日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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【19年6月30日】 【19年6月25日】 【19年6月20日】 【19年6月19日】 【19年6月17日】 【19年6月16日】 【19年6月15日】 【19年6月12日】 【19年6月9日】 【19年6月8日】 【19年6月4日】
米国大統領トランプ氏の行動は、まったく予測不能な部分がある。その分、インパクトが強くて、妙な比較かもしれないが、ある時期の日銀総裁黒田氏の「黒田バズーカ」的なふるまいを思ってしまう。どうせのことなら、この勢いのままに、日本人拉致問題も一気に解決してくれたなら、日本国内でも一躍名前を挙げることだろうに、と思う。現日本国の総理には、その点での拉致問題の解決能力が著しく劣っていることは、この6年間、具体的な成果を何一つ上げ得ていないという点からも明らかなことなのだろう。タレントと同様、イメージ戦略重視で、虚像を実像のに上書きする程度のことしかできないのが、残念である。
ここ二日、泊りがけで吟行句会。いろいろ役割分担などもあって、かなり疲れもしたけれど、その分充実した二日間を過ごすことができた。
もう、1年の半分が終わろうとしている。世の中は善かれ悪しかれあれこれ変動の気配がないわけではないけれど、個人的には悪くない半年だったような思いでいる。
今利用しているこのヤフーグログも今年度中に終了ということなので、さてこの先どうしたものだろうかと、考えたりもする。
基本的に「犬派」の人間だと自認しているのだが、今日の早朝の夢では、大荒れの波止で仔猫を拾い上げるというものだった。しかも、その子猫はなぜか両目が傷ついていて、ほとんど眼球が残っていないという悲惨な有様だった。そんな猫が、波が打ち寄せる石組で鳴いているのに行き合って、抱き上げるというもの。海水に浸かっていたせいで、眼窩のみという両目に塩水が入って、にゃあにゃあ苦痛に呻いている、そんな内容。さらに、もう一匹、波に揉まれながら茶トラの猫が岸壁の岩にしがみつこうとしている姿も。両手がふさがっているため、波に揉まれる姿を、ただ眺めるだけになってしまっていたが……。
目が覚めて、ネットで夢占いを検索して確認すると、猫についての判断は、良い物から不吉なものにまで、幅広い解釈がなされているようだった。子猫を助けようとするのは、現実に身近に援助を求める人がいることを意識している結果の反映ということがあるらしい。確かに、心当たりがないわけではない。
そんな夢に対して、現実には今日も庭の二か所に猫のうんちが残されてあった。こんちきしょうと思いながら、始末をしたけれど、犬のうんちは散歩に連れていく途中でしばしば始末をするので、全然抵抗感はないけれど、猫のうんちは匂いがきつくて、かなり閉口状態となる。庭の表面に小石を敷き詰めてあるので、猫のトイレとしては、好都合なのであろうか……。
二泊三日での大阪・京都行。初めて、伊丹の柿衛文庫を訪ねる。講演会の後の二次会、三次会。若い人たちとの俳句談義などがあって、大変楽しかった。ただ、G20の警備の関係で、駅のコインロッカーが使用禁止になっていて、荷物をごろごろ引っ張りながらの移動は、鬱陶しかった。大阪だけならまだしも、翌日の京都駅も同様の状態で、駅校内を「コインロッカー難民」が右往左往していた。私も、そんな中のひとりではあったのだけれど。相変わらずの安倍晋三の「やってます」パフォーマンスに付き合わされるようで、うんざりであった。とはいえ、安倍晋三の外交姿勢に対する評価は国民の中ではとても高い、らしい。
裏庭の楊梅。樹齢30年くらいにはなると思うのだが、地味の関係か、樹高1メートルほどの小木のまま。根元部分がほとんど枯れてしまって、首の皮一枚残しているというのが比喩でおわらないくらいの状態。数年前の台風の時、地に伏すというありさまで完全に倒れてしまったことがあるけれど、首の皮一枚で生き残り、幹を四方から支えることでなんとか樹体を維持している状態。とはいえ、その後も毎年春になると花を咲かせ、緑の葉が茂り、赤い実が多数熟するという状態が続いてきた。ただ、ここ一二年その勢いにも陰りが見えてきて、枯れて骨のようになった枝が目立ち始めた。木全体の勢いが明らかに落ちてきたように思う。ただ、このまま朽ち果てさせてしまうのはかわいそうなので、今年は木の実を摘み取ってそばの地面にばらまいて、二代目の芽生えを期待することにした。果肉を残したままと、種のみにしたものと2つの形で。また、地面にそのまま置くのと薄く土地に埋めるのとの2パターンで。果実そのものは、まだずいぶんたくさん稔ったままなので、摘み取って果肉を落とし、種として残しておこうかとも思う。そんなやり方でらちがあくのか、あかないのかちょっとわからないけれど、なんとか二代目をこの庭に残してみたいと思う。。そもそも、二代目をという発想が、自分の中に今までまるでなかったのが、ちょっとびっくりで、新鮮でもあった。
別の場所には、ヒマワリの種をまく。場所が場所なので、日差しがあまり当たらないので、はたして芽吹くか、成長するかがわからない。一度目は、地面を掘って、有機肥料培養ポッドみたいな中に仕込んでおいた落ち葉のかなり進行した状態のものと油粕とをその穴に敷いて、その上に土をかぶせ、ヒマワリの種を浅くまく。結果としては、目が出たのは1本のみ。双葉までいっているけれど、今日見たら半分葉っぱをかじられていた。何が食したのかわからないけれど、薬物を軽く噴霧しておく。地面を掘り返すと、まいたはずの種はほとんど見つからなかった。なにかの食料として食われてしまったのかもしれない。ダンゴムシとか、今日はなぜか小さなナメクジまでが徘徊していたけれど。これではだめだと思い、肥料分を含む土を買ってきて、煉瓦の囲いでしきった部分にその土を敷き詰め、種袋に残っていた種を改めてまく。さて、どうなることだろうか。
ここしばらくは、生活の一部については明らかに庭にかかり切りという状態であると思う。
結構、大変である。
乾ルカの小説、2冊目。短編小説集。ストーリーテラーであることが、作家の必要最低限の条件だということを改めて思う。お話の展開と語り口が上手いな、と思う。意図的に煽情的な内容になっているのも、本文の内容にふさわしい創作上の戦略なのだろうな、と思う。面白い。人を飽きさせることなく、最後までぐいぐい引っ張っていく。そんな力量の持ち主と思う。ただ、作品世界は広い意味の予定調和の世界で終わっているように思う。だから、読者を引き付けるのだということも言えると思うのだ。予定調和的世界を度外れていけばいくほど、読者にはある種の苦痛や嫌悪をもたらすことになるだろうからだ。乾ルカは、そのような世界の構築は求めていないようである。
それとかなり異なる姿勢をもつのが、現在読み進めている平畑静塔。俳人なので、ほとんど世に知られていない人物なのだろうな、とは思う。いわゆる、裏の裏は表、というのはごく当たりまえのあり様。乾ルカの作品もある意味この「裏の裏は表」というレベルでの作品のように思われる。様々に創意や意匠を凝らしたとしても、結局最後は「表」の世界に収束するということだ。かなりの悪意や毒をそこに盛り込んだとしても、結局は薬的な役割を果たすみたいなことで。読み終えて、ああとても面白かったという次元で。最初に読んだ『心音』の方が、その「キモさ」においてインパクトがあったように思う。
平畑静塔の場合は、「裏の裏はさらに裏」、彼の主張に従えば、「嘘の嘘は大嘘。さらに大嘘とは大きな真実」とでもいう世界を、俳句作品の中に読み取ろうとしているという、全く奇妙な人物ということになる。このような論理展開を平然と行い、さらにおれはこのように考えるのだ、と平然とうそぶく、そんな興味深くも面白い人物であるのだ。この人の文章を半年かけて読み直してみようと、思っている。すでに、以前一度某結社誌に静塔関係の文章を発表させていただいたけれど、その先につながるものになれば幸甚とも思ってはいるのだが……。
「嘘の嘘は単なる嘘」という現実が、一方では存在するわけではあるのだが。
ここ2週間ばかり、腰痛がひどくて、ロキソニンシップを貼ったり、コルセットをしたりしてごまかしながら過ごしてきたけれど、とうとう耐え切れず、先週末整形外科に受診に行き、レントゲンをとってもらったり、電気をかけてもらったりして、なんとか週を越す。今週に入って、なんとか痛みが落ち着いてきたので、懸案だった芝生を買いに行く。5月ごろに一度芝生シートを買ってきて植え付けておいたものが、思いのほかうまく定着して、緑の芝が8センチくらいにまで成長した。それで、ちょっと気をよくして、もうひとシート買ってきて芝の部分を増やそうと考えたのだ。ホームセンターの人は、夏の暑い時期は条件的に厳しいので、改めて秋に植え付けをした方が良いですよと助言してくれたけれど、6月中ぐらいまでは当面の植え付けぎりぎり期間のようなので、チャレンジしてみることとした。
高麗芝シート8枚セットと芝の目土を一袋買ってくる。段取りは前回でだいたいわかっているので、今回は調子よく芝の敷詰め作業を行う。敷き並べたシートに目土を振りまいて、上面を箒で整え、空気穴をあけて、水をたっぷりやり、最後に根の定着が良くなるようにしっかりとシートを押さえて、一通り作業は終了。芝シート自体がちょっと弱っているようで、うまく根付くか心配なところはある。前に植え付けたところは、とりあえずのばしっぱなしにしておいて良いとホームセンターの人に言われていたので、水をやったなりにしておく。もうすこししたら、肥料を与える必要はあるのかもしれない。
カーポートの天井に、あしなが蜂が小さな巣を作っているのに気づく。放置しておくわけにもいかないので、長い竹ぼうきを使って巣を落とす。親蜂が二匹巣の周辺を飛びまわっているので、気を付ける。以前、一度蜂に刺されたことがあるので、慎重に処理を進める。。巣を取り除いたら、親の方はどこかへ飛んで行ってしまった。ただ、また同じような場所に改めて巣をつくるかもしれない。
ついでに、花期を終えて、伸びすぎた状態の薔薇の剪定をする。薔薇の花は艶やかであるが、薔薇本体はずいぶん生命力強靭な植物であると、毎年思う。
そんなこんなで、本日は終了。明日返す本を2冊、読んだりもするけれど、中西進の文化論は、面白いなりに、内容的に難しくて理解が届かないというところもずいぶんあって、読み切ることは無理と判断する。再々延長をするわけにもいかないだろうから、適当なところで切り上げることにする。それにしても、中西進、漢文学の専門家と思っていたが、文化論的な分野についてもずいぶん造詣が深いようだと感心する。研究者という方は、ほんとうによく勉強しておられるものだとつくづく思う。
昨日は、思ったほどのひどい天候にもならず、過ぎる。今日は朝からどんよりとした天気。ただ雨は小雨程度。風も強くはない。少しばかり肌寒いような感じ。
図書館で本を借りて、いつの間にか返却日が近づいている。2週間という期間ではあるが、最近は全部を読み切れぬままに返却することが多い。読書の時間が減っているということなのだろうか。乾ルカ『心音』という小説を読む。今日は、この1冊のみ。心臓移植をテーマとした小説。というより、移植を受けた女性の境涯と心理を描いた作品ということになるのだろうが、心を動かされる部分もあったけれど、全体としては微妙。1億2000万円もの巨額な寄付金を集めて、海外で移植順位を繰り上げてもらってまでして心臓移植を受けた自分が、果たして普通の人間として生きる価値があるのかどうか、ということで、周囲の無理解や非難・中傷の応酬の中で苦悶するという内容。自らの生きる意味の追求という真摯な側面をもちつつも、移植医療に対する予断や偏見を物語の一つの推進力の根拠のようにしてお話が展開するという構造が、作為的という面も含めてなんとなく不快であった。
それが不愉快な結末であったとしても、そこにやむない真実が含まれていれば、それはしこりのようにして自分の中に残り続けて、何かの折、考えたり判断したりする触媒のひとつになり得るような気はするのだけれど、ただ言いようもなくほの暗い痕跡のみを残すお話というのは、少々つらい。
昨夜は、松竹映画の『フーテンの寅』をつい、最後まで見てしまう。お気楽な人情噺、能天気な滑稽譚のようでありながら、個人的にはこちらの方が深く、夕映えのような明るさをもって胸に響く。特に、映画の中の何気ない風景や町並み、そこに暮らす人の生活の一シーンが、物語の本筋とはさほど関係ないような部分において、しみじみと胸にしみてくるのはいったいなぜなのか、と改めて思ってしまう。郷愁と言えば、そうなのだろうけれども……。不器用とも思える映画の作り方も、良い。
嵐の前の静けさ、ということばがあるけれど、まさにそんな雰囲気。今、雨はやみ、ほぼ無風に近い状態で、全天分厚い雲に覆われている。周辺の物音も絶え、普段なら遠くを走る車の音なども聞こえるのが、いまはほとんど届いてこない。やがて、小型台風みたいな様子をした低気圧が接近してきて、当地も暴風と強雨に見舞われるらしい。雨が少なくて、水源の大河も取水制限に入っていた時期でもあり、恵みの雨ということになるかもしれないけれど、「過ぎたるは」という言葉通り、洪水などに見舞われないことを願う。
実家の犬は、本日がトリミングの予定で、店に努めておられた時から親しかったフリーのトリマーの方に家まで来ていただいて、1時間半ほど毛を整えてもらうことになっていた。私も、常には助手代わりにもっぱら犬の体を支え、抑える役割を勤めたりもしていたのだが、本日は天候の気遣いがあるので、延期ということになりそうだ。1時間半のたちづくめは、結構体にこたえるけれど、その上に細やかな神経と手使いで犬の毛を整えるという仕事は、ずいぶん大変だなと思ったりもしている。
「波郷ノート」というタイトルで、ある結社誌に書かせていただいているのだが、昨日その2回分を書き終えて、早速添付ファイルで送らせていただいた。今回は、ふと思い付きで始めた内容であったけれど、波郷の八冊ある句集を読み直して、該当の内容を拾い上げるというかなり細かい作業になってしまい、なかなか大変であった。とはいえ、大変な作業の割には我ながら少々意に満たないところがあって、送稿に際しても、わざわざページをいただいて書かせてもらっているのにとちょっと申し訳ないような気にもなったことだ。
総理がイランを訪問し、最高指導者と面談したらしい。その訪問結果については、大成功から意味なかったという評価まで幅広いけれど、個人的には米国の代弁者という立場を離れて話をしなければ、訪問の意味はないと思う。仲介者であれば、双方に対してきちんと説得活動を行うべきだろうし、その妥協点やそこにつながる道筋、あるいは両国の対話の糸口だけでも準備したうえでの訪問でなければ、わざわざ行った意味はないように思われる。その点で、「トランプとは話す価値がない」とのイラン側の発言は、米国の了解を得て、イランを説得する材料を持ったうえでの総理の訪問ではないようだ。それどころか、トランプは総理訪問の時に合わせるようにイランへの締め付け強化を打ち出した。これは、ほとんど「二階に上げて梯子をはずす」ようなひどい仕打ちではないか。トランプにとって、日本国総理は事態を混乱させ、その中で米国の圧を高めるための道具並みの扱いのようだ。(穿って考えれば、総理もそれを承知の上での今回の訪問、という可能性もないわけではないだろう)。今回も多額の援助金を持参したらしいけれど、イラン側はその金のうまみのみいただいたということになるのではないか(世界のATMなどと揶揄される総理の外国訪問は、ほぼ毎回そのような形で終わっているけれど……)逆に、良好といわれる日本とイランとの関係に、妙な歪を生じさせかねない点を危惧する。「行った、会った、話した、特に成果なし」、でもちゃんと外交やってますよ、という選挙向けのパフォーマンスと思われても仕方ないだろう。
年金不足2000万円の問題、いろいろな意見が与野党含め飛び交っているようだけれど、個人的には金融庁の報告文書は、ごく常識的なことを語っているに過ぎないように思われる。与党の隠蔽姿勢(いつものことだけれど)、野党の政治問題化、両方含めてどちらも来たる選挙を念頭においての遁走と追跡(筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』なんていう小説作品のタイトルを思い出したりもしたけれど)の政治ドラマというのか、筒井作品風にいえばスラプスティック(誇張されたハチャメチャドラマ的な)小説的な印象をちょっと持ったりもすることだ。
少しでも自らの年金生活ということをまじめに考えたことのある人なら、自分の年金支給額がどれくらいになるのか、さらに現在の状態での生活に必要とされる平均額と年金支給額との差額について、おおよその予測や判断をあらかじめつけておくのは、当たり前のことのように思われる。そのうえで、その差額について、どのように穴埋めをしていくのかという方策について、それなりに考え、準備を進めておくことも自己防衛という点からも、当然必要なことと思われる。金融庁のレポートはそんな当然、あるいは当たり前のことを平均的な物差しを設定して判断し、提示したもので、内容的にはなんら驚くべきものは含んでいないように思われる。
年金制度自体は「安心」かどうかはさておき、このままきっと100年間は継続することだろうし、暮らしの面からいえば、年金支給額は今現在でも十分とは言えず、今後はさらにその状態が加速度を付けて悪化してくだろうということも、また現実なのだろう。制度は残るが、その制度が保証するはずの生活は困窮の度合いを増すということだ。それは、最悪制度それ自体の崩壊の危機を、制度それ自体が内包している状態ともいえるのかもしれない。
年金制度が、老後を支える現金収入の重要な要素の一つであるということは、制度自体が存続する限り否定できないことであろうし、同時に年金のみでは生活を維持・継続することはなかなか厳しいということもまた否定できないことであろう。どちらも厳然たる真実だということだ。
そのうえで、年金2000万円不足の話は、平均的なところを一つの基準として算出されたものである限り、すでに資産が1億円ある人にしてみれば、ほぼ馬耳東風、我関せずの話題にすぎないし、貯蓄が200万円のひとにとっては、ずいぶん切実な問題ということになる。この問題は個々人それぞれの事情を背景に持つものだから、一概に、あるいは一律に年金制度それ自体が破綻を含む問題とはいえない、ゆえに金融庁のレポートは不正確で国民の誤解を招く内容だという答弁も一分の真実を語っていることにはなるわけだ。
とはいえ、年金だけでは暮らしがなかなか立ちゆかないという事実は、それ自体なんら解決してはいない大きな課題として残っていることもまた、確かなことだ。テレビのインタビューの中で、「そのことは考えないようにしています。」と答えた視聴者もいたけれど、進んで考えようとそれから目をそらそうと、いずれ自分に降りかかってくるだろう問題であることは日を見るより明らかなことだろう。ましてや、2000万円はより豊かに生活を送る余裕資金としての意味を持つものだ、などという発言は、さすがに税金から2000万ものも飲み代を得ている大臣とか、税金を使って何千人もの人をお招きできるそんな立場の富裕層出身の政治家たちでなければ、とても言えないような軽薄な発言でもあることだ。
いずれにしろ、年金だけでは足りない。生活保護が年金の代替制度になりかねないという状況の中で、一部の富裕層を除く多くの国民にとって切実な問題がこのような形で明るみに出てきたのだから、政争の具にするのではなく、まともな政治家らしくきちんと議論を重ねて、なんとか次善・三善の策なりと案出してほしいものだと思う。ましてや、それをなかったものとして拒否し、問題自体をうやむやなままで見通しのない先送りにするだけの政治家であるならば、さっさと政治家の看板を下ろしてほしいものだと思われる。
車を買い替えることとする。自損とはいえ、かなりの事故をしでかし、ちょっと自信喪失やら、この先十全の注意準備が必要だという危機意識やら、あれこれあって、安全装備満載の車に買い替えることとした。普通車も選択の対照から除外した。田舎暮らしをしていると、よく言われることではあるけれど、車はどうしても必要となる。自宅に籠りがちな私ですら、車がなければ、基本的な生活自体に支障が生じるということがあるからだ。田舎暮らしそのものは満足しているけれど、この「足」の問題についてだけは、そう簡単に切り捨てることはできない。予定外の大きな出費で、かなり手痛いけれども……。
それにしても、高齢者の免許返納問題。都市並びに都市周辺部と地方とでは、その背景にあるものが大きく異なっているのは、おそらく広く社会に周知されていることなのだろうと思われる。その上での妙な物言いかもしれないけれど、マスコミはある出来事がいったん話題や問題視されると、そのことばかりを集中して報道するというところがある。耳目を集めるということが、報道の価値そのものと直結している、という側面があるようだから、それ関連の話題をまず率先して、さらに集中的にニュースに乗せようとするからだ。そのような風潮(あえて「風潮」などという言葉を使うけれど、中には「耳目」を集めさせないということに価値基準をおいて、話題の選別・判断を行い、特定の話題についてあえて報道しないという傾向もあきらかに現在のマスコミの中には存在するので)の中で、高齢者の交通事故による自傷・他傷の問題をおろそかに考えるつもりは毛頭ないけれども、事故の問題と免許返納の問題とを同じ平面に置いて報道するようなあり方については、ちょっと違和感がないわけではない。
某有名芸能人が、自ら免許返納したということがニュースになっていた。それ自体は、その人個人の事情や思いがあることだろうから、へえ、そうなんだと目を止める程度のことではあったけれど、それを話題としてニュースに掲載するということは、単に芸能界の話題のひとつとして、山ちゃんと某高名女優とが結婚されたというオメデタ系の話とは自ずと異なる意味合いや重みが与えられてあることだろう。新聞が「天下の公器(最近ではそんな立派な新聞も少なくなったけれど)」である以上、その記事は社会的に「高齢者免許返納圧」とでもいうようなものが、意図されているなどと受け止められなくもないということだ。
事故を起こす可能性が高いということで高齢者に免許返納を促すのであるならば、同様に、無茶な運転をして周囲をひやりとさせるような、高齢者とはいいがたい連中に対しても、同様に免許返納を促した方がよいようにすら思われる、ということだ。
90歳まで生きると仮定したら、国民年金以外に2000万円の貯蓄が必要だ(想定される毎月の赤字の補填分として)との報告に対して、麻生財務大臣は国民がより豊かに暮らすにはそれだけの貯蓄が必要という意味だと、例の通り上から目線で決めつけているけれど、赤字補填の金額としての試算が、どこをどう発想し直せば「より豊かな生活を送る」為のゆとり資産たり得るのか、その論理の継ぎ目がよくわからない。禅問答のようなものなのだろうか。
ともかく、目前に迫った選挙に向けて、予算委員会は審議拒否を続け、自らの不利な情報は一切明らかにしようともせず、時にごまかし、嘘を吐き、一方で芸能人や吉本との親密なお付き合いをアピールすることで、自ら庶民派との印象操作をマスコミを通じて垂れ流す、などと色々と細かい芸を披露してくれる、楽しい政府ではあることだ。
近所の竹やぶの一部の竹が、どうやら「花」を咲かせたようだ。例年に比べ、筍の出方が少なく、しかも妙にひょろひょろとした有様で、何となく違和感を感じてはいたのだが、その矢先の竹の花。長いサイクルでの竹やぶ再生のための、自己蘇生としての枯死という摂理の現れということらしいけれど、この竹やぶのどの程度が枯れ、どの程度が生き残るのか、見届けていきたいような思いになる。「歩き」の途中、藪沿いの道を歩行しながら、竹藪の変容する様をスマホに収めたりしている。
「死」が終局ではなく、種の「再生」へとつながるところに、自然のたくましい自己修復力の健全さを思ったりもすることだ。民族として融けつつある集団が、果たしてどのような形で「死と再生」を遂げることであろうか。その途中経過にどの程度立ち会うことが可能か、どうか。私自身には予測もつかないことではあるけれど……。
「一人で死ね」という発言は、ここ数年頓に露骨に発言されるようになった「自己責任」論の一つの帰結のように思われる。最終的に、すべての原因は当人個人に集約され、当人がただひとりすべてを背負い込んで、この社会から静かに速やかにその身を消却すれば、すべては解決するということを言上げしているように思われるからだ。もちろん、当人の犯した残虐な行為を、肯定・容認するということではない。
ただ、少なくとも「一人で死ね」と吐き捨てて、それで事足れりとするようであれば、それはある意味発言者の、純粋で瞬間的な同情と憤りの発露のようでもあり、しかし事件によって自己の内奥に生じたストレスの発散であり、自己慰撫的行為のように思えなくもない。
もちろん、事件をおこした当人に責任の多くは帰せられるべきではあろうけれど、同時にそのような行為がなされた背景について、可能な限り、社会心理学的な真剣な探求が本当に必要なのだろうと思われる。そのためにも、テレビ番組などの興味本位の追求や、コメンテーターのその場限りの感情的な発言なども、その伝播力の強さ・広さ、影響力の大きさという点からも、ある程度慎む必要があるように、個人的には思われる。どの局もどの番組もいずれ同じようなことをより詳細に細微にと競って報道しようとする、やや集団ヒステリー的な有様は、個人的にはかなり違和感を抱くことだ。それよりも、出来れば犯罪の心理や背景について、ワイドショー的な了解のしやすさと、学術的な正確さをもって、その出来事の背後に存在するであろう人と社会の「暗い部分」、それを知ることがあるいは嫌悪やおぞましさをたとえもたらすものであっても、その出来事の本質や本体について、広く知らせることが必要なのではないか、などとも思われる。
そして、その追求と解析の対象の中には、「一人で死ね」という発言の背後に存在するだろう、人の心理や集団的背景なども同時により本質を踏まえた形で明らかにしてほしいと思われる。いま起こっていることの「薄暗い」本質や意味を、自分なりにでも切実なものとして受け止めることは、必要なことなのではないか。
「臭い物には蓋」というのは、言い習わされた自己防衛を含めてのわれわれのある意味自然な心性のひとつのあり様ではあるのだろうけれども。……ひどい物言いではあるのかもしれないが。