日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

         
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【18年3月29日】
「外交の安倍」、などと言われてきたけれど、その実態は、たとえば北朝鮮問題に関して、内政との関連(危機感を煽ることで、国民の支持を自らに向けさせるという)で圧力路線を主張し続けた結果が、完全にアジアの情勢から取り残される羽目に陥ってしまったというのが実情だ。「圧力」のみを主張し続ける現在の日本は、たとえ名目的なものであれ新たな関係を模索するアジア情勢の中では、異質で邪魔な、いわば足引っ張り的な存在となりつつあるのだろう。
金力にものを言わせ、援助と引き替えに社交辞令的言辞を引き出して、悦に入っていた「おぼっちゃま」外交が、破綻しつつあるということなのだろう。ゴルフに行けば、政策もお目こぼしが期待できるなどと言うことは、その典型だったということが、トランプとの関係でも明らかになった。トランプの方が、ビジネスマンとして交渉の手腕が一枚も二枚も上手だったということなのだろう。北朝鮮の金と比較しても、完全にその外交的手腕はそのしたたかさも含めて劣っていることもまた明らかなことなのだろう。
有効な手を打たない、あるいは打てないうちに、「拉致問題」もすでに北朝鮮の外交的な持ち札の一つとして、今後日本に持ち出されてくることだろう。「拉致問題」の主導権はすでに相手方にあるということなのだ。「圧力」との引き替えに、日本の側から「拉致問題」の解決を持ち出す、などという情勢ではすでにないということは明らかなことだろう。この期に及んで、「外交の安倍」はどう対処するつもりなのだろうか。「拉致問題が」本当に解決するのか、全くおぼつかない、という思いばかりを抱く。

今夕は、実家のピアノ教室の発表会。いろいろな演出が工夫されてあって、楽しい演奏会となったと思う。
私は、ビデオ係で会場の後ろからビデオを回し続ける。知人の写真館の主人が、頑張って演奏写真を撮影してくれたりもする。春の祝宴という雰囲気であった。

本日で、延々4年間続けてきた、幾つかの放送局を跨いでやってきたテレビのモニターが、完全に終了する。色々な番組を見続けてきて、それをレポートとして送り続けてきて、その上で生活費の一部を稼いできた、そんな生活も本日で終了となる。さて、次はどうしようか……。


【18年3月27日】
佐川氏の証人尋問が終了。予想通り、肝心なことはしゃべらず、ひたすら自分一人がすべての責めを負うスタンスを保っている。責めを負っても、起訴まではいかないという読みがすでにあるのかもしれない。道義的責任は大きいけれど、明確な犯罪ではないという地点での着地を計算して、一方では政権に対して大きな貸しを作り、いずれ返してもらおうという官僚の計算高さがそこには窺える。安倍夫妻、麻生大臣を身を挺して守った「官僚の鏡」として、政権側からは再び高評価を得たことだろう。
ただ、いずれ彼が表の世界に復帰したとき、どのような情勢になっているかは、予想の範囲外ではあろう。ただ、当面政権に対して貢献をしたということで、西川氏のように自民党議員から社会的活動に対して圧力をかけられるというようなことは免れることにはなるのだろう。
いずれこっそり、総理に招かれて高級鮨などをたっぷりふるまわれることになるのかもしれない。
佐川氏の立ち位置が国民の前にあきらかになったこと、さらに次のターゲットへと追求の焦点が移っていくことに繋がるだろうこと、くらいが今回の喚問の意義だったのかもしれない。野党の質問者は、もう少し人選を考えた方が良い。生ぬるい、焦点のぼけたような質問は、時間の無駄だと思われる。それにしても、維新の質問時間がわずか5分、などという馬鹿げた時間配分が、真実を追究するという証人喚問の「たてまえと本音」部分を浮き彫りにしているように思われる。与党と野党の間をふらつく「コウモリ」政党の維新を信用するつもりはないが、最後の質問者の態度は悪くなかったようには感じられた。

それにしても、自民党の議員を批判した坂上忍氏が、ネット上に「在日」とデマを流され、それをネットに積極的に広める者がいて、坂上氏に対する誹謗中傷攻撃の材料とするという出来事が現在も進行中らしい。「在日」であることが、当人を貶める鍵になるという発想自体が、ネット上にたむろする一部の者達の特徴でもあり、いかにも馬鹿げたものでもあるのだろうけれど、こんな形で批判を押しつぶそうとする動きが表面化すること自体、ネットのもつ毒といかがわしさの端的な表れなのだろう。異常な世界ではあることだ……。

今日は、一日暑いくらいの日和だった。最高気温は20度で、実際3月下旬にしてはずいぶん高いような気がする。とはいえ、寒いよりは暖かい方が断然ありがたい。
大山は数日前には新たに雪が降り積もっていたほどだったのに、ここしばらくの間にずいぶん雪解けが進んでいるようだ。沢筋に残った雪が棒状に見えるので、地元のほうではそれを「竿雪」と呼んでいるらしいけれど、確かにその棒状状態が麓からもはっきりと見え始めている。年によっては、5月の連休まで頂稜部に雪が残ることもあるのだが、今年は4月のいつまで雪が残ることだろうか、と思う。


【18年3月26日】
2泊3日で京都行き。3日目は、都合により予定が大きく変わってしまったけれど、1日目、2日目は本当に濃密な時間を過ごすことができた。
全体としては、京都在住時代の思いでの地と懐かしい人たちとの対面が中心だったけれど、さらに本当に久しぶりに、琵琶湖西岸の比良連山の麓を半日歩くことが出来たのは大変素敵な経験だった。
大学時代、比良山系は京都北山と並んで山歩きの中心フィールドだったので、ほとんどのコースは踏査していたのだけれど、今回初めて釈迦岳の裾地の寺院跡を歩くことが出来て、改めて比良の歴史の一部に触れたような思いになった。「ダンダ坊遺跡」と呼ばれる古蹟地だった。
緑の苔に包まれた礎石が点々と残る平坦地で、倒木に腰掛けてぼんやり時間を過ごしていたら、突然携帯がかかってきて、俳人協会の地元支部の役員の任を連絡されたのは場所柄も含めて少々驚きではあったけれど、これも新年度に向けての新たなわが身の動きの一つと考える。それにしても、こんな場所が携帯の通話地域に含まれているとは……。
そう言えば、下山の途中、道を間違えた人二人に出会った。二人ともに同じ分岐を違った方に進んでしまっていた。一人は携帯のGPS機能で自分の居場所確認をしていたようだけれど、果たしてこんな山中でそれが役に立つのだろうか、と少々疑問に思う。とりあえず、正しい下山ルートを伝えておく。
夕方、宿に帰って所用の連絡をとっていると、ひょんなことから、知り合いが現在府立医大に入院していることを知る。明日は会えないので、ともかく出かけてみることにする。受付で色々ややこしいことがあったのだけれど、なんとか当人と出会うことが出来て、ソファの置かれた談話スペースでしばらく話をする。元気そうな様子だったけれど、少し痩せていたのかもしれない。明日から本格的な治療が始まるということで、頑張ってと声をかけて失礼する。府立医大周辺も思いでの地の一つで、夕景の町を歩きながら、あれこれ思い出すことも多かった。
初日には、30年近く前に職場の同僚で、色々お世話になった方のところを思い立って訪問して、ご近所さん達の助力もあって、再会できたということもあった。全然変わっていませんねなどとお互い挨拶をかわしたけれど、本当に相手の方はその声の調子や話し方も含め、あの頃と全く変わっていないという印象が強かった。私は、ずいぶん変わってしまったと思うのだけれど……。
現在の京都の町は、とにかく人が多すぎて、落ち着きのない、その分活気のある町になっていて、そんな町全体に対してはほぼ全く懐かしさは感じないけれど、自分自身がそこで活動していた限られた場所と人に対しては、やはりしみじみとした感情を感じてしまう。記憶から生々しさが薄れ、消え、その分懐かしさを感じるということで、京都の町が自分の中で明らかに思い出に変貌しつつあるのをつくづくと感じる。
京都の桜は満開に近い状態で、木屋町筋の夜桜が、なかなか妖艶でよかった。


【18年3月21日】
春分の日、とはいえ、外は強風と強雨で、ずいぶんと寒い。厳冬期に比べれば、気温はずいぶん高いはずなのだが、ひとしお寒さを感じる。
炬燵に入って、読書。『夜の寝覚』は、ヒロイン「寝覚の上」に対する帝の切なく狂おしい思いが、切々と語られる。『韓非子』は、主君が亡国の憂き目をみる原因を、具体例を含めて念入りに語っている。本日は、「音楽に心酔しすぎる場合」と「主君が都を遠く離れて遊楽する場合」について語られてあった。具体例としてあげられるエピソードが面白い。遊牧民の王が中華王朝の策略で、女性達の奏でる音楽に魅せられ、一年余りも遊牧を忘れて同じ土地に留まり続けた挙げ句、家畜の大半を死なせてしまった話とか。禁断の音楽によって天変地異をもたらす結果となった王の話とか。こちらは、ちょっと怪異譚めいたところも面白かった。海浜に遊楽にでた王が、その海辺が大変気に入って、家来達に「都に帰ろうと進言するものは死刑に処す」と厳命を下したけれど……、などという話も面白かった。
『韓非子』は表現が難しくて、読むのに四苦八苦していたのだけれど、このエピソードを語る部分になって、面白くてどんどん読める。
ともかく、寒い。明日一日、こんな陽気が続くらしい。その後は一気に春めいてくるらしいけれど、ちょうど京都行きと時期が重なっていて、都の桜の開花などを鑑賞する機会にも恵まれるかもしれない。



【18年3月20日】
佐川元長官の証人喚問がきまったようだ。とはいえ、国民の多くはすでに一連の書き換え問題がどのような背景を持っているかについては、ほぼ了解していることだろう。ただ、それがどのような形でこの佐川氏の証人喚問として具体的な姿をとるのか、ということだけが問題なのだろう。
証人喚問が政治的茶番劇で終わるのか、多少はましなもので終わるのかと言う程度の違いでしかないことだろう。そして、茶番劇で終わったとき、日本という国自体が茶番の上に成立した国家だと言うことが明らかになるということなのだろうと思う。
もちろん、その茶番の主役は単に政治家や官僚だけではない、国民すべてが茶番劇の加担者であるということなのだろう。これは民度の問題ということであるのだ。
茶番でおわらなければ、最悪新たな自殺者が生まれるかもしれないというところまで事態は押し詰められるのかもしれない。そして、それ自体もまた不幸にも変奏された茶番劇ということになるのだろうけれど。

前川氏の授業に対して、自民党の2議員が横槍をいれた。文科省は、省独自の判断による調査と、これもまた自民両名に対する「忖度」として、そのように処理しようとしている。しかし、文科省が一個人の授業に対して、政治家の圧力がなければその内容を調査するなどということはほぼあり得ない、ということは、国民の多くは了解していることだろう。官僚はそこまで暇でも愚かでもないということを、多くの国民は了解しているだろうから。これもまた、森友公文書書き換え事件と同様の構図を帯びているだけに過ぎない。反自民・反権力である前川氏を社会的に抹殺したいという、怨念の行動に文科省が政治家に対する「忖度」から荷担した事件にすぎないだろう。政治家と呼ばれる者達の(資質・人品を含めた)質の低下は、本当に眼を覆いたいほどの状況であろうと思う。それに対する、教育現場の正常な対応は、それが「神対応」などと評価されるほどに、教育現場自体がゆがみ荒んでいるということなのだろう、と単純に思う。



【18年3月17日】



東からの風はやや強く、吹かれると寒いくらいだけれど、天気は終日快晴だった。
土曜日と言うこともあり、少し距離を伸ばして歩く。写真は、その折りのスナップ。ツクシの写真も撮ったのだけれど、残念ながらひどいピンぼけになってしまったので、掲載は中止。とはいえ、今春初めて見たツクシではあった。
椿の写った写真は、近所の小さな神社の境内でのもの。神社とはいったものの、果たして社格を持つものなのかよく分からないという体の、本当に小さな神社。「歩き」の途中に立ち寄っては、季節毎の移り変わりを確かめたりしている。
もともとこの地域全体が巨大な砂嘴として成り立ったところで、この神社はそんな砂嘴の一画、砂が長年月に吹き寄せられてできた丘のふもとにひっそりと祀られたもの。
周辺の椿と背後の竹林、そして丘の斜面に広がる広葉樹の雑木類が、小さな森の雰囲気を作り上げていて、個人的には好きな場所ではある。

石田波郷の息子、石田修大の『わが父 波郷』を読み進める。某大手新聞社の記者である修大氏の文章は、時系列と波郷のエピソードとの関係を知る上で参考になる。「アマゾン」で手に入れた角川の『石田波郷全集』別巻の『書簡集』と同時進行で読み進めている。波郷の伝記的部分の補強をする必要を感じる。



【18年3月15日】


暖かい一日。午後からは雨が降り出し、夜に入っても降り続いているけれど、もう寒くはない。街灯が照らし出す路面も、カーポートの屋根も、光の暈をまとっているように見える。
昔、美術展を見終えて屋外に出たとき、周りの風景が普段とは異なってひどく鮮明に目に映ると言う経験をしたことはあったけれど、絵画による視覚への影響とは別に、詩集を読み終わったあとに、いつもと変わりないはずの室内風景がどこか違和感をともなって眼に映ってくるということを経験もする。
昨日と、今日と読書の予定の中に一人ずつ詩人の詩集をいれておいたのだけれど、池山吉彬の『惑星』にしろ、荒川洋治の『心理』という詩集にしろ、読み終わったあとの視覚的な変調(といえばよいのか)は、絵画と同様に感性を刺激しつつ、そこを通過して認識のありようにまで影響をもたらすものかと改めて感じる。
ごく短時間継続する、ちょっと軽いめまいのような感覚なのかもしれないけれど、なんとも不思議な感覚ではある。

何年も前に大病をして、退院後長い療養期間を郷里で過ごすことになった。故郷に帰って来て数日後、体調を整えるため手術後残る痛みを我慢しながら「歩き」に初めて外に出たことがあった。ゆっくり歩き住宅街を抜けて広い野原に出た瞬間、目の前の風景が異様な輝きをともなって、突然迫ってきたことがあった。夏目漱石『こころ』の中で、主人公が友人Kの自死の姿を目撃した瞬間 「黒い光」が自身を貫いたというような描写があったけれど、まさに「黒い光」とでも表現するしかないような不思議な輝きが、目の前に広がる空やそこに浮かぶ雲を強いコントラストをともなってセピア色に照らし出すという異様な経験をした。それは、本当にごく一瞬の情景ではあったけれど、ひどく強烈な印象を残すものだった。まるで、一瞬この世とは別の世界が眼前に展開したような、そんな感覚だった。
異様ではあったが、恐ろしくはなかった。そんな経験は、まさにその時だけのものであったけれど、静かな記憶として今でも自分の中に残っている。

世間では、あきれてめまいを起こしそうなことが持ち上がっている。
あまりに生な現実感で、なんとも辟易する感覚ではあることだが……。



【18年3月13日】



午前中、図書館に本の返却に。改めて、数冊借りてくる。
そのついでに、知り合いの写真館に仕事の依頼(というよりお願い)に行く。実家のピアノ教室の発表会の写真撮影。高校の同級生が経営する歴史ある写真館で、弟達のサロンコンサートにも撮影に来てくれたことがある。ちょっと無理をお願いしたが、それ以上の提案をしていただいて、ただ感謝というところだ。
その後、「歩き」を兼ねて市内を少しぶらつく。写真は、その際の、市内の飲屋街の脇を流れるさほど大きくもない川での風景。
二羽のオオハクチョウが、流れに浮かんでいる姿を目撃。携帯で写真を撮る。ビスケットでも持っていたら、思わずやってしまいたいと思えるくらいの近距離での目撃。なかなか素敵な出会いではあった。

夜は、合唱練習。昨夜に続く今夜ということで、少々疲れる。腰が痛くなって、とうとう椅子に座って歌うはめになる。ベルディの「ナブッコ」という歌劇中の一曲。「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」というヘブライ虜囚たちの合唱。難しいけれど、良い曲だ。帰りの車の中で、大声で歌う。

公文書書き換えは、大きな問題へと進展しているようだ。あくまで問題を佐川元長官とその周辺へと矮小化しようとする、政府の見苦しい姿は、浅ましい限り……。



【18年3月11日】

今日も終日快晴だった。気温は十度を少し越え、風が吹くとやや肌寒い。
「歩き」で足を延ばして、春先の日本海を見に行った。現在の自宅からは3キロ弱の距離だ。風のせいで、この日は結構波が高く、白い波頭が沖合から汀めがけて立ち上がり迫ってくる。遠望する大山はまだ積雪があって、五合目以上は冬の様相を残していた。中腹北面にあるスキー場にも、まだ人は滑りにやってきているらしい。

幼少期に海辺の町に住んでいた。そこは小学生の低学年のころまでは、海水浴場として有名な町で、夏になると岡山の方から臨海学校で生徒達がやって来たりもするところだった。豊かな砂浜が、沖合まで広がり、遠浅の海水浴に打ってつけの海岸だった。何件も海の家があって、巨大なブランコがシーズン中、砂浜に作られて、ときおりは野外映画の上映会なども開かれたりした。「伊賀の影丸」という忍者映画を見た覚えが、不思議に鮮明に記憶に残っている。

ところがある時期から海流が変化して、みるみる砂浜は痩せていった。そして、とうとう海が海岸沿いの住宅地近くまで迫ってくるようになった。私の住んでいたところもそんな住宅の一画で、二軒並びの住宅のその先に小さな松林があり、昔はさらに松林から砂浜が遠くの海に向かって広がっていたけれど、それが潮流の変化による浸食のせいで、その松林の近くまで砂が波に削り取られ、その結果10メートルくらいの砂の断崖の根元まで海が迫ってくるという状態になった。
台風の時などは、間近に怒濤の音を聴きながら、二階の物干場から白い波頭が住宅の方に迫ってくるのを恐怖の思いを噛みしめながら眺めていたりもしたものだった。

そんな経験を小学校中学年の頃経験して以来、1年に数回自宅が海に呑みこまれる、あるいは呑みこまれて何もない状態になってしまうという夢をみるようになった。祈るような思いで、自宅が無事であるようにと走っていくと、視界の先にただ荒れ狂う海だけが広がっている風景をみるのは、索漠たるものだった。
穏やかであろうと、荒れていようと、季節にも関係なく郷里の日本海の風景を私は愛好しているけれど、しかし内心奥深くの部分で、海に対する根強い恐怖心があって、それがときおりの夢となって表れ出るようだ。



【18年3月10日】

よく言われることだけれど、「政治の世界は一寸先は闇」なのだそうだ。まさに、今回の事態もそのような言葉通りのものなのかもしれない。安倍総理の執拗な朝日新聞攻撃に対して、強烈な一撃が返されたということなのかもしれないが。朝日の報道を疑問視する声も、予想通り挙がっている。誤報であれば、一気に朝日新聞は報道機関としてのその立場を失うことになるのだろうけれど、様々な朝日新聞攻撃を前にして、妙に泰然自若とした朝日の姿勢が、さらに何かを掴んでいるのかもという推測を生みもしているようだ。けれど、事態はすでに報道の真偽などという段階を越えているのは、佐川前国税庁長官の辞任で明らかなことではあるが……。そもそも問題がなければ、長官を辞する理由など、何もないはずだし、麻生氏のとってつけたような理由とも言えない理由はほぼ、なんの説得力も持たないものなのだろうから。いずれにしても、この事態がどのように経過するのか、興味あるところだ。

今日は、一日中良い天気だった。少々風は肌寒くはあったけれど、たっぷり1時間以上「歩く」ことが出来たし、家中の窓を開けて、乾燥した空気を室内に取り込むこともできた。大変、気分が良い。
物干場の波板の割れた部分の簡単な補修や、母屋との境のコーキング処理などもちょっとだけやったりもした。土曜日と言うことで、フリーに時間が使えるので(そうしようと思えば、毎日がフリータイムではあるけれど……)、庭の落ち葉の掃除やら、施肥なども行う。特に、花が咲き終わった山茶花にはごくろうさんということで、油かすを周囲に入れておく。NHKの園芸関係の番組をみていると、顆粒状の肥料を与えたりしているようだけれど、あれは何というものなのだろうか。こちらは、油かす一本の施肥なのだが。油かすは、じわじわと効いてくるということで、漢方薬みたいに植物に負担をかけず有効だと聞いてはいる。

波郷の文章が、新たに2回分まで書き終わる。全部で6回分の原稿を準備する必要があるので、初回の分を含め、半分まで書き終わったことになる。本日は、その一区切りで、再度初期の句集3冊と、それとは別に『石田波郷句集』という順番で言えば0号にあたる句集にも目を通して見る。その0号と正式な第一句集である『鶴の眼』との関係なども、かなり興味深いものがあった。『石田波郷句集』から、その時の俳句観に基づいて抜き出した100句ほどが、そのまま『鶴の眼』に収載されたらしい。とうことは、『鶴の眼』の諸作と、それには選ばれなかった作品群から、当時の波郷の俳句観の一端がより総合的に窺われるといういこともあり得るということであろう、と思う。単に、連作的な作の中で独立性に乏しいものを排除したという全集編集者の見解だけではない要素もそこにはあるのかもしれない。なお、『石田波郷句集』にあって、『鶴の眼』に取り上げられなかった作の中で一句だけ、波郷の秀句といってよい作が選ばれていなかったのは、これも大変興味深いものがあった。
財務省は、書き換えを認める方針らしい。事態は、どんどん進行しているようだ。しかし、書き換えを認めた上で、その正当性をどのように語っていくつもりなのだろうか。



【18年3月7日】

東京行き。上手く調整がつけば、所属結社の方との句会が設定できるかもしれない。2年ほど前に東京に行った際に、参加させていただいた句会。上手く調整がつけば良いのだが。
東京に行けば、久しぶりに出会える人もいる。こちらの方はうまく調整がついて、飲みに出かける約束を取りつけることができた。新宿ゴールデン街の懐かしい飲み屋である。
予定が少しずつ詰まってくると、それなりに期待感が高まってくるということがあるようだ。

今日は、終日寒かった。昼過ぎに、1時間ほど「歩き」に出るが、東風が本当にきつくて、歩くのが少々苦痛だった。お昼の番組で、「東風が吹くのは春になった証拠」的なことを言っていたけれど、できれば風はない方がありがたいと思う。「歩き」の途中、あちらこちらで、白梅や紅梅の開花を見かける。たしかに「東風吹かば」の世界ではあるのだけれど……。

『夜の寝覚』はますますいい塩梅で、夫婦のどろどろ状態が深まっていくようだ。そんなおどろおどろの描写の中に、「とは言っても、なかなかそれも愛らしい」的な一節が挿入されたりすると、現代人の感覚としては、「おいおい」とついツッコミを入れたいような気分になる。

財務省、書き換え問題。原本のコピーをどうやら提出するらしい。コピーがあったんだ、と驚く。それにしてもどんなコピーがでてくるのやら。「バージョン○○」などというものであれば、唖然とすることではあろうけれど。あるいは議員達に配布したものと同じ文面の文章が出てきて、それと機を一にするように、「朝日新聞」誤報のキャンペーンが猛烈にはられたり、ということもあり得ることかもしれない、と思う。捜査終了までには、相当長い時間がかかるだろうことだし、今の政権ならやりかねないと思われる。総理が率先して「朝日新聞」を攻撃するという、トランプまがいのことをやっているぐらいなので……。

明日からは雨らしい。もーれつに鬱陶しいけれど、歯の治療をそろそろ始めなければならない。どんな治療になることか、少々気懸かりでもある。家族一同かかりつけの歯医者さんで、腕もいいからということではあるが、歯医者はかなわん!



【18年3月5日】

「確定申告」に行って来る。事前にネット上で国税庁の「確定申告書等作成コーナー」を活用して、確定申告書類一覧を作成していたので、ごく短時間で関係書類提出も済ますことができた。
今年度から医療費関係について、「一覧表」を作成してそちらを提出、医療費・薬剤等の結構分厚い領収書は手元保管ということになったので、準備がずいぶん楽になった。
税務署の方で提出を済ませたけれど、さすがに16日が提出締切と言うことで、たくさんの人が平日とは言え、書類の提出にやって来ていた。税務署以外に、駅近くの巨大施設に特設会場を準備していたようだけれど、最初の年に利用した時以外は、私は直接税務署に出かけることにしている。
今年は、国税庁のトップに、国民全体の奉仕者という立場をかなぐり捨てて、いわば権力に魂を売った見返りにその地位を得た人物のことが話題になっていたけれど、さすがに税務署窓口ではそのことを口にする人はいなかったようだ。というより、提出する方も処理する方もずいぶん慌ただしくて、そんな余裕がなかったということなのかもしれない。
官僚は、政権寄りの姿勢を保つのが基本的スタンスではあるけれど、あまりにひどい現国税庁長官の姿は、官僚のあるべからざる姿の典型(安倍政権は、彼の態度を異様に高く評価しているらしいけれど)のように思われる。間もなく退任、その後は天下りして、優雅に余生を過ごすということになるのだろうけれど……。

今日は、終日雨。ときおり激しい降りにもなった。夜明けにかけて大変暖かかったけれど、日中になってどんどん気温が下がり始めた。今は、すっかり日が暮れているけれど、防寒具を身につけた方が良いくらいの状態になっている。

今週は、夕方から夜にかけて、モニター番組の視聴と合唱練習とがサンドイッチ状に予定されていて、なかなか落ち着かない。番組視聴の翌日は、そのレポートを午前中には作って、メール添付でテレビ局の方に送信することにしているので、昼間の時間帯も結構詰まっている。波郷の文章を書き継いだり、母の病院の送り迎えなどが入っていたりもする。読書をする時間が、ずいぶん制限されていて、ちょっと残念である。とはいえ、『夜の寝覚め』は、最近になって夫婦間のどろどろ関係が描かれ始め、色好みの男の風流譚では収まらないような内容にまで発展していて、やっと面白くなったという状態である。全体の5分の1くらいのところ。これから、どんな風にこのどろどろは進展していくことだろうか。

『韓非子』は、いかに君主は権力を保っていくべきかを、ずいぶんクールに語っていて、これはこれで面白いと言えば、面白いかもしれないと思う。このクールさが、やがて韓非子に思いがけない運命をもたらすことになるらしいが。もちろんその部分は『韓非子』自体には触れられることはないのだろう。国税庁のトップの人物も、あるいはこんな風なドライな割り切りかたで、事態を納めようとしたのかもしれない。ぼろぼろと綻びが露呈しつつはあるけれど。とはいえ最後は、政治が守ってくれるのだろう。よほどの事がない限りは……。



【18年3月4日】

本日は、朝から快晴。久しぶりに布団とか毛布とかを日に干す。2階の窓という窓は全開にして、空気を通しもする。寒い時期には、避けていたことなので、大変気分が良い。

昨日は雛祭りの日。特に何をするわけでももちろんないけれど、市内に航空券のチケットを予約に行ったついでに、中海へ通じる運河のような雰囲気を持つ川の畔をしばらくぶらぶらと歩く。彫刻通りなどという呼び名が付けられてあるように、遊歩道沿いに中海まで、ところどころに彫刻が飾られてあって、川面のからの日差しの反射を感じながら、彫刻を見物がてらにしばらく歩く。雛飾りは縁遠いものだけれど、路上に飾られた様々な彫刻の一体一体は、ちょっとのどかな春の気分を感じさせてくれるものだった。

4月早々には、2年ぶりくらいに東京行き。都市としての巨大さとか、過剰な程の物量の消費など、嫌悪と驚賛とがない交ぜになりそうなところではあるが、京都同様そこに暮らすのではなく、たまに出かけてみるのは面白いのかもしれない、とは思う。

テレビのモニターもとりあえず3月で終了。念のために、新たに別の局のモニター募集に応募してはおいたけれど、どうなるかはわからない。1本千円という単価が、高いのか、安いのかはわからないけれど、文章らしきものを書いて1日の食事代くらいをときおり別に稼ぐということは悪くはないことだと思う。
世は働き方改革といい、過労死を問題としている中で、なんともふざけたような日々の過ごし方なのかもしれないけれど。

それにしても、労働時間の枠を取っ払ってしまって、自らの高度な裁量的力量を発揮して、自らの働き方を構成しつつも、病気になりそうとかなったときは安心しろ、医者が対応するというような働き方のお薦めは、完全に発想も対応もまともな働き方から逆転化したものと思われる。そもそも、病気などにならないような働き方の中で、自己裁量が生かせるという前提ではなく、病気になりそうな危険性を先に見越して、そのための対策を内に取り込んで準備した形で、十分行き届いた配慮に満ちたものとする提案者の底意がもろ見えというお粗末な法案ではないか、などと個人的には思う。
病気になるぐらいまでは、黙ってぎりぎり働けよ、というメッセージをこめた法案ではないか、などとつい思ってしまう。

もちろん、その仕事に対し、やりがいを感じ、働くことの喜びが感じられるものであれば、実際のところ労働時間なんて関係ない、という側面がないわけではない。ただ、その場合も、仕事の量に関しては、自らが裁量できる部分を残し、仕事が与えられたノルマと化さないようにということが前提になるけれど。
そういうタイプの人は、仕事がノルマ化した瞬間に、働く意欲を大いに低下させるということはありそうだ……。

石田波郷に関する文章の二つ目を書き始める。波郷の俳句観に絡めて、結構知られている一句を直接の材料として、文章をまとめつつある。かなり強引な進め方かなと、我ながら思う部分はあるけれど、とりあえずこの線で押してみるかとの開き直りはある。

それにしても、次第に春らしい陽気になってきて、本当にありがたい。天候に身構えることなく、生活できるのがうれしい。今年の1・2月は、雪と寒さが結構厳しかったな、と改めて思う。


【18年3月1日】

春の嵐と言うには、かなり強烈な状態であった。雨はさほどでもなかったけれど、風が明け方近くから強まり、そうとう強い西風が吹き付けてきているのを寝床の中で目を覚ましながら聴いていた。
4時過ぎくらいになって、さすがに二度寝しようかと思っていると、外からばりばりという大きな音が聞こえてきた。慌てて起きあがり、窓を開けて音のする方を見ると、裏の洗濯干し場の波板屋根の一部が、大きく捲れ上がって、風に煽られるままに今にも吹きちぎられそうな状態になっていた。波板を止めるフックが弱かったせいか、強い風によって外れ、捲れ上がった一部が、そのまま風に吹き煽られて、めいめり剥がれそうな状態になっていたのだ。
慌てて身支度を整えて階下に行き、そのまま裏に出て、隣の家との境のブロック塀の上を、いまにもちぎれそうな波板のところまで移動する。捲れ上がった部分をとりあえず抑えて、このままでは程なく風に吹きちぎられるだろうと判断したので、大急ぎで塀の上を戻り、裏庭に置いてあってコンクリートブロックを2個持ってきて、不安定な足場を移動して、とりあぜず捲れた部分にブロックをのせてそれで抑えた。強風とはいえ、さすがにブロックを吹き飛ばす力はないので、なんとか落ち着いた状態となる。
さらにその横を見ると、同じように風に吹かれて、波板の端がふくれあがり、放置しておくと今にも捲れ上がる恐れがあったので、同様にもう一つブロックを庭から持って来て、膨らんだところに置く。
雨も風も相当ひどくて、濡れネズミになりながらなんとか応急処置で、その場をしのいだ。こんな事は、台風の時にもなかったことなので、とても驚いた。

夜が明けて、雨風ともに少し収まったので、この際にということで、波板止めのフックを買ってきて、外れた部分や、いまにも外れそうなところ、またフックが抜けて穴が開いている所などを修理、補強する。ひどく捲れ上がった部分は、波板がかなり割れてしまっていて、おそらくその部分をそっくり交換しなければこの先保たないだろうな、と思う。自分で修理できそうにも思うので、今はブロックを抑えにしておいて、後日波板だけを買ってきてその部分を張り替えようか、と思う。素人の修繕なのでどの程度出来るかは、かなり不安ではあるけれども……。

京都在住の頃のマンション暮らしではなく、自分の家を持つと、中古住宅ということもあって本当にいろいろな点で注意しなければならないことが多い。かなり疲れるところではある。波瀾の3月の始まり、であろうか……。