「クリスマスってクルシミマスと響きが似てるわよね。」そう言って、美那子は笑った。「クルシミマス。」私は、口の中で小さくその言葉を繰り返した。やがて、美那子の言葉は「苦しみます」の意かと了解出来た。ただ、それを美那子に確かめる事はためらわれた。 美那子と暮らし始めて四年目のある初夏の朝、美那子に突然それはやって来た。原因不明の苦痛。小さな悲鳴を聞きつけた私が、台所に駆け込んだとき、火の点いたままのガス台の前で、美那子は一本の棒のように全身を硬直させたまま、その場に立ちつくし、自分の身を突然襲った激しい苦痛に呻いていた。それが、始まりだった。最初の苦痛が収まった時、私はすぐに美那子を病院へ連れて行った。 それ以降、幾つもの病院を巡り、突然に起こった苦痛の原因を突き止めようとしたが、それは徒労に終わった。様々な検査を繰り返したが、肉体的には、何も問題はないということが分かっただけだった。そして何か、精神的な理由があってそれが肉体的苦痛として現れているらしいということになった。私ともども美那子は心理分析を受けたが、精神的な要素が苦痛の原因となっているという具体的な要因を突き止めることは出来なかった。結局、現時点では美那子を苦しめる苦痛は原因不明としかいいようのないものだった。原因も分からぬまま、美那子は一人その苦痛に耐える他はなかった。体に触れるとその部分の苦痛が増すということで、痛みの面積を少しでも減らすため、美那子が立ったまま痛みに堪えている間、私はそのそばにいる以外に為す術はなかった。苦痛の長さは不定だった。ほんの数分で痛みが弱まる時もあれば、一晩中苦痛に呻く時もあった。立ち続ける事に堪えられなくなった時には、やむなく畳に横になった。ベットや蒲団の上では、寝具が広く体に触れることで苦痛が増すからだった。 その日も、夜に入り、苦痛の発作に襲われた美那子は、夜中過ぎに疲れ切って、畳の上に横になったのだった。明かりを落とした部屋の中で、黒い影になって横たわる美那子のそばで、私は、畳に尻を落として坐りながら、美那子の息づかいに耳を傾けていた。部屋の中は、暖房で暖められていたけれど、畳からは床下の冷気がしんと伝わって来るようだった。クリスマスが数日後に迫っている頃だった。苦痛を堪えるために、押し殺したような美那子の息づかいが、ふっと緩んだように思われた時、美那子が口にしたのが、その言葉だった。「クリスマスってクルシミマスと響きが似てるわよね。」そして、小さく笑った。私は、口の中でその言葉を繰り返した。恐らく、美那子の耳には、わたしのその呟きは届かなかっただろう。薄闇の中で、私は独り頷いた。「クリスマスは苦しみますと響きが似ているね」抱きしめてやることも出来ぬまま、そう胸のなかで復唱した。タンスの上に置かれたデジタル式の時計が、青白い発光色で4時を示していた。 いつの間にか眠っていたらしい。目を覚ますと、横にいたはずの美那子の姿は見えなかった。身を起こすと、畳の上に直接横になっていたせいか、体が痛んだ。美那子の姿を探すと、閉じたガラス戸の向こう、ベランダに立つ後ろ姿が目に入った。外は随分冷え込んで風もあるらしい、白い息がわずかに見える頬の辺りから横に靡いているのが眺められた。私は立ち上がると、食堂を横切ってガラス戸の所まで行き、サッシの戸を開けた。冷気が塊となって一気に室内に入り込んできた。美那子はこちらを振り向くと、「起きたの。」と言った。「もう少し、寝ていればいいのに。」とも言った。「痛みは。」と言いながら私は外に出て、美那子の横に立った。美那子は私の方を見て、外が明るくなる頃に痛みが軽くなったので、少し眠ろうと思ったけれど、眠れないのでさっき外に出てみた、と言った。ベランダの手摺りに置いた美那子の手に私の手を重ねると、ひんやりとした感触が掌に伝わってきた。随分長い時間、ここに立っていたのだろうと私は思った。体が冷えるから、中に入ろうと私は言った。すると、「雪が。」と美那子は言った。雪と尋ね返す私の目の前に、小さな白い塊が、羽虫のように流れ降りて来た。細い顎を突き出しようにして空を見上げて、美那子は言った。「見て。雪が降り始めたわ。」その声に導かれるように空を見上げた私の視界一杯に、白い輝きとなって雪が舞い降りてきた。 |