「ねえ、入眠時幻覚って知っている。」ベットに腹這いになった姿勢のまま、裕美が言った。「何、それ。」と僕が尋ね返すと、裕美は顔だけ僕の方に向けて言った。スウィートカシスに染めた長い髪の毛が顔にかかって、目や鼻や唇が切れ切れに見える。「ネットの掲示板読んでいたら、出て来た言葉なの。眠りに入って、まだ完全には寝込んでいないときに見る幻覚だって。」「ふーん、そうなの。」それだけ言って、あまり素っ気ないかな、と思って、僕は続けた。「それって、夢なんじゃないの。」すると、裕美は少し考え深そうな表情を浮かべて、「ちょっと違うのよね。」と言った。「ちょっと違うって、まるでそれを知っているみたいじゃない。」「書き込みを読んでいて、ああ、これだったんだって思ったのよ。」顔だけを向けた姿勢が苦しくなったのか、裕美は寝返りをうつようにして、仰向けになった。髪が両側に流れて、白い額が露わになった。「私がずっと小さかった頃、しばしばこんな事があったのよ。」と裕美は話し始めた。

 その頃、裕美の両親は離婚協議の最中で、父親は家を出、一人っ子だった裕美と母親がそのまま自宅で暮らしていたという。裕美の母親はとても仕事の出来る人で、すでに自分が経営する店を持ち、忙しい毎日を送っていたそうだ。だから、二人で暮らすようになってから、裕美は放っておかれがちになったけれど、大好きな母親のために自分は寂しくても我慢しなければ、と思って(そう話ながら、『健気(けなげ)な娘だったのよね』と裕美は笑った)いたそうだ。その頃から、裕美は二階の一間に自分の部屋を持っていて、夜も一人でそこで寝ていたという。母親の帰りが遅いときは、部屋の明かりをつけたまま寝ていたこともある。朝になって、点けていたはずの明かりが消えていて、自分が寝入ってから帰宅した母親が、そっと自分の様子を見に来たことを知ったりもした。

 ある夜のこと、その日も帰宅が遅くなると母親から電話があり、裕美はいつものように、部屋に明かりをつけたまま、ベットに入った。今日学校であった楽しいことや、大好きなテレビ番組の事を思い出したりしながら、やがて裕美はうとうとしていたようだった。すると、二階につながる階段を、とんとんと誰かが上がって来る音が聞こえた。『あっ、お母さんだ。』そう思って、裕美は起きあがろうとした。けれど、眠くて体は思うように動かなかった。『このまま、横になっていよう。お母さんが起こしてくれるかもしれないし。』裕美は、耳だけを階段の方に向けて、そのまま横になっていた。階段を上る軽やかな音は続き、やがて階段を上りきって廊下をこちらにやって来るようだった。廊下の板を踏むかすかな音が聞こえた。足音は、裕美の部屋の前で止まった。『お母さんだ。』裕美は目を開けようとしたが、重い扉を降ろされたように、瞼は明かなかった。『お母さんがドアを開ける。その時までこのままでいよう。』そう裕美は考えて、ドアの方に注意を向けながら、そのまま待っていた。しかし、いつまで待ってもドアが開く様子はなかった。『お母さん、どうしたんだろう。』そう思いながら、やがて裕美は寝入ってしまったらしい。目を覚ますと、カーテン越しに眩しい朝の光が差し込んでいた。部屋の明かりは、点いたままになっていた。 

 その夜の事を、裕美は母親には話さなかった。自分でも不審なことだと思ったし、話せば母親が心配するとも考えたからだ(『思えば、つくづく健気な娘だったわけね』と、やれやれという表情を浮かべつつ裕美は言った)。そして、その日から裕美はしばしばその足音を聞くようになったという。聞こえるのはいつも、ベットに入ってうとうとし始めたころで、足音は決まって階段を上り、廊下を歩いて、裕美の部屋の前まで来るという。それは、母親が帰宅していてもいなくても、同じように起こった。最初は不審を感じていた裕美も、しかしやがてその音に慣れ、ついにはその音を待つような気持ちにまでなった。明かりを点けたまま、今夜はあの足音が聞こえるかしら、と期待するような思いで、裕美はベットに横になった。

 「それで、どうなったの。」身を起こした格好で、横になったままの裕美を見下ろしながら、僕は尋ねた。「どうにも……。」と裕美は答えた。「いつの間にか、その足音は来なくなってしまったの。不思議ね。」と裕美は言った。「実際に、部屋のドアの外に誰かが立っていたら、恐かったね。」仰向けになった裕美の裸の姿が僕には眩しかった。「そうね。」、と短く裕美は答えた。それから、不意に思いついたという風に、裕美は言った。「こうやって、あなたと一緒に寝ていて、うつらうつらとしている時に、またあの足音が聞こえ始めたら、どうかしら。」裕美の目に、いたずらっ子のような光が閃いた。それは、僕の好きな裕美の表情の一つだった。「そうだね。」しばらく考えて、僕は答えた。「大丈夫。この部屋は一階で、階段はないからね。」