「見ろよ、危ないな。」横を歩いていた金村が、前方を指さしつつ言った。見ると、道路の反対側の側溝を覆う溝蓋が一カ所だけぽっかりと抜けている。「不心得者が盗んでいったんだろうか。明るくなっているから良いけど、夜だったらうっかり嵌り込む人が出たっておかしくないよな。」そう言いながら、金村はそちらの方へ小走りに向かっていった。僕は、まだちょっと酔いが残った頭で、そんな彼の様子を眺めていた。僕たちは、昨夜誘い合わせて飲みに出かけ、明け方までカラオケで歌ってから、一番の電車で帰ってきたばかりなのだ。住宅街は、まだ全く人通りはなくて、別の町のような様子であった。金村は、離れた所からは黒い穴のように見えるそこに立ちながら、しきりに溝の中を覗き込んでいるようだった。やがて、のろのろ歩いている僕の方を手招きして、こっちへ来てみろ、と言った。いつでも笑っているように見える金村の表情が、変に真面目なので、何か溝の中に落ちているのかとも思い、僕は足早に金村の側へ歩いていった。「何か、あるのか。」僕がそう尋ねると、金村は黙って溝を指さした。言われるまま、僕は四角な穴を覗き込んだ。しかし、そこには何もなかった。「どうしたんだ。」と金村の方を振り返ると、金村は依然として生真面目な表情のまま、「溝の底が見えない。」と言った。そんな金村の表情は、滑稽に見えた。そんな馬鹿な、と思いつつ、僕はもう一度穴を覗き込んだ。確かに、穴の中は薄暗くて、その薄闇の中に溝の底は紛れ込んでいる風に見えた。「少し深めに作られているか、まだ日が射していないのでそんな風に見えるだけだろう。」投げやりな調子で、僕は言った。「いや、違う。確かに底が見えない。」金村は、強い口調で言うと、「試してみよう。」そう言って、辺りを眺め回した。すると、手近な所にコンクリートブロックが一つ転がっているのが、目にとまった。金村は、両手でそれを持ち上げると、穴の上まで持ってきて、「落としたら、底に当たって大きな音がするはずだ。」と言った。早朝だから止めておけ、と僕が言ったにもかかわらず、金村はその塊を穴の中に落とした。いつまで待っても、コンクリートブロックが底を打つ音は聞こえなかった。「そらみろ、やっぱりこの溝は底なしなんだ。」金村は言った。しかし、僕にはそんなことはどうでもよかった。底があろうと無かろうと、早く帰って午前中、ゆっくり眠っていたいのだ。「底に溜まった芥か何かがクッションになって、音が吸収されたんだ。」そう言って、帰ろうと金村を促した。「先に帰ってくれ。」金村はそう言うと、そこにしゃがみ込んで、溝の縁に手を置くようにして顔を突っ込み、中を覗き込んだ。馬鹿馬鹿しくなって、金村をそこに残したまま、僕は自宅のアパートに向かって歩き出した。 チャイムの音で、僕は朝寝を破られた。部屋に誰か、来たようだ。金村か、と思いつつ、半覚半睡状態でドアを開けると、そこに異形のものが二つ立っていた。あまりの驚きで、僕は凍り付いたようになってしまい、ドアを閉めることすら、忘れていた。そのもの達は、「失礼。」と言いながら、僕を押し戻すようにして部屋に入ってきた。そのうちの一つが、「山本充さんですか。」と確かめるような口調で僕の名前を言った。顔らしきものの真ん中に縦に裂けた口らしき割れ目から目を話すことが出来ないまま、僕は頷いた。するともうひとつの方が、「友人の金村正和さんの事で尋ねたいことがある。ご同行願いたい。」そう言った。金村正和、そう頭の中で繰り返して、それが今朝路上で別れた金村の事をさしている事に気がついた。僕は頷いた。帰宅して、そのままベットに横になったので、服は着たままだった。ふたつのものに促されるようにして、僕は外に出た。 僕は小さな部屋にいた。そこは、薄暗く、天井が高く、四方は壁に囲まれていた。内装は何一つ無く、部屋の真ん中に粗末な机らしきものが置かれ、僕はその前に据えられた椅子らしきものに腰を下ろしていた。机を挟んだ反対に、僕をここに連れてきたふたつのもののうちのひとつが同じように腰を掛け、そのよこにもう一つのものが立って、僕の方を眺めている風だった。部屋を出た後、ふたつのものに前後を挟まれるようにして、廊下を歩き、階段を下りて道路に出、そこに停まっていた乗り物らしきものに僕は乗せられて、ここへとやって来たらしかった。らしかったというのは、乗り物に乗って以降の記憶が僕の中に欠けていたからだ。対座したまま、しばらくの沈黙があって、やがて椅子にすわったものがゆっくりと口を開いた。「突然同行をお願いして申し訳なかった。」そう、そのものは言った。「実は、われわれはあなたの友人である金村正和の犯した殺人について、捜査をしているものです。」そう、そのものは続けた。金村が犯した殺人。僕には思い当たる事は全くなかった。 「その事件に関し、あなたは微妙な立場に立っておられる。それは、その事件の唯一の目撃者であるとともに、場合によっては共犯としての扱いを受けかねないものです。」そう、そのものは落ち着いた調子で言った。目の前で起こっている出来事が、あまりに常軌を逸しているせいか、僕はほとんど判断停止状態だったのだろう。今起こっていることをそのまま受け止めることしか、僕には出来なかった。「ですから、あなたは起こった出来事をあなたの見たままに偽り無くお話くださらなければならない。」立ったほうのものが、そう押しつけるように言った。僕は、頷いた。「今朝。」と座ったほうのものが、発言を引き取るようにして、僕に話しかけた。「あなたの友人金村正和は、善良なる一市民の頭上に巨大な石塊を落とし、その市民は頭部を酷く損傷し、ほぼ即死状態であった。しかも、金村は事故ではなく故意にその石塊を落下せしめた疑いがある、それが今回あなたに来て頂いた事件の概略です。」そう、そのものは言った。話を聞いて、僕は混乱した。石塊、落下、頭部損傷、即死、故意……。黙ったままの僕を見て、立ったほうのものが、「今話した出来事に心当たりがあるだろう。目撃したことをすべて話しなさい。」威嚇の響きを込めて、そう言った。「まさか。」そう、僕は口にしていた。「そのまさか、です。」落ち着いた声音で、座ったほうのものが言った。「さあ、お話下さい。」そう、促した。僕は、今朝の出来事、外れた溝蓋の穴に、金村がコンクリートブロックを放り込んだ事を話し始めた。 気が付くと、僕は自分の部屋にいた。へたり込んだ姿で畳に座っていた。雑然と散らかったいつもの部屋であった。奇妙な夢を見たのか、と思った。しかし、自分はベットに横になったはずなのに、なぜ今部屋の真ん中に座り込んでいるのか。時計をみると、すでに夕方と言っても良い時間帯になっていた。帰宅したのが、朝の5時過ぎ。それからの11時間余りを、一体自分は何をしていたのか。あの異形のものたちは何だったのか、金村の犯したという殺人事件は……。はっと気付いて、僕は携帯電話を探した。携帯は、ベットの上に転がっていた。僕は、すぐに金村の携帯に電話を入れた。携帯の呼び出し音が虫の声か何かのように小さく鳴っていた。しかし、金村は出なかった。メールに対する返事もなかった。 その日以来、僕は金村の姿を見てはいない。金村がどうなったのか、その消息を僕は知らない。もちろん、僕の身に起こった出来事を誰にも話してはいない。話せば、恐らく僕は正気を疑われるだけだろうから。 |