日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

         
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【18年8月3日】
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【18年7月31日】

今夜、十数年ぶりに火星が最大接近するらしい。6000万キロを切る近さらしい(とても近いとは思えないけれど、そのスケール感の違いは面白い)。夕方、南の空に昇り、月の右側に位置を取るそうだ。ゆっくり、じっくり眺めてみようと思う。

マルクス・ガブリエルというドイツの哲学者が、今注目されているらしい。昨夜、BSでその人の特集番組を見て、大変興味を引かれた。早速市立図書館に検索をかけたら、著作が収蔵されているとのことで、予約を入れる。予約は上手くいった。貸し出しの準備ができ次第、メールで知らせてもらえるらしいので、連絡がきたら早速借りに行こうと思う。そのためにも、現在借りている図書をできる限り読み終えておこうと、今日は集中して2冊読み終わる。いずれにしろ、来週半ばが返却期限になっているけれど、その時期は龍大の俳句講座で出かけているので、今週中には借りた本は一度返却しておかなければならないので……。

渡辺由美子著『子供の貧困』。貧困家庭対象の無料学習会「キッズドア」の取り組みの紹介。日本の教育施策の貧困に対する民間側からの地道で先進的な取り組みが語られる。長短取り交ぜいろいろ考えさせられることも多かったけれど、その取り組み自体には本当に頭が下がる思いだった。

湊かなえ作『白ゆき姫殺人事件』読了。メディアミックス風推理小説。なんとも、奇抜といえば奇抜、読みずらいといえば読みずらい小説を書き上げたものだと感心する。とはいえ、この系統の作品は、筒井康隆がすでに先鞭をつけ、作品化しおおせている分野なのかもしれない。小説として発表した部分と、ネット上に公開した部分の同時進行的な進め方も、その時点では斬新な手法のひとつなのかもしれないけれど、こうやって改めて活字化され、1冊の本の中に納められると、少々読むのにまだるっこしいような気もする。

本日で7月も終了。台風やら、酷暑やらで、あわただしいうちに終わる。来月そうそうには、もう暦の上では「秋」に入る。


【18年7月29日】

台風12号の影響は、幸い雨風ともに当地はほとんど影響がなかった。太平洋側を中心に、高潮による被害の大きさには大変驚いている。海の恐ろしさというものは、幼少期の居住地周辺の海岸後退現象によって、ずいぶん長い期間トラウマ的な影響を心に残してきたことで、身に染みるところがある。実際かなり最近まで、年に1、2度は、海沿いの自宅が波に呑み込まれる、あるいは呑み込まれてたけり狂ったような海ばかりが広がっているというような殺伐たる夢を見ることがあった。

午後になって、天気はぐんぐん回復して、まさに台風一過的な好天に変わった。気温もさいわい、さほどに高くない。日本海側の一部地域が、台風後のフェーン現象で40度近い高温になったらしいけれど、こちらは30度超くらいの気温のまま終日経過したようだ。土日と予定されてあった地元の夏祭りも、ほぼ予定通り開催されたようで、特に危ぶまれていた本日の花火大会も予定通り開催となり、その打ち上げ時間に合わせて「歩き」をかねて干拓地の方まで出かける。遠くからの見物にはなるけれど、干拓地の開けた地勢から市内臨海公園での花火の打ち上げを十分楽しむことができるのだった。

やや雲は多かったけれど、ほぼ1時間にわたり連続して花火の打ち上げが行われ、息つく暇なしという状態で、絢爛たる遠花火を楽しむことができた。ちょうど、花火の揚がる方向上空には、明るく輝く火星が浮かび、やがて大山の方角からはほぼ満月という状態の月が姿を現し、夜空は月と星と花火の競演状態となった。めったに見ないような情景であった。大変堪能する。


【18年7月27日】

市の図書館でプルーストの『失われた時を求めて』の第1巻を借りる。開架式の本棚には置いてないということなので、司書の方が奥の書庫から探して持ってきてくれる。分厚い1冊。「スワン家の方へ」で1巻となっているらしい。司書さんが、「こんなのがあと7冊くらいありましたけど。」とさりげなく口にする。「とりあえず、お試しで1冊借りてみます。」と答えておく。数千ページにもわたる大長編小説のその導入部分のお話である。自宅で読み始める。幸い段組みは1段であった。ただ、文字が小さくて、とても読みずらい。一文がずいぶんと息の長いもの(一息では読み切れないくらいの長文の連続)で、主人公の少年の過剰なほどの繊細な感性がとらえた一族の大人たちの姿が、クールということではなく、どこかに深い共感性を保ちつつ、延々と語られてあるのがすごい、と思う。少年ではありながら、実際には青年の回想的な内容のようで、ものの見方が少年の感性を大人が分析しつつ語り進めているようなところもあるように思われる。とにもかくにも、2週間の貸出期間中、1日1時間程度の読書割り当て時間の中で、どの程度読み進めることができるのだろうか、と思う。

台風が、土日にかけて急接近する模様で、日・月と予定していた1泊の京都行をやむなく中止することにした。高速バスを使う予定だったが、果たしてバスが動くかどうかがわからない。鉄道の方は過日の豪雨以来、伯備線が依然としてつながっていない状態なので、とてもあてにはできない。行けるかどうかも帰って来れるかどうかもわからない状態なので、涙を呑んで中止とする。予約しておいた宿泊施設もキャンセルする。今回の話題は、とても興味深い内容で、参加メンバーたちの見識がもろに発揮される刺激的な学習会になることだろうに……。本当にとても残念だ。

夜、第九の実行委員会に参加。西部地区での第九演奏会の実行委員会。本日は、ポスターのデザインの最終案を決定した。大変斬新な提案がなされ、個人的には今まで見たこともないような第九演奏会のポスターが選びだされた。斬新で同時に深い精神性を表現していると感じさせる大変優れたデザインで、委員たちのほぼ満場一致で決定する。地元在住の三十台のプロ作家の作品で、3回にわたる検討会を通じて十数種類のポスター原案を提案いただいた。大変感謝したいと思った。地元の力の一端を見せつけられたようだ。おりしも、会議室の外の広場では、明日からの地元の夏祭りの前夜祭が開催されてあって、祭りに出場する人たちと見学者たちがたくさん集まっておられたようだった。そちらもまた、地元の力の一端ということだったのだろうと思われた。夏祭りは、土日の両日だけれど、台風がどの程度まで進行に影響を与えるのか、大変気がかりではある。


【18年7月26日】

オウム事件の残りの死刑囚の刑の執行が、本日行われた。ごく短期間の間に、13名の刑が執行ということは、異例のことらしい。平成の間に一気に始末をつけてしまおうということのようだ。別に死刑制度そのものにどうこう言うつもりはないけれど、その決断を下した法務大臣に対して、ネット上で2万人余りの人間の称賛やねぎらいの声を読むと、個人的になんとなく気持ちが悪くなる。たとえ死刑囚ではあれ、その死それ自体はもう少し厳粛に扱ってよいのではないか、という思いがどこかにあるからだ。ましてや、まとめてポンみたいな刑の執行に対しては、それを英断のように賛美する有様は、公開処刑に群がる中世の民衆の姿をふと連想して、個人的に気持ち悪い。オウムのメンバーの犯した殺人は到底許されるべきものではないのは当然であろうけれど、そんな人々の死をある種のイベントのように扱うことはまた薄気味悪い。まして、担当の法務大臣が処刑執行前日に宴会で浮かれていた人物であってみれば、いっそうその思いが強い。 当日、刑の執行を直接担当する人たちは、3人指名されるようだ。3人が一斉に刑を執行するためのボタンを押し、直接には誰が囚人の足板を外すボタンをおしたかがわからないようになっているらしい。その日の勤務は、刑の執行のみで終り、退勤を許されるようだ(現在は、そうではないのかもしれないけれど)。人によっては、なかなか平常心のままでいることは困難だとも聞く。それが法律に従い、国家の秩序を保つための厳粛な職務であるとはいえ、心に重いものを残すということなのだろう。私は、書物でしか、そのような重い現実を知らないけれど、それでも、刑の執行官に命令を下した法務大臣に対する2万人余りの人間の受け止めの姿は、別の意味で重くるしい。


【18年7月25日】

明日は、図書の返却日。借りてきた7冊の本は一わたり読み終わることができた。ジョゼフ・チャプスキの『収容所のプルースト』は、第二次大戦時のソ連の強制収容所で連続的に行われた著者の講座の口述筆記。劣悪な環境の中での囚人対象の文化セミナー的な内容の取り組み(もちろんソ連側の事前検閲ありというものではあったけれど)。プルーストの『失われた時を求めて』の読書体験を講義風にまとめたものだけれど、体験談である分、『失われた時を求めて』という大著の読み方の一端を教えられたような思いになった。ぜひ『失われた……』を読んでみたいと思い、文庫本か何かで購入した覚えがあったので本棚を探してみたけれど、見つからなかった。残念。
長田弘全詩集をなんとか読了する。2段組み650ページにもわたる全詩集であり、都合3回にわたり図書館から借りだしては、前の方、後の方、真ん中あたりという変則的な順番でなんとか読み終えた。初期の頃の作品が、ずいぶん難解で読みあぐね、再チャレンジで終りの方を読み、今回その両者をつなぐように真ん中あたりを読んだということだった。読み終えてみて、大変面白かった。おりあらば、手元に是非置いておきたい一冊であった(6000円はかなり痛いけれど)。谷川俊太郎が叙情と想像力とで、詩的世界を自在に飛翔した詩人であるとすれば、長田弘は発想力と理知の翼で詩的世界を構築しえた稀有な詩人のひとりのように思われた。料理シリーズ、作家シリーズ、音楽家シリーズ……とでも名付けたいような作品群がとても面白かった。言葉と言葉の組み合わせが、不意にこちら側の意識や想像力を思いがけない詩的地点へと飛ばす、その感触が大変面白かった。

今日は、大平洋上を遥かに移動中の台風の余波なのか、雲が多かったり、思ったほどひどくは気温が上がらないという、ここしばらくの陽気の中で、ちょっと様子が違った一日だった。ひさしぶりに、まだ日があるうちに実家の犬を散歩に連れていくことができた、というようなそんな一日。とはいえ、夜に入っても気温が思ったほどには下がらないのが、残念である。それにしても、この異常な高温状態が8月に向かって少しでも改善してくれたら、と思う。台風の襲来がその契機になるかも、とも思われるけれど、やってくる台風は台風でかなり厄介な代物であるようだけれど。


【18年7月24日】

自民党のMとかいう議員が、同性婚の人たちは「生産性」に欠けるので、そんな人たちのために税金をかけることは間違っているという趣旨の発言をして、批判を浴びつつも、自民党の議員からは正しい認識とか、間違った発言ではないと励まされ、本人も「自民党の懐の深さ」に感謝しているというようなことが紹介されてあった。ここでいう「生産性」というものがどのような意味合いで当人が使っているのか、はっきりしないけれど、常識的に考えれば、同性婚のひとであっても、職に就き、生産活動に従事し、税金等も納めているであろうことから言えば、社会的な「富の生産性」という意味合いで用いているわけではないのだろうとはまず思われる。
とすれば、可能性として一番高いのは、同性婚である以上、出産ということ、子供を産む(それをしも「生産性」と、たとえば社会学的な用語として用いたりするのだろうか……と思ったりはするものの)ということに関与していないという意味合いで用いているということなのであろうか。子供を「生産」するという表現などは、あるいは自民党好みの表現かもしれないけれど。子供もまた、社会的資本の一部と考えるというような発想から言えば、ということだけれども。
同性婚であっても、子供を養子縁組等で引き取り養育するということでこの問題にかかわる人たちも(日本はどうか知らないけれど、世界レベルでいえば)いることだろうにと思えば、この「生産性」という言葉の孕むうさん臭さや問題点が少しは見えてくるのではないか、という気もする。
たとえば、私は個人的にまつ子さんのファンで、まつ子さんの番組は極力見るようにしている。まつ子さんというひとつの個性を通じて、より公平・公正なものの見方や考え方がかなり辛辣な、しかし愛のある発言を通じて視聴者に紹介され、視聴者の文化的教養や良識の涵養にずいぶん貢献しつつ、一定の視聴率が確保され、番組スポンサーである企業の営業活動にも大きく貢献していることだろうと思う。おそらく、まつ子さんは結婚はしておられないだろうし(恋人はいるのかもしれないけれど)、子供さんもまたおられないだろうけれど、その個人的な魅力を通じて、文化的・社会的な「価値の創造」、さらに経済的な「価値の生産」に大きく寄与しておられるだろうな、ということを思う。
とすれば、ここで言う「生産性」というのは、子供を産む・産まないというレベルでの問題を念頭に置いた発言であり、同性婚のひとたちは(言い方が露骨で申し訳ないけれど)はなから出産に関係することなく、社会的資本財の一部である「子供」の生産に関与しないから、そのことが社会的貢献の有無という点で問題なのであり、特にそんな問題を抱える人たちが、仮に社会的に困窮しているとしても、その援助のために公的資金である税金を投与することは、二重にも三重にも社会に負担をかける「非生産的」なことであり、それゆえに大問題なのだ、ということになるのだろうか。
とはいえ、はなから出産に関係しない、ということ(これは異性婚の方たちのなかにも一つの選択肢として存在しているわけだけれど。)と、結果として子供を産まなかった、あるいは、産めなかったということは、スタートは若干の違いはあるにしても、ゴール地点は同じではないか、ということがあるのではないか。いずれにしても、子供を「生産」するという「社会的活動」に様々な事情(その中には、当然性的し好性も含まれるのだろうけれど)はあるにしても関与しなかったという点においては。
そして、Mとかいう人が、どう認識しているか否かはよくわからないけれど、ゴール地点が結局同じであるにもかかわらず、今回同性婚だけをとりたてて指弾しようとする姿勢の中に、本人の意図を越えて様々な問題をはらむ大きな要因が存在するのではないか、と危惧する。
たとえば、M氏の身近な例をあげるならば、名前は伏せるけれど、あるお二方のことがすぐに念頭に浮かぶ。お二人は、もちろん異性婚の方たちではあるけれど、結果として子宝に恵まれず、奥様などはそのことでずいぶんつらい思いを経験されたというようなことも公表しておられるようだ。このお二方も、M流にいうなら、子供の出産という「生産性」に関与されなかった方たちとして、そのことが問題点として指弾されたりするようなことにつながるのだろうか、ということだ。
同性婚であるからダメで、異性婚であるから、その結果に対しても過程部分を考慮して一定の配慮がなされる、ということであるならば、その認識や判断にはやはりゆがみがあるということになるのではないのか。
そもそもは税金の使い方の問題がこの出発点であり、帰結点でもあるようだけれど、その過程において、あきらかに問題の取り違えや、あるいは意図的なすり替えが行われているような気がする。すくなくとも、出産という問題を引き合いに出して、「生産性」などという条件付けを設定しつつ、それを同性婚ということに焦点化し非難の対象として扱い、自己の主張の正当性につなげようとするその強引な手法の中で、はからずも当人の同性婚者に対する差別的思考や、さらに同性婚を越えて様々な事情により出産が困難であった多くの方たちに対するある種の決めつけという理不尽な攻撃性が露出してしまったというところに問題があるような気がする。

余計なことだろうけれど、一般的に人によっては例えば性的し好性に関して、それを「正常」「異常」というふうに範疇分けをしたうえで、「異常」だと決めつけて排除しようとするようなタイプもいるのだろうなとは思う。ただ、こと政治家であるならば、すべからく現実や現状から出発して(つまりそのようなし好の人たちも現実にこの社会に存在して、ごく普通に社会の成員として生きておられるということなのだが)、そのようなし好の人たちも含めて、どのように社会全体が円滑・円満に進んでいけるのか、ということをこそまず考えてほしいように思う。ある意味、例えば「自らの性的し好のみ=その「し好」はあくまであなた個人の好みであって、皆が皆そうだというわけではないというようなことになるのだろうけれど」を正しいものとして、その範疇には入らないものは「ダメ」だと決めつけ、排除の方向に走りたがる人間が、政治家として権力の一端を把持し、さらにそれを行使しようとすることは、政治家としては明らかに手抜きでその上鈍感・傲慢でもあり、さらにはずいぶん恐ろしいことのようにも思われる。少数者への圧迫や弾圧ということにもつながりかねないことだし……。


【18年7月22日】

午前中、湊かなえの『ポイズンドーター・ホーリーマザー』を読む。女性の葛藤ということが、共通のテーマとなった短編小説集らしい。話の展開が、作者自身によって意図的に方向性を決定されている(当然のことなのかもしれないけれど)、たとえばこの部分の登場人物の態度や受け止め方、物言いをそのようにしなければ、最終的にこのような悲劇的状況に陥らなかったかもしれない、的な点をかなりはっきりと感じはしたけれど、逆に言うとそのようなストーリー展開によって、一見平凡な筋立ての中に、登場人物たちの矛盾葛藤状態がもたらされ、やがて小説の中にドラマが生まれるのだ、ということをきちんと計算してお話の全体像を構成しているであろう作者の手腕というものが、なんとなく感じられる。それが、不自然とか拙さの印象につながらない点が、湊かなえのプロとしての力量なのだろう、と思う。その節目、ストーリー展開の交点とでもいえる部分を、偶然のもたらすドラマとみるのか、必然のドラマと見るのかによって、読者の受け止めもまた異なってくるのかもしれないけれど。
また、今頃になって単行本の仕掛けにも気が付いたりした。湊かなえの短編をまとめた単行本では、最後の二つのお話が直接的なつながりを持っているというものがある。今回のお話にしても、最後の2話は事件編ならびに解決編的な関係性をもったお話だった。そして、解決編に当たる最後の話が全体の中でも断然面白かった。
そして、その最後の話だけが実は「書き下ろし」になっていたのだ。つまり、それまでの数編は、すでに雑誌に発表済みの作であり、最後の1編だけがそうではなかったということだ。湊かなえのファンであれば、まだ未読の最後の1話を読むためだけでも、この単行本を買うことだろう。そのためにも、とっておきの解決編をあらかじめ準備しておく、というのは作者のサービス精神を含めて、当然の販売戦略なのだろうと今頃になって気がついた。すべからく計算済みであるらしいことが、実はすごいことなのだろうと改めて感心した。お話自体は、大変面白かった。

午後は、合唱の練習に。幼少年期を過ごした町にある、ずいぶん立派なホールが練習会場になっていた。3時間余りの練習。クーラーが効きすぎていて、のどの調子が妙なことになってちゃんと歌えなかった。冷気に弱いのである。大変残念。公的施設は、冷房の温度設定が28度と決まっているはずだが、あるいは冷房費を安くあげるために、深夜電力利用の氷による館内冷房になっていたのだろうか。氷利用の場合、冷気の質がちょっと変わってしまって、とげとげしたものになってしまうということがある。それがすぐに状態に影響を受けるくらいに、喉が弱いということがあるのだろう……。

練習を終えて、まだこの町に実家が残っているので、海沿いの住宅地の方に車で移動する。昔この町は近隣県でも有名な海水浴場のある場所だったのだが、今日は猛暑の中、3名ほどが海水浴を楽しんでいるばかりだった。自宅は引っ越しに際して近所の人が購入してくれて、そのままの状態で、塾や治療院、さらに社宅としていろいろ利用されたようだが、現在では物置として使われてあるらしい(たまたま、現在の所有者に出会えて、しばらく四方山話を交わしたのだが)。自分や兄弟の部屋があった二階はほとんど手付かず状態で残っているらしい。一度中を見てみたいような思いになるが、さすがに外からは、二階の内部の様子はまるでうかがえなかった。高校時代までをそこで過ごしたと思うと、ちょっと感傷的な気分になったりもするものだ。


【18年7月19日】

本日、日本で最も暑かったのは我が県庁所在地ではなかったろうか。地元も35度超の気温で大変暑い。とはいえ、暑いなりに吹く風に涼しさを感じ、気温のわりには物陰に入れば涼い。少しはこの異常な暑さに体の方が適応しつつあるのか、と思ったりもする。それにしても、ここしばらく一滴の雨も降らない。能天気なほどの青空が頭上にのっぺりと広がっている。

数日前、近所の電線に燕が30羽くらい止まっている姿を目撃したけれど、それ以後、見かける燕の数がめっきり減ってしまったように思う。まだ、7月も下旬で、南へと帰って行くには時期が早いような気もするのだが。人家周辺で子育てを行っていた燕が、子育てを終えてしばらく、帰南する時まで野原や河川敷などのような場所へ移動するとかいうことを聞いたことがあるけれど、あるいはそのようなことなのだろうか。季節はすでにそこまで進んでいるのか。そういえば、来月の8月7日は立秋で暦の上では季節は秋になる。今の時期はすでに晩夏ということになるのかもしれない。

来週初めと再来週初めには、所用で京都へ行くことになる。京都は左京区南禅寺の山門で大見えを切った石川五右衛門ではないが、煮立った釜の中にでも放り込まれる気分だ。異常な高温の続く中、京都へ行くのはなかなかきつい。句会と勉強会なので、主に室内での活動ではあるが、その会場まで移動する道筋を考えると、少々げんなりもすることだ。もちろん、楽しみに出かけるのではあるけれども……。


【18年7月19日】

日本にカジノなんかいらない。金と引き換えに国民にギャンブル依存症のリスクをもたらすような法案を通すこと自体が、まともな判断とは思えない。
高プロを通すことで、労働力を維持しつつ、過労死を増やすことをいとわない政治は、まともな体制とは思えない。
しかし、「美しい日本国」は、もともとそのような国であったということを、今改めて思う。



【18年7月15日】

外気温はすでに35度ちかくまで上がっているにもかかわらず、室内にいるとさほど暑さを感じない。エアコンを切り、窓をあけると吹き込んでくる風が涼しく気持ちが良いほどだ。
京都などは、最高気温が38度くらいになるらしい。日陰でそのくらいなので、日当たりなどは冗談ではなく、40度超という状態なのだろうか。なだ少し先のこととは言え、8月に入って第2週には、龍大の俳句講座の一環として、恒例の宇治吟行が予定されているのだけれど、たとえ平安時代の宇治が京の都の避暑地であったとはいえ、相当の暑さを覚悟しなければならないか、とも思う。

昨夜、涼みがてら灯りを消した2回の部屋から、南の空を眺めると、暗い空の中にひときわ赤く輝く星が目に立った。おそらく火星なのだろうが、文字通りこんなに「赤い星」として火星を意識したことは近年なかったように思われた。空の状態が良いせいなのか(なにしろ「星取県」などと自称するくらい夜空の状態が星を眺めるのに適しているので)、地球との距離の関係なのか、事情はわからないけれど、しばらくのあいだちょっとルビーを連想させるきれいな星の輝きを眺めていた。中天にはうっすらと天の川が横たわってもいた。

日曜日、午前中。図書館で借りてきた蜂須賀敬明著『バビロンの階段』という中編小説を読む。虚実皮膜風のお話で、ちょっと分かりずらい部分もあったりしたけれど、なかなか面白かった。最後まできっちりと書き込もうという風な執筆姿勢とでもいうものが、読ませる要素になっているのかと感心する。登場人物が、アニメに登場する類型的人物風なのがちょっと残念。今風の設定なのだろうか。

NHKの朝の連続ドラマ、再放送の『まっさん』も、『半分、青い』も、中だるみなのだろうか、あまり面白くない。『はんぶん』の方は、いろいろと個性的な登場人物たちやたらと登場するのだけれど、そのいずれの人物たちも、なぜかいまひとつ魅力に欠けるような気がする。なぜなのだろうか。奇をてらうという言葉があるけれど、ちょっとそんな風なことを思ったりする。朝の楽しみが減るようで、かなり残念……。

自由党の山本太郎とかいう参議院議員。かつては、変に尖がった変則的な質問や発言が多くて、自民党「魔の3期生」並みの際物議員かと思っていたのだが、彼自身どんどん変わっていって、現在一番筋の通ったまともな発言をする人物のように思われる。まっすぐに正面から問題点に向き合って、本質的な質問や発言をする姿は、ぐだぐだの答弁やピント外れの質問で時間を潰す与野党の議員たちに是非見習ってほしい、という思いになる。ずいぶん経験を積み、勉強をされたんだろうな、と感心する。


【18年7月13日】

ふと気が付けば、13日の金曜日だった。いろいろいわくのある日にちと曜日の組み合わせらしいけれど、当地は一日いたって穏やかに明け暮れした。
夕方には、いかにも夏らしい見事な夕焼けが、大空を占めて、オレンジ色に燃え立つ雲が強烈に鮮やかに西空に照り輝いていた。

知人から電話あり。実家は広島の某地で、周辺は水害に見舞われ、水につかったらしいけれど、知人の実家自体は建築の際、土台の土地をずいぶんかさ上げして自宅を建てられたとのことで、幸い浸水の被害は免れたそうだ。ただ、周囲には押し寄せてきた水の跡が残り、近所の3軒のコンビニのうち、2軒は駐車場を含め被害を被ったらしい。被害の様子は、テレビでも中継されたとのことだった。移動も困難で、買い物に出られず、買い置きしていたもので、とりあえずしばらくはなんとか過ごす、というようなことを教えてくれる。大変、生々しい話だった。

別の知人からは、無事手術の終了を知らせるメールを受け取った。数回にわたる治療の後の手術ということで、心労を含めて大変だったろうと思う。状態が落ち着いたら数日中に病室の方へと移動が可能になると知らされて、一安心という思いになる。しばらくは入院されることになるだろうけれど、京都に出かけた際はお見舞いの時間が持てれば、などとメールを返す。

午後、母の運転手役で病院へ。待合で、たまたま地元の句会のメンバーの方と遭遇。母よりも一つ年齢が上の、おしゃれなおばあちゃん。句会では、ちょっと硬派の面白い句を作られる方だ。目の方の都合で通院しておられるということで、しばらく母をそっちのけにしておしゃべりをする。なかなか楽しい。病院自体は、予約して結局2時間待ちだった。終りまで3時間余り。治療を終えた母が、ひとこと。担当の先生の机の上に、10人分ぐらいのカルテがまだ並び置かれてあった、とのこと。この時、すでに夕方4時前くらいの時間だったけれど、はたして若い女医さんが本日の診療を終えるのは何時になることだろう。

幸不幸とりまぜて、いろいろな出来事が起こっていることを、改めて思う。


【18年7月11日】

大きな災害が想定されている状況の中で、のんきに宴会を開いてはしゃいでいる総理を筆頭とする与党の議員さんたち。非難されたら、恰好だけはつけて被災地に乗り込んだりして、体面を取り繕う。
解散の条件として、議員定数減を約束しておりながら、5年たった今現在、逆にその定数を増やそうとしている。野党内与党の維新も、さすがにそれには頭にきていることだろう。良識の党を装いながら、自民の追従を続ける公明党も、自民の暴走の歯止めになるはずが、まったくその機能をはたしていないようだ。自民党はもう、何でもすきなようにやりたい放題なのだろう。
自民党内では、石破ただ一人(小泉は、お父さん同様パフォーマンスの名手ではあるけれど……)だけが、その暴走状態に対して警鐘を鳴らし続けているけれど、悲しいことには弱小派閥のために、党内で力を持ち得ていない。嘘つきで冷酷な現総理よりは、石破の方がよほどましだと思われるけれど、残念ながら力不足。
安倍一強のこの5年間で、日本のいわゆる保守層は甚だしく劣化しているように思われる。彼らは日本のためにでなく、安倍晋三のためにその手足となって動くことで、ある種の自己実現とその達成の快感をむさぼろうとしているようだ。その姿は、スポーツのサポーターとして、熱狂的な声援を送るある種の人たちの姿に重なるような気もする。
強権政治は、排除の政治でもあり、その排除の強さを、文字通り政治的な「強さ」へとすり替えて、ますます排除の姿勢を強め、その支持者たちは「排除の強さ」こそを決断力や実行力と取り違えて、自らもそれを支持することで強大な力の一部を付与されたかのように自己陶酔しながら、ますます盲目的妄信的に「排除」へと押し進んでいく。

なんとなく、そんな風な感じを最近の情勢に感じ取っている。正直、鬱陶しくも恐ろしい。いずれ、こいつら中国や北朝鮮以上の蟻の統制社会を実現して、やがて戦争などひき起こすんじゃないかな、と危惧したりする。

四分五裂の野党は、当面ほとんどなんのあてにもならないだろうから、せめて石破には頑張ってほしいように思う。与党内野党の存在こそが、自民党を広範囲に支える力にもなっていたのだが。そんな時代は、夢のまた夢となってしまったのだろうか。排除の力は、自民党内にも強く働いているようだ。それにしても、現在の自民党は、豆乳を搾り取ったあとの卯の花みたいなものなのだろうと思われる。卯の花は、上手に料理すれば大変おいしくいただくことができるけれど、煮ても焼いても食えないものになってしまったら、もうおしまいだと思われる。

ちなみに、現在読み進めている『韓非子』は、統治者の側に立って、統治とはどうあるべきかを語る内容の書物だけれど、そこには統治者としてやってはならないこと、やればいずれ自らの統治の崩壊を招くようなことも繰り返し語られてある。その中には、現政権が実際にやっているような事柄が類似点としていくつも見いだされるけれど、はたして政権の統治が崩壊するのが早いか、日本という国家が崩壊する方が早いか、そんな状況に立ち入りつつあるような気もしないではない。


【18年7月8日】

ようやく、雨がやみそうな状態になってきたようだ。来週中には、列島で梅雨明けが次々に宣言されることになるのだろうか。とはいえ、今回の未曾有の大水害はその広範な地域と被害の大きさに驚く。特に、個人的には中国山地を越えた反対側、岡山県の倉敷方面が甚大な水害に見舞われるということは、まったく思ってもみなかったことだった。倉敷は、伯備線で新幹線乗り換えのために岡山駅に向かうとき、そのひとつ手前の駅で、そろそろ下車のこころづもりをする辺りだ。倉敷はおだやかな田園地域に囲まれ、大原美術館のある静かな町という印象が強くて、今回のように水害による被害を被るなどという想定などは全くない地域だった。大変驚いている。

日曜日。午前中いっぱいで湊かなえ『夜行観覧車』読了。2、3回に分けてゆっくり楽しもうかと思ったのだけれど、読み始めたら結局最後まで読み切ってしまった。人の心に潜む悪意の描写が今回もまた冴えていて、本当に上手いなと感心しながら読む。暗い話ではあるけれど、小さなどんでん返しやかすかな救いなどもちゃんと用意されてあって、ストーリーテラー湊かなえの本領が発揮された一冊だと思う。

図書館で本を借りる際、1冊は最近書かれた軽めの小説を借りて読んでみようと思っている。今回は前川梓『さよならサンドイッチ』という短編小説集を借りて読む。読みながらふと、「ホムンクルスの図」という人間の感覚器官の比重の割合をその身体器官の大小で表した(どう説明していいものか、かなり困惑もするのだが)、見た目はかなりグロテスクな図像を連想した。本文の描写において、感覚のある部分だけが突出して肥大化され(聴覚なら聴覚、嗅覚なら嗅覚が)、描写の部分にかなり強烈に反映されているような、そんな手法で描かれてあるように感じられ、そのいびつな対象の描き出し方が、「ホムンクルスの図」同様に、気持ち悪くも印象的であった。内容的には、ちょっと物足りない部分が多かったけれど、こんな書き方をする作家もいるのだと、興味をひかれた。ネット上で鑑賞を検索してみたけれど、恋愛小説として女の子の中でかなり共感的に読まれている作品であるようだ。なるほどね、と思う。


【18年7月6日】

オーム真理教の確定死刑囚13人のうち、7人が本日刑を執行された。拘置所移動から始まり、いずれ刑の執行がなされるだろうとは思っていたけれど、こんな時期に、7人も一度にというのは正直かなり驚きをもってニュースを聞いた。様々な判断の上に立っての刑の執行だったのだろうけれど、心のどこかになにかすっきりしないものを残しながらの幕引きのような印象もぬぐえない部分があった。残された6人もいずれ刑が執行されることになるのだろうけれど、本日が金曜日ということで、それは来週以降になるということなのだろう。
最終的には、刑の確定者の全員の執行をもって、このオーム事件も終結ということにはなるのだろうけれど、彼らの死をもってすべてが閉じられる、というわけでもないのだろうな、と漠然と思う。

本日も終日雨。昼前後には、相当強い雨が降った。その後、夕方まで雨脚は少し落ち着いたけれど、これから夜、そして明朝にかけて相当強い雨が降るという予報がすでに出ている。梅雨末期の豪雨というのは、よくあることらしいけれど、今回のように広域にわたり、長時間強い雨が降り続けるということはなかったパターンらしい。そういう意味では、異常な気象状態に日本列島全体が陥っているようだ。すでに、外から強い雨音が室内まで響いて聞こえてくる。

ギャンブル依存への対策法が通過した。与野党ほぼ全会一致という形での通過らしい。個人的には、公営ギャンブルもパチンコ等の遊戯も一律に廃止してしまえばよい、という思いもあるのだけれど、それはそれとして現実問題としてギャンブル依存に苦しむ人たちに対する対応策は、まじめにそしてまともに策定・実現してほしいと思う。法律は成立したけれど、ザル法ゆえにその運用が形骸化するというのは、しばしばあることなので……。国家としての責任が、都道府県単位の責任に転嫁され、やがて市町村、その先は個々人の自己責任にまで矮小化されませんように。

IR法案については、多くの国民はその内容を含めてその成立に疑問を感じているようだし、成立を望まないひとたちが圧倒的に多いだろうと思われるけれど、それでも業界の意向が最優先事項とされるこの国では、すんなりと押し通されることになるのだろう。ギャンブル依存に対する対策を打ち出しつつ、そのギャンブル依存を増やしかねない法律を成立させようとする、マッチポンプとはこのような状況のことをいうのだろうけれど、この国の政治と経済は国民の「健康で文化的な生活」よりも、一部の利益優先と既得権保護の上に動いているので、ギャンブル依存症という病人を増やすことになるとしても国家をあげて博打で金もうけをするということに対して、なんら危惧も矛盾も痛痒も感じないのだろう。個人的には、「美しい日本」が、世界に対して博打の胴元として大きな顔をしてほしくはないと思うのだが。もうすこし、まっとうな金の稼ぎ方を考えてほしい。それにしても、これもまた成功と失敗を賽の目にかけた丁半一発勝負!なのだろうか。

たとえ、高プロで過労死が増え、IRでギャンブル依存症が増加したとしても、それはあくまで国民個々の問題であって、国家レベルでは何ら問題とされない。国民と国家との利害が分離して、国家の利益が、権力行使という「暴力」の形を取ってあまねく国民に対して運用されつつあるのが、どうやら今の日本という島国の実情なのだろうと改めて思う。


【18年7月5日】

「半分、青い」。てっきり岐阜に帰るのかと思ったら、引き続き東京で頑張るらしい。本日は、今後主人公に絡んでくるキャラクターたちの紹介編のようだった。なかなか癖のある人物ぞろいのようで、この先どう展開していくのか、楽しみなような気がする。ちょっと人物ドラマ風なところも見てみたいような気がする。キラキラ度は少々抑えていただいても、個人的には構わないな、などと勝手にいろいろ思う。

本日も終日天候は不安定だった。警報がでたり引っ込んだりという状況。京都市北部や鴨川周辺は、かなり増水しているようで気にはなる。知人たちは大丈夫だとは思うけれども。今月は、後半にかけて2度京都に出かけることになるそうだ。句会が一つと、勉強会がひとつ。勉強会の方の参考資料は事前に送っていただいていて、一通り読んでみるが、興味深い内容で、今回は是非参加しなくては、と思う。1泊のつもりで、すでに宿の手配も終了した。楽しみである。

数か月かかって読んできた『夜の寝覚め』もあと数日で読了というところまできた。古文を読むということと、それにともなって当時の風俗や風習に対する理解の問題などが理解の壁になってはいるだろうけれど、内容的にはちょっとたとえは古臭いけれど、「ハーレクインロマン」(わからない人も多いだろうけれど)的内容なので、楽しく読めるといえばそうに読める。とはいえ、主人公たちの人物像がなかなか現代人の感覚からいえば、単純には了解しずらい部分があったりもして、その点も含めてお話に入り込みづらい点も多々ある。
たとえば、病気(実は妊娠によるものなのだが)ですっかり憔悴、衰弱し、すっかり面変わりしたた女性に対する男たちの受け止め方が「らうたし」(主な意味は、「かわいらしい」ということになろうか。「いたわりたい」との意味もあるようだけれど、文脈からはそちらの意味では読み取りにくい)というのは、かなりかなり微妙である。
かと思えば、女の胸の状態から妊娠を判断したり(本文は、もっと露骨なのだが)、主人公がヒロインの出産に立ち会い、さらに手づから赤ん坊のへその緒を切るなどという描写は、なかなか生々しかったりもするものだ。

『韓非子』のほうは、内容が老子の思想の紹介や説明の部分に入って、多くの歴史的事例やたとえ話で内容が進むようになって、一挙にわかりやすくなってきた。どんどん読み進むことができるようになってきて、気分良く上巻を読んでゆく。なかなか楽しい。


【18年7月4日】

台風は、日本海の沖合を通過。多少風が吹き、降雨もあったけれど思ったほどの状況でもなく、一安心。夕方には青空も見えて、静かな夜を迎えている。

図書館にでかけ、本の返却と新たな貸出を受ける。湊かなえの小説や南方熊楠と猫の関係の本や金子兜太の本その他を借りてくる。熊楠と猫については、水木しげるが「猫熊」的な題名で漫画を書いていて、それが結構面白く、今回企画本的な内容で出版された本のようで、こちらもなかなか面白い。本書のあちらこちらに所載された熊楠の猫の絵が、素敵に味わい深くてよい。

「半分、青い」が、意外な展開を迎え、漫画家志望編が終了してしまった。登場人物がいずれも個性的で、楽しく見ていたので、かなり残念だ。この先、どんな展開になるのかわからないけれど、個人的にはもう少し漫画家志望編を続けてほしかった。家族のドラマというのが基本的なコンセプトの一つと聞いていたので、この先は地元に帰って、一家団欒和気藹々編みたいなお話になっていくのだろうか。中村雅俊のおじいちゃんが亡くなったりなんていう、ベタな展開だけはやめてほしい、などと思う。

総裁選に向けて、自民内部がごたついていきそうだ。麻生副総理によるモロ恫喝」的な発言もでたり、安部後継と目される岸田の「賞味期限」が問われたりとか、いろいろ波乱が生じることだろう……。


【18年7月1日】

湊かなえ『サファイア』読了。短編小説集。一話独立になっているけれど、最後の二つの物語は関連を持っている。そして、ストーリーテラーの湊かなえの本領が発揮されているのは、その最後の二話といってよいかもしれない、と思う。全体には、やや出来不出来のばらつきがあったようにも、個人的には感じられるのだけれど、とはいえいずれの話も読み手の思いをそらさない巧みな作りとなっていると思う。楽しませていただいた。図書館においてある同作者関係の未読書籍が少なくなってきた。著作自体はずいぶんたくさんあるだろうなと思うので、他の図書館からのお取り寄せなども利用したらよいかな、などと思う。

暑いな、と思ったら、本当に暑くて昼過ぎの最高気温は当地でも35度を超えていた。日本列島本日の最高気温に近い温度が出たのではないか、と思う。いい加減にしてほしい、と天に毒づきたい思いになる。朝、少しのんびりしたせいで8時前に「歩き」に出かけたら、すでに日差しがぎらぎらと照り付けていて、住宅地を片影を選んで歩いたけれど、30分ほどで中止して帰宅するはめとなった。歩くとすれば、日の出前後か、日没以後でなければ、たとえ曇りであろうとかなり厳しい状況のように思われる。健康維持のための「歩き」が、健康を損なう結果をもたらすとしたら、なんのために歩いているのか、わからなくなってしまう。今年は、本当に長くて暑い夏になるのだろうか……。

暑さのうちに、本年も後半がスタートすることとなる。。昨夜は、T大医学部オケのコンサートに出かける。ワグナーとメンデルスゾーンとフランクの3曲、プラスアンコール2曲。2時間あまりのコンサートだったけれど、アマチュア楽団の演奏としては、とても出来が良くて、クラシックを堪能させていただいた。時は折しも「夏越の払い」の日。クラシックの演奏で、浄化していただいたような思いになった。