日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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【18年11月30日】 【18年11月26日】 【18年11月24日】 【18年11月21日】
「あたたかき十一月も過ぎにけり」 中村草田男。その草田男の句ではないけれど、十一月も本日で終り。明日からは、もう極月、師走に入る。
朝は少し暖房を入れ、夜は寒いので早めに床に入るというような生活を、今年もそろそろ始めている。いずれ、湯たんぽなども登場することになるのだろう。
明日は、大学時代のサークルの飲み会で京都に出かける。大学を卒業して数十年、それでもこのサークルの飲み会は毎年のように続いている。こまめにお世話をして下さる諸先輩の存在がありがたい。明日は、ゆっくりと旧交を温めたいと思う。ただ、そのためにはおそらく4時ぐらいに起床して、出かけるために体調を整えなければならないだろう。若いころのように、起きてすぐ準備をして、食事もトイレもそこそこに飛び出すというような生活がもうできなくなっているからだ。特に、大きな病気をして、その手術の影響が生活の自由さを少々損なうという状態をもたらして以来、旅行などがザック一つを引っ提げてみたいに、昔ほど気楽にできなくなっている、ということなどもあるのだ。
年を取るということは、少しずつ不自由を自分の身に背負い込むもの、などということを時には思ったりもする。海外旅行なども、もう難しくなっているだろうな、などと思ったりもする。ろくに世界も見たことがないけれど、ただ興味を引かれる地域はいくつかあるので、ふっと出かけるなどということもあり得るかもしれない、などとも一方では思ったりもしてはいるのだけれど……。
などと言いつつ、先週、今週と2週連続で京都に出かけるという暮らしを送ってはいるわけだが。紅葉終盤の京都は、土曜日ということもあり、きっとうんざりするほどの人出なのだろうな、などと思う(私自身もその人数足しの一人ではあるのだけれども)。東国原氏が、インフラを整備しないままで、ただ来日客の数的増大ばかりを推し進めると、きっといずれ観光災害とでも呼ぶ状態がもたらされるだろう、と何かのワイドショーで語っていたけれど、同感する。ここ数年のうちに2000万人の来日客を倍の4000万人に増やすなどと、ずいぶん景気の良い話が飛び交ってはいるけれど、きっと近年中には目に見える形での実害が生じるのではないか、と危惧するところはある。「日本」を食いつぶすような事態が生じはしないか、などと思ったりする。数年先には、「大阪万博」などという陳腐なお祭り騒ぎも予定されていることではあるけれど。
日本人の一部には、そういう点でのデリカシーが根本的に欠けているような人たちもいるように思われることだ……。特に、政治家、経済人の一部(相当部分かもしれないけれど)には。
今年も、あとひと月で終わってしまう。さて、どんな一か月が明日から始まることだろうか。
東京オリンピックの次は、大阪万博。一体今はいつなのかと思ってしまう。ある種、既視感の感覚。本気で、「夢よもう一度」を狙っているんだ。すごいな、と思う。巨大公共事業でしか、経済全体を維持、推進できないというわけではないように思うのだけれど……。
大阪万博は、カジノ誘致と一体化された取り組みで、万博以後はカジノを含むIR用地として跡地も有効活用されるらしい。逆に言えば、カジノと万博の抱き合わせで用地や施設の整備を進めていくらしい、とか……。
オリンピックの陰で、福島の復興が犠牲に供されていることは周知の事実だけど、さて今度は万博とカジノの陰で何が犠牲として供出されることだろうか、などと少々不吉なことを思う。大阪の街と知っている限りの大阪人は個人的に好きなのだけれど、経済的に太り、人間的に痩せるということはしばしばあることのようで、豊かで奥の深い(そしてなにより俳諧味にあふれた)「浪速」の世態風俗や文化や人情が、荒んだり細っていったりすることのないようにと思った。
三連休は、吟行句会と第九の公演で終始した。さすがに、終わって少々疲れ気味となる。
今週末も、土曜は日帰りで再び京都へ、日曜日は県の俳句大会のお手伝い役で終日過ごすことになっている。またちょっと疲れそうな予感がする。
夕方、膝の痛みが少しましになっているので、この機会にと、夕方近所の水鳥公園へ「歩き」に出かける。車で移動して、駐車場から歩き出し、日没後の中海をながめながら、堤防を歩いてゆく。折しも、昼間のえさ場になっている安来平野から、白鳥の群れが数十羽、宙に一本の細い帯を描きながら、公園へと帰来する姿を認めることができた。運悪く堰堤上であったため、公園の広い水域に舞い降り、着水する白鳥の姿を眼前することはできないけれど、シルエットとなった対岸の山並みに並ぶ高さで帰ってゆく白鳥の後ろ姿を眺め追うことはできた。
多い時には、数十羽ずつの群れが、日没後の空と雲を背景に、二弾、三弾に分かれて帰水する姿を眺めることもあったのだが、最近はそんなスケールでの姿を見ることもほとんどなくなってしまい、少々寂しい思いにもなっていた。けれど、今夕の情景を見て、それでも夕景を帰りくる白鳥の群れを眺めやる機会は失われていないということを確かめ得たように思ったものだ。
3連休の初日、句会参加のため京都へ。いつもの高速バスが取れなかったため、5年ぶりくらいに電車(伯備線は複線電化しているので、どうどうと電車と言える)を使って、岡山経由で京都まで。新幹線は自由席扱い(本来は、伯備線は特急・グリーン席、新幹線は指定席となるはずの往復チケットだったけれど、新幹線は席予約が取れなかった)だったので、京都まで立ちっぱなしだった。句会の時間が迫っていたし、短時間でも鴨川を歩きたいと思って、本来は米子新大阪往復限定のチケットを、京都まで乗り越しして時間を稼ごうと思ったのだけれど、時世に疎い田舎暮らしのせいか、駅窓口でチケットを清算するだけで30分列に並び、その間駅構内の大群衆の移動を横目に見つつ、そのあまりの流動感に人間酔いしてしまいそうな状態にもなる。何とか清算を済ませ、時間が迫った分をタクシーでカバーしようと乗り場へ向かおうとすると、数百人のタクシー待ちの人たちが巨大な一本の棒みたいな状態で、乗り場まで続いている。いつタクシーに乗れるかもおぼつかないので、ちょっと変則的に駅の反対側のビル1階にあるMKタクシーの乗り場へ急いで移動する。こちらの方は、さすがにこんな状態ではあるまいと判断したからだ。予想通り、待っている人は20人ほどであった。これならなんとかと思ったけれど、今度は肝心のタクシー自体がなかなかやってこない。この乗り場へと入ってくる道が細く、そこに脇道狙いの車が集まってきていて、道路の車の動きが本当に鈍い状況になっているのだ。こちらで車を待っていても、いつ乗れるかわからず、さらに乗れてもいつこの細い道から駅前の広い道路へと移動できるかまるでおぼつかなく、仕方なく膝の痛みを我慢して京阪七条の駅まで歩くことにした。京都地下鉄を使うよりも京阪の方が断然句会場のビルには近いからだ。駅の反対側には折しも巨大なビルが建設中で、おそらく新しくホテルが建つのだろうか、と思う。そんな工事現場を見上げ、歩道の方に目を移すと、あとからあとから団体旅行の行進が京都駅方面から続いている。その行く手には観光バスが待っていて、職員たちが大声をあげて観光客の整理誘導を行っている。そんな雑踏を抜け、北進する道路に出ると、目の前にたまたま空車のタクシーがやって来た。無理かもと思ったけれど手を挙げると、なんと止まってくれたので、さっそく乗り込む。句会場近くまでを指定したけれど、10分後にはすいませんと謝罪しつつ、降車する。道路が渋滞のため、タクシーがろくに前進しないことがわかったからだ。それでも、少しは川端通りに近づいてはいたので、そこで下車して、痛む膝をなだめごまかしつつ、京阪七条の駅まで徒歩で向かうこととした。
こんな風にして、なんとか時間前に句会場の最寄り駅に到着し、10分ほど鴨川河畔で風景を鑑賞することもできた。
京都駅とその周辺の、異常なほどの雑踏(もちろん、自分自身もその中の一人ではあるのだけれど)にうんざりしてささくれだっていた気持ちが、北山を眺めわたすことのできる鴨川河畔に立って、なんとか浄化されるような思いになった。さらに偶然、北山方面にかかる時雨虹を遠望出来て、やっと救われたような気持ちにもなった。
「京都なんて二度と来るかい冬紅葉」というのは、くさくさした思いの中で作った句。句会に出したら、さすがに皆さんから呆れられたが。ただ、国内外の観光客の人たちは京都ってこんなものか、という思いで群衆の中の「古都観光」を楽しむのかもしれないけれど、それが果たして京都の良さを味わったことになるのか、さらに京都の魅力が生かされた体験となることなのか、少々疑問と危惧を個人的には持つ。確かに訪日客の増大とか、インバウンド収入とかいろいろもてはやされている面もあるし、実際この状況をビジネスの好機として大儲けしている人たちもいるのだろうけれど、一方京都で生活している人たちにとってはこの状況は手放しで喜べるものなのかと、個人的には思う。
途中で下車してしまったタクシーの運転手さんの言葉。本来この3連休はタクシーにとっても稼ぎ時のように思われるだろうけれど、自分は残り2日はもう休もうと考えている。確かに、渋滞でタクシーの料金メーターはそれなりに上りはするが、渋滞による移動困難のためお客さんのの回転数がまるでだめで、疲労やストレスの割にはなかなか商売にならない。京都に来るより、奈良の東大寺周辺等の有名どころ以外のところに旅した方がかえっていいと自分は思う。運転手さんは実感のこもった調子でそう話しておられたけれど、私自身もきっとそうなのだろうという思いが強かった。
句会の話に行きつく前に、次の予定の時間が来てしまった……。
地元の市長が、拉致問題解決に絡めて、問題解決のために安倍政権が北朝鮮に対し軍事行動に出るならそれを支持すると主張したらしい。さらに、その軍事行動を正当化するために、軍事行動を容認する方向での憲法改正についても支持すると自身の考えを表明したようだ。何年たっても一向に拉致問題が解決しない状態で、問題を宙ぶらりんのまま放置し続け、時に応じて「拉致問題」を政治利用してきた安倍政権の、ある意味意図的な世論操作の帰着として、とうとう軍事による解決という尖端的な主張が登場することとなったように思われた。
素朴に考えてみても、軍事力による解決も辞さないとするその主張が、相手国である北朝鮮に対して有効で効果的な発言であるはずはないだろう。逆に、この問題に対する一層の硬化を相手に生じさせるとともに、いかにも危なっかしいこの発言は、現実に拉致された人を地元に持つ直接当事者の自治体の長のひとりであってみれば、北朝鮮に様々な口実をもたらす絶好の契機のひとつともなりかねない、軽率な発言のように素人目にも思われる。
さらに、拉致問題解決のために、軍事力容認の方向で憲法に変更を支持するという発言は、素人目にみてもあきらかに専守防衛を根本思想とする現行憲法の考え方を真っ向から否定するようなものではないのか、と思う。拉致された人たちを奪還するのも、国権の侵害からの防衛・回復であるとみなして「専守防衛」の枠内に収めるというような論法がその根底にあるのだろうか、などとも考えてしまうけれど。ただ、その方向を延長すれば、容易に自衛隊は広く様々な名目を設けて、国外への軍事的出動が可能になってしまうのではないか、などとも思う。ペルシャ湾へも、どうどうと自衛隊を派遣できることになるだろう。かって、後藤田官房長官が自らを盾にして、ペルシャ湾への自衛隊派遣、ひいては戦争突入を回避したという逸話などをちょっと思い出したりもするけれども。憲法9条に第3項を設けようなどという中途半端な提案すら吹っ飛ばすような(でも、本質は3項設定も同一方向への足掛かりなのだろうから、基本的には地元市長の発言は、自民党の主張する憲法改正案と一致する方向のものなのかもしれないけれど……)内容ではないか、とビックリしたことだ。一市長として責任の持てる発言だったのだろうか……。
市長に選ばれてまだ間もない人であるだけに、もう少し慎重に発言をしてほしいものだと思う。危機意識や思いの強さが、そのまま軽挙妄動につながることのないように、そのことが「拉致問題」の解決の足引っ張りにならないようにことは慎重に進めてほしいように思う。少なくとも大胆とか、前進的の意味の取違いと思われるようなことはくれぐれも謹んでいただきたいな、と思う。
昨夜は、第九の実行委員会。ちょっと余計な発言をしてしまったのではないか、と朝から少々考え込んでいる。市長ほどの大胆な発言ではないにしろ、ちょっと厄介なことを口にしてしまったかな、などと思う。「他山の石」と言う言葉をふと思う。うーん……。
【18年11月18日】
本の返却日が迫っていたので、空き時間を見つけ、さらに夜中に目を覚ましてのち読み継いだりして、湊かなえの『豆の上に眠る』という中編小説を読了。きっと老眼なのだろうけれど、こちらの状態によって文字がピンボケだったりして、本が少々読みづらくて、読書のスピードが明らかに最近落ちてきている。そんな困った状況の中で、1日で少なくとも2冊読了しなければという条件の下、夜には読書はしない(目が疲れるからということで)という原則を破って、ともかくまず『豆』を読み終える。
何というか、終わり方のモヤモヤ感が強くて、後味が少々ざらついた印象の作品。作者のいつもの手法として、筋の展開や心情の推移をある地点で断ち切って、読者を宙ぶらりん状態に置きつつ、実際のところはずいぶん練られたお話を慎重に一歩ずつ前に進め、読者の宙ぶらりん状態を継続的に発生させつつ、最後の思いがけない逆転劇へとつなげる、今回もそんな方法で書かれた物語という印象を強く持ったことだ。お話そのものは他の作品同様、陰鬱な色合いの濃い作品で、今回は特に主人公の錯綜する思いが粘着的に読者の読みにまとわりついてくるようで、時にある最後の部分で少しだけ読者を含めて救いの余地をもたらすという部分が、今回はほとんど見受けられなくて、それが読了感に強く影響を残したようだった。
とはいえ、読み終えて蛍光灯(とはいえ、LED電球だけれど)を消して、闇の中でお話を反芻する中で、主人公を含め、登場人物たちの様々なふるまいの中に、相手に対する心づかいとそれが逆に心情を複雑化する方に動いていくやりきれなさのようなものが思われて、なるほどと感心するところがあったことも確かだった。
図書館にある湊かなえ作品はこれでほぼ読み終えてしまったようだ。検索すればまだ読み残し作品はあるかもしれないけれど、文庫本は文字が小さくて読みづらくなっているので、この際別の面白そうな作家を探してみようかという思いになる。
図書館の二階で、陶器の創作展が開かれていたので立ち寄ってみる。趣味のグループの作品展ということのようで、いろいろな作品が展示されてあって、なかなか面白かった。受付の女性がずいぶん気さくな感じの方で、横にいていろいろお話を聞かせてくれる。一人の男性の器作品がとても面白く思われたので、その方についての話なども聞く。
全体としては、ずいぶんたくさんの作品が展示してあったけれど、「形」の面白さの向こうに、その物としての存在感のある種の安定感とか危うさのようなものを、なぜか展示作品を見ながら共通の感覚として感じた。こんな感触は初めてだったのだけれど、器物を通じての物の存在感のありようというものをちょっと実感できるようで、興味深かった。作り手の反映というものがこんな風な感じで現れているのかと、ふと思われた。
会員さんたちの作品を自由に持ち帰っても良い、というコーナーもあったので、遠慮せずに数点いただいて帰った。
【18年11月17日】
失踪実習生調査について、なんとも違和感があるなと思っていたら、本来質問項目として存在しない「より高い賃金を求めて」が集計者によって、「低賃金」という項目の書き直しというよりはほとんどねつ造されていたということが本日報道されていた。昨日の大手新聞のいくつかで、その報道のしかたというか、書き方がずいぶん違っていて、それ自体マスコミのいい加減な報道姿勢の反映かとも疑念を持っていたのだが、どうやらそもそもはこの担当者、あるいは担当部署の恐らく(というか、ほぼ)忖度の結果としての、報道の場にもたらされた混乱のひとつなのかとも思われた。「低賃金」という項目を「より高い賃金を求めて」と変更することにより、失踪の原因は当事者の個人的な動機に基づくと印象付け、ないしは決めつけが行われ、「低賃金」ゆえの失踪という現実がほぼ完全に当事者のいわば「自己責任」の範囲に転嫁され、いつものごとく「自己責任」ゆえに非難されるべきは制度や使用者ではなく、当の実習生個人であるという、おきまりの「自己責任論」に問題を転嫁したということなのだろう。失踪実習生の問題を、本人の自己責任とすることで、問題全体を捻じ曲げ、歪曲化する中で「無化」あるいは「無害化」することにより、できる限りスムースに法律改正の軌道に移ろうとする、そんな魂胆が透けて見えるような出来事のように、個人的には思われたことだ。こんなことをしていたら、統計や調査にかかわる信頼性はますます低下するのではないか、と思われるのだが……。
これもまた、公文書改ざんと同根の問題なのだろうか……。
【18年11月16日】
大山の頂上周辺に降雪。夕方になっても、そのまま雪がとけることなく残っていた。紅葉はすでに終りに近づいていたことだろうと思うけれど、頂稜周辺に筆でさっと払い書きをしたような新雪の姿を目の当たりにすると、季節が本格的に冬へと進んでいることを実感する。それにしても、寒さは寒さとして、なかなか美しい情景であった。
政府の失踪実習生調査に誤りがあったらしい。最初の報告では、失踪理由は「より高い賃金を求めて」で87パーセントとされたものが、修正された報告では「低賃金」が67パーセントを占めたということらしい。そうなのか、と一瞬思ったけれど、この修正報告にはなんとも妙な違和感がともなった。正直よくわからない、と思ったのだ。「より高い賃金を求めて」というまとめかたと、「低賃金」というまとめ方は、明らかにその意味する内容は異なる。たとえば「より高い賃金を」というのは、それなりの給料をもらっていたとしても、さらに高い賃金を求めてという、ある種上昇志向的な意味合いもその中に当然含まれてくるであろう。もちろん、賃金がそもそも低いので「より高い賃金を」という理由もその中には含まれることだろうけれど。ならば、修正の仕方は「より高い賃金を求めて」が実際のところ87パーセントから何パーセントに減少し(増えたかもしれないけれど)、同様に「低賃金」の方が最初の調査と修正時とでどの程度増減したのか、その両方について触れてもらわなければ、最初の調査の正当性がどの程度のものか、判断がつかない。まさか、「より高い賃金を求めて」がそのまま「低賃金」へと移行されるはずもないだろうから、その発表のやりかたがおかしいように思われる。マスコミの雑駁な報道なのだろうか……。あるいは、政府の修正報告の中になにか意図的なごまかしのようなものがあるのだろうか。いずれにしろ、よくわからない。(あるいは、「より高い賃金を求めて」は87-67=20パーセントということなのか……)
政府の出す統計や調査結果自体が、どことなくうさん臭くて信ぴょう性に欠けるという部分があるので、一層そんな思いが強くなる。
久しぶりに体調不良状態となり、昨日の合唱練習は休んだ。とはいえ、プログラム関係でデータを渡す必要があったので、練習場へそれを届けに行ったなり、そのまま帰宅。寝る。夜遅く、電話がかかってきたりもしたようだけれど、まったく気づかずに寝る。昼間も寝ていて、夜も寝る。合計何時間くらい眠っていたことだろう。ここしばらく懸案事項を抱えての生活だったので、それが体調に影響したのかもしれない。半引きこもり的状態から、ちょっと世の中に接触するような生活に移ると、いろいろとストレスの元が降りかかってくるらしい。
とはいえ、本日当面の懸案事項はいずれも解決、解消。
一気に体調復活とまではいかないけれど、腹痛を残しつつも、まあ世の中とつながっていることも悪くはないかな、などと改めて思ってみる余裕も生まれたりしていることだ。
【18年11月11日】
朝夕が、さすがに少し肌寒い。上着を着たり、脱いだりして調節をしたりする、そんな季節が到来したと、改めて思う。
今日は、「山陰T句会」の日。午前中のうちに、6句を準備し、開催時間よりかなり早めに市内の会場に出かける。まだ、数度目の参加だけれど、やはり気を遣う部分があるな、と我ながら思う。早く到着しすぎて、時間つぶしのつもりで、近所をぶらぶらしたりする。会場前の広場は、すっかり紅葉に彩られている。しばらく前から、膝の状態があまりよくなくて、ちょっと無理して歩いているところがあるけれど、きれいな紅葉の方に目がいっている間は、膝の痛みはあまり気にならないようだ。
句会は、1時半からほぼ2時間。地元句会とはまた雰囲気がことなっていて、なかなか談論風発的な状態となる。
句会を終えて、それじゃ来月中に忘年飲み会を計画しようか、などという話が出て、私にも参加の誘いがかかる。なんとも、気楽で気さくな雰囲気ではある。
会場に車を置いたままで、駅まで「鴨川吟行」向けの電車の予約切符を受け取りに行く。いつも利用している駅地下駐車場が改修工事で使えなくなっているうえに、駅周辺の駐車場事情がよくわからないので、いっそ駅まで歩いて行こうという思いになった。膝痛のせいで、思った以上に時間がかかったうえ、切符のネットでの申し込みに対して、窓口の方がちょっともたついたりして、さらに時間がかかってしまう。
帰宅の途中、水鳥公園へ立ち寄る。コハクチョウが来ているはずなのに、その姿がほとんど見えない。ここ数日、どうやらその姿が確認されていないみたいだ。体の大きなコブハクチョウに餌を横取りされ、追い立てられているらしいことが新聞に出ていたりしたけれど、あるいはその影響などがあるのかもしれない。
とはいえ、その元凶のコブハクチョウの姿もないので、これはどういうことなのか、と思う。
とはいえ、湖の夕景と湖面全体に広がる鴨の姿は、印象的ではあった。
【18年11月10日】
勤労感謝の日の「鴨川吟行」、なんとか足の手配もついて、参加可能の状態となった。秋の京都の三連休は、なかなか外部からの参加には、ハードルは厳しいと思う。
拉致問題の解決は、その当事者もおられる地元民としては是非希望するけれど、家族会は現政権の権力維持の道具として利用され続けているように思われて仕方がない。安倍総理の6年間、拉致問題はほとんど何一つ進展を見せなかった。今後の3年についても、問題解決の期待できるのだろうか。トランプに助力を頼んだということを、さも自らの手柄のように吹聴するような状態の中で、事態はほんの半歩も進展はしていないようだ。一方では、北朝鮮を通じて危機感を煽りつつ、他方北朝鮮の理不尽さを強調しつつ、いずれにしろ空疎な期待値を自らの周辺に布置するというやり方を、この先も繰り返し続けていくのだろうか。
過労死で亡くなった家族と面会した直後の時期に、過労死を助長しかねない労働法制を平然と押しとおすのが、現政権と保守系政党の実像なのだろう。
拉致問題に関しても本質は同じ。それを野党をいくら非難しても、この問題の解決には全くつながらないのは明らかだろう。それを野党攻撃の材料にしていること自体が、保守系ジャーナルを含めて、拉致問題の政権維持利用という、事の本質を明らめていることになるのだろう。素人目に見ても、ずいぶん低レベルの地点で、事がおこなわれていることに唖然とする思いだ。
外国人労働者受け入れの問題。野党は拙速とし、与党は現状を踏まえて逡巡は不可とする。与党として、経済界の意向を踏まえて、無理押しに無理押しを重ねざるをえない現状を眼前にすると、一部保守系の議員さんたちの苦渋の思い(逆に、大半はそんなことも感じていない人たちのように思われるけれど……)に、多少はは同情の思いを禁じ得ないところがないわけではないけれど、どう政治家が取り繕ろおうと、安価で使い捨ての労働力を緊急に仕入れてほしい、その体制を作って欲しいという経済界の意向の強さとそれに迎合する政治家側のご都合主義との妙なバランスの上に、今回の外国人受け入れ問題は乗っかっているようだ……。
【18年11月9日】
毎年、勤労感謝の日には、岩城先生を中心として有志による「鴨川吟行会」が開催される。もともとは、夏の龍谷大学俳句講座の発展的形態として、この日に講座受講者の学生さんたちを含めて吟行をしようということで始まったものだけれど、現在では夏期講座とは少し離れたスタンスで行われているようだ。とはいえ、学生さんがひとりでも二人でも参加してくれればうれしいな、とも思っているのだけれど、かくいう私自身がここしばらくこの吟行会については疎遠な状態になっているので、今回はなんとか参加したいな、とは思っている。とはいえ、秋の京都で、三連休の初日という時期設定のため、いつもは使っている高速バスもさすがにすでに満席で、今回は利用ができない。車で行けば、確実に渋滞に巻き込まれて、何時に京都に着くかおぼつかないことではあり、となるとJRを使うほかないけれど、時間と費用とがなかなか厳しいことになってしまう。いろいろと悩ましいことだ。
その日はちょうど、「第九」コンサート本番の前々日にあたり、翌日は終日リハーサル、日曜日は本番当日という過密な予定になってしまっていて、「鴨川吟行」終了後、ゆっくり京都の夜を楽しむというわけにもゆかず、その点でも少々悩ましい。
先月半ばから、週2回限られた時間帯ではあるが働きに出て、それが1週間のペースを調整するというのか、制限するというのか、どちらとも言い難い状態で継続している。ごく限定された時間に集中して仕事をこなしてはいるけれど、ほんの数年前にはフルタイムで連日、この仕事を務めていたのかと思うと、かなり驚きを禁じ得ないところがある。と同時に、やはり数年のブランクというものが、「心身の体力」とでもいうものを衰えさせているところがあるということを実感せざるを得ない。結構シンドイ、ということだ。仕事を終えて帰宅するとそれでもうその日のなすべきことは全部終わったみたいな気分になってしまうのが、かなり困る。半年間の期限付き就労ではあるけれど、そのうちにペースを取り戻したりするということがあるのだろうか、などと思う。
【18年11月3日】
本日は、文化の日。大阪から親戚が来鳥するので、その運転手役を務める一日になりそうだ。天気は、朝から快晴。数日前、大山に初冠雪があったらしいが、もちろん雪の気配もなく、今年最後の紅葉を楽しめる休日として、今日明日あたりは、大山への人出もきっと多いことだろうな、と思う。「大山開山1300年」の記念の年も、あと2か月弱を残すばかりとなった。
湊かなえの『Nのために』という中編小説を昨日一日をかけて読み終える。今日が図書の返却日なので、とにかくこれだけは読み終えておこうと、集中して読んだ。最後の逆転劇はいつも同様、なかなか面白かったけれど、登場人物が限られている割に、内容がいまひとつすっきりと分かりにくかったのは、あるいは構成に問題があったのだろうか、などと思う。劇中劇的な、小説中に小説の一部を挿入するというやりかたは、感銘を深める点でうまいやり方だな、とは思ったのだけれど。
相変わらず、安田氏に対して「自己責任論」を語る人がいるようだ。「個人」の責任の範疇と、「個人」を越えるたとえば社会とか国とかの責任の範疇をごちゃまぜにしたうえで、「個人」の責任へと問題を矮小化して、そのうえであたかも「朕は国家なり」ではないけれど、自らが社会を代表しているような大きな顔をして批判を展開するのは、もう少し考えた方が良いように思われる。安田氏の会見における、ミスはミスとして認めたうえでの「感謝と謝罪」の上に、生々しい拉致の実態がマスコミを通じて詳細に流されることを通じて、何も知らずにいた、あるいは知ったようなつもりでいた我々に、紛争とその暗黒の一面である拉致・身代金奪取の実際が生々しく語られ、マスコミを通じて広く社会に認知されることによって、世界に今存在する紛争や拉致、そしてテロ集団の実態について、私たちに対して新たな警鐘が打ち鳴らされたことは明らかであろう。そして、そのことにおいて安田氏のジャーナリストとしての存在意義が明証されたとも言えると思う。色々な意味で不幸な出来事ではあったけれど、底の浅い、ある意味傲慢な「自己責任論」で処理されるような事柄ではないことは、あきらかではないかな、と個人的には思われるのだが……。