日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

      
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【17年12月31日】

今年最後の日。
午前中は雨、午後から徐々に天気が回復する。
夜には、まもなく満月という月が、中天に輝いていた。

大掃除も終わり、特に何をするでもなく、過ごす。
BSの黒沢映画特集を連続して見る。
すでに何度も見ている作品ではあるけれど、その都度それなりに面白い、というのはすごいことなのかもしれない。
とはいえ、『生きる』は、ちょっと重いので敬遠して、その間、「歩き」に出たりもする。
午後遅く、近所の水鳥公園へ出かけて見る。
時間帯のせいか、ハクチョウを含めて鳥たちのすがたはほとんど見えないという状態だった。


       

携帯で2枚ほど写真を撮る。
1枚目は公園横の水路、2枚目は水鳥公園。
水路上に小さく写っている点々は鴨の群である。
見えないかもしれないけれど。

夜は、実家で夕食をいただく。
蕎麦+天ぷらトッピング、という組み合わせでいただく。
美味。
テレビは、紅白歌合戦をやっていて、今回の新企画らしい視聴者の採点にちょっと参加してみたりもする。

帰宅後は、教育テレビで「第九」の第二楽章から聴く。
年末はやはり「第九」だな、と思う。
来年は、地元で唱うことになっている。

その後も、テレビ。格闘技を2チャンネル分切り替え切り換えしながら見る。

今年は、なんとなく来年の活動に繋がりそうな出来事もあったりして、来年がどうなるか、ちょっと楽しみな気分である。

それでは、皆さま良い年をお送り下さい。


【17年12月30日】

予報通り快晴の一日。
ひさしぶりに終日青空を見たという思い。
この時を逃さずということで、家中のぞうきん掛けと台所の整理・整頓・清掃を行う。
午前中、ほぼ4時間ぶっ通し状態で、清掃に励む。
7割程度の出来であれば良しとして、ともかく家の中をあちらこちらとぞうきん片手に動き回る。

何度かバケツの水を入れ替え、床から窓からトイレに至るまでぞうきん掛けを行い、昼前には終了。
区切りのつもりで、注連飾りを玄関にかけて、作業を終わる。
注連飾りは、一夜飾りは縁起が悪いとの俗信があるので、それに従う。
向かいのお宅も、すでに玄関に飾っておられて、この俗信が結構流通しているように思われた。

実家にて、餅つき。
もちろん、電気式自動餅つき器。
地元産の山間地で収穫された餅米を使って作る。
餅つき器の見事な動作に毎年新鮮な感動を味わう。
昼食は、できたての餅をいただく。
餡餅やら黄粉餅やら大根おろしをのせた餅やら、いろいろといただく。
餅米が良いせいか(2キロ980円という廉価な餅米であったけれど)、たいへん美味、であった。

好天の日を逃さず、午後は「歩き」に出る。
心なしか、道路を走る車の姿が少ないように感じる。
進路上にある会社や工場は、いずれも注連飾りを飾って年末休業に入っている。
年が暮れようとしている、という実感を改めて持つ。

今年最後の役目として、地元結社に出す文章を書き上げる。
原稿用紙にして5枚分、ぎりぎり字数オーバーしない状態でまとめる。
古本に関する話題。
自分の蔵書の行く末なども、書きながら考えていた。
提出は新年になってからでかまわないのだけれど、リレー形式で文章の書き手を繋ぐらしく、次の人をこちらが指名しなければならないらしい。
少々、困ってしまう。


【17年12月29日】

今年も押し詰まってきた。
今日は、午前中一杯を使って、掃除機かけ、窓ふき、各部屋の整理を行う。
ぞうきん掛けは、明日の方が天気が良いかも知れないので、明日に回す。
大掃除の締めは台所掃除なので、それも明日に回すことにする。

昨日のうちに庭の方の掃除は一応終了する。
少し残っていた落ち葉を、一部は腐葉土をつくるための容器に押し込め、残りはビニール袋に詰め置く。
年を越して、さらに腐葉土ポッドの方に追加して入れようかとも思う。

落ち葉を埋めるために裏庭を掘ると、前に住んでいた人が庭の肥料用にと貝殻や鳥の骨などを埋めているのに掘り当たり、どうしたものかと思い悩んだことがあったけれど、それも含めて庭土を肥やすことにした。
紅葉と金木犀の木を伐って、そこを家庭菜園になどと考えてみたこともあったけれど、さすがにそれはもったいないと思い直したりしたこともあった。
それにしても、貝殻とか骨とかは、なかなか分解されないものだと思う。

石田波郷全集を少しずつ読み始める。
第一巻の句集Tは読了。
全集とはいいつつ、句集に関してはすべてを納めているわけではないようだ。
岩城先生もその点は、事前にちょっと言っておられたので、句集に関しては手元にある「波郷読本」なども参照しなければと思う。
波郷研究などもまとめてあれば良かったのだが、それも全集にはおさめてないので、それも「読本」をとりあえずは当てにしなければならないか、とも思う。
波郷に関しては、多くのかたが様々な研究や評論を執筆しておられることだろうから、それの何番煎じかでないようなものが出来ればと思う。
いまのところ、何を書くのか、全く見当もついてはいないけれども……。
来年前半は、波郷中心の読書生活ということになるのだろうと思う。

『濱松中納言物語』も、いよいよ佳境にはいってきたようだ。
主人公の源中納言の世話する娘を、自らの好き心から(今風に言えば、拉致監禁ということになるのだろうが)一方的に強引に連れ出してきたものの、娘の無言の抵抗になすすべもない東宮(次の天皇となるはずの人)が、とうとう中納言に泣きつくというような展開になっている。
中納言は、自らの思いを東宮に悟られることなく娘を引き取り、しかし二度と東宮が娘に近づくことがないように策をねろうとするという辺りまで、お話は進んでいる。
現代人の感覚からいえば、むちゃくちゃな話ということになるのだろうけれど、しかし物語は淡々と優艶に進んでいくというところである。
それにしても、女性をあくまで物かかわいいお人形(実際本文中に、女性を描写する際に「らうたし(可愛らしい)」という表現が繰り返されてあるのだが)程度にしか描いていないあたりは、その前に読んだ『平中物語』のなかなかたくましい女性達の姿と比べて、注意をひかれる部分はあった。
今年中に物語を読了するのは、ちょっとむずかしいかもしれない。


【17年12月26日】

クリスマスの昨日、日帰りで京都行き。
何年ぶりかで、参の句会に参加する。
丹後の句会が終了した後、京都の方の句会へ参加することにした、最初のもの。
地下鉄四条からほど近い会場で句会は持たれた。
丹後の句会とは、またひと味もふた味も違う句会で、ずいぶん楽しむことが出来た。
なかなか手強い方達が参加しておられる句会、との印象が強い。
今後、二月に1度くらいのペースで参加出来たらと思う。

会場で、岩城先生にお願いしていた石田波郷全集を渡される。
重たいのに、わざわざ句会場まで持ってきてくださった。
ザックに入れ替えるが、肩ひもがちぎれそうな重さであった。

夕方の高速バスで帰る予定で、若干時間があったので、京都駅構内大階段のところに設えられたクリスマスツリーを見物に行く。
エレベータ乗り継ぎで、ついでに屋上まで上って、ツリーを見おろし、さらに小雨がちの屋上を展望スペースまで移動して、京都市内を俯瞰する。
大路小路が灯りに輝いて、なかなか綺麗な夜景であった。
京都タワーがクリスマスカラーなのか、派手な照明に染まっていた。

高速バスは、順調に走行。
4時間ほどの所要時間の半分くらいは、波郷全集の1冊を眺め、残り半分くらいは外の景色(ほとんど真っ暗だったけれど)を眺めるのと、うつらうつらするので過ごした。
米子道は、蒜山から大山にかけて、雪が凍ってシャーベット状になっていた。

火曜日。
所属結社の投句をなんとか午前中に済ませ、犬の薬を貰いに市外まで出かけ、午後は小雨の時にぱらつく中を、庭の落ち葉の掃除に費やす。
腐葉土にするつもりで、一部の落ち葉は庭のあちこちに穴を掘って埋め、残りはビニール袋に詰めて、市の可燃物焼却施設まで車で運ぶ。
結構な分量であった。

その後、天気を気にしながら「歩き」に出かけ、てきめん雨に降られて、走って帰宅することになる。
走るのも、それはそれでいい感じではあったのだが。

京都行きで、今年の大きな行事はすべて終了。
あとは、大掃除を済ませるばかりであるが、天気が今一つで、ぞうきん掛けの意欲が湧かない。


【17年12月21日】



早朝のカーポートの屋根の様子。
朝日をうけて輝いているように見えるけれど、これは夜の間に降った雨が凍り付いた状態でのこと。
初氷といえば、まさにそう言うことになるのだろうけれど、こんな風にちゃんと氷っているのを見るのは、そうしばしばあるわけではない。
氷っているな、と思って、しばらく眺めていた。

この状態に勢いを得て、8時過ぎから「歩き」に出る。
1時間半近く、近所を歩くけれど、カーポートの屋根と車のリアウインドの氷結以外には、さほど変わった様子は確認できなかった。
今日は、終日快晴。
カーテンを全開にして、暖かい日差しを部屋の中に導き入れる。
おかげで、夜になっても、エアコンを入れる必要のないくらい、暖かいな、という感触が室内に残る。

快晴の一日ということで、夕方近所の水鳥公園まで車を走らせる。
ハクチョウの帰還を見るために。
日没後、西空が夕景を残している状態で、安来平野の方から白鳥が群れをなして、水鳥公園へ帰って来る様子を眺めようとしたわけなのだが、残念ながら白鳥の帰水は眺めることは出来なかった。
以前のように、群れをなしてここにやって来ることがないのだろうか。
そのかわり、数十羽の鴨の帰巣を目撃することはできた。
これはこれで見事な様子で、帰水を目的に来ていたと思われる夫婦連れの人が、感嘆の声を上げていた。
明日も天気が良いらしいので、日没後また来てみようかと思う。

今日読んだ本の中で、いくつか紹介したいものがあったのだが、夕食前に飲んだ焼酎のせいで、すっかり面倒になってしまった……。


【17年12月20日】

その日の天気の善し悪しが、一日の過ごし方に大きく影響を与える。
だから、天気予報は結構こまめに注意深く見ることになる。
特に、雨雲の動向は注意する。
本日は、曇り時々晴、ということで、日中は雨の心配はなさそうだ。
とはいえ、大山は裾野以外は雲に隠れている状態だけれど。
「歩き」が天候に左右されてきちんと実行できていないので、こんな日はまず歩くことを優先とする。
歩きながら、地元結社誌へ送る文章の構想を考える。
周囲の風景を眺めているうちに、なんとなく骨組みがまとまってくる。
締めくくりの一文は決まったけれど、ただまだ途中の部分がもやっとしているので、書き出すまでにはなっていないな、と思う。

一日8000歩ということは、時間的に言えば1時間半くらい持続して歩くことになり、朝食後にその時間を設定すると、午前中の読書の時間が、歩き後の一服を含めて2時間ぐらい取られることになって、その後の予定に玉突き的に影響していくことになる。
本日は、その上に実家からストーブ不調でSOSの電話が入って、その修理に思った以上に時間がかかり、結局午前中は「歩き」と「修理」とで終わることとなる。
ストーブは何とか修理できたけれど、すでに正午をまわっていて、簡単に昼食を済ませて、そのまま午前中中断していた読書に入る。

『堤中納言』は、まもなく第3章を読み終わり、最終章へと入っていく。
恋の争奪戦へと話が展開していきそうな気配があるが、どうなるのか。
唐土で亡くなったあこがれの女性が、日本人として転生するみたいな話もあるような、ないような……。
『論語』は後半の「下論」へと入る。
孔子という人物はなかなか面白いと思う。
ふっと「おちゃめ」なところが窺えたりして、親近感がわく瞬間がないわけではない、という感じ。「おちゃめ」とするのは、少々不謹慎かもしれないけれど。

途中、ひどく眠くなってきて、やむなく昼寝。
冷たい布団の中にもぐり込んで、それが暖まるとともに短時間うつらうつらする。
20分くらい眠っていたようで、暖まった布団の中から出るのが、少々苦痛であったけれど、えいっと気合いを掛けて布団を出る。

その後、夕方まで詩集1冊、そして櫂未知子の季語にまつわるエッセイを読む。
櫂未知子のべらんめえ調の語りは面白い。

夕方、買い物。
冷たい雨が、ぱらぱらと降る。
明後日は、冬至であったか。
本当に昼が短いと、車のライトを近目・遠目に切り替えながら思う。


【17年12月19日】

日曜日。
クリスマスコンサート。小さな会場での公演。
聴衆は、180人くらい来ていただいた。
朝10時からの準備に始まり、1時間半の演奏会、その後の片づけがあって、5時前には終了。
悪くはなかったのではないかな、などとちょっと満足を感じてはいる。
打ち上げには参加せず、帰宅。
その夜は、お酒を飲んで早々に就寝。

月曜日。
腰がかなり痛い。
前日の演奏会で、立ちっぱなしだったのが腰に響いていたらしい。
とうとうコルセットを付けるはめになる。
つけるとウソみたいに楽になる。
演奏会の翌日は、いつもながらずーと頭の中に音楽が鳴り続けている。
とはいえ、悪い気分ではない。

頭の中の音楽を聴きながら、実家の犬を病院へ送ったり、曇り日の下を歩いたりする。
読書は、『堤中納言』『論語』のみ。

火曜日。
読書。その後、図書館へ本を返却に。
7冊借りる。
ついでに、市内の格安チケット販売所で、年賀状を購入。
普通に購入するより数百円安く買うことが出来る。
1月8日までに出すように、その後は62円扱いになると、チケット店のお兄さんから助言を受ける。

ネット上の歌仙の捌きを行う。
1時間以上かかる。なかなか難しい。しかし、面白い。
捌きを終えて、次の付け句担当の岩城先生にファックスを送る。

夕方まで、寺山修司の未刊歌集を読む。
読み終わるまで、若い頃の未発表作品作品かと思っていた。
そうではなかったようだ。
とはいえ、それなりに新鮮な印象を受けつつ、読んだ。

小雨交じりの中を少し歩く。
天気が不安定で、歩かなければ全く歩かない状態になってしまうので、それだけは避けたいと思う。

帰宅後、浅酌。その後、夕食。
頭がちゃんとしたら、年賀状用の「歳旦三つ物」を考えようかと思う。

社会保障関係と防衛費関係予算が、いずれも過去最高となる。
今の日本を端的に表す予算編成なのだろう。
とはいえ、福祉関係は抑制の結果として、防衛関係は天井を外してということなので、両者の実情は真反対になるのだろうが……。


【17年12月17日】

今季二度目の積雪。
本番当日ということではあるが、午前中雪もよいとはいえ、午後からは曇りになるらしい。
小さなコンサートだし、市内で行われるので、出足にはさほど影響はないだろうなと思われる。



昨日の練習では、室内が暑くて、少々気分が悪くなってしまった。
以前にも一度似たようなことがあったので、今日は意識して厚着はさけようかと思う。
これもまた、順応力が落ちてきたせいなのだろうか、などと思ったりもする。
色々注意しなければならないことが、増え始めているようだ。

本番は午後から。
1時間半強のコンサートなので、後かたづけを含めて、夕方までには終了するだろう。
今年を締めくくる二つ目の行事が始まる。


【17年12月16日】

朝から雨。
雪でない分、寒さは緩んでいる。

俳人のOさんから、季語別の句集(全句集というわけではないようだけれど)を送っていただく。
Oさんは、ある時期岩城先生宅で、一緒に連句を巻く常連メンバーでもあり、楽しくやりとりしたのを懐かしく思い出した(連句の合間に岩城先生の奥様の素人離れした料理をごちそうになったりしていて、戯れに料亭「花戦 はないくさ」だなどと、先生宅を呼んでいたりもしたことだ)。
その頃は、亡くなったSさんもまだ元気で、捌きの役を務めてもらったりもしていた。
すでに一昔以上も前になってしまったことだけれど、本当に楽しい時を過ごすことができたとあらためて思う。

連句の捌きは、最近になってうちうちの間で歌仙を巻く際に、素人ながら好きなように選をさせていただく機会を得て、結構考えたり悩んだりしつつも勤めさせていただいたりしている。
一句ごとの展開の面白さが、連句の大きな魅力であるなどと思ったりしている。
句の捌きもそんなところに力点を置いて行ったりしている。
連句は、俳句作りの妨げになるという考えも一方ではあるようだけれど、個人的にはちょっと狭い受け止めのような気がする。
連句を遊技として否定する向きもあるようだけれど、そもそも現在の俳句も、連句の第一句である発句が独立してその原型になっていることだし、俳句は座の文学というけれど、元々は遊技の場である連句の座というものが座というものの性格の根底にあるように思ったりする。
山本健吉の俳句の本質を言う「滑稽と挨拶」も元は連句の場において醸成されたものではないか。


【17年12月15日】

午前中は、びっくりするくらいの快晴。
久しぶりの全天青空状態。
新雪の大山の姿が、素晴らしかった。

午前中は、歯医者。
思ったより時間がかかる。
治療台から寝たり起きたりが少々鬱陶しい。
1時間近くそれを繰り返して、本日の治療は終了。
帰りにホームセンターで買い物。
3足あった運動靴がいずれも駄目になってしまったので、新たに購入。
3足中2足は、靴底が完全に剥がれてしまう有様だった。
よくそこまで履きつぶしたものと、我ながら感心する。
昼前に帰宅。

昼食後は、実家のほうに顔出しして、犬の散歩などしこなし、その後この快晴を生かそうと「歩き」に出かけた頃から、どんどん天空に雲が広がり始めた。
久しぶりに8000歩をこなす。
午前中は小春日和(ちょっと11月から時期はずれるけれど、今年はこの小春日和の日にほとんど出会わなかったので、この際)風の半日を楽しむことができたのに、午後はまたどんよりとした混沌状態に復してしまった。
明日は、曇りのち雪。しかも、冬型の気圧配置がどんどん進行するらしく、雪が本格的に降り出すことになるのかもしれない。
合唱本番の日曜日は、再び猛烈寒波の一日となりそうだ。
吹雪の中の合唱コンサートというのは、あまり嬉しくない。

そういえば、13日の「双子座」流星群。
雲の切れ間に星空を眺めることが出来て、オリオン座周辺を中心に大小5つくらい流星を眺めることができた。
猛烈に寒くて、息を吐くと、白息の柱が暗闇に立ち昇るみたいな状態ではあったけれど。
しかし、雲の合間に数十分に渡り間眺めることの出来た星空は、分厚い氷に封じ込められた気泡の集団みたいに鮮烈なものだった。

生活保護の削減、上限を5パーセントとするようだ。
一気に最大13パーセントも減額するという無茶をさすがに押し通すことはできなかったらしい。


【17年12月13日】

本日の最高気温は5度。
現在は、2度弱という気温である。
外は、時折雨、さらに霰が混じったりもする状態である。
今夜が「双子座流星群」のピークにあたっているのに、ほぼ観測は不可能のようだ。
雲の切れ間に星空がすこしでも覗くことを期待したい。

地元結社の文章準備として、俳人阿波野青畝の句集『春の鳶』を読む。
復刻版風の体裁で、初版時に未収録だった句87句があらたに収載されたというもの。
内容的な面白さ以上に、その表現の多彩さ、自在さを楽しむ。
連句などを巻いていたということが、句集内の紹介文にも書かれてあったけれど、その影響は直接・間接にその表現に反映しているように思われた。

継続して借りていた押井守の『ジブリ』批判本を読了。
全ジブリ作品を対象としての、ある種言いたい放題の内容が、とても面白かった。
一切の忖度抜きで、表現者としてとても真摯な態度で、ジブリ作品とその主に監督者についての、鋭いと思われるツッコミと時に賞賛とが引き続き後半部分にも語られてあった。
作品論にも直接触れている部分があって、聞き手の方のかなり率直で辛辣な質問と感想もそれはそれで、結構うなずけるところがあった。
「ジブリ」本としては、きっと異色の一冊ということになるのだろうが、読んでみる価値は十分にあるな、と思った。
変な言い方だけど、ジブリ作品に対する興味が一段と募ったという面も、この一冊を通して確かにあったと思ったりもした。

沖縄の幼稚園にヘリ部品が落下した事件に対し、当該幼稚園に「うそつき」とか「自作自演」などと非難する電話が続いたという。
米軍の不適切な対応もそんな発言を生む原因になっているのかもしれないが、それにしても被害を受けた側に対して非難と言うよりは、誹謗中傷を平然と行う人間の心理が分からない。
被害者をさらに言葉の暴力で追いつめることに、何の意味があるのだろう。
そんな沖縄で、今度はへりの窓が校庭で授業を受ける小学生の至近距離に落下するという事故が起こった。
さて、日常的な危険にさらされているひとたちに対して、彼らはまた、「うそつき」「自作自演」などと非難してくるのだろうか……。


【17年12月12日】

昨夜からの雪が朝方まで断続的に降り続いたらしく、今年初の積雪となる。
さすがに、地面の雪は明るくなるとほぼとけたようだけれど、屋根の雪はしばらくはそのまま残っていた。
12月の上旬の積雪は、地元でもやはりそうしばしばあることではない。

昨日のうちに、水道に手製の凍結防止カバーを被せておいた。
毎冬、この用意をしているけれど、幸い水道が凍結するということはなかった。
とはいえ、昨年の異常に寒い一時期、市内の水道管が何カ所も破裂して、その結果、一時期断水に近い状態になったことがあった。
今年は、あの状態は避けて欲しいと強く願う。

母を送って病院へ。
予約時間を午前と午後と間違えていたみたいだけれど、担当医の配慮で受診することができた。
感謝。
診察を終えて、いつもの通り、院内のベーカリーで自家製パンを買って帰る。
ここのパンは、いつもながらなかなか美味しい。
院内食堂のレベルもけっこう高いし、診察時間が延びたときには、ここで昼食を食べて帰るので、それがなんとなく楽しみのようになっていたりする。

それにしても、寒い。
何もしなければ室内でも気温が5度くらいの状態となる。
外は3度なので、グラスウール内蔵とかの壁の断熱効果は2度程度のものか、と思う。
それが正しい認識かどうか、わからないけれど。

さすがに寒いので、コタツの方へ移動。
コタツにあたりながら、読書。
背中の寒さは、いかんともしがたいけれど、それでもずいぶんマシである。

清水寺の今年の漢字は、「北」だそうだ。
ずいぶんお寒い一語である。


【17年12月10日】

高曇りの朝。
大山の全容が眺められる。
雪は、麓のほうまで降りてきているようだ。

モニターをしている番組の一つは、県の今冬の除雪情報を流していた。
そのレポートを書きながら、今年の冬の厳しさのようなものを思っている。
昨冬の300パーセントの降雪予報というのが、相当気重く感じられている。
単純に言えば、3倍余計に降るという予報なので、予報はあくまで予報とはいえ、年々その精度が上がってきているらしい結果をみると、かなり身構えてしまう。

地元に初雪が降った翌日、たまたま行きつけのホームセンターに買い物に出かけると、いつになく駐車場が混雑している。
なにかあったのかと思いつつ、店に入るとレジには、雪かき用のスコップを手にした人たちが列を作っている。
降雪の用意に買い物に来た人が、いつになく多いのだということを了解した。
私自身も、カーポートの雪下ろし用に、今より柄の長いスコップが欲しいな、などと思ってしまう。
残念ながら、そのようなスコップは売ってはいないのだけれど。

冬の用意といっても、すでにコタツと湯たんぽを準備すれば終了というシンプルさではあるのだが、それでもなんとなく落ち着かないような気分にはなることだ。

対談集『金子兜太の今』を読み進めている。
自選100句の解説付きなのだが、その百句を読み通してみると、その大半を知っていることに我ながら驚いてしまう。
金子兜太という俳人のことをつい最近まで、ほとんど意識したこともないようなつもりでいて、しかしどこかで気にしているところがあったのかもしれない。

俳句の命は「映像」である、という主張については、考えてみる必要があるのかも知れないとも思う。
「客観写生」的方法による描写と、金子氏の「映像」との違いというものに注意を払う必要がありそうだ。
ちなみに、ネット上の「週刊俳句」を通じて、若手の俳人の作品に触れる機会があるけれど、そこに描かれる対象の描写法は、あるいは多くの場合金子的「映像」描写なのかもしれない、などと思ったりもする


【17年12月9日】

今日も朝から冷たい雨が降っている。
現在の外気温は4度くらいのようだ。
室内もかなり寒い。
しばらくエアコンをつけて、部屋の温度を高くしてから、エアコンを切る。
エアコンの弱点は、点けていない限りすぐに気温が下がってくるということのようだ。

土曜日なので、フリーに過ごす一日ということになる。
天気が良ければ、「歩き」に出たいところだが、雨降りのせいで、それもままならない。

図書館で見つけて借りた夏井いつき氏の新刊を、実家の母のところへ持って行く。
本の又貸しということになるのだろうが、ご勘弁というところだ。
二択による俳句力向上という趣向の内容らしいけれど、それよりも解説のほうが断然面白いだろう。
木曜日の「プレバト」俳句コーナーファンの一人として、母も楽しんでくれるのではないか、などと思う。

地元の俳句結社から、原稿用紙5枚以内で文章を書くように依頼があった。
締切が年明け早々なので、さて何を書こうかと思案する。
ネタをまず探さなければならない。
地元関係で言えば、山本杜城という地元出身の俳人の「青畝句集『春の鳶』研究」という本が本棚にあって、なんとなくちらちら目に写っている状態ではある。
山本氏は結社「かつらぎ」に所属し、地元紙の会員でもあった方だ。
一通り読んだことがあるけれど、非常に緻密な作品分析を行っていて感心したおぼえがある。

それにしても、生活保護費が切り下げられるらしい。
保護費を受給していない世帯で、最低の生活費でくらしている人たちよりも、生活保護を受けている人たちの支給額が上回っているので、その分を調整するということらしい。
なんとなくもっとらしい理屈のようではあるけれど、結局全体として生活レベルのさらなる引き下げを国民生活全体にもたらす、ということなのではないか、という気もする。
底上げではなく、底下げということのようだ。
最低レベルでの生活をある意味基準として、その現状を追認し、そこから国民の生活を考えるという発想がそこにはあるようだ。
日本国憲法で保証する「健康で文化的な最低限の生活」の項目のうち、「健康」も「文化的」も事実上削除されて、「最低限の生活」のみがかろうじて最後の砦として残されたような印象も持つ。
これもまた、実質骨抜きとか目に見えぬ改憲ということになるのだろうか……。

社会保障関係について、自己責任論がなんとなく表に立ったりする時があるようだけれど、こと社会保証問題に関して自己責任はなんらそれを弱めたり否定したりする論拠にはならないと思われる。
個々の事情や状況・背景などを勘案することは、不正を防止するという一点からはやむを得ない部分はあるのかもしれないが、それは不正の疑いがあり、その真偽をただす場合にのみ、行使されることのように思われる。
ごく当たり前のことなのだが、自己責任がすべて通用することであるなら、そもそも社会保障制度など頭から必要ない、とはよく言われることだ。
社旗保障制度に自己責任論を絡めることは、内部矛盾をそこにもたらすこと以外のなにものでもないのかもしれない。

それにしても、(見かけ上の繁栄はあるにしても)日本という国は、本当に貧しくなってしまったのだ、と思われる。
(でも、本当はこのような過程を踏みつつ、国のありようを根底から改変しようとする意図が明確に働いてはいるのだろう。だから、この「貧困」を本当に変革しようとする意志は、残念ながらそもそもない、ということになってしまうのだけれど。)
日が沈むように、平成という時代が終わろうとしているという印象を持つ。

「昼はもう来ない  
そして夜も」
などという詩の一節がなにかにあったように思う

あー、なんとも根暗なことである。


【17年12月7日】

NHKの受信料未払いは法律違反。
最高裁の判断だから、これで確定したということか。

私自身は、律儀に受信料は納めているけれど、納めないという人にはそれぞれの主張があるような気もしないではない。
単純に、ズルを決め込んで、受信料不払いを実行している人ばかりではないように思われる。

個人的にも、果たしてこれが公共放送の立場としての報道姿勢だろうか、と疑問に思う瞬間は、特にニュース報道に関しては結構あるし、そんな時は公共放送という名目のために、何故2万数千円もの高額の受信料を払っているのか、と思うことが確かにあるからだ。

今後、個々の係争が発生して行くのかも知れないが、敗訴することはほぼ確実で、そうなるとテレビを設置したとする時点から、累算で受信料の支払いが義務化される。
20年前に設置したということになれば、合計50万近い受信料を払うことになる。
設置時期は、受信料支払い者の自己申告に任せるなどということをNHKは言っているらしいが、それ自体なんとなく姑息な物言いの様な気がする。
多少は年限をごまかしてもかまわないよ、でもそれなりに受信料は払ってちょうだいね、的ないやらしさをつい感じてしまう。
いつの時点でテレビ受像器を設置したのか、それを証拠立てる義務は、NHKの側にあるのではないか、という気がする。
設置を根拠として受信料を請求する以上、その労はNHK自身が取るべきだろうと思う。
その時点で、裁判は一層ややこしいものになるだろうけれど……。

国民から一律に、税金のように受信料を取るということが、なんとなく違和感を感じる。
しかもその受信料のそれなりの部分は、NHK職員の民間とは比較にならない高収入の原資になっているということは、紛れもない事実なのだから、その点でもある種の不快感を免れない。

国民から強制的に収受する受信料を、給与としてあてがうのであれば、公務員並みの給与抑制の対象とするべきだろうと思う。

真面目に律儀に受信料を納めている側の一人として、なんとなくすっきり納得しがたいものを、この強権的なやりかたに感じてしまう。

公平性の原則に基づいて、受信料徴収を正当化するのであれば、同時に報道内容の公平性や給与の適正化というようなことも、まともに考え、自らの振る舞いに反映しろ、などと思ってしまうからだ。
 


【17年12月6日】

昨夜の合唱練習は、正面からフロントガラスに吹き付けてくる雪の中を帰宅することとなった。
12月のこの時期に、こんな激しい降雪の中を帰ることになるとは、と少々げんなりする。
昨年は、二度カーポートの雪下ろしをしたけれど、今年は昨年の3倍の降雪量が予想されていて、果たしてどうなることかと思う。

今冬初のコタツと湯たんぽの出動となる。
コタツは和室に置くが、和机を兼ねているタイプのこたつのため、部屋の大半を占める大きさとなってしまう。
大きいのは、なんとなく心強くもあるけれど、ずいぶんな場所取りだなとも思う。
とはいえ、電気を通し、コタツに潜り込むと、その暖かさにほっこりとする。
今年の冬も、このコタツで乗り切ることが出来る、というような思いになってくる。

湯たんぽもまた、冬の夜の最強の武器のひとつとなる。
布団の中にあらかじめ入れておいて、適当に暖まった布団の中にもぐり込むのは、なかなか良いものだ。
お湯だけで、翌朝まで温もりを残してくれるので、一層朝布団から出にくくなってしまう。

本日も、朝からみぞれ。
時に、霰に変わり、本格的な雪降りになり、突然雲が切れて、暖かい日差しが部屋にまで差し込んでくるという、いかにも冬の山陰地方の気候である。
実際のところ、日差しそのものはずいぶんと暖かい。
一日日が差せば、小春日和的なのどかな一日を過ごすことも可能なのだろうにと思う。
とはいえ、この1週間の天気予報は、明日半日の晴を除き、曇り時々雨か雪という日が並んでいる。
冬用のタイヤに履きかえなければ、などとも思う。

冬を迎える準備やら、さらには年越しの準備なども考えていかなければ、と思う。
慌ただしい気分になってくる。
 


【17年12月5日】

とうとう、今年の初雪がやってきた。
天気予報ではすでに、雪になると数日前から予報は流していたけれど、なんとなく予報は外れるのではとたかをくくってうたのだが。
雨がみぞれとなり、さらに短時間雪になる、という降り方で、もちろん積もるほど降るわけではないけれど、それにしても、今年も雪の季節が到来したという実感を感じさせる空模様であった。

現在は、雨。
風が少々強い。気温は5度前後だろうか。
指先が冷たいので、ずっと手袋は室内でもしっぱなしの状態となる。

本日は、午前中が人間ドック。
個人が運営する病院で受けたので、医師はひとりであり、他の人たちの診察の合間合間にやって来て、検査をする。
終わるまでに3時間ほどかかってしまう。

胃カメラは、最新式の機種を導入予定とのことで、本日はそのお試しの日だったらしい。
どうりでメーカーの営業担当みたいな若い人が、診察室で付きっきりで機器の調整をしていたわけだ。
私が、そのお試し第一号のようだ。

「機種は最新だけれど、患者さんの負担の軽減まではわかりませんよ」、などと、なんとなく浮き浮きした様子で、主治医が笑えない冗談を飛ばす。
とはいえ、鼻から挿入のタイプだけれど、喉から入れる以前のタイプに比べると、そのしんどさは文字通り「雲泥の差」である。
鼻からの方は、ほんとうに楽である。
機械を操作しながら主治医が、その画像の鮮明さに、大賞賛を送る。
何種類か、別の光をあてることで、微少な癌などの早期発見にも繋がるらしい。
癌特有の血管配置のようなものが、浮き彫りにされるそうだ。
お試しなので、何度か行ったり来たりを繰り返しつつ、入念に光線を切り替えて、検診をしてくれる。
きっと気のせいなのだろうが、そんな主治医になんとなく楽しそうな様子が感じられる。
気のせいだろうけれど……。

我が声帯のありさまなども、鮮明に見せてくれたけれど、そうたいしたものでもないことが了解される。
今夜は、昨夜に続き、その声帯をふるに活用して、合唱練習が行われることになるわけだ

 


【17年12月3日】

今夜の月は「スーパームーン」らしい。
前回の時より、ずいぶん輝度も高いようだ。
ベランダに出て、見上げると、確かにくっきりした真円の輪郭が、際だって見えるような気になる。
とにかく、明るい。
月のウサギの餅つきの様子が、鮮やかに見えるほどだ。
蟹の姿にも見えるといえば、確かにそのようにも見えるし、老婆の横顔のように、と言われればそのようにも、とも言えるけれど。

それにしても、その明度に比例するほどに、外気は冷たい。
月を見続けていたいという思いより、速やかに暖かい室内に避難したい、との思いになるほどに寒い。
それでも、外気温はまだ7度ほどはあるらしい。
今朝の最低気温が2度だったことを思えば、まだまだということなのかもしれない。

とはいえ、速やかに室内に戻る。

そう言えば、今月半ばくらいには「ふたご座流星群」が観測出来るのではなかったか。
条件さえよければ、1時間に相当数の流れ星を目にすることが出来るらしい。
とはいえ、山陰地方は、次第に悪天の日が増えてくるので、果たして観測可能な状態になるかどうか、おぼつかないけれど、氷るように澄み渡った快晴の夜空を期待したい思いになる。

押井守の対談集『誰も語らなかったジブリを語ろう』を読み始める。
スタジオ・ジブリのアニメは、ファンというほどではないけれど、テレビで放送されれば視聴するという程度の興味や関心はある。
作品も一通りは見てきたように思う。
そんなジブリ、と言うよりは、宮崎駿監督にもの申す的な内容の、かなり直截で辛辣な対談である。
簡単に言えば、宮崎氏のアニメーターとしての超絶能力は認めるけれど、監督としての力量は2流以下、という評価を、様々な作品を例に挙げつつ語っているような内容。
一部、なるほどと思える主張もあり、同じアニメ製作に関わる者としての、忌憚ない批評とも思われる内容ではあった。
ちなみに、個人的には、押井守監督のアニメは割と好きである。
 


【17年12月2日】

好天の一日。
とはいえ、かなり寒い。
朝から「歩き」。



そこで見かけたのが、畑に放された三頭の山羊。
写真は、その家の一頭で、牡山羊だった。
さらに二頭の雌山羊が、写真のフレーム外の畑地にたむろしていた。
もちろん、三頭ともに放し飼いという状態ではなく、地面に打ち込まれた杭に繋がれてはいた。

畑地の草取り用に放された山羊と言うよりは、山羊を飼育するために、冬草の生えた畑に放されているような印象を持った。
繁殖と搾乳などを目的としているのだろうか。

のどかと言えば、のどかな情景なので、しばらく畦から山羊たちの様子を眺めていた。
最初だけ、こちらに注意を向けていたけれど、すぐにめいめい草を食べ始めた。

そう言えば、干拓地の一画に巨大な太陽光発電所があるのだが、そこでも数頭の山羊が飼われている。
あの山羊達も、元は広大な発電所の敷地内の雑草を食べさせるために飼われたのではないか。
エコ的な発想で始まったものが、現在では見学者をお迎えするだけのマスコット的存在になっているのが、少々愉快ではある。

中村興二氏の『絵解きの愉しみ 説話画を読む』をやっと読了。
絵巻物の読み解き方を丁寧に紹介された内容だったけれど、書かれた絵それ自体が語り出す物語を、該博な知識と精緻な分析で解き明かしていかれるところはみごとだった。
このような内容の本は、初めて読んだけれど、大変面白かった。
「弥陀来迎図」の読みとり方など、初めて知ったことが多くて、とても興味深くもあった。

今夜は満月なのだろうか。
夕方東の空に昇った月のが、すでに天頂近くまでやってきていて、空がずいぶんと明るく感じられる。
12月になったのだな、と改めて思う。