し出したかのようなものであった。それは、どこかの町の映像で、建物があり、通りがあり、そこに沢山の人がいて、働いたり、生活したりしている情景であった。それが、今評判の3D映像のように立体的に、私たちの世界に重なるように出現したのだった。

ふと気が付いたら、自分の周囲を別の町の情景が取り巻いていた、というのが、初めてその現象に触れたときの私の実感だった。仕事机に腰をかけ、本日分の仕事の最後の詰めを行っていた私が、奇妙な気配を感じて、パソコン画面から顔を上げた瞬間に、私の周りには薄墨色の配色で彩られたどこかの小さな事務所の室内が、現実のオフィースに二重撮しされるように広がっていたのだ。そして私は、私の真向かいに、驚きの表情を浮かべて、私を見つめている、そちら側の人の視線と直面することとなった。その人の下半身は、ちょうどそこにおかれた書類ボックスと重なって、ボックスが作った影のように見えた。驚いた私は、相手を見つめたまま思わず座席から立ち上がっていた。眼前に幽霊を見たような、そんな表情をその時の私は浮かべていたことだろう。私の周りでも、同じような反応が起こっていた。そしてそれは、こちらの側においても、むこうの側においても、同じようなものであったのだ。そんな風にして、この奇妙な現象は始まった。

 夕方、決まった時間にほんのしばらく現れる幻のような町、私たちはそれを「夕影町」と呼ぶようになった。異変が起こった当初は、町にマスコミが取材やテレビ中継のために殺到したり、見物人が一気に集まり、中には私たちのオフィス内に入り込もうとする者まで現れたり、ということで大変な騒動となったものだった。そして、それは「夕影町」の人々にしても似たような状況のようで、ある時はむこうのオフィースの入り口で、来訪者と事務室の人とが押し問答をしているらしい様子を目撃して、苦笑いがつい浮かんだこともある。私の向かいの席(といっても、あちら側の)に座っている人も、入り口の騒ぎにちらりと見やりながら、困ったという表情を浮かべて、こちらに顔を向け、口元に微笑を浮かべたりもしたものだ。

 向かいの席の人は、可愛らしい顔立ちの女性で、私とそんなに年が離れていない人のように見えた。そして、毎日十数分のそんな時間と空間をともにしているうちに、私はどうやらその人に対して好意に似た感情を抱くようになっていたのだ。