日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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午前中は俳句関係の会議が予定されているので、朝食を早めに済ませ、とりあえず日課である『源氏物語』と『唐詩選』を読む。『源氏』は「明石」の巻。『唐詩選』は「七言絶句」へと入る。『唐詩選』は注釈の文字が小さすぎて、なにかのCMのように、「小さすぎて読めない」と一瞬投げ出したくなる時があった(古体詩、 排律は総じて、長い。古体詩の方は、あまりに長すぎて、読むのをためらったままの作品がひとつあったりする)。七絶は、程よい長さである、と思う(個人的には、最短詩型の「五言絶句」が一番好きではあるのだが……)。
俳句の会議は2時間。10月の俳句大会の運営について。新年度の予算案が了解されたけれど、大会の参加費が主な収入源で、諸般の事情から繰越金がほとんどない状態で、しかもそれがすでに消耗された状態で、この先10月までの運営にモロ暗雲が立ち込めている状態ではある。まあ、なんとかなりそうではあるようだが。
地方で文化的な活動に携わる場合、この金銭問題は本当に大きいと思う。
午後、頼まれついでの買い物。芝生を少し育成しようと、ホームセンターから高麗芝のシート(本当は野生芝が欲しかったのだが、扱ってないということだった)、芝土(本当は芝砂が欲しかったのだが、当店では扱っていませんということだった。しかし、名称こそ違え、なんとなく同じ製品を指しているような気がする)。とりあえず、シート四枚の植え付けを行う。地面を掘りかえし、雑草とわずかに痕跡を残す芝の根っこをきれいに取り除き、整地して、水をたっぷり含ませ、シートを横一列に並べていく。ざっくりとした並べ方。その後、シートを丹念に足で踏みつけて土となじませ、数か所空気穴をあけて、芝土を全体に撒き、箒で土をならして作業終了。果たしてちゃんと芝は根付くのであろうか。ちょっと時期的にも遅いかもしれないし。不安である。
夜は、実家で手巻き寿司をごちそうになる。少々食べすぎ気味であった。
帰宅後は、もう寝るだけ。明日から、5月が始まる。
実家の犬は、シーズ。これで3代目。2代目は一番なついてくれたけれど、いろいろ事情があって、ずいぶん早くに亡くなってしまった。私が抱っこすると、きまってそのまま眠り込んでしまった。現在の3代目は、かなり性格の悪い犬だけれど、それはそれで一つの味になってしまっていて、こいつはこいつでいいかなという思いになる。目と耳はずいぶん悪いけれど、胃腸が丈夫らしく、もうかなり高齢ではあるけれど、もうしばらくは頑張ってくれるのではないかと思っている。
シーズも可愛いけれど、ゴールデン、リトリーバは手放しで可愛いと思う。お隣さんの飼い犬はゴールデンだけれど、たまに家から出てくるように催促されたりもする。それは本人が庭に出てきていて、たまたま私が実家にいるときのことではあるけれど、姿は見えなくても、匂いなのか、勘なのか、きまってわんわん吠えたてられて「出て来い」と促されてしまう(私がそう思っているだけなのかもしれないけれど)。その声に誘われてのこのこ出向くと、しばらくは低い塀越しに甘えかかられて、こちらもあちこち撫でまわす羽目になる。しばらくの交歓が終わって、帰ろうとすると、再びわんわん吠えたてられるけれど、さすがに塀を乗り越えてこちらに来るほどのことはない。その点は、相手もしっかりとわきまえているように思われる。それにしても、前回合った時から、またまた体が一回り大きくなったのではないか、という気がする。飼い主さんもそのことは、ずいぶんと気にしておられるようではあるが。ともかく、食べることが大好きらしい(それは、実家のシーズも同様ではあるけれど)。
ご近所さんにも、「歩き」の途中で顔を見に行くシーズが一匹いるけれど、こちらも言わゆる「甘えたさん」の一匹である。
自分が犬を飼うとしたらまずシーズ、そして二番目の候補はゴールデンということになるだろう(実際には飼わないというよりは、飼えないけれど)。この家の前の住人の方も、警察犬を飼育に協力するというボランティア活動? に参加しておられて、自宅には木製の仕切りとか門など、その痕跡が今でも残っていたりする。
猫も面白いかもしれないけれど、飼育の面でいろいろ厄介な問題がありそうだし、その点犬の方が飼いやすいか、などとも思ったりしている(思っているだけではあるが……)。
10連休初日(私自身には直接は関係ないけれど)は、ネットの連句会と、地元句会並びにその後の俳人協会支部関係の会議で終わってしまった。地元句会は、見事に一句も入らずという状態ではあった。オリンピック同様、句会もまた参加することに意義がある、ようだ。
ふと気が付けば、もう24日になっていた。句会や会議や京都行などで、ばたばたした数日を過ごして、おとといあたりから本来の読書中心の生活へ立ち戻ってきたようだ。朝8時までは、いつのもテレビを見る時間なので、きっちり、「おしん」の再放送やら、「あおぞら」やら、「こころ旅」などを、朝食を食べながら見て、その後は天気が良ければまず「歩き」、天候と体調をみはからって「歩き」がなければ、そのまま昼前まで読書、という生活。『源氏物語』は一日6ページ読了ペースで、『唐詩選』は、現在五言排律形式の部分で一つの作品が少々長い(当然、その分注釈も長くなるのだが)ので、作品数を一日4つまでとして読む。ともかくこの二冊を基本として、図書館で借りてきた本を数冊、同時進行的に読み進めるといういつものやりかた。ただ、運動不足や新陳代謝の低下などのせいもあるのか、ちょっと体重が冬の状態を持ち越してなかなか減らないというのが気になる。困ったことだ。
とはいえ、冬を過ぎて、陽気が良くなるにしたがって、歩数が自然と伸びて、最近は一日の総歩数が8000歩から、昔のように10000歩へと近づいてきているのは悪くないことかもしれない。一時期、足ごしらえに手抜きをして、その挙句無理を重ねて膝や腰をひどく痛めて思ったように歩けない、歩いても痛みとの二人連れ状態であったことを思うと、ほぼ全く苦痛を感じない今の状態はありがたい。長い間中断していた登山の復活を考え始めたのも、状態の好転ということがあるのかもしれない。
ついでにいえば、別に宣伝するわけではないけれど、母と共同購入した某低反発マットは、たしかに効果があると実感する。腰痛は、主に「歩き」の負荷のせいかもしれないけれど、朝起きぬけしばらくの腰の痛みは、寝具にも問題がありそうだということはずっと気になっていたところだった。マットを購入、使用して以降、その痛みは嘘みたいに軽くなってしまった。実際、一時期は腰痛のため朝は立ったままで片足を上げて靴下を履くことがほぼ無理であったのが、今ではごく普通に履くことができる、という、まるでテレビの通販番組のCMの再現みたいな様子になっている。正直言って、通販の製品については、少々疑わしい思いを抱いていたのだが、効果があるようだと驚く。
『ぼくにだけ見えるジェシカ』。アンドリュー・ノリス作の児童文学。児童文学ほど、時代状況の反映を生々しく映し出す部分があると思うけれど、この作品もそんなひとつ。主人公は学校でいじめの対象になっている少年と、同じくいじめの結果自殺をしてしまった少女の幽霊というちょっとドキッとするような設定である。登場人物は、そんな主人公たちを取り囲む同年配の子供たちと、直接・間接にかかわりあう大人たち。お話の底の部分は、ずいぶん悲惨なところがあるけれど、物語自体は子供同士のつながりや、大人たちとの関係の中で、最後には救いを残して終わる。図書館で借りた本の一冊だったけれど、面白い作品であった。
ついでにというわけではないが、もう一作。たちばなかおる作『たちばなさんちの長男坊』。漫画である。これも図書館から借りたもの。ダウン症の長男を持つ夫婦の子育て物語。子供たちは男ばかりの三人兄弟。長男ユンタ君を中心に、日々の生活を描いたお話なのだが、時に大笑いをしたり、時にしんみりとした思いになったりと、一つ一つのお話が短いながらにいずれも心に残るものだった。お話のひとつで、作者が通院の際出会った、同じダウン症の赤ちゃんの養育に不安を持つ若い主婦から、『ユンタのゆっくり成長期』という漫画がとってもよいですよと勧められて、実は作者が自分であるということをいいそびれてしまうというお話は、ほのぼのと印象に残たりもしたものだ。『ユンタの』の方は図書館に入っているのだろうか。確かめてみようと思う。
今日は、一日快晴。少し肌寒いくらいの日ではあった。土曜日ということで、午前中の時間をゆっくり使って2時間ほど「歩き」。目的地を決めず、すたすたと歩く。南の方を見返すと、頂上稜線と谷筋の部分にわずかに雪を残す大山の姿が望見された。山も本格的に春の季節を迎えることになったようだ。今年は、是非大山に登ってみたいので、雪が完全に解ける日が楽しみである。夏山登山道という一般ルート以外のちょっと難しいコースなどにも挑戦してみようかと思う。もちろん、頂上稜線縦走は、あまりに危険が大きいのでチャレンジするつもりはないけれど……。
「人生再設計第一世代」。これは一体何の呼称なのだろうか、と正直、思う。就職超氷河期の時期に、正規雇用がならず、非正規雇用として不安定な雇用状況の中で働き続けた世代、あるいはその結果社会から身を引き剥がされるようにして引きこもりの生活に入り、その状態が継続している30代から40代の千数百万人の人たちに対し、さまざまな手を尽くして社会生活の立て直しを図ってもらおうとする施策のことのようだ。ただ、こちらの認識が正しいかどうかには不安がある。もうちょっときちんと調べてからとの思いもあったけれど、その施策の内容を確認したところで、たいして意味もない作業のように思われたのでやめた。自分の「思い込み」だけで、あくまで一個人の不正確で歪んだ考えの表明の一文ということになりそうだ。
そもそも、その名称「人生再設計第一世代」とは、なんともバカげた、能天気で、考えようによってはとてもブラックな、いかにもという名称だ。
おそらくこんな名称で開始される諸対策は、「プレミアムフライデー」同様、実質のともなわないおちゃらけたものと五十歩百歩のもので終わることだろう(「プレミアム……」は、まだ続いていたか?)。非正規雇用の正規化については、別に「第一世代」のみの問題ではなく、働く全世代に関わる課題であり、政策を通じて非正規雇用をどんどん増やしていく環境を作り上げた政府が、いまさらなにを言い出すか、という程度のものにすぎないだろう。「働き方改革」という絵に描いた餅のような政策が、有効に機能するとも到底思えないほど、すさんだ労働環境や社会機構の中で、結局最後は当人に改めて最終的に「自己責任」という形での責任の取り方を「お前(当事者であり、また直接の担当者に対して)が取れ」と押し付けて終わる、ということは目に見えているようだ。
さらに気がかりなのは、今触れた非正規の問題が、本当に「人生再設計」の中心課題ではなく、実のところは中年層に存在する引きこもりの人たちを対象にしているとするならば、問題は大会議室に集めて3年間で教育しなおして、社会へ送り出そう、などという型通りのやりかたではとうてい問題は解決できない、というところにあるだろうことだ。十把一絡げでなんとかするような性質の問題ではない、ということだ。引きこもりの中心的な原因である社会に対する不適応状態というものは、おそらく病理的なものから心因的なものまで幅広く多様な原因によって引き起こされているもので、その起因も様々な要素の複合体であろうことは想像がつくであろうし、その部分についてはひとりひとりそれこそ個別の対応が求められるものであろうから。
そもそも、行政は枠だけ作れば事は終われり、で、あとはすべて現場や担当にいわば丸投げをする形をとるのが、ざっくりと言ってごく普通のやりかただ。直接の対応も、つまるところ現場の、さらにいえば担当者、担当官にそのほとんどのノルマと結果責任は背負わされることになる。そんな担当部署や担当官個々人が、膨大な数の「第一世代」という塊を細分割化して、さらにその一人一人の複雑に入り組んでしまった「人生」の「再設計」に関与していく、さらにそこに一定の成果を上げるというようなことが、本気で可能だと思っているのだろうか。などと、いうような思いをひねくれものに抱かせる、そんなネーミングがまさに「人士設計第一世代」という言葉のもたらす個人的なイメージだったりする。イメージというよりは、個人の妄想、妄言であろうか……。
実際のところは、優秀な政治家・官僚の方たちが練りに練った方策をきっと打ち出されることだろうから、この問題の深刻さに対応するだけの実のある諸策がきっと様々に提示され、現在の諸制度・諸機構の中で実行可能の形を取り、一定の効果の達成が事前に所期されていることだろうと、大いに期待をかける次第である。
「名は体を表す」という有名な言葉もある。せめてもう少し、こんな取ってつけたようなものではなく、総理お得意の美辞麗句でもない、もっと実質の反映したネーミングをしてもらうことがせめてできないものか。ネーミングそれ自体が、社会をどのように変革しようとするのか、その柔軟さとか斬新さとか深さとかをひとつのイメージとして国民に想起させるようなものであれば、とひねくれた夢想家は思う。もちろん、子ども食堂に対する幼稚な「詩のようなもの」も必要ないが……。少なくとも、「人生再計画第一世代」という言葉の中には、ある種動脈硬化状態のこわばった発想のかけらの散在程度しか、個人的には感じられないのだけれど。
『源氏物語』全5巻のうち、第1巻を読了。1巻は第11帖「花散里」まで。宿敵ともいえる弘徽殿の女御の娘朧月夜との密会が露見して、源氏自身の立場が急速に悪化するというところで終了。第2巻は、有名な「須磨」そして「明石」の巻へとお話は展開していくことになる。思ったよりも速いペースで読み進むことができているようだ。
昨日は、T句会。地元のいつもの句会とは別の集まり。少人数ながら、作品と選評を含むやりとりが楽しい。
自宅に籠って本を読んでいるばかりでは、心身含めあまりよろしくないな、と改めて思う。いろいろと外に出る機会を作らねば。
ご近所さんと、道で立ち話。現在リフォームを進めておられるようで、あれこれお話を聞く。消費税のこともあるのか、この春はリフォームや改築をしている家が、近所だけでも数軒あるようだ。新興住宅地として始まった町自体の年齢が30年を超えるくらいになっているせいもあるのかもしれないが。
とはいえ、消費税、三度目の延期になりそうな気もするけれど……。
ノートルダム寺院の炎上は、痛ましくてテレビ画面を見るに忍びないような思いになる。
最近、よくユーチューブで岩登りの映像を見る。とんでもない岩壁をずんずん登っていくクライマーたちの映像は、スリル満点で、ちょっと背筋をぞくぞくさせながらも、ついつい見入ってしまう。京都で暮らしたころ、一時期小さな山岳会に所属していたことがあり、メンバーの方に連れられて、大原の近く、岩登りのゲレンデとして有名な金毘羅山に何度か連れて行ってもらって、岩登りを体験したことがあった。ザイルで体を確保してもらって、ニ、三十メートルほどの垂壁を、岩のでっぱりやへこみを手掛かり足掛かり(ホールドとスタンスとか言った)としてそろそろ登っていく。両足の間から、下の岩壁と地面とが見えて、ひどく緊張もしたけれど、奇妙に気分が高揚したりもしていた。アドレナリンが大いに分泌されていたのかもしれない。たまに、バランスを崩したり、力尽きたりして落下することもあったけれど、しっかりザイルで確保してもらっていたので、ザイルの先でぶらぶら空中に浮かぶ感覚を逆に面白がったりもしていた。手に直接感じる岩の感触はなかなか素敵だったりもした。その程度ののどかな体験で、岩登り体験は終わってしまったけれど、その後も一人で金毘羅山に出かけては、V級くらいのザイルを必要としない岩場を登ったりはしていた。岩登りの練習と同時期に、沢登にも連れて行ってもらうことがあって、沢を遡行する途中の小さな滝の乗り越えなどには、岩登りの練習が生かされたこともあった。やがて、沢登も暑い時期にごく初心者向きの比良山系の沢に出かけて、大人の水遊び風な遡行を楽しんだりもした。
とはいえ、ごくたまには危険なこともあったりして、ある時比良山系の「奥の深谷」を一人で歩いているとき、六、七メートルくらいの滝の横の岩壁を登る順番を待っていた際、突然上の方から「うわっ」と叫び声がして、目の前に男性が落下してきたことがあった。先行していた二人連れの一人が、足を滑らせて落下してきたのだった。運動靴を履いて歩いていたらしく(私は沢登り用のフェルト底のシューズなど持っていなかったので、地下足袋に草鞋という古風な足づくりで歩いていた)、濡れた岩で靴底のグリップが効かず滑ってバランスを崩したようだった。私自身は幸い順番待ちで岩から少し離れたところに立っていたので、直撃は免れたけれど、岩の下の方にいたら大怪我をしたかもしれないと思う。落下した人は、前歯を1本折ってしまったようだけれど、それ以外の怪我がなかったことは不幸中の幸いだったのかもしれない。
室内でのフリークライミングが現在大流行らしい。オリンピックの種目にもなって、その流行はきっとすごいものなのだろう。近所を歩いているとき、あるお宅の庭に頑丈な合板を二つ立て並べて、人工の垂壁を作り、そこにきれいに彩色されたホールドやスタンスが取り付けられたフリークライミングのミニミニゲレンデが作られてあるのを見かけた。小さな滑り台や手づくり風のブランコもある素敵な庭で、その人口壁はきっとお父さんの手製であろうと思われた。
市内のどこかに、フリークライミングスクールが探せばあるのかもしれないとは思うけれど、見つかればちょっとやってみてもいいかも、という気持ちだけはある。クライミングもはらはらどきどきの「目まいの遊び」の一つらしいけれど、それはさておき、健康管理を含めて良い運動になるのかもしれない。
中西進氏が「令和」について講義されたという記事が新聞に載っていた。ちょうど、中西氏の『日本文学と漢詩』を読了して、芭蕉の話、さらには森鴎外と漢詩の話などを面白く読み終えていたので、ちょっと目に留まったのだろう思う。「令和」について、一部でその出典を『文選』とする見解に対しては、語句の借用的な点はあるかもしれないが、現代の比較文学の観点から重視されるのは、語句の借用関係ではなく、その使用の側面、具体的には文脈の類似・異動の比較から出典関係は判断する、ということらしい。『文選』と『万葉集』の引用部分の文脈的側面からの比較が、まるで別物であるという判断を中西氏は下されたようである。ただ、個人的には『万葉集』の引用部分の内容を勘案しつつ借用された「令」と「和」の語句の組み合わせ「令和」の、その元号の意味する内容と『万葉集』の出典部分の意味内容とがきちんと整合性をもつものなのかどいうか、という点が気にならなくはない。つまり、「令和」の方は、ただに自然という季節に対する称賛以上の内容的な拡大が、その拡大の方向性も含めてどうなのかということだ。文脈的判断に基づく出典同定の問題が、「令和」の解釈次第で揺れ動くなどということはありはしまいか。
ついでに言えば、なぜそんなに出典にこだわるのかについて。これはあきらかに、現総理の強い意向の反映があるということは確かだろう。その結果について、世論の多くが賛意を示したということに異を唱えるつもりは毛頭ない。ただ現総理がその方向を強く推し進めたということの持つ意味合いが、あきらかに現在の世界状況との照らし合わせの中で、具体的には現在のあるいは今後の日本と中国との関係のありようの姿を、元号の中に長く封じ込めようと意図したという見方も容易に成り立つことだろう。
現在の中国の覇権主義はひどいものだと思わせるけれど、しかし日本と中国の文化的な紐帯の深さは、今現在においても否定しがたい部分はあるだろう。元号を中国の文献からの引用という皇室の伝統的なあり方から大きく方向転換したということは、そんな紐帯のひとつを進んで切り離したということでもあるのだろう。ただ、そうなると改めてはたして『万葉集』が国書としてどの程度の位置づけを持ちうるのか、という点が気にならなくはない。
中西氏の日本文学と漢詩との関係については、いくつかの段階を想定しておられるけれど、万葉時代はその初期段階にあたり、たとえば「漢詩」についても、一方で厳然とある「漢詩」というものを、そもそもは文字や当然文章を持たない日本人が日常通用の話し言葉、その口語的発想によって日本的なものへと引き付けようとした段階、いわば「漢詩(中国の詩)」に対する「和詩(日本人の手になる日本文学化しつつある漢詩」へと、その質的変化を進める時期にあたるようだ(理解が誤っていれば困るのだけれど……)。とすれば、『万葉集』自体も日本と中国の文化的複合体的な性格を否応なく持つ書物であり、いわゆる「国書」のイメージからは少しずれるところがあるのではないか、という気がする。何かの情報の中で、おそらく冗談半分に「ひらがな」による元号があっても良いのでは、ということを口にする人がいたりしたのも、「国書」尊重を徹底するならありうる発想の一つではあろうと思われたりもすることだ。
そう思ってみると、そもそも「国書」とはいったい何なのだろうか、などとも考えてしまう。
近所の小売店に行ってみたら、ある商品が棚に十数個並べてあった。つい最近、何かのニュースで見かけた商品だったので、目を引いたのだと思う。その商品とは、カップヌードルの「味噌」。新製品で売り上げ好調、とうとう製造が追いつかなくなって店に現物が並ばないという状態だ、というようなニュースの内容だったように思う。ここにあるな、ということで、物珍しさから一つ購入。消費税込みで194円だった。店番のおじいさんに聞いてみると、新商品ということなので、ためしに一箱分ほど買ってみたとのこと。棚に並べておいたけれど、ほとんど売れない。まだ、商品として浸透していないようだ、とのこと。のどかな話、である。
念のために、ニュースの内容を確認しておいて、ついでにアマゾンで商品検索をしてみた。カップヌードル「味噌」は、安くて1個278円、高いものは642円で(ちなみに、日清食品の希望小売価格は税別180円らしい)売り出されてあった。それ以外の価格帯でも、596円、540円、499円等々で、ずいぶん高いなと驚く。ところが、一つ166円というのを見つけて、こちらはひどく安いと思って、よく見たら「味噌」のミニであった(メーカー希望価格は税別で108円だった)りした。
需要があるから供給があるのか、供給があるので需要が乗っかるのか、それは知らないけれど、何でも商売になるものだと改めて感心したことだ。
ちなみに、カップヌードル「味噌」は、たまたま昼がラーメンだったので、夕食には食べず。明日の昼食にでもいただいてみようかと思う。楽しみである。
昨夜、夜の10時を待って、世界同時配信のネットライブにつなげる。ブラックホールが、始めて可視化されたという内容の配信。前置きがちょっと長くて、イラついたけれど、やがて画像が提示されて、その画像を見つつ、本当に「ブラック」な「ホール」なのだと得心する。肉眼による目視というのは、そもそも不可能なので、電波望遠鏡で集められたデーターをもとに映像化したもの、ということらしいけれど、それにしてもまさに「ブラック」な「ホール」としての存在を視覚的に認知させてもらって、ただただ感心、感銘するばかりだ。地球上の電波望遠鏡の連携によって、地球全体を一つの「目」として、肉眼の300万倍の「視力」で宇宙を覗き見る、などというほとんど詩的でSF的な世界が実現していることがとても面白い。
今後は、さらに複数の望遠鏡の参加を得て、より詳細な画像が再現できる可能性があるらしい。どんな結果がもたらされるのか、とても楽しみだ。
経済的には、直接的にはおそらく1円の効果も発揮しない発見なのかもしれないけれど、人類の未知に対する好奇心の発現と、その探求力とは「プライスレス」の価値を持つものだろうと、思われる。ひさびさに、すごいなと思う。
地上では、愚かな大臣のバカげた発言とみっともない退任劇と、相変わらず空疎な「真摯な対応」を連呼する指導者と、様々に煽り立てるくだらないマスコミの報道合戦とが繰り広げられているみたいだ。それらをひとまとめにして、ブラックホールが吸い込んでくれたら、少しは地上もすっきりするかもしれないのに、などと思う。
今日は、朝から寒い。雨のち曇りで、大山の様子は望めないけれど、あるいはまたまた新雪が降り積もっているのかもしれない。ここ数日、せっかくようやく大山の雪も解け始めて、谷筋のみ雪が白く細く残るという「竿雪」状態になっていたのだが。
テレビのCMで、「ミツカンポン酢」で鶏肉を煮ると簡単で美味しいというのを流していて、いつかやってみようと思っていたのだが、よい機会なので、鶏の胸肉を買ってきて、ミツカンではないけれど、某地方メーカーが作っているポン酢で、実家からもらっていたのを使って作ってみることにした。ついでに、ブロッコリの芯の部分を茹でて食べようと残しておいたので、それを短冊状に切って、鶏肉ぶつぎりと一緒に煮込んでみた。アクセントにちょっとだけ黒コショウを入れて、10分ほど。あとは火を止めて(正確には電源を切って)、しばらく放置して味をなじませ、早速昼食に食べてみた。黒コショウは、彩り程度の効果しかなかったが、ポン酢の酸っぱい味は、思いのほか胸肉と合っていて、大変おいしかった。ブロッコリの芯は、酸っぱくてしゃくしゃくしていて、味・触感ともにこちらも意外とおいしかった。やってみるものだ、と思う。煮込んだ汁は、さらに何かに使えような気がするので、残しておくことにした。
中西進氏、次は「芭蕉」の話題なのでと早とちりして俳人「芭蕉」を話題にするかと思ったら、引き続き謡曲で植物の「芭蕉」の精が主人公のお話『芭蕉』の話題だった。こちらも、漢詩の引用が作中の芭蕉(植物の)の精の姿を効果的に際立てているという点について、懇切な説明があって、なかなか面白かった。面白ついでに、本棚のどこかに『謡曲集』(仮面劇である「能」の台本のようなもの)があったことを思い出し、ついでのことと『芭蕉』本文も読んでみた。先に中西氏の解説をよんでいたこともあり、内容も分かりやすくてこちらも面白かった。「芭蕉」違いはさておき、中西氏の次の話題は今度こそ「俳人芭蕉」と陶淵明の話のようである。
ネット上の情報で、米国の2019年度の「海兵航空計画」から、辺野古の新基地建設に伴う施設の建設計画が削除されたということが紹介されてあった。公表された文章の中にそれまで記載されてあったものが、消されてあるということの報告のようなので、さすがにガセやフェイクではないと思われる。情報の発信元もそれなりに明らかなようだし。それって、いったいどういうことなのだろうかと思う。仮に辺野古の埋め立てができなければ、それに付随する施設の建設も意味のない物になってしまうだろうことは当然のことだ。「海兵航空計画」が単年度ではなく、複数年度にわたるある程度の見通しを含んでいるとしたら、米国の姿勢としては辺野古への基地移設について、中止ということではないにしても、いったん「様子見」の段階へ引き戻すということなのだろう。埋立地に軟弱地盤が指摘されたことが、その「保留」の理由らしいことも紹介してあったけれど。相当のリスク(一部マスコミやネトウヨがそれを原因とする、反対派がいて、推進を邪魔しているなどというのは、国家レベルでみれば、選挙の投票行動に若干の影響を持つという程度で、ほとんどリスクにも圧力にもならないし、ほぼ意味のないことだろう。無視してよいことだから、県民投票の結果が出ても、それを平然と無きものとして埋め立てを進めていけているのだけれど)があれば、いったん関連計画の策定や予算の計上などは念のために凍結するだろうし。政府は、軟弱地盤の位置を水深90メートル地点を避けて、70メートルの地点をもととして、現在の技術レベルで施工可能として、今現在も辺野古の一部地域の埋め立てを強力に押し進めているらしいけれど(なんとなく、例の森友学園の地下埋設ゴミ問題などをちょっと思い出す。結局、森友はけっこうお洒落で立派な校舎まで完成させながら、学校開設は失敗したが……)、本当にそれで大丈夫なのだろうか、と思われる。いずれ否応なく水深90メートル地点も含めての地盤改良工事を進めることになるだろうし、それが絶対にうまくいかないと、米海兵隊の「保留」解除の担保にならないとすれば、政府はそれこそ必死の思いで膨大な労力と税金と時間を投入してでも、埋め立てを完成させなければならないということになってしまう(埋め立て工事の施工業者にとっては、際限のない公共事業ということで、まさにものすごく美味しい金のなる木に等しいものかもしれないけれど)。本当に、大丈夫なのか。これって、そもそも辺野古移設賛成・反対以前の問題なのではなかろうか。
すでにターニングポイントを越えて、先へ踏み出した現在だから、いずれどのようなものが辺野古に出現するのか、ドキドキハラハラ状態で見守るほかはないのだろう、か。
本は、読む側によっていろいろな読み方が可能な場合がある。先日、市立図書館で借りた借金玉(ペンネームです)著、『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』は、そんな本の一冊なのかもしれない。内容は、ADHDの人たちを対象とした仕事と人間関係への対応術を、自身発達障害を公言される借金玉氏の体験をふまえた、ある意味とても実用的な「ハウツウ物」的な内容の本である。発達障害によってさまざまに引き起こされる困難に対して、具体的にこのように対処することで仕事がしやすく、さらに言えば生きやすくなる術を紹介するという内容である。私自身はADHD的な傾向の有無について自分で判断しょうがない部分があるようにも思うけれど、発達障害を程度の問題として考えてみれば、日常生活や社会生活に具体的な支障が生じるということはないにしても、発達という点からいえば、未発達な要素を器質的な部分を含めて、抱え込んでいるのかもしれないとは思う。私自身にとって、この一冊は実際に日々の生活や人間関係の中に生かして暮らしていくという「ハウツウ物」としての活用の部分は多くはない(とはいえ、ここに語られる多くの工夫や知恵については、それぞれ思い当たることが多いことでもある)にしろ、ただADHDの人たちがどのような点で困難を感じて日々生活しておられるのか、さらに借金玉氏がそんな様々な困難をどのように調整しつつ日常生活や社会生活を送っておられるかを、ずいぶん具体的に理解することができる一冊としての大きな意味や価値を持つと思わせられたものである。人はそれぞれに様々な事情や困難を抱え込んで生きているのだ、という一般論はさておき、実際に困難を抱えて生活しておられる人たちのことを知っておくことは必要だし、大切なことであるとも思われる。その点で、この本は広く発達障害に対する啓蒙の本としての意味や価値を持つ一冊といえるようだ。
昨日、今日と暖かい日が続いている。ようやく、実感としても春の本格的な訪れを感じて良いようだ。市内の有名な公園では、桜の花が満開で、周辺には桜見物渋滞まで発生しているようだ。「歩き」の方も、あまり暖かいのは逆にしんどくなってしまうので、本当は少し寒いくらいが良いのだが、とはいえ周囲の春に気を満喫するには良い日和だともいえる。
今日は、午後から合唱の練習がある。本番指揮者が東京から来鳥されてのレッスンということになる。
元号の発案者が、日本文学・比較文学の研究者中西進氏といううわさが流れているらしい。真偽は不明。本日、図書館に本を返却、新たに借り出そうとしたら、偶然書棚に中西進氏の著作を見つけた。『日本文学と漢詩 外国文学の受容について』というタイトル。内容は、『懐風藻』とか『和漢朗詠集』という主に日本人の手になる漢詩文集の研究で、『万葉集』ではなかったけれど、良い機会なので借りることにした。アジア東端の島国日本の、大陸の漢字文化圏からの文化の受容と消化と昇華について触れられた内容(講義録なのだろうか)のようである。少し勉強させていただこうと思う。
4月に入って、臨時のお仕事もなくなったので、また読書中心の生活に戻ろうと思う。とはいえ、昨日は句会で「とっとり花回廊」という施設に吟行。時折、雨に霰が混じるという悪天候ではあったけれど、季節の花々がちょうど咲き始める時期で、いろいろな花々を楽しみながら、園内を句作して歩く。かたくりの花が、終わりに近づいていて、花の数が少なかったのは少々残念ではあったけれど、紫色の可憐な花を見ることができてよかった。昔々、鈴鹿山脈の藤原岳という山に、わざわざカタクリの花を見に行ったことなどを思い出したりもした、山の斜面に点々と咲いていた小さな花の姿がいじらしかった。昨春、1か月ばかり東京で過ごした際には、武蔵野の面影を残す近所の森林公園が、カタクリの群生地として有名だということで見学に行ったけれど、その時は今よりももっと時期的には早かったけれど、すでに花期は終了していて見ることができなかった、というようなことも思い出したりしていた。
「とっとり花回廊」は、人の手で整備された花と森の公園ではあるけれど、遠くに残雪の大山を雲の間に眺めながら、自然の気というものに親しく触れながら歩くことができる場所であることを再認識した。入園料はちょっと高めだけれど、晴れた日に広い公園内の丘や谷筋などをぶらぶら歩くのも気分が良いだろうな、と思ったことだ。
本日は、途中の外出を挟んで読書。午前中は『源氏物語』と『唐詩選』、午後は平畑静塔関係の本を読んで過ごす。夕方は1時間ほど「歩き」。歩きながら、静塔の「俳人格」のこととか、評論家山本健吉が問題として指摘しているという静塔の「キリスト教信仰」と「根源追及」の整合性的なことなどをたらたらと考えながら歩いていた。
元号が「令和」に決まったらしい。さすがに、「安」の字を入れるほどには愚かではないということが証明されたかなと思う。。
そんな中で、中国の反応として「令」の字は「零」に通じる音なので、「令和」は「零和」に通じる言葉(平和ゼロということらしいが)として、中国人なら使わないというようなことを紹介していたマスコミがあった。「嫌韓・嫌中」人種なら、またぞろ中国の馬鹿な横槍と思うかもしれないけれど、この感覚はおそらく中国人ならごく普通の感覚なのだろうと思う。昔の中国においては、例えば皇帝の名前と同じ音の漢字は恐れ多くて使わない、その音を含む漢字は別の語に言い直して使うといことが当然のこととして行われていたので、同じ発音はその意味内容にまで通用性があるのであえて避けるということは当たり前のことだったようだ。今回の「令」が「零」に通じるというのも、元号がとても大切なものとして考えていれば、当然通音の意味も考えに入れて、その漢字の使用を控えるのは、日本人ならいざ知らず、中国人ならばごく普通の感覚ということなのだろう。
中国ではすでに元号を廃止しているので、別に中国人がどう言おうと日本人は日本人の感覚で漢字を使えばよいことだろうし、別に「令」が「零」であろうとなかろうと関係ないことだと言い切ってしまえば、それで済むことだろう。ただ、こんなしょうもない横槍と、「嫌中」人種にしょうもない突っ込みの機会を与えた原因は、時の総理の元号は日本由来の書物から、という別の意味合いでの横やりを突っ込んだことが大本の原因である、ということを頭のどこかに置いておくことも必要かも、ということである。『万葉集』が出典ということらしいけれど、それってもろ「中国」の影響の下にあるのでは……。無理しちゃって、という印象。これもまた、日本由来の書物からという、時の総理への「忖度」の一環か……。