岩城久治 新句集『冬焉』より (6)

日本の秋縁側に日の射して


日本と日本人の不幸は、世代間の非連続性というところにあるのかもしれない、とふと思うことがある。特に、「怒れる若者たち」すら存在しない、今の日本には。この句を読んで、ある世代の人達は何も感じず、また、別の世代は平凡として歯牙にもかけず、ある世代は世界としての実在感を感じ、また別の世代は懐かしさを感じるかもしれない(私は、懐かしさを感じる世代に属するか)。もちろん、それは、地域による差異ということもあろうが。共有できる得る文化的財産を惜しげもなく捨て去ってきたのが、これまでの日本の在りようではなかったか、などとも思ってしまう。俳句は、たとえば「季語」と言う形で、文化的共有制の上に成り立ってきた文学という側面を持つ。それが困難になるなかで、俳句は急速にその存在感を薄めてきたのかもしれない。それは、自分の作る俳句を振り返ってみても、感じることであるのだ。懐旧の情は、それこそ繊弱な俳句以外のなにものも生み出さないのかもしれない。しかし、この句はそのような脆弱さとは、根本的に違う地点で作られた句という手応えを感じる。それがどのような地点であるのか、今の私にはまだ実感としては掴めない。