日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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新年度から、ぞくぞく食料品の値上げが始まる。ヨーグルトなどは日常的に愛食(などという言葉があるかどうか)しているので、困るなと思う。この食料品の値上げは、原材料費や人件費の高騰の価格への反映ということらしいけれど、同時に消費税実施後の軽減税率関係対象のひとつである食品関係について、消費税実施後の消費の全体的落ち込みの事前補完として値上げが進められているということもあるらしい。企業独自の値上げというだけでなく、政府の方からの事前の値上げの「お勧め」があったらしいということも、仄聞している。消費税増税のための増税対象外の物品の値上げというのは、消費者にとってみれば消費税増税とのダブルパンチということになる、とマスコミは当然の調子で報道しているようだけれど、政府主導の値上げ策動という点には、触れることはないらしい。値上げによって、軽減税率と消費税の差額2パーセント分をあらかじめ埋め込んでおくということであろうか。
本日、新聞を読んでいたら、たまにテレビなどにも登場することのある某女性研究者が、「徴兵制」の必要性について語っていることを紹介した一文を読んだ。「カント」の平和論に対する小難しい批判とか、あらたに徴兵制を復活させた某国を例にあげるという国家としてのありようを無視したような論拠はさておき、研究者の「徴兵制」を必要とする根拠はどうやら、(無人機によく空爆などが現実化しているように、人的資源を戦場に兵士として投入するということが少しは減るとして)実際に戦場に出るということは措いておくとして、国民自身が徴兵の対象となることで、初めて国民自身が自らの問題として「戦争と平和」について考える大きな動機と根拠を与えることになる、ということにあるらしい。「戦争と平和」について、他人事ではなく自分事として考えることによって、本当の意味での平和国家樹立ということが現実味を持ってくる、とでもいうことのようだ。でも、本当にそうなのか。もちろん、人々が自由に「徴兵制」について論議し、自己の考えを主張することには特に問題はないだろう。その意味では、この女性研究者の主張も話題の一つとしての意味はもつことだろう。まだ、かろうじて言論の自由は保障されているわけだから。その中で、話が盛り上がり、やがて考えが煮詰まっていき、その結果として一定の結論が下されることになるのならそれはそれで結構なことなのだろう。ただ、その論調の中にすでに制度としての「徴兵制」を前提条件として置くというのはずいぶん乱暴な話ではあるまいか、とは思う。ちょっと極端言い方をすれば、そもそも制度としての「徴兵制」が確立した時点で、国民による「戦争と平和」に対する自由な論議や立場の主張などはほぼ無意味化することは明らかなことだからだ。場合によっては、ある事態に対して国民が平和を希求し、戦争に反対したとしても、制度としての徴兵制はそれらの声を無視して、ほぼ自動的に発動していくことは自明のことではないか。「徴兵制」という社会制度が存立する中で国民が自分事として「戦争と平和」について考える余地など残っているはずはないだろうから。そう考えると、この研究者の「徴兵制」が国民の「戦争と平和」に対する自分事としての受け止めを促すという考え方は、論としても根本の部分でどこかおかしいのではないか、ということになるように思われる。
それにある意味、危機的状況について「自分事」として国民を煽りたて、追い詰めていった結果は、当人が思っているような結論とは全く異なった悲惨な状況を国民自身にもたらすということが一層起こり得る事態なのではないか、などと危惧の思いすら持つことだ。もちろん、「平和」を前提とする「徴兵制」も、「戦争」を前提とする「徴兵制」も言葉や論理の上では成り立ちうる概念ではあろうと思うけれど……。それはちょうど、「平和」のための「戦争」というものが、観念上では成立するというのと同様のものなのだろうが。
朝から風が強いな、と思っていたら、とうとう雨までふりだしてきた。晴雨に関係なく、風の強い日が多くなったなと昔の記憶を振り返りながら思ったりする。周辺の耕地は、耕作放棄地がその面積を広げつつあるのだが、雑草の生い茂った状態ではなくて、砂交じりのむき出しの土面の畑地だった方は、少々風が強く吹くだけで細かい土をまきあげて、まるで黄砂が降っているかのように、空も陸も黄色く包み込んでしまう。洗濯物やカーポート内の車までもが、埃に覆われてしまうような状態で、少々難儀をしたりもする。そんな状態に比べれば、雨が降っている分、埃の飛散が少なくてすむけれど、雨が上がるとカーポートの屋根に土ぼこりが斑点のように残っていて、一度その状態になると、次に雨が降っても流されずに屋根に残ったままになる、それが繰り返されるという状態が続き、それもまた少々厄介なことになる。
雪が降ったりするときは、雪下ろしのついでに屋根に積もった土ぼこりをこそぎ落とすようにしてきれいにすることもできるのだけれど、今年は1日だけ薄く雪が積もったばかりで、雪下ろしの機会もないままに冬が過ぎ去ってしまったので、カーポートの屋根は薄斑状のままである。
つつじの葉が、なんとなく半分枯れたような薄黄色い状態になっているのが以前から気になっていたのだが、ネットで検索してみたらどうやら「ツツジグンバイ」という小さな虫が原因らしいことがわかった。葉裏に残る黒い粒粒の糞から判断したのだが、さっそく駆除用の薬と小型の噴霧器を買ってきて、天気の良い昨日のうちにとりあえず薬を撒いておくことにした。「グンバイ」というのは、葉っぱから養分を吸収して、葉っぱを半分枯れたような状態にしつつも、木そのものは生かさず殺さず状態で寄生するという不埒な虫であるらしい。薬は葉っぱから吸収され、つつじ本体にとどまって、樹液を吸いに来る「グンバイ」を駆除するというしくみらしい。今日が雨になってしまったのは、少々計算違いだったけれど、薬自体は根からも吸収されるということで、希釈した薬を直接根に撒いておいても効果を発揮するらしいので、雨に交じって地面に吸収された薬液もそれなりに効果があるものと思う。
結社誌に連載していただけることになった「石田波郷ノート」の第三・四回を一気にまとめて書く。いろいろな資料を取り込んで、作品鑑賞だけではなく、波郷とその周辺などについても具体的に情報を紹介していこうという方向性で書くことに決める。第一・二回めについてはすでにお送りしていて、いずれ一回目を掲載していただいた冊子が送られてくるだろうと思う。新年度に向けては、さらに、平畑静塔をもう一度読み直してみたいものだと思う。
某社が募った新元号の案が「安久」であったらしい。「安倍政権、久しかれ」とでもいう意味合いなのだろうか、などとつい思ってしまう。
とはいえ、新元号がどうなろうとそれ自体はもうあまり関心はない。好きなようにしたら、というところだ。ただ、仮に「安」の文字を含む2文字の元号が実現したとしたら、ちょっとややこしい事態が生じるかもしれない。現在、安倍政権を支持しない層は、国民の40〜50パーセントくらいはいるらしい。その批判層の皆が皆、安倍の「安」を含む元号に対して拒絶反応を持たないにしろ、しかし数千万人規模での新元号に対する非承認の思いが、国民の中にわだかまる結果にはなることだろう(特に、そのうちの総理の人間性を嫌忌する反安倍のコアの層1000万人くらいは、どう対応するか、わからない)。それは、日本国に対して、決して好ましい事態ではないことは、素人目に見ても明らかなことだろう(憲法改正の国民投票が、できる限り与野党合意の上で、できる限り多くの国民の賛成の上に成立させる必要があるのと同じことだ。国家のありかたに関わる部分については特に国を割るということは、本来政治が一番避けるべきことなのだろうから。元号も象徴天皇制それ自体と深く結びついたものであることは明らかだろう。でも、割れてもいい、いや割れた方がいい、という考えもあるのかもしれない……)。その上で、「安」を含む元号を実現させたとすると、それは政治的なバランス感覚が欠如している(一強の驕りの反映とか、相も変らぬ権力への忖度とかいうこともあるのだろうけれど)ということをいみじくも証明してしまうことになるだろう。新天皇の即位にもなんとなく嫌な影を落とすことになるかもしれないし。きたるべき参院選にとっても、大きな影響をあたえかねないものとなるやもしれないし。でも、何もないかもしれないし。わからない。
でも、やるならやってみたらよい、というような思いもある。その結果を見てみたいというような思いもあるということだ。
すでに、「メルトダウン」しつつある国家と民族の行く末の一端を、その当面の結果の中に確認してみたいということでもある。
個人的には、そんな事態が出来したら、もう新元号は使わんとこう、という程度のことはあるかもしれない。「昭和」とか「平成」とか、なかなか味のある名称で、嫌いではなかったけれど、さすがに「安久」などという類のものであれば、ご遠慮したいものだ。元号それ自体は、ある時代を取りまとめてイメージする際には結構便利でもあったりするのだけれど……。
以前から使ってみたかった「トゥルースリーパー」を2枚一組半額で購入する。実家の方と半々ということで。昨夜。初めて使ってみた。ちょっと期待があったのだけれど、寝心地にはほとんど影響がなかったような気がする。とはいえ、横になっている体全体がふわりと受け止められているような微妙な感覚はあった。寝起きの腰痛については、なぜか痛みをほとんど感じなかった。枕がおまけでついていたので、寝ている途中からいつもの枕と替えて使ってみた。高さは低いけれど本体とのバランスで、その低さをあまり意識はしなくてよかった。とりあえず、半額セールとはいえ、結構高額の商品なので、しばらくは使い続けてみようと思った。
朝一番で、予約の歯医者に。母と同行する。運転と治療とが一度にかたずけられるのでよかった。その後、母の買い物に付き合って、本屋、そしてユニクロへ。ユニクロには数年ぶりに行ってみたけれど、安いことと品ぞろえの豊富さに感心した(いったいいつの時代の人間なのか、と思うけれど)。本屋の方は、地元でも有名な店なのだけれど、店内の半分近くが喫茶とおしゃれな小物ショップに改装されていて、大変驚く。とはいえ、なかなか素敵なショップに変身していて、母と一緒に1時間ほど書店部分を含めて店内をうろつく。けっこう面白い。
昼は、書店やユニクロと同じ敷地内のうどん屋で、天ぷらウドン定食をおごってもらう。ウドンは手打ちでコシ有り。出汁も美味しくて、すべてたいらげてしまう。もともと、ウドンのあの太さが苦手だったのだけれど、とはいえ旨いものは旨いということなのだと、強く納得する。
午後、一体なにをしていたのか、あまり記憶がない。ひどく眠かったことを覚えているくらいか……。とはいえ、『源氏』は「あふひ」の巻の有名な車合戦(だったか)の場面を中心に読む。この後、悲惨な出来事が展開することになるのだが、本日はそこまで読み進むことは、眠くてできなかった。夕方、眠気を覚ますために「歩き」へ。風がひどくて、たっぷり砂塵を吸い込んだような気分であった。歩きながら、いろいろ考えた。
平成は悪くない時代だったという評価が、70数パーセントあったと某新聞が報じていた。確かに、昭和のように大きな戦争の経験もない、一部人災の災害で多くの人が亡くなりるという悲劇はあったものの、ミサイルも落っこちてはこなかったし、昭和のように大きな戦争を直接、間接にいくつも経験してきたというわけでもなかったし。幸福な時代という受け止め方が大勢を占めるのももっともかと思いつつ、個人的にはその受け止め自体が証明するように、この平成という時代を通じて、日本と日本人とが「溶け」始めたような、そんな思いを、風の中を歩きつつ、心のどこかで感じていたことだ。次の時代が、どんな世の中になるのかは、知らない。しかし、この「溶ける」という言葉のもたらすイメージを、私自身は結構切実に感じてはいるな、と我ながら思う。そういえば、「メルト・ダウン」なんて言葉もあったことを思い出す。
本日は、午後から地元の句会。ある時期までのように、毎回全没(投句した作品が一句も参加者によって選ばれない状態をそのように呼ぶ)ということはさすがになくなったけれど、選ばれるようになればなったで、果たしてその状態が好ましいものと考えてよいものだろうか、という思いも心の中に生じる。それが、果たして自分にとっての進歩なのだろうか、という思いが現在の気候同様「春寒料峭」、春なのだけれどなにやら肌寒い、薄ら寒い状態が続いているというような、そんな感触を内心感じているということだ。句会に参加するということは、否応なく句会の影響を自分が受けるということでもあり、その影響を受け入れるか、あえて抗うかという葛藤状態を自分の中に作り上げるという側面を持つ。
全没状態が、まれまれに選ばれるようになるということが、句会自体がこちらに慣れて寛容になったとか、若干変質をきたしたということではほぼなくて、私が句会のありようにある意味身を寄せるようになったということ(極端な言い方をすれば迎合的になってきたという)ではあるまいか、という自身に対する疑念の思いを持ち始めているということなのだろう。
守るべき自分というものを果たして私が持っているのか、という根本的な問題が当然あるとして、そのうえで選ばれることの心地よさに自身が流されていくというようなところがありはしまいか、ということを思うということでもある。そんなことをふと思っていると、なんとも鬱陶しい思いになってくることではある。
それにしても、句会の中でしばしば触れられる、まず作品は理解されることが大切だ、独りよがりの作品は避けるべき、という物言いには、もちろん納得する点は十分あるにしても、その上で、でも本当にそうなのか、という思いもある。相手に理解される作品を推敲等を通じて意図的に練り上げるということは、下手をするとまさに迎合と紙一重の状態でもあり、それを意識的に実践するならまだしも、本人自身が意識することもないままにこれが良いのだ、あるいはこれで良いのだという地点に我が身を置くことは、ちょっと自滅的な側面を俳句創作という点からいえば内にはらんでいるということではあるまいか、などと思ったりもする。さらにいえば、理解される作品とはどんな作品のことをいうのか。理解されるというよりも、そもそも作品はこちらが理解しようと四苦八苦するべき部分をもっているものではないのか、ということも思ってしまう。さらに言えば、俳句の創作と俳句の鑑賞とは、両者が相まって高いレベルでの創造と評価というものが一体となってなされるべきものではないか、ということを思ったりもする。そのようなあり様の中で、俳句の創作はなされるべきではないか、などと。俳人とは、自身が俳句創作者であると同時に俳句批評家でもあるべき、ということはしばしば言われることのようではあるが。
今日、たまたま横に座られた数少ない男性メンバーの方が、句会が始まる前に、どこの句会でも選句して披講して、代表選者が寸評を述べてそれで終わる、みたいなところがあるけれど、自分はそれでは物足りない。作品について、さらに突っ込んだやり取りがしたいし、俳句それ自体についてももっとしっかりと知りたい、ということを口にしておられた。共感する思いは強かった。
昨日は「春分の日」で、昼と夜の時間が同じになるということだった。天気予報の最後に付けたしのようにある(もちろん、付け足しなどではないのだろうけれど)昼夜の時間配分をみると、昼の時間が12時間8分ということだったので、厳密に半々というわけではないようだった。とはいえ、これからは昼間の時間が長くなってくるわけで、つまりそれは朝夕の時間が両方向に延長してゆくようで、なんとなく時間を得したような気分になるのはどういうことなのだろうか、と思う。朝はさておき、夕方の時間が長くなるというのは、個人的にはけっこう「黄昏(『誰そ彼』とも書くらしいけれど)」という明暗相半ばするような中途半端な時間帯が好みの私にとっては、悪くないことだったりする。
妖怪変化や魑魅魍魎がうろつく時間帯ということであってみれば、「鬼太郎ロード」のある町が隣接する地域に暮らす身としても、この「黄昏」という時間帯は、一層の親愛感とともに受け止められる時空体のようにも感じられる。
市立図書館で借りてきた本。これはというものとは別に、どちらかといえばあえて借り出さなければ読まないかも(そういうものを強いて借りてみたりもするのだが)、という作品がずいぶん面白かったりすることが、けっこうしばしばある。今回はそんなふうにして借りた2冊の本が、どちらも大正解だった。例えば、鈴木るりか・作、『14歳、明日の時間割』。現在17歳の高校生ではないかと思うけれど、その人の短編小説集(連作といった方がよいかもしれないけれど)が面白い。面白いというだけでなくて、小説のキモを心得たとても才能豊かな作家がそのうまみを上手に隠して書き上げた作品群として、とても楽しめた。さらに、読み終えた後で気が付いたのだけれど、作中の挿絵が『大家さんとぼく』で手塚治虫漫画賞(という名称だったか……)を受賞した「カラテカ」の矢部太郎さんであったことも、意外で新鮮でもあった。他にもこの人の作品があるようなので、読んでみたいと思う。あるいは、「k・m・p」という二人組の作家の『おかあさん、ずっとみてて』という、こちらは短編漫画集なのだけれど、素朴風な味のある絵柄(ちょっと矢部太郎さんの画風と通じるところがあるみたいだけれど)で描かれる「おかあさん」と小さな「むすめ」さんとさらに幼い「むすこ」さんとのやりとりが、いわくいいがたい柔らかくて温かい心情の部分までを丁寧に繊細に掬い取った内容で、とても良かった。「おかあさん」と「こどもたち」の心情の機微とでもいうもの(なんとも味気ない物言いだけれど)を、なぜこんなふうに掬い上げ、さりげない作品として描き出せるのか、不思議な気分にすらなった、そんな素敵な作品であった。
こういう作品をちゃんと書架に準備しておいてくれる公立の図書館というのも、本当にありがたいものだと改めて思ったりもしたものだ。
昔からトマトはどうも苦手だった。ちょっと青臭いにおいとか、酸味とかが今一つなじめなかったのだ。それでも、たまには子供の頃のまるかぶりの思いでなどから、買ってたべてみることはあったけれども、好きになるというほどではなかった。それが、たまたま野菜の蒸し煮(野菜を油でいためて食べるということはもうほぼしないので。水を加えて蒸すというか、茹でて食べるという状態)の際に、買っていた小ぶりのトマトの始末をつけるつもりで、刻んで他の野菜と混ぜて煮込んでみたら、意外と食べられた。さらに、ちょっと多めの水とコンソメとオリーブオイルを加えて、ほとんどスープ状態にして、肉や魚肉ソーセージなども刻んで入れてみたら、トマトの酸味が逆に味わいとなって結構おいしかったりした。トマトも割といいじゃないか、と最近は思い始めている。いろいろなものをトマトとともに煮付けるというのは、いけそうな気がする。こんなことは、あるいは世間の常識みたいなものなのかもしれないけれど、トマト好きとは言えない自分的には、新発見などと悦に入っているところだ。イワシとトマトの煮付けも美味しいような気がするので、ためしてみようかと思う。ちなみにイワシをポン酢入りの醤油で煮付けるのは私的にはおいしい。臭みも消されるし……。
東京矯正管区の文芸コンクールの入賞作品集が送られてきた。カラーふんだんの読みやすい冊子だった。少年部門と成人部門の各冊子。内容も絵画や書、短歌から感想文、そして私が担当させていただいた俳句など多彩で、読み応えのある作品集として仕上がっていた。著作の問題等あるかもしれないので、作品を紹介できないのは残念だけれども、俳句についても感動するような作品がたくさん応募されていた。評の部分がちょっと硬すぎるかな、という危惧が少々残ったけれど。
長い間JOCの会長を務めた方が退任することになったようだ。世間を騒がせたことや後進に道を譲る的な理由をあげていたようだけれど、オリンピックのイメージやブランドの低下を危惧する力が背後で働いたというところが実情ように素人目にも思われることだ。賄賂疑惑に関して、「推定無罪は無罪とみなす」などということを上部組織が表明しなければないほどに、危ない部分があるのかと、つい勘ぐってしまったりしそうな退任劇ではあった。最悪、またぞろトカゲの尻尾切り、臭い物には速やかに蓋、的な顛末でないことを、東京オリンピックのためにも願いたいものだ。
昨日、鶯の初音を聞く。隣家の山茶花の藪影に潜んで、しきりに鳴き方を練習していた。「ほーほけきょ」ではなく、「ええーけきょ」的な鳴き声ではあった。まだまだ完成形には遠いようだ。今もまた、向かいの家のどこかで「けーけきょ」と練習している声が聞こえている。同じ鶯かどうかはわからないけれど(縄張り意識が強いらしいから別の鶯が侵入してきているわけでもないようには思えるが)、昨日よりは進歩しているようだ。
光木正之という地元の俳人の句集を数冊読んでいく過程の中で、さらに古津隆次郎という俳人の存在を知る。地元といっても、お隣島根県松江市の古くから線香屋を勤める家柄の人物であるらしい。家業自体は、あるいは現在も続いているのかもしれない。ご本人は、すでに亡くなっていて、ただ一冊遺句集として句集『草市』を残しておられる。それは、本人の家族をはじめとして友人・知人たちの尽力によって完成されたものだったようだ。古津氏は、石田波郷を主宰とする『鶴』の俳人で、結社内でも実力派の一人として高く評価されていた人物のようである。句集の「序」は石塚友二氏によって書かれてある。
『鶴』の作家らしく、日々の生活が時に繊細に、時に骨太に、さらにまれには作者固有の感覚を反映したような作品として結実している。遺句集という性格上、作者の生涯を通じて、600句余りの作数を収載している。それらの作品の中でも特に心ひかれる作品は、作者が太平洋戦争に召集され、病気のために本土帰還を許され、戦後の生活に移っていくまでを謳い上げた一連の作品だ。作者自身の身の丈に即した戦争詠は、直接は戦争というものを知らない者にも様々に響いてくるものを持っているようだ。
作者は南方に派遣され、サトウワン島で飛行場警備の軍役を勤め、自身米国軍の空襲に遭い、戦友を失い、病気に侵されることとなったようだ。それらは昭和18年から19年にかけてのことで、やがて本土送還、仙台において療養、終戦の報は内地にて聞くこととなったようだ。細かいことはわからないけれど、おそらくぎりぎりのところで本国への帰還が実現し、生きたまま日本の土を踏むことができた方たちのひとりだったのではないか、と思われる。
ちなみに、サトウワン島はトラック島の隣の島で、作者と同じ時期俳人金子兜太が海軍主計中佐としてその地で軍務に復していた。古津氏は一旦トラック島に移送後、本土に向けて出発したようだけれど、金子氏と対面するような機会はなかっただろう。
「冬の夜の星座なだるる故国の上」「年の夜の救命胴衣枕とし」「爆音の下や飯食ふ裸の輪」「戦艦大和銀河をきりて艦首聳つ」「病む戦友(とも)と稲妻浴びてゐたりけり」「葬火や椰子五六本照らされて」「土民の子オビーツが飼ふ子豚はも」「パンの木の機銃弾痕樹液垂り」「母の手よ額に触れしと蚊帳に覚む」「熱ひけばしみじみ椰子の夕まぐれ」「壕ゆらぎ熱き爆風走りたり」「命ありて戦友(とも)ら汗の身抱き合ふ」「鉛筆のごと椰子立てる月夜かな」「椰子の磯戦友の尿を捨てに出て」。
引用をしていけば、本当にきりがないのでこのくらいにしておく。それにしても、地元の俳句を少しずつ眺め広めていくと、思いがけない人と作品に出合えることだ、と思う。本棚にはまだ何冊もの未読の地元俳人の句集があるので、こんな風にして少しずつ地元の俳句風土を理解していくことも楽しいことだと思われる。
ここ数日、夜は雨、朝は曇りで、午後に天気がかろうじて回復、というようなサイクルが続いている。本日も、朝方まで雨、その後ちょっと晴れの気配をみせたけれど、いまはまた冷たい雨が降っている。外気温は6度くらい。ずいぶんと寒い。真冬の頃より寒さをきつく感じるのは、暖と寒とが入れ替わり、立ち替わりにやってくるせいか。その落差が、寒さを一層きついものに感じさせるようだ。とはいえ、本当に寒い。真冬以上にエアコンを使い、こたつに潜り込む生活を送るはめになっている。
臨時のお仕事も残り所あと1回。やってみると、しんどいなりに結構楽しかったという思いばかりが後に残っている。現にいま動いている世の中の一端に触れているという感触は、悪くないなと思う。とはいえ、ストレスも同様に感じてはいるので、ちょっと体調が微妙な状態にもなるようではあるが。いずれにしろ、退職後得難い経験のひとつを味わうことができて、ありがたいなという思いの方が強いのは確かなことだった。この先はどうなるかわからないけれど、機会があれば生かしたいし、なければまた読書中心の生活に戻ることも悪くないと思われる。もうちょっときちんと読んで、なにかまとまったものが書ければという思いも少しはあることだ。
できれば、小旅行もしてみたいし、登山も再開できれば、などと考えたりもする。合唱のほうは、「第九」以降数か月ぶりに練習に復帰した。久しぶりに歌ってみたら、思ったほど悪くはなかったので一安心。裏声による練習法というのは、思った以上に有効であることを実感する。ファルセットでちょっとした歌を歌うことが可能になってきていて、どの程度歌えるか、試してみたいような思いもある。下手すると、喉を傷めることになるかもしれないけれど……。ちょっと微妙で、しかし面白いかもしれない。
平成も間もなく終わる。巷では、新元号に「安」の字が入るのではないかなどと面白おかしく喧伝されていることもあるようだ。正直言って、「安」の文字自体には何の偏見ももたないけれど、総理自身が元号策定に横やりをいれるような状況が状況だけに、「平成」という元号自体は、穏やかならざる30年に対する祈りと鎮魂の思いで静かに心にとどめたいとしても、もし「安倍」の「安」の字を含む元号なんてものが実現したとしたら、究極の忖度としてその汚らわしさに以後新元号は個人的には使わない、西暦のみになどと思うだろうな、きっと……。「国営放送」のNHKは「安」押しだなんていう面白おかしい話もどこかであるようだけれど、実際にそんなことが実現したら日本の歴史そのものを大きく汚すことになるだろう。象徴とは言え、近代以降の天皇制の基盤を揺るがすような側面(近代以降、元号と天皇の存在とは深く結びつけて考えられてきたのに、そこに時の政治的権力者が横合いからいろいろ影響力を行使しようとするということだ。なんとなく時の幕府と京都の朝廷との軋轢関係かよ、などとふと思ってみたりもするが)もあることだろうし。現行憲法を条文のまま大切に考えておられる最大の憲法擁護者である今上天皇とは、真反対の考え方を持つ改憲論者の現総理にしてみれば、現天皇もその思いを受け継ぐであろう新天皇も、自身の政治的野心の実現という点からいえば気づまりな存在ということになるのかもしれないし。あえて近代以降の天皇制の基盤を揺るがす、ということも現総理の念頭にはあるのかも、などといろいろ忖度してみたりもすることだ。
ここ数日、夜は雨、朝は曇りで、午後に天気がかろうじて回復、というようなサイクルが続いている。本日も、朝方まで雨、その後ちょっと晴れの気配をみせたけれど、いまはまた冷たい雨が降っている。外気温は6度くらい。ずいぶんと寒い。真冬の頃より寒さをきつく感じるのは、暖と寒とが入れ替わり、立ち替わりにやってくるせいか。その落差が、寒さを一層きついものに感じさせるようだ。とはいえ、本当に寒い。真冬以上にエアコンを使い、こたつに潜り込む生活を送るはめになっている。
臨時のお仕事も残り所あと1回。やってみると、しんどいなりに結構楽しかったという思いばかりが後に残っている。現にいま動いている世の中の一端に触れているという感触は、悪くないなと思う。とはいえ、ストレスも同様に感じてはいるので、ちょっと体調が微妙な状態にもなるようではあるが。いずれにしろ、退職後得難い経験のひとつを味わうことができて、ありがたいなという思いの方が強いのは確かなことだった。この先はどうなるかわからないけれど、機会があれば生かしたいし、なければまた読書中心の生活に戻ることも悪くないと思われる。もうちょっときちんと読んで、なにかまとまったものが書ければという思いも少しはあることだ。
できれば、小旅行もしてみたいし、登山も再開できれば、などと考えたりもする。合唱のほうは、「第九」以降数か月ぶりに練習に復帰した。久しぶりに歌ってみたら、思ったほど悪くはなかったので一安心。裏声による練習法というのは、思った以上に有効であることを実感する。ファルセットでちょっとした歌を歌うことが可能になってきていて、どの程度歌えるか、試してみたいような思いもある。下手すると、喉を傷めることになるかもしれないけれど……。ちょっと微妙で、しかし面白いかもしれない。
平成も間もなく終わる。巷では、新元号に「安」の字が入るのではないかなどと面白おかしく喧伝されていることもあるようだ。正直言って、「安」の文字自体には何の偏見ももたないけれど、総理自身が元号策定に横やりをいれるような状況が状況だけに、「平成」という元号自体は、穏やかならざる30年に対する祈りと鎮魂の思いで静かに心にとどめたいとしても、もし「安倍」の「安」の字を含む元号なんてものが実現したとしたら、究極の忖度としてその汚らわしさに以後新元号は個人的には使わない、西暦のみになどと思うだろうな、きっと……。「国営放送」のNHKは「安」押しだなんていう面白おかしい話もどこかであるようだけれど、実際にそんなことが実現したら日本の歴史そのものを大きく汚すことになるだろう。象徴とは言え、近代以降の天皇制の基盤を揺るがすような側面(近代以降、元号と天皇の存在とは深く結びつけて考えられてきたのに、そこに時の政治的権力者が横合いからいろいろ影響力を行使しようとするということだ。なんとなく時の幕府と京都の朝廷との軋轢関係かよ、などとふと思ってみたりもするが)もあることだろうし。現行憲法を条文のまま大切に考えておられる最大の憲法擁護者である今上天皇とは、真反対の考え方を持つ改憲論者の現総理にしてみれば、現天皇もその思いを受け継ぐであろう新天皇も、自身の政治的野心の実現という点からいえば気づまりな存在ということになるのかもしれないし。あえて近代以降の天皇制の基盤を揺るがす、ということも現総理の念頭にはあるのかも、などといろいろ忖度してみたりもすることだ。
ずいぶん寒いな、と思っていたら、午後三時ころから雪が降り始めました。もちろん、積もるほどというわけではありませんでしたが、牡丹雪(「牡丹雪」は春の季語にもなっています。いわゆる「春の雪」ということになるのですが……)という状態よりはもっとしっかりした様子の雪でした。雨から雪に切り替わるというより、はっきり雪として降り出しました。大山の方では、昨日まで土色をしていた桝水のスキー場が、積雪で真っ白に変わっていました。「春寒」を実感した一日となりました。
夜に入り、月が出て空は結構明るいのですが、オリオンや北斗七星などがかなりはっきりと眺められる状態ではありました。明日は、一日晴れとの予報。明け方はずいぶん冷え込むだろうなと思います。
ここ1週間ほどは、臨時の仕事も休業状態で、毎日本を読むことができました。図書館で借りてきた本も、ここしばらくは1、2冊読み切れないままで返却、新たに借り直しということがあったりしましたが、今週はすでにかりてきた6冊を読み終えることができました。返却は来週なので、早めに返して次を読もうかと思います。いろいろ鬱陶しい世相の中で、本を読んでいる時だけはそんな様々な状況を忘れて、別世界へ移行できるのがなかなかありがたいことだと思います。パソコンのC言語の本などは、実際に活用することは皆無ですが、読んで入門的知識が了解できるのは頭の体操風で、それはそれで現実飛翔として適切な1冊か、などと思ったりもします(現実逃避といえば逃避なのでしょうが……)。漢文は『唐詩選』を再度読み始めました。最初に読んだ時よりも、ずいぶん読解が楽になったように思います。
それにしても、辺野古移設に関するアメリカ政府からのコメントはまだなのだろうか。設定期限後60日以内ということなので、まだまだ日にちはあるのかもしれないけれど。国の防衛戦略にかかわることなので、コメントを控える、なんてどこかの政府のような紋切型返答はかえってこないと思いますが。それにしても、軟弱地盤の整備に3年数か月の時間がかかると政府の方は見通しを立てたようだけれど、それはどんどん伸びることもあり得る仮り初めの(机上の)数値にすぎないから、実際それで済むはずもなかろう(技術的な裏付けが現在ない状態での話でもあるし)と思いますが……。どんどん工期が伸びていくような気が、素人の勝手な想像としてはしますけれど。実際、そもそも新基地ができるかどうかから再検討すべき問題のようにも思うのだけれど。挙句の果てに、数兆円にもわたる税金の膨大な無駄遣いに終わらなければよいのだが。
ニュース報道に関して、民放では「政府が」というところを、NHKは国営放送のゆえか「安倍総理が」としきりに繰り返すのが、気になっている。ワンセグ機能のスマホも、NHK視聴料の対象になるらしいけれど。国民から強制的に金をとる分、もう少しそんな点についても、公平公正な細かい配慮をほどこした報道をしてほしい(別の意味で配慮、忖度しているのかもしれないが)ものだと思う。ここは北朝鮮や中国ではないのだから。
明日は、東日本大震災が起こって8年目を迎える。新聞でもテレビでも、特集や特番を組んで、報道を行っているようだ。たまたま、BSを見ていたら、現役高校生を回答者にして、震災関連の情報をクイズ形式で問いかけるという内容の番組を行っていた。その中で、小学生の9割が生きのびたある地域の避難方法をクイズにして出題するものがあった。生徒たちはどのようにして避難をして、その結果ほとんど津波による被害者を出さなかったのか、4択問題として出題された。机の下に隠れた、集団で避難した、ばらばらに避難した、家族を待って避難したという四択だった。4人の回答者のうち、机の下は一人で、あとの三人は集団で避難を選択した。私も、答えは集団だと思った。ところが、正解はばらばらに避難したというものだった。解説によれば、津波の場合はとにかくまず自分の命を守れ、という教訓が地域に生きていて、その教えに従って避難を実施した結果、ほぼすべての生徒が被害を免れたということだった。正直、その回答を聞いた瞬間は、えっ?!と思ってしまった。しかし、東日本大震災の死亡者、行方不明の多くは津波による被害者であることを思うと、改めて考えさせられることが多かった。もちろん集団の方に価値を置き、集団のために自らを犠牲とし、その結果亡くなられた方たちもおられたことを否定するわけではない。ただ、集団で行動することを闇雲に第一とする価値観だけではすまないこともある、ということを改めて思ったということだった。(ただ、選択肢の回答の内容が、「集団で集まり、すぐに避難を開始する」的な内容で、わざわざ「すぐに」という言葉を入れ込んでいた点は、設問内容としていわゆるひっかけ的部分……そこだけ見れば正しいけれど、全体としてみれば不適切というやつ、が少々気にはなる、細かい話だけれど……)。
昨日は良い天気で、本当に暑いくらいだったけれど、今日は朝から雨。寒いというほどではないけれど、足先とか手先とかがちょっとヒヤッとする感触がないわけではないようだ。こういうのを冷え性というのだろうか、よくわからないけれど。いまだ「三寒四温」的な陽気が続いているということなのだろうか。たしかに、今日から3日ほどは雨天、その後晴れが二日ほど続く的な予報はでているけれど。大山は、五合目以上はまだ雪景色という状態ではあるけれど、谷筋が尾根筋と黒白明らかに分かれて見える点は、残雪の山、春先の山という様相を強く示していると思う。平地ではほとんど雪も降らず、水道管が凍るほど厳しい寒さもなかった今年の冬も、何となく中途半端なままで終りを迎えたようだ。こんな冬があると、夏の暑さは逆に酷いものになるとも言われていて、せめて夏もまたほどほどにということを願いたいものだと思う。
JAL財団の刊行する『ゆめのうた 地球歳時記Vol13』を読んでいる。内容は、世界の子供「ハイク」の作品集。各国語、共通語としての英語、そして日本語への翻訳という重層的な作品紹介。句に付せられた児童画、一部の点字翻訳、氏名、国籍、年齢、性別なども細かく掲載されていて、ある意味いたれりつくせりという構成の「ハイク」集。まず英文を読んで、日本語訳と照らし合わせてみたりして作品を楽しむ。簡単な英文なので、辞書なしによめるところも手軽でありがたい。そして、実際のところ表現、内容ともになかなか面白い。さらに、作品の母語による紹介もあるので、韓国語、中国語、フランス語、ロシア語、ベトナム語、スペイン語等々読めないけれども、しかし例えば最初に挙げた韓国語・中国語・ベトナム語は厳密に五語七語五語の三行分かち書き形式で「ハイク」を作っていることがわかったりする面白さがある。俳句の五七五をきちんと踏襲しようとする姿勢の表れなのだろう。また、それらの諸語と日本語の翻訳作品を比較すると、いかにも日本語の十七音の長さを感じてしまう。おそらく表音表意文字と日本語のように表音文字の平仮名と表音表意文字の漢字の組み合わせという言語構造や表現構造の違いがもたらす印象の違いということによるのだろうと推測したりもするけれど。
英文とロシア文を比べると、ロシアの方が極端に短かったりするのも面白い。英語の前置詞に当たる言葉をロシア語は一語中に含んでいたりするのだろうか、などと勝手に思ってみたりもする。いろいろ考えたりしながら読めるので、ここ数日は朝の最初の読書としてこの作品集を少しずつ楽しんで読んでいる。
参議院のやりとりは、衆議院と比べてより専門的な分野への突っ込んだ応答がおこなわれているのかと思う。そんな中で、総理の法律用語に関する基本的認識の浅さや法学者の自衛隊「違憲」判断の内容的相違に対する認識の無さなどが指摘されて、そのことを自分に対する「人格攻撃」などと捻じ曲げて反論したりする姿は、かなり情けないものだった。また、維新は個人的には足場のふらついた良い加減な政党という認識が強いのだけれど、しかし昨日の憲法草案に関する意見表明は、現政権に対する正面からの批判を含む聞くべき価値のある「野党」としての内容だったとちょっと感心した。果たしてその立ち位置をこのまま持続しうるかについては、ちょっと疑問だけれど……。
書道をやっている知人に案内をいただいて、書道展を見に行ってきた。展示作品を一渡り見せていただいて、案内をくれた当人の作品も展示されてあるはずなのに、見当たらなくて受付当番を勤めている本人に尋ねたところ、ちょっとだけ憤然とした表情で、一つの作品の前に案内された。改めて名前を確認したら、その人だった。いちいち名前を確認することなく作品を見ていたので、気づかなかったということだった。書風がまるで変っていた。だから、気づかなかったということでもあった。なぜ、こんなに変わってしまったのか、本人に話を聞くと、それまでの書風が現在にそぐわないと、師匠から強烈なダメ出しを受けたから、ということだった。大きな展覧会にも入選経験のある人ではあったけれど、師匠の批判を受けとめ、新たな書風の開拓に踏み出した、その第一作が今回の作品だ、ということだった。書の題が「臥薪嘗胆」。我慢の一語という現在の自分の心境をそのまま題材として書き上げたもの、という。個人的には、前の書風に心惹かれるものを持っていたけれど、新しい挑戦に対してはどのようにそれを自分のものとしていかれるのか、大変興味を感じた。書の世界も厳しいものである。
一新聞記者に対する官房長官の大人げない行為(というより、取材活動に対する圧力と恫喝なのだろうけれど)に対し、それを「いじめ」と受け止めた少女が抗議の署名活動をネット上で行い、17000名もの賛同署名を集めたけれど、そんな少女に対する誹謗中傷が同じくネット上で展開しているらしい。悪質な書き込みに対し、弁護士たちが支援活動を始めるくらいにあきれ果てた行為が、一部の「大人」たちによって行われているようだ。これもまた「美しい国」に生きる人たちの一側面なのだろう。