新京極の雑踏の中で突然呼び止められた時、何かのキャッチセールスかと彼は思った。そのまま無視して行きすぎようとすると、その茶髪の女性から「小林君」と自分の名前を呼ばれ、立ち止まって相手の顔を改めて眺め直した時、彼はあっと声を上げた。流れの中の2本の網代木のように、休日の混雑の中に立ち止まっている二人の周囲を、無関心や迷惑や好奇の表情が淀みなく流れていった。二人はそんな流れを横断するようにして、閉店の紙が張り付いたまま閉ざされたシャッターの前のわずかばかりの空間へと移動して、改めてお互いを眺めあった。「君は秋山君。」と確かめるように発した彼の言葉に、目の前の女性は小さく微笑んだ。「ひさしぶりね。最後に会ったときから、もう十年くらいたつかしら。」と彼女は言った。さらに、彼の表情を読み取るようなまなざしで、「小林君は、誰かから私の事を聞いているのかしら。」とも言った。春らしい淡い色合いのワンピースの上に薄いコートをふわりとまとったその女性は、親しみの籠もったまなざしを彼の方に向けながら、落ち着いた声音でゆっくりと話した。そう言えば、大学時代の知り合いの一人からの、ある時の電話でのやりとりの話題の一つとして、その事を聞いたことがあったのを彼は思い出した。しかし、自分にはもう関係のないこととして、その時の彼はその話題を聞き流すようにして、ほどなく忘れてしまっていたのだった。

 小林と秋山とは、大学に同期入学した国文クラスの学生同士だった。特別に親しい間柄というわけではなかったが、キャンパスで会えば、顔見知りとして気軽に言葉を交わし合う程度の仲ではあった。二人の関係が有る意味で深まったのは、大学の二回生になって以降のことだった。それは、二人が同時に国文クラスの同じ女性に好意を持った事がきっかけだった。二人は恋敵の関係になったのだ。やや内気な小林に対し、秋山はより積極的に振る舞った。それが、二人の間に微妙な軋轢を生じさせることもあった。三回生となり、偶然と言うわけではなく、三人が同じゼミを選択し、やがて3人が3人ともにお互いの微妙な関係に気付きながらも、その女性は秋山を選び、結果として小林はそのゼミの単位を捨てることとなった。二人が正面から激しくぶつかり合うことはなかったけれど、その経験は小林の心に意外に深い傷を残したようだった。その後の学生生活の中で、小林は意識して二人を避けるようになった。秋山と彼女の姿を小林が最後に見たのは、卒業の謝恩会の場だった。有名なホテルの広間を一つ貸し切りにして開かれた謝恩会で、恋人同士として、ごく自然に親しく振る舞う二人の姿を、華やかな会場の離れた場所で、四年間を共に過ごしたクラスの仲間達と談笑を交わしながら、時折視野の一隅に小林は認めていた。そして、一つの時の終わりを、小さな痛みとともに感じていた。

 卒業後、人づてに秋山と女性とが結婚したこと、やがて子供が生まれた事などを聞くことがあった。そして、数年後、 学生時代の知り合いの一人からの電話の中で、彼は秋山と女性とが離婚をするかもしれない、という話を聞いたのだった。知人は物珍しい話題として、その事を口にしたようだった。それは、秋山自身が長い間深く心に抱え込んでいた悩み、自己の性に対する違和感が原因であったらしい、とその知り合いは言った。秋山は、自分が男性として長い間振る舞い続けてきた、そのことに対して、違和感をぬぐい去る事ができなかったようだ、と言った。そして、ついに決心をして、男性を捨て女性として生きることを奥さんに打ち明けた、という。そうか、とだけ返事をすると、彼は別の話題を持ち出した。

 女性として目の前に立つ秋山に対して、その柔らかな顔の輪郭を目に納めながら、そうか秋山はこんな面差しだったのか、と彼は思った。すでにホルモン剤の投与も受けている、と彼女は言った。「小林は、元気そうだね。」と彼女は言った。「ああ、君も。」と彼は短く答えた。しばらくの沈黙の後、「奥さんや子供さんは。」と彼は尋ねた。「一緒に暮らしている。相方として。」かすかに笑みを浮かべた。「一時期は大変だったけどね。でも、ちゃんと受け止めてくれた。」風が吹いて、長い茶髪がふわりと広がった。それを手で押さえながら、「今、第二の人生。」そう言って、彼女は笑みを納めた。

 時間にして十分にも満たない再会だった。別れを告げて、彼は新京極を抜け、三条通りを鴨川の方に歩いて行った。街並みの向こうに眺め渡せる東山の山並みが、ぼんやりと霞んでいた。湿度を含んだ春霞というのではなく、空間全体がさらりとした印象で、どうやら黄砂が降っているらしい。今年初めての「つちふる」だった。微細な砂粒の遮幕のむこうに、東山は里山らしくない奥深さを今見せている、ふと彼はそう思った。