くろがねの鯉の一打ち水澄めり
「水澄む」は季語のこの句。たとえば、俳句について一つの明確なイメージを持つことが出来るのがこの句ではないか。一言で言えば、俳句とは、永遠と瞬間との交叉の中に生まれる物ではないのか、ということだ。鯉の一打ちのその瞬間と、それを包み込む水澄む秋の回帰的な永遠の時間。その交点にこの作品は、1句として存在しているのではないのか。さらに「くろがね」という言葉が「鯉」の実在感を決定的なものとする。限定された存在としての鯉が、この一語によって普遍なものに在りようを変える。
俳句とは何か、それは理屈ではなく、1句が自ずと語る物、ということを、理屈をかざしつつ思わざるを得ない。 |