草市の和紙をひと巻買ひにけり
なんて、さりげない世界だろう、と思う。華々しいことも、はっと目を引くことも、思わせぶりな感慨も、奇矯なレトリックも、感覚の過剰さも、枯れ果てた枯淡さもありはしない。かといって、凡々たる日々のため息もここにはない。あるのは、さりげない日々のさりげない生活の一こまである。「草市」で「和紙」を「一巻」買った、と言うことを五七五の調べに乗せて詠っただけである。恐らく、俳句の持つ魅力の一つはこのような地点にあるのではないか、と思う。ところで、草市で買った和紙って、どのようなものなのだろうか?ちょっと興味が、湧く。