日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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【19年5月31日】
自分一人だけが死ぬのはたえがたい、特定、あるいは不特定多数を巻き込んで、自らの死の道連れにすることを「拡大自殺」と呼ぶらしい。自分一個の死というものを、周囲にまで押し広げて、その結果多くの無関係な人々を巻き添え、あるいは道連れにして自殺を決行することのようだ。理由なき殺人とも思われるほどに、犯行を犯した人間の内心の闇は深く、また異形の姿を持っているのかもしれない。自らの死と等価の他者の死を、自らの死の代償とするような思いがあるのかもしれない。
犯人に対する不特定多数の人々の怒りは大きく、「死ぬなら一人で死ね」という断罪の声がネット上も繰り返し叫ばれる中で、一方「死ぬなら一人で」という発言を自制しようという声が注目を浴びたり(炎上したり)もしたようだ。「遺族や被害者を前によくそんな発言ができるな」という趣旨の非難や「お前がその立場に立った時同じ発言ができるのか」的な疑義の声が上がったらしい。そんな多くの反発の声に対し、自制を語った人は、犯人同様内心に鬱屈した思いを抱く潜在的な「自死志向者」が、あたかも自分自身をも非難・弾劾するかのような社会の雰囲気(ネット世界の雰囲気)に対して過剰に反応し、それが「拡大自殺」の誘引や引き金になることを危惧しての発言であったようだ。「拡大自殺」を許容・肯定するような姿勢など微塵もなく、今後同じような事件が引き起こされないためにも、今考えるべきこととして一つの問題提起をされたということらしい。
しょせん他人事と思っているから、そんなふうに変に公平で冷静なような見方や物言いができるのだ、という非難や反発を招くであろう発言ではあるけれど、個人的にはその発言者の思いには共鳴するところがある。今までも、繰り返して同じような犯罪がなされ、そのたびに多くの怒りの声が発せられてきたように思う。その怒りの思いを否定などするつもりは毛頭ない、ただ、にも拘わらず、あたかも思い出したかのように同様の殺傷事件が繰り返されるということは、なぜなのかとは思う。あるいは、多くの人々の怒りの声が、「拡大自殺」を引き起こしかねない素因や要因を内心に凝縮させつつある「ただ一人の」人間の心には響かない、届かないということがあり得るのではないか、ということだ。
少なくとも、「死ぬなら一人で死ね」という言葉は、「拡大自殺」を抑止する言葉足り得ない、という側面をもっているのではないか、ということを、ある人物の発言とそれに対する周囲の反応を見ながら、考えさせられたことだった。
新たな遺族や被害者が生まれる前に、自分自身が当事者の一人となる前に、考えてみるべきことのように思われた。
【19年5月27日】
天候のせいもあるのか、あるいは樹勢の関係もあるのか、今年は庭木全体と調子がおかしい。特に、道路に面した霧島ツツジの状態が良くなくて、一部枯れが目立ち始めている。花の付きようも良くない。昨冬から変調のきざしはあったけれど、季節がよくなればなんとかと思っていたのだが、どうもおもわしくない。根が水を吸わないということがあるのかもしれない。やむなく、床部分の土を手で掘るようにして柔らかくしてみる。土は一部硬くなっていて、根が浮いてきている状態もあるようだ。いわば、土のマッサージを施して、さらにその上に2袋ほど使って園芸用の土をかぶせておくようにする。水を与え、ともかくこの先の様子を見るほかはないようだ。山茶花にも、今年は葉に虫がついているらしく、薬と噴霧器を買ってきて、薬を撒く。これも、どうなるか、様子を見る。成長自体は衰えていないようなので、花期後の肥料も与える必要があるだろうと思う。何をどうしてよいのか、ネットを利用したりしながら手探りで対応を進めている。何もなければ、それはそれですっきりした庭になるのかもしれないけれど、今生きているものをむげに切り捨てるつもりもない。
キンモクセイの方は、水やりなどに注意してきて、少し回復の兆しがでてきたようだ。もともとの地面の固さと根張りの関係で、こちらも水を吸い上げにくいような気がする。昨冬は思い切って枝の剪定をおこなったけれど、その効果はどうなのか、まだよくはわからない。
手探り、足探り状態となってしまった。前の住人は、忙しい方だったようだから、時折は業者をいれて手入れをしておられたのかもしれない。
植物との対話、みたいな有様である……。
【19年5月24日】
朝早くであるにもかかわらず、太陽のぎらつき方が普通ではないような印象を受ける。空には一点の雲もない。西の空に、薄く有明の半月が浮かんでいる。天気予報では、最高気温は30度を超すかもしれないということらしい。不幸中の幸いで、湿度がさほど高くはなく、陽光を避ければ、まだなんとかうんざりしないで「歩き」を続けられそうだ。起床してほどなく、買って間もない登山靴の足慣らしを近所を歩いて行い、朝食後、今度は体調調整に少し長い時間を「歩き」に使う。朝からの暑さで、この状態が続くようなら、「歩き」自体日の出間もない時間帯を中心に歩くか、日没後にするか、雨が降っていれば昼間傘をさして歩くか、というような選択になりそうだ。一時的な現象なのか、いよいよ本格的に温暖化の影響が目に見え、肌で感じる形で表れ始めているのか、どうなのだろうか……。
古代中国風の発想でいえば、天変地異は時の為政者の悪行の反映、天上の意志の警告的な現象というようなことになりそうだが(確かに為政者による悪行は着々となされているとはいえ)、天変地異自体は一時的な異常現象でもあろう。しかし、これが継続して続くような場合であるとすれば、これは時の為政者などという限定的な対象による悪行というよりは、もっと不特定多数の、我々全体の所業の結果によるもの、ということにもなりそうではある。
異変は、小さなところから始まり、気づいてみればもう後戻りができない事態と成り果てている、などということは、パニック映画のお定まりの展開ではあるけれど、たとえば自分が暮らす地域の今年のつつじの花の付き方の奇妙さとか、あるいは本日近所の小売店で聞いた話として、山で笹が異常に枯れていて、今年の柏餅を包む笹の葉が供給薄になりそうだとかいう地元の噂話めいた小さな事態の集積が、思わぬ大きな天変の兆候であったりというようなことが、実際のところなければよいのだけれど。……そういえば、今年の冬は平野部にはほとんど雪が降らなかった、などということも、同じく小売店での話題になった変則的な奇妙な事態の話題ではあったが。
総理の皇室行事の露骨な政治利用という点は、高天原からの警告があっても当然というほどの、不敬な所為の一つと言ってよいと思うけれど、それはそれとして、スムースに代替わりが実現して、新たな御代を迎えたとはいえ、お偉いさんが呑気に口にするほどには「明るい時代の到来の予感」などとは言いづらいような奇妙な翳りを、気象現象にとどまらず、不透明な経済状態や政治状況、あるいは我々の意識や認識のありようを含めて、時代の先行きに感じるのは、一体どうしたものだろうか。
【19年5月21日】
『源氏物語』の「蓬生」読了。結果は、源氏の助力により窮状を脱した末摘花は、その2年後、源氏の新居の一角に居宅を移して、新生活を始め、めでたしめでたいということに一応は落着するわけだけれど、実際のところ源氏自身の本心は、いきさつ程にはすっきりしたものではないようだった。末摘花に対する評価についても、以前にくらべて少しは成長たところはあるが、奔放な女に比べるとおとなしい性格は相対的に欠点を隠す(少しはマシという感覚か)かも、という程度の軽いもので、源氏の妻の一人としてはほぼ黙殺扱いを受けているようだ。そんな点まで、作者の紫式部は描き込んでいるわけだけれど、およそ社会的にはほとんど評価されないタイプの女性に対してまでも、それなりに後ろ盾となり続ける、というあたりに主人公光源氏の「色好み」としての面目躍如ということか。お話は続いて「関屋」の巻。これも「横の並」の物語。
元号問題をきっかけにして、中西進氏の文章を読み始めたけれど、面白い。研究者としての見識の高さや、鑑賞力の鋭さや、さらに社会人としての豊かで堅実な良識の部分など、幾つもの点について強く興味や関心を引かれることとなった。私が師事する恩師の中西氏に対する評価の高さなども思い出した。さらにこの方、俳句に対する造詣やさらに実作者としての経験をお持ちだということで、いろいろな点を含めてしばらくはこの方の文章も継続的に読んでいかねば、と思う。本日、早速市立図書館で文化論に関する1冊を借り出してくる。館内設置パソコンの検索機能を利用すると、さらに数冊著作が所蔵されていることも確認できた。
図書館の2階で、地元のイラストレーターと造形作家のミニ二人展が開催されてあったので、見学する。イラストも、紙粘土による小動物の造詣もなかなか魅了的だった。行事のポスターや個人の御祝いなどに、イラストや人形を提供しておられるようだけれど、もっともっと活動の幅が広がることを期待したいと思った。
地元で、こんなふうにこつこつと活動する人たちがいるのを知ることは、なんとなく心の励みになるような思いになる。
昨日は、半日がかりで、県の中央に位置する町で、俳句関係の会議があった。車を駆って参加する。県を東西に横断する高速自動車道を利用して出かける。高速道とはいえ、現在のところ無料で利用できる区間になっているので、ありがたい。当日、強風のために速度制限があって、いつものようには頑張って運転できなかったせいか、少々遅刻する。会議は、行きつ戻りつしつつも、終了。12月に開催する全県下の俳句大会の大筋が決まる。今年は、中部地域が担当なので、特に役割を勤める必要はなさそうな気がする(わからないけれど……)。帰りは、同じ方向の方を一人載せて帰る。久しぶりの車運転の遠出で、夕食後ひと眠り。
【19年5月17日】
長編小説には往々にして、本編とは別のサイドストーリーが挿入されることは割とあることではないかと思う(外伝とか銘打たれて、本編とは別にそちらだけで独自のお話が展開したりする場合もあるが)。『源氏物語』の「蓬生」の巻もそんなサイドストーリーの一編なのだろうと思う。光源氏を中心とする本編を「竪の並」というのにたいして、「横の並」というのであろうか。主人公は、末摘花という、高貴な身分ではあったが、父母の死によって後見を失い、一度は源氏の援助によって安定した生活を手にすることができたが、源氏の須磨明石への遠流によって、一気に後ろ盾を失い、貧窮の極みに落ち込むけれど、貴族としてプライドを保ちつつ、源氏の帰京と再度の復縁を願うという「待つ」女性の一人である。頬が赤く、鷲鼻で、お世辞にも美しいとは言えない女性ではあるが、源氏との縁を信じて、源氏の帰京以後も彼が再び訪れてくれることを、半ば絶望しつつも彼の残した言葉ひとつに縋りつくようにして日々を過ごしている。長年奉仕してきた女たちには次々と愛想尽かしの挙句、館を去られ、乳母の京から大宰府への転居の誘いも断り、裕福な者たちからの(自身の生活に箔をつける目的での)家屋敷、調度類の購入の申し出も拒否し、ついには最後の頼みとしているそば付きの女性にも見放され、雑草が生い茂げり、門も築地も倒れ崩れる化け物屋敷のような状態の館で、心慰むこともなく、日々の暮らしを送る。なんとも悲惨の極みのような生活を続けている。その生活のありようが、ある意味生々しい感触を読む者にもたらし、後ろ盾を失った高貴な女性の落はくした生活というものが、ひしひしとこちらに伝わってくるようで、ついつい先を読み進めてしまう。
困窮の生々しい一端とは、例えば長年世話になったそば付きの女がいよいよ館を立ち去ろうとする時、感謝の意味で何かを贈りたいけれど、その贈り物とすべきものがなにもない。せめて身に着けた着物を贈ろうと考えもするけれど、自分の普段着は涙に濡れ汚れておくることはできない。そこで、とっておいた自らの抜け毛をかずらとして、美しい箱に納めて贈ろうとする。あるいは、当時抜け毛も貴重なものとして贈り物にする習慣のようなものがあったのかもしれないけれど、それにしても最後に送るものが自らの抜け毛しかないということは、やはり胸が痛くなるような困窮の状態だと思う。そして、紫式部はそんな貴族の女性の零落のみじめな姿も、そんな境遇の中での貴人の悲しい矜持の姿も、きちんと描き出している。物語作者としての紫式部の力量につくづく共感する思いになる。
物語は、やがて不幸な末摘花が幸福な結末を迎えるという、ちょっとほっとするような(ありがちな予定調和的展開と思われるかもしれないけれど、それまでの悲惨でみじめな生活がリアルな迫力を持って迫ってくる分、ついつい良かった良かったと安堵の思いの方が素直に生じるのだ……)。
それにしても、後ろ盾を失い、零落した貴族の女性たちの困窮と精神的な辛さを、(当然読者である貴人男女に対する配慮はあるにしても)隠すことなく描きだそうとしている式部の姿勢には考えさせられるところがある(とともに、以上の感想には全く反するかもしれないものとして、あるいは末摘花の悲劇的状況を、しかし悲劇ではなく困窮貴族の興味深い生態とか、ある種の生活喜劇として受け止める読者の存在があったりはしないよな! などともちょっと思ったりはするのだが。どうなのだろうか……。そういう冷酷な、あるいは無慈悲な受け止め方も、読者の側にはあり得るのかもなどともふと思う。現代においても、今風に「自己責任」などとは言わないまでも、似たような状況は起こり得るように……)。
【19年5月16日】
久しぶりに、電話で1時間くらい話をすることがあった。関西在住の頃、俳句関係で大変お世話になった方。この人を中心メンバーとする結社横断型の勉強会では、本当にいろいろと鍛えられるところがあった。現在の自分自身の基礎のひとつはこの勉強会で作られた、と最近諸般の事情で参加できない学習会のことを思いながら、改めて思った。その方が、6月半ばには某所で講演会を持たれるということで、主催団体からわざわざ連絡をいただいたので、即「出席」の返事をだすとともに、数年ぶりに良い機会なので一度お電話してみようということで、携帯を手にしたところ、1時間ほどいろいろとお話をする結果となった次第だった。俳句に関する知識と見識の大変深い方で、正直なところ一対一で話をすることがいまだにどこか「怖い」(もちろん本人が恐ろしい人というわけではない、温厚で大変優しい方であるが。)という気持ちがうずく。お話をする中で、自分の知識不足や認識の甘さ軽薄さなどが、結果として自分自身に身に染みて感じることになる、ということに対する「恐れ」というものが、内心あるようなのだ。邪悪な人間というのは、確かに存在するのだろうけれど、本当の意味で「恐ろしい」人というのは、この方のような人なのだろう、とつくづく思ったりもする。とはいえ、久々の大阪での再会。さらに、この機会を利用して京都の句会の方にも参加するつもりで、なんとも楽しみなことだ。
ここしばらく、日中がずいぶんと暖かい。とはいえ、20度台なので、夏の暑さに比べればなんということもないはずなのだが、やはり暑い。特に、直射日光がひどく暑い。朝夕が寒いくらいに気温が下がる分、昼間のこの日光はきついな、と思う。今年のつつじは、2種類植えてあったものが、いずれもまともに花をつけなかった。気象の変調のようなものを感じているので、念のために害虫駆除の薬物散布も2種類の薬を使って行う。毛虫が多いような印象を受ける。どうなっているのだろうか、と思う。
「戦争」で領土回復を。飲み屋でのおっちゃんの与太話であれば、聞き流されることだろう。しかし、それを公の場で現職の国会議員が(酒が入っていたとはいえ)、公然と口にするというのは、ほぼ考えられないことだろう。ネトウヨがネット上で、好戦的な話を垂れ流すのとは、その愚かしさという点では共通する部分はあるにしても、本質が違うなとつくづく思う。維新の議員さんの中には数名問題発言等で顰蹙を買う人がいることは以前から知ってはいたけれど、この人もまたそんなひとの一人であったということを改めて確認したようなものだった。無所属で議員活動を続けると本人さんはおっしゃっているようだけれど、それはずいぶんと難しいことではあるまいか……。
【19年5月11日】
外交の安倍と自己称揚しつつも、実際には文字通り何一つ成果を上げられないままに、とうとう北朝鮮に対してまで譲歩する姿勢を打ち出してしまった。領土問題で、ロシアに大きく譲歩した挙句、話はまるで進展しないままに、経済的な支援だけを持ち逃げされる体たらく。それを今度は北朝鮮に対してまで、同様の姿勢を打ち出すという。官房長官はなんとか整合性を付けようと、その場しのぎの発言を繰り返しているようだけれど、ミサイル問題にしても、なによりも拉致問題に対しても、ほとんどご破算に近い形で、いわば一からの仕切り直しをと相手に提案しているようなものではないのか、と思われる。いままで、拉致問題に対して少しは積み上げてきたものを(安倍政権はほとんど何もしてはこなかったけれども)振り出しに戻すようなやりかたとは、本当に呆れるばかりだ。その上に、新たにそして明らかに北朝鮮側に様々な交渉を有利に進める手段を日本側から提供するという愚策である。北朝鮮としては、策に窮した安倍政権がこちら側にすり寄ってきたとして、「拉致問題」を強力な交渉手段として活用しようとするだろうことは、素人目にもあきらかなことではないか、と思われる。いやいや、実は北朝鮮が話し合いの席に乗っかってさえくれば、停滞した事態を推し進める秘策を日本政府は準備しているということであれば、その手腕を是非見てみたいような気もないわけではないのだが……。伝統的な「親分子分、親方子方」関係そのままの対米ごますり路線とは異なる、高等戦術がなにかあるのだろうか。特別の交渉カードを日本政府は実は手中にしているのだろうか。北朝鮮が当面日本に期待することは、経済的な援助のみであろうけれど、日本側としてはうかつにその希望に沿えないことは、対北朝鮮経済制裁を継続するという国際社会の趨勢の中で(ましてや、その旗振り役の一人である日本国政府が、その基本的方針に反することを実行するほどの胆力はもたないだろう)明らかだ。こちらが譲歩すれば、向こうもこちらを忖度して一定の譲歩を図るであろうという、島国日本の「融和的謙譲の美徳」外交方策(マスコミにしばしば登場する「お友達関係」とも言えようが……。ふと、作家武者小路実篤の有名な言葉「仲良きことは美しきかな」を思い出す。この言葉自体は武者小路の信念や本心の率直な吐露として、理想主義者武者小路の面目躍如の思いはあるが。これはあくまで、審美的な判断であり、また理想主義的な思想の裏付けが発したことばであり、どろどろの混沌、利害対立と争奪の現実政治の世界に「お友達関係」などいう言葉を持ち出されるとしたら、それはよっぽどの無能な、あるいは悪質な外交方策の象徴的な表現であろうけれど。マスコミなどは、安倍トランプ両氏を揶揄するつもりで、この言葉を用いているのだろうか?)は、たとえ同じ東アジア文化圏の中で隣り合う国家とはいえ、無意味で無効なものだろう。日本政府にではなく、アメリカ政府へ、さらには国連の場へと拉致問題解決の糸口を求める家族会の姿は、自らの権力基盤補強のために繰り返し拉致問題と家族会を利用しつつも、結局口先ばかりで問題を放置し続けた安倍政権の無情さと非情さの象徴のように思われてならない。
ひどいもんだ、と思う。
【19年5月9日】
オモチャコレクターとして有名な北原照久さんのコレクション展を市立美術館で開催していたので、向かいの図書館に本を返却するついでのつもりで見てきて、思った以上に楽しくてついつい腰を据えてじっくり見学してきました。展示物の中で特に心惹かれたものの一つは、実は映画宣伝用のポスター。邦題は「戦場のメリークリスマス」となっている、ビートたけしや坂本龍一、デビットボウイなどが出演した映画。その原題はまるで違っていて(原題と邦題が異なることはよくあることらしいけれど)、「FURYO」というタイトルでした。写真の中央辺りに小さく漢字で「俘虜」と記されてあったので、「捕虜」の意味かと了解しました。捕虜収容所を舞台にした映画で、映像も素敵だったけれど、音楽が素晴らしくて、思わずサントラ盤レコードを購入した覚えがあります。どの曲も本当にすばらしいと思いましたが、個人的にはボーイソプラノの独唱曲(調べてみたら「ライド・ライド・ライド」という曲だった。「ライド トゥ ザ ムーンライト」とかいうような歌詞を覚えているけれど)が、水晶か何かのように透明な美しい曲で大変感動しました。
ポスターと言えば、企業ポスターとして名作の誉れ高い「赤玉ポートワイン」のセミヌードポスターの現物を目の当たりにすることができて、こちらも大変印象に残りました。日本初のヌードポスターということで、センセーショナルな部分もあったようです。ちなみに、ポスターのモデルになった若い女性(赤玉ポートワインの宣伝のために組織された歌劇団の女優さんだと、先日のBS番組で知りましたが)は、その後実家から勘当(縁を切られるということですが)の扱いを受けた(当時の時代相が思われますが……)ということもあったように何かで聞きました。
実物が見られるということは、やはりとても貴重な経験だと思います。充実した半日となりました。
【19年5月6日】
「最後の授業」、2回目を見たのは、つい先日のことで、ロボット研究者石黒浩氏の授業。正直言って、個人的には石黒氏の作るアンドロイドは、少々怖い。ご本人も言っておられたが、小さな子供がご自身をモデルとするアンドロイドを見て怖がるというのは、なんとなく感覚として共感できる。あまりにも似すぎていて、しかし似すぎていることによって逆に異質な部分がより強く、(私を含めて)純真な曇りない感性の持ち主の子供たちに(少々言い過ぎではあるが)、強烈に迫ってくるという性質をはらんでいるのではないか、と思ったりするということだ。親しみを感じるという点では、まるで漫画の一筆書きみたいな「アイボ君」や、ご本人も講義の中で紹介しておられた個性的な要素を極端にきりつめられたのっぺりしたロボットや、さらには抱き枕型ロボット(と言っていいのだろうか)の方が、万人に広く共感を抱かれるのももっともではないか、などと勝手に思う。その点でいえば、世界で一番美しい(だっただろうか、ちょっときちんと覚えていないけれど)アイドルアンドロイドも、写真で見る限りはマネキンとしての美しさは感じるけれど、動画で見るとどう見ても美しいとは思われない。美は個人の感性によってさまざま存在し得るので、余計なお世話ということもあるだろうけれど。造形技術の部分や完成度の点で、今後さらに進化していくことだろうから、今現在のアンドロイド造形物に対する感想ということになるのだろうけれど。。
石黒氏の言葉の中で印象的だったのは、「有機物は無機物を志向する」的な趣旨の発言だった。有機物を人に置き換えれば、「人間は(無機物の集成体である)アンドロイドを志向する」ということになるようだ。その根拠の一つとして、有機物たる人間は、ちょっとした自然の変化、わずかな宇宙規模の変動に対してすら堪え得ないだろう、ということを挙げておられたようだ。確かに、太陽がほんのちょっと活動を活発化したりしたら、人を含め地球上の有機物は全死滅ということにもなりかねない。言い換えると、そんな環境の変化に対して生命をながらえるためにも、「有機物は無機物を志向する」というような可能性も大いにあり得るわけだ。そんなふうに考えてみると、すぐさま思い浮かんだのが、松本零士作の『銀河鉄道999』の世界、というわけだった。あのお話の中で主人公は、永遠の命を手に入れるために機械の体を手に入れようとして、様々な遍歴を経験するという内容だったと思う。結果的には、機会帝国は崩壊し、主人公は機械の体を手に入れることなく終わるわけだけれど、現実的には120年程度しかもたない有機体に対して、機械で代用して(永遠とはいかぬまでも)寿命を延ばすということは、あり得ることだろうし……。
さらに、技術が進歩すれば、大脳内の電気信号の集合体をそのままコンピューターに転写して、記憶や個別の知性などもそのまま無機物化して残すことが可能になるのかもしれない。その極原初的なあり様としては、パソコンの中に文字や映像データとして自分の思いや経験を残しておくなんてことはすでに行われてはいるけれど。ただ、文字も映像も自律的に増殖して行ったりすることはないが。とはいえ、物語の世界ではとっくにそれは実現している。ふと思い出したのが、手塚治虫の『火の鳥』。そのお話の中では、事故によって脳の内容までも機械に転写された青年が、やがて一人の美しい少女と恋をすることになるのだが、実はその少女はデザイン的にはちょっと昆虫に似た部分を持つロボットだったというもの。脳までも機械化された青年にとって、生身の人間は灰色の陰のような存在として映り、逆に無機物であるロボットの方がより「人間らしく」見えるという皮肉な認知・認識能力の転化を描いた作品だった。二人の恋は、やがて悲劇的な結末を迎え、絶望した青年は自分を完全なロボットとして改造してくれるよう研究者たちに依頼をする。やがて、完全にロボット化した青年をモデルとして、量産型のお手伝いロボットが作り出される。そのロボットは、不思議に「感情的」とも思える振る舞いを不規則に行うことで、かえって使用主たちの人間、特に子供たちから親しまれる。ちなみに、そのロボットの名前は「ロビタ」という。
「有機物は無機物を志向する」と石黒氏はいわれるけれど、実は同時に「無機物は有機物を志向する」的な側面もありはしまいか、などと思ったりもしたということだ。「ロボットを考えることで人間を考える」「人間を考えることでロボットを考える」。研究者としては、後者の要素が大きいのかもしれないけれど、ご本人とそのモデルのアンドロイドの両方を眺めるにつけ、アンドロイドがご本人に近づいているのか、ご本人がアンドロイドに近づいているのか、主に外見上からの感想ではあるけれど、ちょっとどちらとも言い難いような思いにとらわれるときがある。あるいは、両者の相互作用の中で「人間のようなアンドロイド」「アンドロイドのような人間」その両要素を内装する何ものかがやがて誕生するのかも、などと妄想することだ。
【19年5月4日】
夜中に目を覚まして、テレビを点けると、「最後の授業」という番組をやっていた。これで、2回目。1度目は、映画監督大林信彦氏の授業。地上波で一度見たことがあったけれど、途中からとはいえ、最後まで見直す。戦争と関連付けて映画の話をされる。前回の視聴の時気づかなかったことで、同氏の言われる、自分は映画のことを「シネマ・ゲルニカ」として考えるという意味を改めて得心したこと。「ゲルニカ」は画家ピカソがスペイン内乱をテーマにしたキュビズム作品。写実派の画家としても評価の高かったピカソが、内乱の主題をなぜキュビズム作品として創作したのかという点についての考察。具象画ではなく、抽象画として描くことで、幅広く主題に対する受け止めを促すことを意識したのではないかということ。例えば、大人はさておき、幼い子供たちがまるで児童画のような筆致で描かれた歪んだ人物像を見て、写実ならば忌避や嫌悪の感情をもたらすかもしれない悲惨な状況を受け止め、さらになぜそのような描き方をしたのかという疑問や問いかけを自然と子どもたち自身にもたらすのではないか、というような。映画も同様に生々しい現実をむき出しに突きつけるものではなく、映画の主題を映画的に再創造して視聴者に提供する、そこに映画の創作物としての意味や価値を見出しているということのではないか、などと監督の意図を私なりに受け止めたということ。そう思ってみると、大林氏の最初の映画『ハウス』が、なぜあのような稚拙とも思えるアニメ技術なども取り込んで創作され、それが同氏の出発点になったのかということも、なんとなく了解できるような気がした。人を食らう家というホラーなテーマについて、血みどろ映画風に強烈でより生々しくグロテスクにも(なんとなく、高橋葉介の漫画などをふと思い出したりもした。とはいえ、高橋氏のグロ漫画も、手塚治虫風な可愛いタッチの絵柄、あるいは漫画的手法という前提の上に成立するグロであったりするのだろうが)仕上げることは技術や手法上可能であったろうけれど、それでは「映画的ではない」という監督の判断があったことだろう。
2回目は、昨夜のこと(今朝に近かったかもしれないが)、ロボット研究者石黒浩氏の授業。こちらも、哲学的な側面を含めてずいぶん刺激的な内容で、夜中に視聴するにはかなり重たいものではあったけれど、いろいろと考えさせられることが多い番組だった。今朝の「歩き」の中でも、ずっと講義の内容についても考えていた。触れてみたいことはいくつかあるけれど、本日は書かず。ただ、松本零士の『銀河鉄道999』や手塚治虫の『火の鳥』の「未来編」だったかを、かなり鮮明に思い出したりはしたことだ。
今日は、ひさびさに5時過ぎから「歩き」に出て、近所をぐるりと一回りして帰ってくる。芝生の水やりは、いつものこと。7時前には朝食をとり、庭のつつじの異変をラインに書き込んで、いつも通り8時まで定番の番組を見る。「おしん」のセリフは、あいかわらず書き言葉で書かれているような違和感を感じつつも、ついつい見てしまう。「ままこいじめ」や「虐待」ということではないかもしれないけれど、おしんが迫害されるほどに、ついつい画面を見入ってしまうような心性がこちらにあるのだろうか、などとも思う。
【19年5月2日】
朝いちは、まず芝生の水やり。2度に分け、8シート分を植え付け。芝土まみれ状態が、果たしてよいものかどうか、よくわからないなりにとりあえずたっぷりと水をやる。うまく根付いてくれたら、その先はもう少し芝の面積を増やすことにしようと思う。どうなるか、結果がみえないところが良い(失敗したら、再挑戦か、そのまま放置か、クローバーを増やそうか、などと考えてはみるのだが……)。それにしても、気のせいか、今年のつつじは花の数がずいぶん少ない。なんとなく、すかすかという印象。例年は花のボール状態であったものが、今年はほぼ緑の葉っぱボール(丸く剪定しているため)の様相である。剪定の時期を誤ったのだろうか、と思う。また、葉っぱから養分を吸い取るという何とかという寄生虫にかなりの葉が侵されたその後遺症のようなものであろうか。消毒を施した時期が、ずいぶん後だったので、時期を失ってしまったのかもしれない。
朝が早くなっているので、おのずと起床時間も早まり、朝の予定自体が前倒しとなる。水をやり終えて、朝食の買い出しにコンビニに行って、その後食事。7時前から本を読み始めて昼前まで。昼食後は、一休みの後、某高校の吹奏楽部定期演奏会を聴きに行く。整理券をいただいていたので。2時間弱の定演。あまり凝った演出はなく、あくまで演奏を中心にという趣向だったけれど、ずいぶん楽しめた。クラシックからポピュラーまで、幅広い曲目だった。その後は、実家でお茶する。のんびりした一日だった。
昭和から平成へと時代が動いた、その夜。友人と二人、蘊蓄豊かな主人の酒場で酒を飲みながら、確かにある感慨をともに胸に感じていたのは確かなことだった。そこには時代の明も暗もすべて背負い込んだ猫背気味の一人の人物の死の重さというものが反映していたことと思われる。新たに今、平成から次の時代へと移ろう時、少々狂騒的な世相を横目に見ながら、なんとも言い難い断絶の感じとは異なり、上皇と新天皇には敬意を払いつつも、しかし社会自体は別に何も変わらない、昨日の延長として今日があるという淡々たる思いがあるばかりだ。昨日までのことは、何一つ清算も解消も、もちろん解決もなされてはいないという感じ。
明日は快晴らしい。朝いちは芝生の水やりから始めなければ、と思う。