それは、こんな風にして、始まった、と思う。いつも、通勤に使う道筋の途上で、殺人事件がおこったのだった。事件は、すぐに解決した。近所に暮らす労務者同士の喧嘩が、殺人にまで繋がってしまったらしい。遺体は速やかに回収され、犯人も同様に速やかに逮捕され、事件は解決をみて、仕事の帰りに現場を通ると、路上には、鮮血を洗い流した跡と、遺体の横たわった跡を示す白いチョークの線画が、残っていた。それで、終わりのはず、だった。
幽霊が出る、という。例の殺人現場でのことだ。殺されたはずの男が、そこに立っているという。青白い顔をして、半透明の姿のまま、身じろぎもせず、そこに佇んでいる、という。すでに、何人もの人が、それを目撃している、とマンションの隣人は、言う。そんな、馬鹿な。異常な出来事だったから、そんな出鱈目な噂がたつのでしょう、と笑うと、実は私も見ました、とその人は言う。今、行けば、きっとあなたも見ることができますよ、と真顔で言う。私は、行ってみることにした。

 それは、そこにいた。消え残ったチョークの描く頭の辺りに、人物の写る古いネガフイルムを日に透かし見たような有様で、それは立っていた。しっかりと見なければ、薄墨の人型の様にしか、見えない。しかし、目を凝らしてみると、その服装や、無表情ながら、目鼻立ちまではっきりと認められる。それを遠巻きに見る人々に混じって、恐怖なのか、驚愕なのか、言いようのない感情を胃の腑の上辺りに感じながら、しかし、一度見てしまうと、もうそれから目を離すことはできなかった。それが、確かに殺害された労務者なのか、その判断は、つかなかった。しかし、ある異様なものが、そこに佇んでいることは、確かだった。それは、まったく身動ぎしなかった。ただ、そこに立っているばかりであった。

 それは、大きな混乱状態をもたらすはずだった。幽霊が、厳然として存在する、その証なのだから。しかし、事態は、さらに違った形でやって来た。その一体が引鉄であったかのように、突如、全土に同じようなものが一気に出現したのだ。その風体から、それらが実に様々な時代の人々であることは、容易に判断できた。おそらく、それらは、あの労務者と同じように、亡くなったときのその姿のまま、自らの生命が失われた場所に出現したのだろう。それは、地上の構造物と重なるように現れたり、また、何体ものそれが重なっていたり、ということからも想像できた。

 パニックが起きなかった、と言えば、嘘になるだろう。しかし、それは個人のレベルにおいての狂乱状態であって、社会全体としては、大きな混乱は生じなかった、と言って良い、と思う。もちろん、冷静に事態を受け止めた、と言う訳でもない。社会全体を覆いこんだのは、困惑の感情であった。これは、一体何なのだ、という思いであった。もし、たとえばこれがS教の影響のもとにある社会であれば、死者の復活、Kの再来と最後の審判という流れへと、社会全体は容易に傾斜し、惑乱と宗教的興奮は、その社会を根底から揺さぶり、狂的状態を生み出しもしただろう。しかし、ここは違う。文字通り、墓標のように何をするでもなく佇む何億体ものそれを目の前にして、ただ困惑し、やがてあきらめ、それを静かに受け入れる方向へと、動いてきたのだった。それは、何をするわけでもなく、ただそこにあるだけ、だったからだ。

 そんなことがあって、リビングの家具の配置を、一部変えなければならなくなった。ボーナスで購入した大型テレビの位置を、部屋の反対側に移動させ、それに伴って、テーブルや椅子などの位置をずらすことにしたのだ。なぜなら、テレビの画面のまん前にそれが出現したからだ。いくら半透明とはいえ、それを通してテレビを見るには、やはり不便なのだった。それに、テレビを見ている間くらいは、それを自分の視野からはずしておきたい、との思いもあったのだ。

 それは、若い女の姿をしていた。それも、時代はごく最近のように見えた。このマンションは、中古物件として購入したものだ。前に住んでいた居住者の誰か、なのであろうと思う。時折、なぜ彼女は、ここで亡くなったのか、との疑問が浮かぶことはあるが、その理由を突き止める術は、ない。