日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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朝から快晴。夜明けは放射冷却のせいで、氷点下に近い気温になったけれど、日が差すようになってからは、日光を入れた部屋は16度近い室温になっていてずいぶん暖かい。それにしても、2月4日が立春で暦の上ではもう春になる。実際にはもうしばらくは寒い日も続くだろうけれど、本格的に雪が降る日というのは、太平洋岸の春雪を除けば、もうほとんどないことだろう。今年は、本当に雪の降らない、当然積もらない冬として終わりそうだ。
先日、句会に参加するため京都に行った。米子道、中国道、名神と高速バスで移動したけれど、さすがに県境を越える辺りから周囲にも積雪が目立ち、トンネルを抜けて岡山県側に出ると、周囲は雪景色で、やっと冬を実感できたような気分になった。蒜山スキー場もなんとか雪が足りて、営業しているように見えた。雪があってこその冬、という思いがちょっと満たされたような思いになった。帰りのバスでは、吹雪の中を走るという状況もあったり、蒜山スキー場のナイトスキーのきれいな照明を目の当たりにしたりとかして、一層冬を実感できたりもした。それにしても、例年なら積雪量は鳥取県側の方が多いのが通例だったけれど、今年は岡山県側の方が雪が多く、しかも標高がかなり低い地域にまで雪が残っていたのが目に付いた。今年は違う、と改めて思ったことだ。
除雪のために、わざわざ買い替えた大型スコップも、今シーズンは使わないままで終わりそうだ。
辺野古の署名活動は、とうとう21万票を超えたようだ。歴代4位の請願数になるらしいとも聞いた。県全体の投票も実施されそうな見通しになってきた。一部保守議員の造反は続いているらしいけれど。何かに対する忖度より、県民全体の投票権確保という最大課題をこそ政治に携わる者は尊重すべきように、素人目には思われるのだけれど。
日本全体の中で、民意やまっとうな意味での政治力が、まだかろうじて命脈を保っているのは、沖縄のみというような気がするが、どうなのだろう。
統計不正問題はさらに泥沼状態になるのだろうか。かなり前から、政府の発表や資料等を単純に信じる気持ちは失われていたけれど、さらにその思いは強くなるばかりだ。すごいな、と思う。
『源氏物語』を読み進む。雨夜の品定め、「女性に対する男どもの体験談」は、それを女性である紫式部が語っているという点で、何重にかにわたって面白いと思う。特に、知性と教養にあふれる式部的才女と風邪治療の「ニンニク」の話などは、登場人物たちが「うそ、うそ(今風に言えば、「盛っている」ということになるのか)」と口を合わせて否定するぐらいの内容ではありながら、ある意味戯画化された女性の姿が、なんとなく式部の自身を含めた才媛に対するちょっと皮肉な見方の反映のように思われたりしたものだ。才媛に対する反発という点でいえば、式部の清少納言に対するほぼ「全否定」的な発言(というのか、『日記』の中の言葉ではあるけれど)などを、ちょっと思い出したりもする。式部自身が男性顔負けの知性と教養との持ち主であり、しかもそれをあえて隠さざるを得ない状態を我が身に良しとするという、現代人から見ればストレスの多い、当時の教養ある女性たち一般にしてみればやむない処世術を、より自覚的に選択した厄介な人物であってみれば、自身を戯画化して笑うなどという屈折した心境を物語中に反映させるなどということもありうるかも(もちろん、それらが式部の男性諸氏に対する自己防衛ならびに配慮、今風にいえば「忖度」という面もあるのかもしれないけれど)、などと適当に思ってみたりもする。それにしても、『源氏物語』は面白い。
雪起こしの雷が断続的に鳴り響き、とうとう雪が降り始めた。みるみる、カーポートの屋根は白くなっていく。道路上はまだ濡れたままという様子だが、このまま降り続ければ、路面積雪ということになるかもしれない。中国山脈の主稜線上にある蒜山高原は、山の部分を除いてほとんど雪のない状態が昨日までの現状だったらしい。冬季期間中、米子道を山陽へと山越えする途中、周囲の雪がひときわ深く感じられるのが、この蒜山高原周辺なので、今年のその状況はやはり異常だなと思っていたけれど、この雪で少しは例年並みの状態にもどるのだろうか。高速沿いの小規模のスキー場も開店休業状態だったろうけれど、これで回復すればと思う。
雪はかなわん、と一方で思いつつも、まるで雪のない冬というのも、逆にかなり違和感を感じてしまう。矛盾した心情ではあるけれど、そのような冬には雪という風土が身についてるところがあるので、それはそれで当たり前の感覚なのかもしれない(もちろん、程を保ってほしいとは思う。しかしそれは人知・人力ではどうしようもないもので……。源実朝が大雨を嘆いた「時によりすぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ」という祈りのこもる歌は、大雪に苦しむ地域の人たちにとって同様のものなのだろうし、逆に雪不足に悩む地域にとってはそれとは反対の思いも強いことだろう。いずれにしろ、和歌が鬼神・竜神の心に強く響いて災いを止めてくれる、という現代人から見たら非科学的で素朴な思いも、文学の世界では時間と空間を飛び越えて切実感をともなうものとして胸に響くことだ……)。
一月は「行く月」、二月は「逃げる月」、三月は「去る月」、などと頭韻照応的な言葉遊びは、でも結構実感の反映でもあるみたいだ。一月ももう終わりに近づいている。二月に入れば、早々に「立春」ということになる。新しい年も、スピード感を保ったまま、どんどん過ぎていくようだ。
辺野古の県民投票、なんとか全県実施が実現しそうな状況になったようだ。三択案には不満な層もきっとあることだろうけれど、政治は妥協の産物という言葉を待つまでもなく、三方一両損的な決着の付け方をしようとしているように思われる。とはいえ、一度は県民投票への不参加を決めた保守派議員や市長も、そのままの強硬姿勢を続け、多くの県民から深い遺恨の思いを抱かれる可能性を思ってみれば、正直このような形で決着させてくれた県民投票推進派に対して、内心感謝の思いを抱いているのかもしれない、とふと思ったりもする。とはいえ、悪知恵を教唆し、沖縄に分断と混乱をあえて持ち込んだ、市民の投票権のはく奪をもくろむ民主主義の破壊者、ほとんど情報テロリストとも呼べそうな某保守系議員は(してやったりと内心ほくそ笑んでいるかもしれないけれど。
ホワイトハウスへの請願署名は、まもなく21万票に手が届こうとしているらしい。発起人のハワイ在住の人物へはすでにホワイトハウスから、署名の受理と現在請願内容の検討中的な内容の書面が届いたとも聞いている。辺野古の県民投票にしろ、ホワイトハウスへの請願行動にしろ、それ自体は何の法的拘束力も強制力もたない性格のものらしいけれど、権力の暴力に対する非暴力的な申し立て行動としての意味は小さくはないのかもしれない、とも思う。
明日は、今冬最強の寒波に見舞われるらしく、本格的な降雪もあるかもしれない。ここ数年、毎年のようにカーポートの雪下ろしに苦労させられてきたけれど、今年は幸いそれは免れるかもと期待していたのだが、その期待が是非実現してほしいものと思う。もともとの住民が、なぜ積雪地域仕様のカーポートをここに設置しなかったのか、その判断は了解しかねる部分はあるのだけれど、こればかりは後になって気が付いても仕方のないことであった。とはいえ、屋根材の一部に雪の重さによる小さなたわみが複数個所見受けられるのが、やはり気になる。カーポートの地面をコンクリートにふき直してくれた業者の大将は、柱も微妙に曲がったまま(私がいくら目を凝らしてみても、その曲がりは判別できなかったが)であるけれど、まあ大丈夫でしょうとは言ってはくれたのだけれど……。
ここ数日、湯たんぽを使わないまま就寝してきたけれど、今夜はちょっと無理かもしれない。お湯の準備をしようと思う。
中海は、大規模な干拓事業により、広大な農地を造成してきたけれど、その一部は農地ではなく、別の用途で利用されているところがある。新興住宅地として宅地開発された一部は、鳥取西部地震の際、干拓地という条件から大規模な液状化現象が発生し、区割りや道路、植樹や周辺環境の整備も終わり、美しい住宅街になるだろうなと思われた土地が、宅地としては利用不可能な状態となった。とはいえ、現在ではその広大な敷地は大規模太陽光発電施設に変貌して、発電事業が展開されてある。
その地からさらに数キロ南下した地域に、農地に隣接して、別の事業体による大きな太陽光発電所がある(実は、ごく最近になってしったことなのだが)。その発電所の面白いところは、まず広大な干拓地に立派な土手を造成して、その内側に水をため、巨大なため池を作ったうえで、その水面部分を利用して、光発電施設を作ったということだ。
たまたま、よく行く水鳥公園からその日の好天に誘われて普段行ったこともない地域に足を延ばしてみようと歩き出して、結構な距離を歩いたところでその施設に行き会った。
興味深い施設だったので、中をのぞいてみたいのもだと土手越しに中を覗き込めるような高台はないかとその周辺部分をぐるりと歩いてみたけれど、元が干拓地なので平坦なところしかない。やむなく、池をめぐる土手とその周囲を囲う有刺鉄線と、その向こうに広がる寒茜の空をスマホで写してみた。干拓地らしい、広大なニンジン畑やネギ畑のその向こうに、太陽光発電所があるという風景も、なかなか面白い。
『源氏物語』、「桐壺」の巻読了。続いて「帚木」の巻へと入る。ここは最初に有名な「雨夜の品定め」がある。梅雨の長雨の夜、行事が重なって内裏への宿直が連続する日々、青年貴族たちが退屈に任せて夜話にお付き合いしたことのある女性たちのことを品評するという、女性たちにとってはかなり失礼な、しかし青年たちがちょっと背伸びしたりして談笑しあう、そんな集まりの中にまだちょっと奥手なところを残す青年光源氏も参加するという趣向の話。女性たちから送られた手紙を大切に保管していて、それを見せるだの見せないだのとのやりとりも、そういうこともあるのだろうな、などと思いながら読む。
俳人深見けん二氏の『深見けん二俳句集成』を読み進む。深見氏はホトトギス派の一人。全句集というわけではないが、えり抜き作品集という内容で、面白い作品が多い。時に印象的だったのは、第四句集『花鳥来』。「あとがき」に自らの作句姿勢として、「私なりに花鳥諷詠、客観写生をいまに自分のものとするかに心をこめてみた(中略)季題についての認識を新たにし、又観察を続けて自然から授かる恩寵の一句を目指して、写生を重ねた」という一節があり、ここに語られる内容が同氏のひとつの到達点であり、その後の方向性を示し、作品の精度と深度を推し進める起点であり原点でもあるようにも思われた。「だんだんに水の光に薄氷」とか「一人来て一人の音の菅を刈る」など作者の繊細な感受性が伺える作品であった。また、「降り出して茅の輪の映る石畳」も鮮明な映像とともに石畳の質感までも思われて、とても印象的な作品であった。ただ、同じ句集内に「水打つて電柱一つ映りたる」とあるのはやや同巧の句かもなどとも思った。難しいものだ。
本日は、朝から雨。しっかり降っている雨だ。その分、気温は高め。大山のスキー場のほうも、せっかくの雪が解けてしまうかもしれないとも思う。夜ごとのナイトスキーの照明が中腹斜面にきらめいて、なかなか美しいのだけれど、すでに昨夜の時点で北側斜面にあるスキー場の明かりが暗く落とされていたので、スキー場のひとつは休止状態になったのかもしれない、とも思う。今年は暖冬との予報があったけれど、山陰地方は山間部を除き、本当に雪が降らない。それはそれで、ありがたいことではあるけれど……。
辺野古の住民投票。ハンガーストライキを行っていた青年が、急激な血圧低下等の状態でドクターストップをかけられ、ストライキを終了、入院することとなった。民主主義国家であるはずの日本において、政治家によって住民の投票権がはく奪され、それに抗議する個人が自らの安全をかけて行動を行い、それに対する見解を聞かれた政府を代表するはずの官房長官は「その人に聞け」と冷酷に切り捨てる、これが沖縄をめぐる日本の状況なのだなと改めて思いしらされる。投票権はく奪に関しては、自民党の議員がその手法を、予算案否決という形で地元議員たちに教示するということも行われていたことがすでに明らかになっている。当該の市において、住民投票賛成はいずれも7割を超える現状の中で、このまま住民投票に参加する道をふさげば、地域内に明らかに遺恨を残すことは、保守系議員も市長も理解できないわけではあるまいと思うし、その結果は微妙な形を取っていずれ我が身に返ってくることも予想できるだろう。
このまま、住民投票を実施させないということで、事態が終結するとは思えないけれど、どのように事が推移していくのか、せめて関心を持ちたいと思う。個人的には、現在検討されているらしい投票内容を賛否という二者択一でなくとも、「容認」「反対」「やむを得ない」の三者択一にするとしても、そのことによって不参加を表明する五市がその方向を改め、住民の投票権が確保されるならばやむを得ないという気もする。ただ、肝心なことは、仮にそのような三者択一になったとしても、「やむを得ない」という選択肢の中に現在の沖縄の人たちが置かれている姿の反映が明らかにあるという視点を失わないことだと思われる。単純に「容認」「やむを得ない」をひっくるめて、「賛成」として取りまとめるのはあきらかな間違いだということだ。「容認」はできない。しかし、様々な理由により「やむを得ない」と判断するとき、それはその方たちが郷土とそして私たちの代わりに重荷を背負うという姿勢の表れのように思われる。「やむを得ない」という判断は、沖縄の負担を少しも軽減する方向に向かう判断ではない、その逆だということだ。
『狭衣物語』を読み終えて、結局本命である『源氏物語』を読み始めることにした。部分的に読んだことはあるけれど、今回は最初から最後まで、できるかぎり辞書も使わず、普通の文章を通読するふうにして『源氏物語』を読んでゆくことにした。いざ読み始めると、不思議にとても読みやすい文章で、内心ちょっと驚いた。『狭衣』の文章が、異本の多さということもあり、かなり難しい・ややこしい(口語訳をさらに、意味する事柄を考えなけれぼ内容が把握できないというレベル)物であったのに対して、『源氏物語』の文章は、書いてあるそのままを了解することが可能であった。読書のペースも、1日1時間配分の中で、『狭衣』5ページに対して、『源氏』は10〜12ページというペースで読み進むことができる。しかも、内容が面白い。なんか、楽しくなってくる! という感じ。
とはいえ、1日10ページのペースとしても、全5巻、数千ページにわたる『源氏』を読み切るのは、なかなか大変な作業になりそうだ。
柳人の樋口由紀子さんから川柳雑誌『晴』を送っていただく。川柳とはいえ、新聞等に掲載されるものとは、ふた味も三味も、さらに言えば本質それ自体が違うかも、という作品をずいぶん楽しく読ませていただく。面白さ、という点でいえば、俳句よりもより刺激的かもなどと思う。俳句は滞留しているような印象が強い。『週刊俳句』というネット上の俳句ページに掲載される作品は、玉石混交とはいえ、結構面白いけれど……。
辺野古のハンガーストライキ、今日で二日目か三日目になるはず。水だけを飲んでおられるらしい。正直言って、愚かな保守系議員たちと市長のために、地域住民の投票行動が阻害されるということは、許しがたいことのように思われる。当の保守系議員たちも、自分たちに投票してくれた地域民の方たちが、このようなやり方で自分たちの投票行動を阻害するという点までも許容して、自分に投票してくれたと考えているのだろうか。県民投票賛成が7割以上という状況の中で、2割程度の人たちの投票行動によって、自分たちが議員に当選したと本気で考えているとしたら、たいそうお目出たいことのように思われる。中央の指示でやむなく動いているのかもしれないけれど、中央は次の自身の選挙のことまでは考えてくれてはいないだろうな、と素人目には思われて仕方ない。
火曜日。午前中は仕事に出かけ、昼過ぎ帰宅。一休みするつもりが、つい昼寝タイムとなってしまった。半日とはいえ、やはり神経を使っていて、疲れていたのだろうと思う。1時間ほどうとうとしてから、起きる。こたつに入って、『狭衣物語』を読み進める。夕方、読了。数か月かかったけれど、やっと一通り読み終えることができた。途中からは、辞書を一切使わず、分らない部分は注釈を参照して、かなりざっくり読んだりしたところもあった。1日5ページのペースを保ちつつ読み進めることを心掛けたが、そのやり方は時間が自由に使える自分としては悪くはなかった。お話は、最終的に狭衣と源氏の君との恋は成就しないままに、なんとも曖昧な形で終わってしまった(狭衣の身にしてみれば、焦がれる思いが不完全燃焼のまま物語としては収束を迎えてしまったというような感じで。身を焼く感覚が生々しく、あるいは狂おしく燃え立ったままという、いわば生殺し状態ということあろうか)。もともと狭衣自身にものごとに対する強烈な意志というものがどこか欠けているところがあり、そのうえ世俗世界を超越して、神に愛された人という設定自体が、現実的な解決や解釈を最終的に導き得なかったということなのだろうか、などと思う。
長い物語を一つ読み終えて、さてそろそろ本命にとりかかろうか、という思いも無きにしもあらずではあるが、そうなれば、おそらく複数年がかりの壮大な読書ということになってしまうことだろう。できる限り、すらすらと読み進める状態でという点については、まだ少々訓練不足の部分があるし、他にも読んでみたい古典作品があるということもあって、もうちょっと本命に至るまでには時間が必要かもしれない……。
辺野古の住民投票。保守系議員と市長の反対によって、全県にわたる完全実施は困難な状況らしい。正当な手続きを踏んで決定された県民投票は、当然実施する責任が各市町村にはあるはずだと思う。実施したうえで、賛成・反対の意思表示を地域住民がおこなうことが本来の筋であって、意に沿わないから潰すというやり方は、地域住民の投票権をはく奪するという政治的な暴力的行為であり、行政としての明らかな責任放棄に他ならない、と素人目には映ってしまう。特に、このままでいけば、玉城沖縄県知事自身が県民投票に参加できないという、愚かな状況すら至ってしまうらしい。おそらく、それは世界レベルで見て、民主国家として噴飯物のあきれ果てた状況ということになりそうだ。
もともとこの県民投票は、沖縄の若い人たちによって提唱され推進されてきたものと聞く。現在、その推進者の一人が、この状況に対してハンガーストライキで抗議の意思を表明しているらしい。
哲学者の梅原猛氏が亡くなられた。柿本人麻呂終焉の地の謎に挑戦された『水底の歌』は、斎藤茂吉の人麻呂論に匹敵するほどの(というより、茂吉の所論に対する挑戦だったか)ある種スリリングな内容、とどきどきしながら読んだ覚えがある。
女優市原悦子さんが亡くなられた。私などにとっては、その演技というよりは、やはり日本昔話の語り手としての、個性的な声と語り口とが強い印象として残っている。その印象が強すぎて、家政婦にしろ、おばさんデカにしろ、常にどこか微妙な違和を感じながら見てたりしたものだった、と今にして思う。
写真は、帰巣する白鳥の姿。かおかおという鳴き声を空に響かせつつ、水鳥公園へと夕方帰ってくる。それにしても、白鳥の歌は、死とのつながりが深いものなどと聞いたような覚えがある。そういえば、高校時代大人気作家だった庄司薫(現在、どうしておられるのだろう)氏の薫君シリーズの小説のひとつが、『白鳥の歌なんか聞こえない』だったか。その時、「白鳥の歌」という言葉をしったのかもしれない、と思う。大昔の話。
『3年A組』、なんとなく気になるので、観てみた。やはり、違和感が強い。「裏金八」的な内容で、そのやり口はちょっとエグく、しかし独創的とかいう内容とはかけ離れているような印象を持った。こんな調子で、あと8回くらいドラマは続きのかもしれないけれど、指導の表現と方法は強烈だけれど、教師の「お説教」はまさに正道を行く内容という両者のギャップが、胸に来るより、違和感を募らせるような感触が強い。この先、どんな風に展開していくのだろうか……。なんとなく、野心的な作品と思っていたのだが。意外とありきたりな地点へと着地したりして……。
国の出す統計資料の信用性が不透明なものになった。国家の信用が、ますます失われつつあるようだ。「毎月勤労統計」にしても、ずいぶん前から不適切なやり方が踏襲され続けてきたといっているけれど、あるいは最近に関してはさらにアベノミクスとの関連で、一層の不適切な操作がおこなわれてきたのではないか、などと考えるのもさほど偏った見方ではないような、そんな気にもなる。様々な統計が、政府にとって都合の良いように手を加えられているらしいことは、うっすらと感じてはいたのだけれど……。平然と嘘を吐く政治家や、そんな連中に忖度して、いずれ甘い汁を吸おうとするらしい一部官僚の手練手管は、かなり見苦しいものに感じられる。
写真の中央にはうっすらと太陽の姿が浮かんではいるのだけれど、皮下脂肪か内臓かなにかの塊のような雲の群れが、その太陽の姿をグロテスクな光彩に見せているところが、象徴的な情景として感じられたりしたものだ。
どろどろ、である。
歩いていると、猫に出会うことがある。飼い猫なのか、野良なのか、それはよくはわからない。写真の猫は、比較的毛並みが美しく、ぽちゃりとした体形で、どうやら飼い猫らしく思われる。とはいえ、人に対する警戒心は深くて、こちらに容易には近づこうとはしない。あるいは、野良ネコなのかもしれないともちょっと思う。
自宅は、猫たちの通路ならびに、あまりありがたくないことだけれど、トイレとして活用されているようだ。猫の糞尿は、においが強烈で、寒い時期はそうでもないけれど、暖かくなるとその匂いが外出時にふと鼻をつくことがあって、糞の始末をしてから出かけたりすることになる。庭に小石がひかれた状態になっているのが、猫たちのトイレにとって都合がよいのかもしれない。
野良の寿命は数年ということらしく、見かける猫の姿はそれぞれ外見上はほとんど見わけがつかないけれど(茶トラと黒と白なので)、子猫だったものが育っているらしいというのは、なんとなく了解される時はある。それにしても、交通事故以外では、亡くなった猫の死骸を近所で見かけることはないので、死期の近づいた猫は人目のつかない死に場所に移って、そっと死を迎えるのかとは思う。いつだったか、干拓地のセイタカアワダチソウの群落の中に、猫の頭骨を見つけたことがあった。こんな住宅地から離れたところまで来ているのか、と思ったりもしたものだ。
明日からまた、非常勤の仕事が始まる。今日は、午前中その準備のために使う。こたつに座椅子というのが、暖かくて腰の負担もなく、ずいぶん具合がよいので、そこで準備作業。昼前に終わったので、ひきつづき『狭衣物語』を読む。ずいぶん長くかかったけれど、あと十数ページで終り。残り二日くらいというところだ。『源氏物語』と並び称されるくらい、当時人気の高い物語であったらしいけれど、確かになかなか面白いお話だったな、と思う。最後はどのように締めくくられることだろうか、と思う。
今日は、本当に寒くて、重ね着をして室内にいても、震えがくるほどの状態だ。午後も、このままこたつに潜り込んで、先日図書館から借りてきた本を数冊、同時進行的に読んでいくことになるだろうな、と思う。
本日も、なにげない風景、その(2)。歩いていると、ある瞬間、ふと目を引く光景に出会うことがある。その時の気分とその風景とがシンクロでもするのだろうか、などと思う。上の一枚も、そんな写真。
今日も終日、時折雲の間から日が差すような状態で、天気は悪くなかった。大山は標高800〜1000メートルくらいのスキー場が、70センチほどの積雪で滑降可能状態が続いているけれど、麓の方は雪はなし。ただ、太陽が出ると暖かいような気持になるけれど、気温自体はさほど高いわけではないのかもしれない。それにしても、雪がないということはやはりありがたい。
先日、『3年A組 皆さんは今から人質です』とかいうドラマを見た。いじめ問題とその原因の追究を、一人の教師に強制的、あるいは暴力的に監禁状態にされた生徒たちが卒業式までの10日間をかけて行うという内容みたいだけれど、その中で出される誤った回答に対しては、生徒を無差別に一人殺害するというやり方でそれが行われるというもの。原作なしのオリジナルドラマのようで、その狂気をはらんだような主役の教師の演技は、確かに迫力のあるものだったけれど、実際に生徒を一人自らの手で殺害した時点で、おぞましいともいえそうな行為を実行した教師に対してどのような共感がもたらされるのだろうか、と思ってしまった。おそらく、様々な伏線や隠された趣向が織り込まれた筋立てになっているのだろうけれど、そして主人公に対する共感を一つの動機としてドラマを視聴するというあり方に対する否定的な試み、とはいえ冷酷非情で無道な動機に基づく振る舞いを行う主人公的な人物設定でもないみたいなのでいえばぎりぎりのどこかの地点で、主人公を否定しつつも共感・肯定の余地を残すというきわどいバランスの上にドラマを展開するみたいなことも企まれているのだろうか、などと色々思ってしまった。妙なドラマだ。来週も見るのだろうか……。
辺野古移設反対ネット署名は19万筆を越えたようだ。この結果を受けて60日以内にホワイトハウスの見解が出されるらしいけれど、それがなんら拘束力は持たないにしろ、どのような内容になるのか、早く読んでみたいものだ。
韓国との間のレーダー照射事件。「戦争と同じ」などという極端なコメントを出すその方面の専門家もいるみたいだけれど、つまるところ国家間の「嫌がらせ」なのだろう。以前にも、中国との間で似たような事例はあったけれど、あの時は今回みたいにこんなにこじれなかったのでは?逆捩じの食らわせ方にも問題はなかったのか?素人目に見ても、両国ともに感情のみで動けば、おそらく外交なんてそもそも成り立たないだろうから、すでに国家間のレベルでは問題収拾や沈静化に動き始めているみたいだけれど、その一方でジャーナリズムの連日の煽り的報道(煽ってこの問題が長引けば、その筋の専門家たちにとっては思わぬ臨時収入の手立てにもなるのかもしれないけれど)は、その動きの足引っ張りになるのではないか、と危惧するのだが……。(ネット上に散見する嫌韓レベルの)皮相な内容の報道合戦みたいで、ちょっと「お祭り」状態みたいになってないか。
なんということもない雲の情景ではあるけれど、不思議に心惹かれてスマホで撮影。どこかで、墨書との相関などを思っているところがあるようだ。それにしても、個人的には面白く感じる。まったく鬱陶しくもないことだし……。
つい、終日湊かなえの『境遇』を読む。この人の作は、読み始めると途中でまた明日と間を置くことがなかなか難しい。途中、買い物や「歩き」などを挟みつつ、夕方外が薄暗くなるまで読み続け、読了。昨日の『高校入試』に続き、2作目。この人の手法的なものは了解しながらも、語り口のうまさについつい読み進めることになる。
本の返却が明後日に迫っているけれど、もう一冊くらいは読めそうだ。『森澄夫全句集』(版が小さくて、かなり読みずらい)はちょっと無理そうだ。いずれ読みたいとは思うけれど、次の機会にまわそうと思う。『狭衣物語』は主人公が、突然の即位。帝になってしまった。斎王の憧れの女性との恋の成就はますます困難な状況となる。それにしても、このふたりは、幼馴染で初恋という恋愛譚の王道の一つを進んでいるようである。
辺野古移設反対ネット署名は17万筆強(179,317)まで数をのばしたようだ。明日が期限だけれど、18万筆までは署名数を延ばすことだろう。
朝から、びっくりするほどの快晴。郷土の山大山も雲一つまとわない様子だった。
気分よく1時間半ほど歩きながら、途中の干拓地から大山方面に向けて写したものが上掲の写真。スマホなので、画質は今一つのうえに、さらにデータ量を調整したのがちょっと残念かも……。
昨夜の「しぶんぎ座流星群」は、午前二時という時間帯がまだまだ早すぎたせいか、肝心の方向に薄雲がかかっていたせいか、流星は結局一つも確認できず。明け方にもう一度みようと思いつつ、すっかり寝入ってしまっていた。6時前に目を覚まし、そのままずるずると布団に入っていて、起きたのは8時過ぎ。今日が仕事始めの世の中に対しては、ちょっと申し訳ないかもしれない。
丹後の方で生活していた時期、冬の目まぐるしく変わる天気のことを「うらにし」気候などと呼んでいたことがあった。晴れていたと思うと、急に雨が(あるいは雪が)降りだし、鬱陶しい思いになっていると、また晴れ間が見えたりする。そのような状態が、一日に何度も繰り返される。そんな気象現象を「うらにし」と呼びならわしていた。
今日もそんな一日で、冷たい雨が降る中を、実家の方に顔出しをしたり、雨の止み間を見計らって年賀状の投函に出かけたり、広がる青空をあてにして、「歩き」に出かけたり、なんとなく動いているのか、停滞しているのかわからないような状態で、正月二日目を終えることになる。夕方に降った雨は、今は止んでいて、気温は高いとは言わないけれど、低いなりに冷たい水に手を差し込んだみたいな体の芯に凍みる(暖房をあまり使っていないせいもあるのだろうが)そんな寒さでもないので、外気温は3、4度くらいではではないかと思われる。
それにしても、明後日4日には「しぶんぎ座流星群」の極大日を迎えるので、なんとかその日には天気が良くなってほしいと思うのだけれど、天気予報ではあいにく明日は天気は回復するが、肝心の4日はまた「うらにし」状態に戻りそうだ。ただ、そうであれば、一時的な晴れ状態も期待できるので、「流星群ファン」のひとりとしては(そんな呼称があるかどうかしらないけれど)その可能性に一縷の望みをつなぎたいような思いにもなる。
降雨で身動きのできないときは、こたつにもぐりこんで本を読む。昨年後半から読み続けてきた『狭衣物語』は、ようやく終りが見え始めたようだ。漢文の『韓非子』は後編が半ばあたりまで。さらに図書館で借りてきた本から、ガルシア・マルケスの東西冷戦下の社会主義諸国探訪のルポというか、エッセイというかを読み始める。小説家としての視点というよりは、ジャーナリストとしての立場で書かれたルポのようだけれど、全体に東欧諸国に対する辛辣な視線が感じられる一文のように思われる。結構面白い。
新しい年。気分的にはすべてが一新した思い。初湯を済ませ、実家で雑煮とお節をごちそうになり、初歩きを1時間。昼食後、初昼寝。そして、初読み。すべて初物づくしの一日。
初読みは、年末から準備しておいた辻田克己句集『帰帆』。辻田先生の第10句集にあたる。何を詠んでも、すべて俳句になるという俳人辻田克己の手腕が今回も発揮された句集で、楽しく読ませていただくとともに、いろいろ考えさせられることもあった。いずれ、何かの文章としてまとめられれば、などと思ったりもする。
それにしても、午前中は予報に反する快晴となり、外に干しておいた初洗いの洗濯ものがかなり乾いたのはありがたかった。ぽかぽかと暖かく、のどかな半日を過ごすことができた。しかし、午後からは天気予報通り雨が降り出し、気温もぐっと下がってきて、本来の1月の気候に戻ってしまった。
夕方、BSの映画『ミッション・インポシブル』を観ていたら、いつの間にか七時半。湯たんぽ用のお湯を沸かし、湯たんぽに移して寝室へ。布団の中に入れて布団を温め、ついでに寝間着も温めて、いつでも寝ることができる準備を整える。初湯たんぽ。
昼間に少し眠ったけれど、なぜか今も眠い。布団がぬくもった頃あいに寝にいくことにしようと思う。