日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

         
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【18年2月27日】

今日は、一切読書はせず。午前中は、地元の所属結社の投句用の句作。その後、1時間半の「歩き」。
午後は、市内に。図書館で本を借り、その後行きつけのチケットショップで航空機の株主優待券を購入。4月に東京に行くので、そのための準備として。旅割を使えば、さらに安くチケットを購入はできるのだけれど、諸般の事情で今回は株主優待券を活用することとする。
このチケットショップは、これまでも結構利用させてもらっていて、以前は図書券などを数回購入してもらい、臨時収入を得たりもしたことのある店。若い店主さんと顔なじみになっていて、しばらく金券ショップ業界の結構ディープな裏話などを聴かせてもらう。もちろん聴いた話は好奇心を満たす程度に納めておく。
その後、商店街の古本屋に。帰省のたび、ちょっと顔出しをしていた店なのだが、今回はコミックでどうしても手に入れたいものがあったので、立ち寄ってみる。この店の品揃えは抜群で、ブックオフなどとは質的に異なる点で、おそらく山陰地区では群を抜くものと思われる。目的のコミックはあることはあったのだが、全巻購入という条件なので、欠号希望のこちらと合わず、結局購入をあきらめる。しばらく話す。ネット上のコミックの海賊版のえげつなさとひどさについて、ひとわたり話を聞く。ネットが、コミックの市場においても無法地帯化しているその一端を聴く。本当に酷いものだ。
インターネットの功罪というものを改めて思う。それを使う人間の良識や知性の問題なのだろうが、欲望や悪意はそれでは済まないような影響をリアル世界にもたらしているように思う。

昨日は日帰りで京都へ。所属結社の句会へ参加。結果はまさに、絶好調という状態であった。
地元の句会で、鳴かず飛ばず、というより飛ばず飛ばずの状態で地を這うような思いを毎回味わってきた身としては、生気を付活されたような気分となる。こんな時もあってよかろうと思う。
俳句という最少の短詩系文学は、わずか十七文字とはいえ、その出自ごとにずいぶん作の許容範囲が厳密に適応されているようなのだ。わが所属する京都の句会のように、ほぼ超結社で様々な角度から一句が読まれ試されるという在り方は、参加する者にとっては、逆に自由に息つくことの出来る、そんな貴重な場となるようだ。
句会終了後、四条から京都駅まで夕方の京都の町を歩く。外国からの訪問客が本当に多い。高速バスの時間まで、京都駅周辺をうろうろする。36年間の京都暮らしの中で、京都は自分が生活する場所ではないとの思いの中で帰郷を決断したのだが、ごくたまに出かけてみるとなかなか面白い楽しい街であると改めて思う。

【18年2月25日】

トランプは、特別訓練を受け、銃を携帯する教員にボーナスを支給すると語ったようだ。それがどの程度の本気度を持ったものなのかは、わからない。全米ライフル協会は、銃の保持にたいして協力するとも声明をだしたようだから、本気の本気なのかもしれない。教員が銃を持つ方が、各校に警察官を配置するよりも安上がりで、しかも銃器の売り上げの向上に繋がるということなのだろうか。人命の保持についても、経済の論理が裏表の関係になっているようで、少々恐ろしい。とはいえ、現在国会で問題になっている高度なんとかという制度も、人命と経済論とが完全に癒着したものなのだろうけれど。

韓非子を読んでいると、彼の人間認識は「性悪説」によっているという解説がよく理解できる。人間の本質は悪であり、その前提に立って、彼の場合は統治論を構築している。家臣は常に主君の立場を窺い、隙あらば取って代わろうとする欲望を常に内心に潜めているものだ。だから、それを前提にして、家臣に対して「甘い顔」を向けてはならないとする。特に、法律に関しては厳罰をもって人に処するとしているようだ。人間の本質が「善」なのか、「悪」なのか、よくわからないけれど、韓非子の立場と主張するところは、それなりに一貫性があって了解することは可能だ、とは思われた。もちろん、論理的整合性に欠けるようでは、誰もその主張に耳を傾け、信頼し、施策に生かそうとはしないだろうけれど。
ただ、韓非子が、自身にどの程度の「悪性」を認めているかは、よくわからないけれど。
自らを含めて、人間の本質を悪としたなら、その「悪人」たる自己の主張する所論の正当性は、どこに保障されるのかということはある。一見、論理的に整合性を保ち、正しいようであっても、実はそれ自体が「悪意」に基づく詐術、現実に混乱を持ち込もうとするものであったりしたらどうなるのか、などと。

土曜日は、地元の句会。今日を挟んで、明日は京都での句会。京都の方は、すでに高速バスの往復チケットも予約して、参加するつもりである。
日帰りなので、句会に参加したらほぼそのままとんぼ帰りということにはなるのだけれど、京都駅辺りでたまにはちょっと沢山の人の姿を目に入れ、雑踏の空気を吸う必要はあるかも、とも思われる。
所属結社の投句締切も近いので、そちらの方も数句準備をしなければならない。ただ、現在波郷を継続してよんでいるせいか、なんとなく調子が違うような感覚を持つ。それなりに、影響をうけるところがあるのか、と思う。


【18年2月22日】

そうか、銃乱射に対する対策は、銃規制ではなく、教員の銃によるさらなる武装という姿なのか。トランプの主張は、教員が日常的に校内で銃を携行していたら、銃乱射による大量殺人ももう少し防げていたとする。教員が、銃で乱射犯を狙撃して殺傷することで、被害を小さくするということなのだろうか(銃撃戦が展開されて思わぬ犠牲者が出そうにも思われるけれど……)。
トランプの考え方が、どの程度アメリカ人の一般的な考え方なのか、こちらにはわからない。銃によって、自らを守るという伝統と意識が、どの程度現代を生きるアメリカ人の中にいまだに定着しているのか、少々そら恐ろしいような思いすらする。
学校の事務室には「刺す又」が置かれたある。不審者が校内に侵入した際に、教職員がそれを使って侵入者の行動を邪魔して、子供達が逃げる時間や警察が到着する時間を稼ぐということが、その主たる目的のようだ。けっして教職員が不審者を捕らえるために準備されているわけではない。もちろん、素人がそのような道具を使ったところで、どの程度行動を阻止することができるかは、正直わからないところだ。素人の生兵法で、かえって教職員が侵入者に傷つけられるという事態も想定できるだろう。
身を守るということについて、日本人とアメリカ人との間には、相当大きな意識のギャップのようなものがあるのかもしれない。
その意識の差は、銃というものによってもたらされ醸成され続けてきたものなのだろう。

瀬戸内寂聴の句集『ひとり』を読む。作家の俳句ということであるが、独特の美意識が背後に感じられて味わい深かった。宗教者としての思いや、人の死を悼む句なども印象深かった。後半には短いエッセイが数編納められてあって、それもよかった。特に、托鉢修行の話は京都という土地柄を背景として、楽しく読むことが出来た。癌でなくなった江國滋氏のことも、同氏の句集『癌め』を読んでいたこともあって胸に滲みるものがあった。
「雛の間に集ひし人のみな逝ける」「むかしむかしみそかごとありさくらもち」「老いし身も白くほのかに柚子湯かな」などの句にこころ引かれた。


【18年2月21日】

俳人の金子兜太氏が亡くなられた。戦後から平成の現在まで、俳壇の一翼を担い続けてきた巨星が、ついに墜ちたという思いが強い。
作・論ともに他の追随を許さない作家であり、また俳人という立場に限定されず、自由と反戦平和を明確に主張してこられた人物でもあったと思う。亡くなられたことが、本当に大変残念である。

先日、父の命日ということで、高校時代まで過ごした町の、町はずれにある墓地にお参りに行ってきた。
大山が、間近に眺め渡せるそんな所に墓所はある。
墓参を終えて、そのまま帰るのも何となく心残りで、そのまま町内まで車を走らせて、まだ残っている元の実家を見に行った。
すでに30年ほど前に人手に渡り、一時期英語塾に使われていたこともあったらしいけれど、いまは誰も住んではいない。ただ、昔のまま少しずつ朽ちつつあるという状態だった。
見上げた二階の窓の一つが、高校時代を過ごした自分の部屋だった。
めったに来ることもない町なので、さらに歩を延ばして、漁港の方まで行ってみる。幼少期に比べ、漁港自体はずいぶん立派なものになっていたけれど、防波堤や護岸の石組みなどは昔のまま残っていて、防波堤の尖端まで魚釣りに来ていたことなどを思い出しもした。護岸用の石組みの岩のひとつひとつが、遊びの際にそれぞれ色々な意味や役割を持っていたことなども懐かしく思い出していた。

【18年2月17日】

曇り、時々晴。ときおり、晴れ曇りにかかわりなく、小雪。空のどこかに浮かんでいる雪雲が、思い出したように雪を降らせるのだ。
図書館に本を返しに行く。今回は、貸出期間2週間のうちの最初の1週間が雪の対応で十分読書時間がとれなかったこともあって、結局借りた本7冊のうち、2冊が中途半端なままで返却することになった。1冊は、延長して借り直すことにした。
白蓮関係の本は、午前中集中して残りを読んで、なんとか読了した。白蓮、ちょっと興味を引かれる人物であった。と同時に、夫であった石炭王の伊藤伝右衛門もまた面白そうな人物であると思われた。本文中に、現在財務大臣を務める麻生大臣の父も登場したりしていた。旧麻生商会も炭坑開発で財をなした家であったようだ。


図書館の帰りに、久しぶりに城山に登ってきた。北側斜面にはまだ雪も残っていて、石垣だけが残る天守閣跡は寒かった。
天気が良ければ、南に大山の全景が遠望されるのだが、今日は半分以上が雲に隠れていた。
東方向に米子の市街地が望め、北に弓ヶ浜と中海、そしてその向こうに島根半島が望まれる。
展望に恵まれた城跡である。

【18年2月16日】

ここのところ、BSは午後早々の時間帯で名作映画を放映しているようだ。
昨日は、ソフィアローレンとマストロヤンニ主演の『ひまわり』をやっていた。
読書にとりかかる時間になってはいたのだが、懐かしくてつい見てしまった。
「ひまわり」は高校時代に見た。そのきっかけは、同級生が校内の新聞か回覧紙に書いていた映画批評だった。映画冒頭の延々と続く向日葵畠(それは戦場の跡に植えられた、多くの戦死者に向けての鎮魂の向日葵だったのだろうけれど)の場面をその書き出しとする鑑賞文の大筋は、いまでも覚えているくらいだったから、高校生のわが身としてとても印象的な一文と感じたのだろう。そしてその印象は、実際に映画を見ることで一層強められた、とてもすてきな映画評だった。
映画は前半と後半とでがらりとその世界を変える。前半のイタリア映画らしい生活感に溢れた明るく陽気でちょっと脳天気ですらあるお話は喜劇でもみるように楽しめたけれど、後半に至って第二次大戦の厳冬のロシア戦線へとその舞台は移り、その惨状と主人公たちを見舞う悲劇的な展開は今回ちょっと見るに耐えなくて(年をとったせいか、話題によってはひどく身にこたえてしまうのだ。感情移入のし過ぎなのだろうか……)途中でテレビを切って、読書の方に移ってしまった。
とはいいながら、その後半場面のいくつもがかなり鮮明な映像記憶として自分の中には残ってはいたのだ。ただそれを、改めて見直すのがかなり辛く思われた。
読書を終えて、休憩のつもりでテレビを点けたら、まだ「ひまわり」の続きをやっていた。主人公達の再会とその別れを描く映画の最後の方だったけれど、嵐の夜の停電の中、暗いロウソクの灯りの下での二人の会話と、その後の新たな事実の露見、そして駅での別れと、一つ一つの場面が胸に迫ってきて、ついつい最後まで見ることになってしまった。
特に、最後の方で、男と街娼とのやりとりが、小さなエピソードではあるがとても印象に残っている。お話をひとつひとつ紹介したら、とんでもない長い書き込みになるだろうから、一切省略するけれど、やっぱりすごい映画だなと心から思う。
音楽は、ヘンリー・マンシーニ。これも名曲。映画のシーンに重ねてその主題曲が流れたら、ちょっとたえられない。
映画館に行って映画を見ることも、DVDを借りてきて自宅で視聴することもほとんどなくなってしまったけれど、たまさかテレビでこんな良い映画を見ると、引き続き懐かしい映画や話題になっている作品を見てみたいなという思いになる。

昨夜は、久しぶりに合唱練習に参加。1月はまるっきり不参加だったので、果たして歌えるかどうか少々気懸かりだったけれど、まあなんとかなりそうな感触を得た二時間だった。曲目は、ヘンデルの『メサイア』。楽譜の厚さが数センチはあるという楽曲で、合唱団としてもそうとうなチャレンジだなと思う。1年半がかりくらいで練習を重ねることになる。その間に『第九』も予定されているので、ここ2年間ほどは日程的に大変かもしれない。

図書館でかりてきた手島龍一・佐藤優の共著(対談集だけれど)『独裁の宴』読了。現在の北朝鮮情勢に対して、かなり冷静に公平に分析・評価している一冊と思われる。サブタイトルが「世界の歪みを読み解く」とあるけれど、現在の日本の「歪み」もまた、相当のクールに処断していると思う。参考になる一冊だった。もっとも、最後の方では、米国との核シェアリングなどという相当過激とも思われる内容にも触れてはあるのだが……。

『韓非子』を読んでいて、かなり興味深い内容に出会った。

【18年2月14日】

終日、良い天気。朝方も氷点下を切ることなく、昼間も格別寒くはない。日差しを受けて、道路に残った堅雪がじわじわ融けていくのがうれしい。春一番のニュースもあり、やっと雪の季節も終わりを迎えたのかと思う。「歩き」も十分にできないうえに、履き物が長靴(はき慣れると結構気楽で快適ではあるけれど)ということで、なんとも歩数を稼ぐことが厳しかったけれど、今日は全コースジョギングシューズで歩くことができた。乾いた舗道を歩くのは、やはりなんとも気分が良いものだ。
昼過ぎ、ついBSを付けてみると、パゾリーニ監督の映画「奇跡の丘」という作品をやっていた。イエス・キリストの物語である。「マタイによる福音書」を元にした作品で、世界的な映画賞も受賞したということだった。
パゾリーニ監督の映画は、学生時代オイディプス王伝説を元にした『アポロンの地獄』という作品をみて、ものすごく強烈な印象を受けた経験があった。とはいえ、その印象は印象として監督作品は今回が2作目ということで(正直言って、初見が強烈過ぎて、以後どこか内心パゾリーニ作品を敬遠していたところがあるということなのだが)、キリストの物語ということで、興味を感じて見始め、結局最後まで見てしまった。
ちょっとどういっていいのか分からないというような、妙な感想になってしまうが、ずいぶん感動したということは確かだ。特に印象に残っているのは、キリストが捕まった時に、イエスの預言通り「鶏が鳴くまでに三度お前は私を知らないと口にする」というペテロの拒否のエピソード。私の中に変なこだわりがあって、イエスに対する3度の拒絶の後、鶏の鳴き声をパゾリーニはどう処理するのかということがあったのだ。自ら師を裏切った悲嘆にくれるペテロの姿に被さるように、実際に鶏の鳴き声や映像を挟み込むのか、それは確かに聖書の記述通りではあるけれど、しかしその通りに演出することはどこか作品の質的部分に違和感がもたらされるのではないか、しかしパゾリーニ一流の映像表現によって、あるいは悲嘆の大きさ深さに釣り合うだけの何かを鶏の声や映像で表現するのか、という危惧のような期待めいた思いもその場面にあったのだった。
パゾリーニは、鶏の声を一切用いなかった。ただ、雑草の生えた町はずれの坂道で、壁にもたれかかり蹲ったペテロの姿をやや遠くから静かに映し出すだけだった。ただそれだけの映像が、切実に胸に迫るものとして、とても胸打たれた。聖書通り、聖書の再現ということではない、監督パゾリーニの独自の解釈がその場面に籠められていたように感じられたのだ。人の絶望に対する深いまなざしとでもいうようなものか。
もう一カ所は、キリストを銀30枚で売ったユダが、自らの罪の意識に責めさいなまれ、ついには自殺してしまうという場面だった。イエスを売った報酬として手に入れた銀貨30枚を神官たちに投げ返したユダは、そのまま町を抜け出し、眼下に川の流れの見える渓の斜面に生えている1本の木で、首を吊って自ら命を絶ってしまう。ところが、その際にユダは自ら来ていた服を次々と脱ぎ捨て、最後は腰巻きのようなもの1枚の姿で縊り死ぬのだ。
何故、死を前にしてユダは着ていたものを脱ぎ捨てて死んだのか。聖書には、なにか解釈が書いてあるのかもしれないけれど、ちょっと思い出せないまま、映画の最後のほうイエスの十字架による死の場面に至ったとき、着物をはぎ取られ、腰巻きのようなもの一枚になって罪人として十字架に磔られるキリストの姿を見ながら、ユダもまた自ら罪人の姿となって、自身を処罰するために着物を脱ぎ捨て、罪人の姿となって自ら縊り死んだのではないか、そう思った。それは、こちらの勝手な解釈に過ぎないかもしれないけれど、キリストの無垢の刑死とユダの自罰的な自殺と、二つの死の姿が強い印象で重く残ってしまった。
本日は、この映画を見た日、ということになるようだ。

【18年2月13日】

『論語』に続いて、『韓非子』を読み始める。時代背景は、戦国時代。ともかく、読み始める。比較的読みやすいという印象。上下2巻本なので、果たして読了までどのくらいかかるだろうか、と思う。
平昌オリンピック、ちょっと気にしていたら、メダルを取り始める。マスコミは、「メダルラッシュ」などと大仰なフレーズで称賛しているけれど、何はともあれ良かったと思う。
先週、今週と2週にわたり、映画「ソロモンの偽証」をテレビでやっていた。大変面白かった。役者達がそれぞれとても魅力的だった。原作は、宮部みゆきと知って、感心した。
石井杏奈という役者さんが、とても難しい役をかなり生理的な部分まで含めて好演していて、色々な意味で印象に残った。
今度、NHKで異色の時代劇をするといって、しきりに予告編を流しているけれど、とんでもないグロテスクな怪獣が登場するらしい。時代劇と怪獣。時代劇と特撮物でいえば、東映の大魔神シリーズという名作があるにはあるけれど……。原作は、これも宮部みゆきらしい。
やっと山陰地方は降雪から解放されそうだ。今日は、曇り時々晴。昼前後に少し淡雪が降る。気温は、夕方になっても4度を保っている。
道路の雪も、そうとう融けてきた。
雪のない道路を走るのは、ストレスがずいぶん少ない。送迎も、かなり気楽になる。

【18年2月12日】

『論語』読了。思ったよりも時間がかかった。2000年以上前の孔子の言行録で、朱子学という形で日本にも大きな影響をあたえた書籍だった。
ずっと読み通してみて、今という時代にも通じるような内容にあちらこちらで出会い、古典の時代性とともに現代性のようなものも感じることが出来た。たとえば、「顔淵第十二」から。
「子貢が政治の要領を尋ねた。孔子は『食を満足させ、軍備を充実し、人民に信義あらしめる。すなわち、経済生活の安定、国防の充実、道義教育の完成である』と言った。子貢は更につっこんで質問をした。『国家の現状からしてやむを得ずこの三者の中からひとつをやめねばならぬということになったら、何を先に捨てるべきでございますか。』」それに対する孔子の返答は、「孔子は『軍備をやめよう』と応えた」さらに畳みかける子貢の質問に対し、孔子の返答は、「食を捨てよう。さて食を去ったら人は餓死することにもなろうが、死は人間皆まぬがれぬところだ。人の世に信義、ないし信頼が無かったら、絶対に成り立つものではない」と返答した。
孔子はそもそも観念論者でも理想主義者でもないので、この返答は孔子の信念の現れであるようだ。国家にとって最低限必要なものは、軍備でも経済でもなく、人間同士の関係における信義であると言い切る孔子の姿は、現代人にとってはかなり異様な印象を与えるところではある。しかし、逆に考えれば、信義を失い、混乱荒廃した社会関係の中で、軍備や経済活動にのみ邁進する国家が果たしてまともな国の姿といえるのか、という基本的で重く深い問題提起を孕んでいると言う風に、この一章を解釈することもまた可能なのではないか、とも思われる。
現在の中国は、共産主義革命にともなって、論語の提起する儒教道徳を否定する形で近代国家を形成していった。とはいえ、思想の底流にはいまだ孔子の思想はどこかで影響力を持ち続けているのかもしれない。日本にも、どこか中国と似たような状況が残存しているかもしれない。
なお、口語訳は明示書院『新訳漢文大系 論語』を参照。

『夜の寝覚』も引き続き読み続けている。とはいえ、現代人の感覚から言えば、この物語のヒーロ・ヒロインの姿にはそうとう抵抗感を感じる。今風に言えば、自らの立場や権力をかさにきて、心引かれた女性と一方的に関係を持ち、その結果妊娠させて、そのことに痛痒も感じないという男の感覚や、自らの運命に流されつつただ泣く以外に術をしらない女の姿というのは、物語的な粉飾を大いに効かせてあるにしろ、かなりげんなりするところがある。かえって、その周辺の人たちの方がいっそう生身の生き生きとした人間達として感じられてくるのが面白い。
『平中物語』に登場するたくましい女性の姿などの方が、やはり感覚的に受け入れやすいところがある。
「あはれの美学」というのは、なかなかたいへんなものがある。次は、中世ないしは近世の何かをよんでみようかと思い始めている。まだ、だいぶん先のことではあるが……。

平昌オリンピック。あまり興味も関心もないけれど、それにしてもいまひとつぱっとしないのはどういうことなのか。フィギアー団体戦は、結局5位という結果で終わり、実家の方ではそうとうやきもきしていたみたいである。マスコミが、やたらにメダルメダルとか喧伝しているときの方が、かえって成績不振の状態を招くというのは、かつてのオリンピックでもあったことではなかったか。
選手達も覚悟の上で、晴のオリンピックの舞台を迎えていることだろうけれど、部外者には想像もつかないような強い軋轢も感じていたりするのだろうか、と少々気の毒なような思いにもなる。
誰かの言葉ではないが、「恍惚と不安」あるいは天国と地獄が紙一重的な状況の中に、身をおいているのだろうか。

【18年2月11日】

昨日、実家の物干場の屋根の一部が、雪の重さで破損してしまった。波板ビニール製の屋根なので、結構耐久性はあると思っていたのだが、見事に破損し、そこから融雪の水がしたたり落ちてくる。
そうでなくても、雨の天気予報で、実際かなり強い雨が降り出している状態だったので、雨で屋根雪が滑り落ちる以前に、雨を含んだ雪の重さで破損が広がる恐れがあったため、仕切のブロック塀上を移動して、不安定な足元の中、スコップで屋根雪を降ろした。
上の方は手をのばしても届かないので、さらに不安定な塀の上を、猫歩きしながら重い脚立を運び、それを足場にして、なんとか上の方の雪も取り除くことができた。積雪の厚味は30センチ以上もあって、雪だけでもそうとうの重さを感じた。
濡れネズミ状態で作業を終え、自宅へ。自宅の方の屋根も前夜急遽雪下ろしを済ませていたので、こちらは薄くなった雪が雨に濡れてどんどん屋根から滑り落ちている状態だった。
雪害による屋根の破損は、火災保険の自然災害補償の対象になるのかもしれない。
昨日は、結局終日雨で、今朝はまた雪がちらつき始めている。今回は、さほど降雪もきつくないのではないかと思っているが、天候のことゆえ、どうなるかはわからない。
ここ数日、連日の雪下ろしのためにずいぶんエネルギーを消費したせいか、ちょっと体調を崩したり(まさかインフルエンザB型ではあるまいと思うのだけれど)もしたけれど、今朝はなんとか回復している。

「西日本人物誌 柳原白蓮」を引き続き読む。お話の中でも、結構男気溢れた人物として描かれた石炭王伊藤伝右衛門は、実際のところもなかなか先見性に溢れたスケールの大きな有能な事業主であったようだ。ドラマの中でも、最後の方では好意的な描かれ方をしていたけれど、わりと実像を反映した人物造詣だったのかもしれないと思ったりもした。
再放送とはいえ、「花子とアン」はなかなか面白い。女優の黒木華が雰囲気のある演者として好演しているな、と感心しつつ見ている。

BSでは、続いて朝ドラの「わろてんか」をやっているので、そちらも見ているけれど、「しゃべらん漫才」のお話は先週で一応完結したみたいだけれど、これも結構面白かった。。
シロー役の松尾諭が、個性を発揮していてよかった。「ミスリリコ・アンドシロー」のモデルが名前だけは聞いたことがある「ミスワカナ・玉松一郎」であるとはネット上で初めて知った。

ネット上で、自衛隊のヘリコプター墜落で負傷した娘さんの父親が非難の対象になっているらしい。父親の墜落に対する怒りの思いが新聞に掲載された直後から、その父親に対し、罵倒する書き込みが相次いだようだ。書き込んだ者達は、自衛官が死亡しているのに怒りの表明は不謹慎だということのようだ。うがって考えれば、自衛官は職務遂行の結果亡くなられたのに、お前の娘は負傷しただけではないか、ごちゃごちゃ文句を言うなということなのだろうか。もしそうであるなら、つい先日「何人死んだ」という失言で役職を辞任した政治家とほぼ同じ発想でものを言っていることになるのだろう。新聞は「想像力の欠如」と、今回の父親に対する暴言書き込みを指摘しているけれど、おそらくこれが民間機の墜落であれば、このような過激な反応は起きなかったろうことが思われ、相手が自衛隊であったことで、父親の怒りを自衛隊に対する直接の非難と受け取り、一斉に筋違いの反発行動にでたように思われる。直接の被害者であっても、相手が自衛隊であれば文句を言うな、という過剰で歪んだ発想をそこに感じて、薄意味悪いものを覚える。
(こんなことを書くと、あたかも自衛隊の存字を否定しているみたいに受け取る先の暴言書き込みのような人もいるかもしれないけれど、個人的には自衛隊の存在は国防という点でも必要であり、さらに災害救助出場の際の自衛隊と自衛官の活動には心から賞賛と感謝の思いを持っているという点は明言しておきたい。だからこそ、自衛隊が職務上の事故や、さらに国防とは直接関係のない戦闘で傷ついたり、亡くなられたりしてほしくないとも思っているのだ。それにしても、安保法制を強引に可決したことが、スムースな憲法改正問題の大きなネックになっていることを改めて思ったりもすることだ。功を焦った政権・与党の失策であったか……)。
相手が米軍であれば、基地反対闘争と短絡的に結びつけて、被害者の方に誹謗中傷の電話やネット上の書き込みをするような一部の奇妙な人間達の歪んだ行動と姿が、あちらこちらで目に付くようになってきている。
おかしな、社会であると思う。

【18年2月10日】

昌平オリンピックが始まった。ほとんど興味はないけれど、とはいえフィギア団体戦の宇野昌磨の滑りには、思わず目を奪われてしまった。

オリンピックの話題以上に、背後の政治的な動きの方が注目されている部分があるようだけれど、結局北朝鮮という小国に日米をはじめとして、適当に翻弄され続けているというのが、現在の実情のようだ。
「圧力一辺倒」の強気の方策は、日米ともに第二次朝鮮戦争もあり得るということを前提にしたものだろうし、日米ともに戦火が朝鮮半島内で収まってくれれば理想的と考えていることだろう。その前提である限り、日米ともに「圧力」以外の外交的方策は最初から打つ気もないのだろうし、北朝鮮の韓国に対する何重にも渡る外交的戦略をなんとしてでも断ち切らなければならない、ということにもなるのだろう。
日米にとっては、韓国はこちらの側にあって、ある意味強力な防衛網さらには防火壁としての役割を担ってもらわなければならないから。

それにしても、北朝鮮の十重二十重の外交戦術は、それが国家の命運を分けるものとして最重要な課題であり戦術であるということを含めて、日米の大国主義を前提とした単純で硬直した外交とは雲泥の差のように思われる。
「外交のA」と賞賛される我が国のトップも、このくらい露骨でしたたかな外交戦略を練ってほしいものだと思う。
もっとも、真摯で熾烈な外交交渉など、いまだ取り交わしたことのない方にしてみれば、「お友達外交」や「薄利多売」的な外交経験しかないのかもしれないけれど……。

「圧力一辺倒」の歯止めになっているのは、日米以外の諸外国の「戦争」に対する嫌忌や危惧の思いが働いているからだろう。
ただ、それもいつまでどれほどの牽制力になるのかはわからない。
国内においても、北朝鮮の危機を煽りつつ、「起こりうべき戦争」という状況を国民の中に少しずつ浸透させようとしているのが現状なのだろう。

そういえば、どこかの研究者は国民皆兵制度という形の徴兵制を提案しているらしい。国民全員が徴兵の対象となれば、戦争に対しても他人事ならずという意識が国民の間に生まれ、結果として戦争の回避にも繋がるという、奇妙な論を展開しているようだ。でも、制度としての徴兵制が一旦できあがれば、国民が反対しようが反対しまいが、時の政府の意向で簡単に兵を集め、戦争が遂行可能になることだろう。制度論を心情論ですり替え・糊塗する論議なのかもしれない。
そもそも、厭戦気分が戦争の遂行のブレーキになることはあるかもしれないけれど、国民の個々の意志がとめた戦争なんて、いままでなかったことだろうし。
平和憲法が、第一次朝鮮戦争やベトナム戦争への日本の参戦の歯止めとなったことはあるにしても……。
電子機器の発達によって、戦争の姿は変わるといわれているけれど、それでも総力戦である点はかわらない。兵員としての様々な犠牲を国民は支払うことになるのだろう。
徴兵制を実現したいという思いの先走った、机上の空論、ないしはごまかしの論議に過ぎないけれど、こんなことを第一線の研究者が主張して恥じないのもすごいことだと思う。表現の自由の一面ではあろうけれど。

平和の祭典オリンピック、しかしこれほど翳りを含む祭典も、第二次大戦前のベルリンオリンピックではないが、珍しいかもしれない。

【18年2月8日】

朝から快晴。積もっていた雪が、一気に溶け始めたようだ。
とはいえ、昨年以来の積雪量だったので、地面がでるほどの状態ではもちろんない。屋根の雪がずり落ち始め、道路がタイヤ痕のあたりの路面が見える程度。
しかし、車は走りやすくなるので、送迎もやりやすくなる。ありがたい。ただ、このまま晴状態で夜を迎えると、確実に放射冷却でうんと冷え込むことになるだろう。先日は、氷点下6度近くまで夜中の気温が下がったけれど、その状態は願い下げとしたい。
ただ、昨年はあまりの寒さに市内で水道管の破裂が頻発し、断水状態になったりしたけれど、今年はそんな話は聞かない。弱い部分の補修が昨年段階である程度済んだのか、水道管凍結についての備えの意識が昨年を教訓に高まったのか、さてどうだろうか。
ともかく、遠目に眺める雪景色の美しさは手放しで賞賛したいところもあるけれど、身近な生活に影響がでるほどになると、そうとばかりもいえない。
今日で、一応のピークは過ぎたらしいけれど、来週早々にもまた大雪の可能性があるらしく、すでに立春を過ぎたにもかかわらず、今年の寒波には少々閉口するところがある。
雪の話ばかりになってしまった……。

【18年2月7日】

今日もまた雪とのお付き合い。朝晩の送迎と、昼の買い物。雪道の運転にもちょっと慣れてきたかな、という感覚。道路は、少し新雪が積もってくれているくらいの方が、タイヤのグリップ力が上がって良いようだ。ちなみに、昨夜からの新雪は、朝の段階で7センチくらい。かなりふわふわの雪だった。
気温は、今日も真冬日だったのではないか。現在夜の8時過ぎだが、戸外は氷点下3度くらい。エアコンの暖房があまり効かない。そういえば、今朝の居間の室温は、1度だった。
夜に入って、今のところ雪は止んでいる。外に出てみると、マイナス3度の効果で、雪はさらさらのパウダー状態になっている。見上げると、雲の間に星が出ている。大気の移動が少ないせいか、星の光がLED電球みたいに人工的な輝きの点に見える。それにしても寒い。

大相撲の馬鹿騒ぎが終わったと思ったら、今度は皇族の結婚延期問題が喧伝されているようだ。「他人の不幸は蜜の味」などという不謹慎なことばがあるけれど、他人の不幸をネタにしたり、他人の不幸をそれこそ「蜜」のよう味わったりする風潮が、強まっているような気がする。嫌な時代であり、社会である。

朝ドラ再放送の「花子とアン」の視聴の延長で、つい「西日本人物誌 柳原白蓮」という本を借りて、読み始めた。ドラマの中でも、「蓮」様の評伝を書こうとする女性新聞記者が登場するけれど、ドラマのサブストーリー的な感覚で読んでいけば面白いかも(ちょっと逆転した発想のようだけれど……)、などと思いつつ、読み始めている。読み始めながら、内容とは直接は関わらないことだけれど、一般庶民とは異なる価値観で生活するそんな階層の人々、などということをちょっと思ったりもしている。

【18年2月6日】

今日も一日、雪といろいろ関わった一日として過ごしてしまったような状態だった。
積雪は、昨夜来の降りのせいで、さらに10センチくらい増えていた。ただ、夜のきつい凍みのせいで、昨日までの雪はぐっと圧雪された状態になっていて、そんな固い雪の上に新雪が積もるという有様だった。
今日も朝の雪かきに始まり、庭木の雪落とし、裏の物干場の波板屋根の雪下ろし、さらに実家のカーポートの屋根の雪下ろし並びにピアノ教室の方の庭の雪かきと庭木の雪落とし。午前中は、ほぼそれで終わってしまう。ピアノ教室の方の庭の蜜柑の木が一本、完全に横倒し状態で雪に埋まっていて、なんとか掘り出しはしたけれど、はたして復活するかどうかはおぼつかない。
実家の分も含めて、買い出し。あと二日くらいは、雪もよいの状態が続くらしく、それも念頭においての買い出し。結構な量の買い物になる。
午後は、少し読書。また、波郷関係の文章をちょっとだけ書き始める。1回400字詰め5枚ということで、ちょっと微妙な分量である。第1回目は、なんとかその分量内で収まりそうな気がする。
株価大幅下落。というより、これまでが異常な程の上昇の仕方だったので、これで一段落の一区切りということになるのかもしれない。とは言っても、株価が上がろうが下がろうが、直接にはほぼ何の恩恵も受けず、自らの生活にも直接の関係はないので、単なる好奇心の充足という程度の関心ではあるけれど……。ただ、こんなことが繰り返されると、年金運用に大きな影響がでかねないという気懸かりはある。とはいっても、大幅に運用益が出たとしても、その結果年金支給額が上がるというわけではなく、運用に失敗した場合は支給額がさがるだの、年金制度の運用自体が影響を被る可能性もあるだろうことを思えば、やはり無関心のままでいるわけにもいかないような気分にはなる。何の実効性ももたない、気分だけの問題ではあるけれど。
メモ帳を使って、HTML文章を編集することを理解した。今回は、オートパッドではなく、メモ帳を利用して、「日々録」の文章を書き込んでいる。
コピーを利用すれば、比較的簡単に書き上げることが出来ることも了解できた。こんな調子で、html文章作りに習熟できたら、「ホームページビルダー」を新たに購入する必要もないかも、などと思ったりもする。


【18年2月5日】



今朝のカーポートの屋根の様子。試しに写真を貼り付けてみたが、うまく貼り付けられればと思う。
夜の間に降った雪が、30センチくらい積もっている。湿雪なので、結構重い雪になっている。カーポートの屋根から少し雪を取り除いた方が良いかもしれない。
本日の吟行会はこの雪のため欠席とする。吟行地が出雲の方だったので、こちらよりも雪は多いだろうと思う。

昨日のコンクール、大健闘という結果に終わった。会場で、苦労様と声をかける。
松江からの帰りは、猛吹雪に襲われる。車を運転していても、ほとんど10メートル先が見えないような状態となる。信号機を見上げても、雪にかすれて色の判断がしづらいような有様であった。スピードをうんと落として、慎重の上にも慎重に運転して帰る。ホワイトアウトというのは、あんなことをいうのかと思う。

沖縄の市長選は自・公・維新推薦の候補が当選。基地建設は一気に進むことになるだろう。沖縄も、いっそのこと(もう遅いかもしれないけれど)、基地建設反対ではなく、基地の本土移設を前面に押し出して、それを日本政府に要求してもいいように思う。かつて基地を引き受けても良いという地方自治体もあったのではないか。そもそも基地反対闘争は、沖縄への米軍基地一極集中の改善としての反対運動であったはずだ。反米的な運動がそれに乗っかっている部分はあるにしても、基地反対闘争は反安保とはそもそも性格の異なるもののように思われる。基地負担と基地があることによって被る危険性をこそ本土に大きく割譲すべきだろうと思われる。
もっともそうなると、核燃料処理場設置問題と同様の事態がきっと生じるだろうとは思うけれど。そんな事態を避ける意味でも、沖縄は二重にも三重にも負担を強いられているということなのだろう。

午前中は、快晴。午後になって、また雪がちらつき始めた。
昨日は立春。大友家持の歌ではないが、立春の雪はめでたいものということがあるようだ。豊富な水が、秋の実りの予祝的な意味合いをもつのだろうかと思う。お正月の雨と同様の意味合いで。
何か良いことがあればと、心から思う。


【18年2月3日】

引き続き、ノートパッドでの書き込み。こんな有様で、2月が始まった。本日は、節分。恵方巻は夕食代わりになるので買ってきたけれど、肝心の福豆を買い忘れていた。うっかりであるが、ちょっと買いに出る気力に欠けるところがある。ピーナッツで代用とするわけにはいかないだろうけれど……。
チェーホフの代表的な戯曲14編を読むことができた。最後は、「桜の園」だったけれど、様々な思いが交錯するような内容で、単純に「喜劇」などと銘打たれたものとはずいぶんとそぐわない作品だった。しかし、面白かった。
天気は午後に入って急激に悪化してきた。明日は雪ということらしいが、積雪は勘弁願いたいと思う。明日は、松江までコンクールを聴きに行く事になっているので、ぜひ降雪程度でおさまってほしいと思う。明後日は、吟行句会が予定されてあるけれど、天候の具合から参加は難しいような気がする。
沖縄の市長選は、与党の推薦する人物が選出されれば、交付金を出すというようなことになっているらしい。それって、あらかじめ票を金で買うということに等しいことではないかと思ってしまう。交付金がほしければ、与党候補に投票しろ、ということではないか。それは、買収行為とどれほど違いのあることなのだろうか、と正直呆れる。選挙に勝つためなら、なんでもするということなのか。
なんとも奇妙な気がする。。
米国では、小型核兵器の開発が本気で行われるらしい。核兵器を削減、あるいは廃絶の方向に向けるのではなく、核兵器をより簡便に使いやすくする為の研究・開発らしい。いずれ、小型核がどこかの戦場で、あるいは紛争地区で使われることがあるとしたら、それはいいようもなくおぞましいことのように思われる。
どこかで、何かが狂っているのではないか。