岩城久治 新句集『冬焉』より (11)

さくら散る舞台に腹話術師かな

 
一人の腹話術師の登場によって、腹話術という芸がエンターティメントとして脚光を浴びたのは、ほんの数年前の事だ。そもそも腹話術という芸がいつ誰によってもたらされたものか、私は知らない。しかし、そこには元々神人交歓という要素が関わっているのではないか、などと勝手に想像したりする。なにしろ、人と人にあらざるものとが、平然と会話を交わしたりしているのだから。腹話術師は、一木一草ですら、言葉を発せさせることが可能であろう。木の意志、草の意志すら語らし得るのだ。きっと腹話術師とは、シャーマンの末裔なのであろう。この句、桜満開のこの時期、全国各地で開催される「桜祭」の舞台風景を詠ったようではあるが、浮かれ立つ人々を前に、散る「さくら」を背景にして、紅白の幔幕に縁取られたそこには、やがて腹話術師によってちいさな異境が出現する。そんな瞬間を予感させる1句である。