日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。             
一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。

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【07年9月29日】
『鼎座』第9号の校正作業が終了する。10月に入って印刷作業。第1週には手元に届くのではないか、と思う。こちらは、発送の準備を始めなければならないか、と思う。色々と慌ただしい。
ミューズの「第九」レッスンに参加。練習は順調に進んでいるようである。全体の5割強位をさらうことが出来ている。男声合唱の部分は、全くの手つかず。今回テノールが良いので、どんな感じの男声合唱になるか、楽しみである。早めに、練習を切り上げる。会場のホールを出るとき、なにげなくまだ練習の続くステージを振り返ったら、声の固まりとステージ一杯の団員の姿が一瞬に目と耳に飛び込んできて、思わず感動してしまったものだ。京都駅構内でパンを買い、コーヒー豆を購入しようとしたらこちらの店はすでに閉店していた。明日の朝のコーヒーが、ちょっと足りない。
帰宅後、瀬尾まいこの短編連作『強運の持ち主』読了。インチキ?占い師ルイーズを主人公としたお話。こじんまりと纏まっていて、基本的にこの作者は生真面目な人なのだな、とほんわり思いながら読む。とても読みやすいけれど、角田氏の作品にあるような「毒」がまるで足りないような気がする。それが、読み終えた後のなにかしら物足りなさに繋がるのか、と思う。ついでに、『堤中納言物語』を読み始める。
土曜日。曇り。5時過ぎに「歩き」に出る。まだ薄暗く、空気は涼しい。半袖のTシャツで歩いていると、微妙に寒いかな、という感覚。1時間強歩く。日射しはないが、辺りはすっかり明るくなっている。シャワー・洗濯・朝食のいつもの朝である。今日は、持ち帰り仕事をこなす一日となりそうだ。明日は、『醍醐会』の日である。

【07年9月26日】
快晴の一日。今日は、スポーツ大会であった。立派な外部施設を借りての競技大会で、少々暑くはあったけれど、空気がからりと乾いていて、気持ちの良い一日を過ごすことが出来た。生徒達も、良く動いたし、競技を楽しんでいる様子で、全体として良い雰囲気であった。
月曜日。「参」本句会に参加。振り替え休日となり、参加が可能になったのだ。午後1時からの句会で、課題1句、持ち寄り3句の4句出句、6句選の句会であった。今回の課題は、「椋の実」か「月蝕」であった。近代俳句(子規以前の明治俳人を研究対象にしているとのこと)の若手研究家K氏も参加しての句会で、彼がどんな句を出すか、楽しみでもあった。丹後の句会に比べると、参加人数が随分違うので、あまり自由な話し合いは出来合いけれど、「参」の句会らしく様々なタイプの参加者があるので、その点での面白さがある。4時過ぎまでの句会を終え、外へ出ると強い雨が降っている。雨の中を皆さんと別れて、四条通りの「J」へ、古今亭志ん生のCDを買いに行く。2枚組の「セレクション古今亭志ん生2」というのを購入する。最近は、寝る前に「志ん生」の落語を聞くことにしているのだ。かなりくせがあるけれど、面白い。「名人志ん生」とはいうけれど、このくせの強さは人によって好き嫌いがあるだろうな、と思う。
『高濱虚子』読了。近代の俳句史を考える場合の基礎資料の一つを読むことが出来たという満足感を感じる。この1冊は、読む価値があったと思う。
火曜日。中秋の名月であった。夕方になって、すっかり晴れ渡った東の空に、くっきりと銀白色に輝く満月が浮かんでいた。兎の耳とも、蟹の鋏ともいう月の影が、妙に目について見えた。夕食を終え、腹ごなしがてら夜の散歩に出る。いつもの「歩き」の道をぶらぶら歩く。時々、空を見上げては煌と光る満月を眺めやる。途中、本屋に立ち寄って文庫本を1冊買い、書店の前にある横断歩道橋に上がって、町並みの上に浮かぶ月の姿を眺めてから、帰宅する。横断歩道から見る月というのは、7階のベランダから見上げるものとは、随分風情が違うものがある。家並みの近さと、その連なりからの月の距離の距たり感が微妙な違いをもたらすのだろうか、と思う。満足して、帰宅する。

【07年9月23日】
土曜日。丹後行き。3連休の初日のせいか、「はしだて1号」の乗客は常になく多い。車中、前回の丹後行では見られなかった曼珠沙華を、亀岡盆地で見る。但し、こちらは常になく花数が少なく、しかも全体に丈が低い。猛暑の影響であろうと思う。岩城先生は、車で丹後に向かわれるとのこと。奥様の運転で、犬のビッキーも同行しているのであろう。宮津乗り換えで、丹後大宮まで。駅舎内にある食堂で、待ち合わせの上、三人で昼食を取る。いつもの、オムカレーとコーヒー。その後、車で岩城先生宅まで同乗させていただく。句会は、1時から。本日の席題は、「藪茗荷」「きりぎりす」「薄」の三題であった。10句まで出句可となる。4時半過ぎまでの句会。丹後の歴史や生活、農事、日々の暮らしなどが様々に詠われる。句にまつわる話が盛り上がったりして、思わぬ新知識なども手に入る。面白い句会である。句会終了後、後に残ってくださった水野さんを交え、雑談。やがて、奥様がビッキーと帰宅。5時過ぎまで居て、失礼する。梨や丹後のちらし寿司やビールなどのお土産をいただき、水野さんの車で大宮駅まで送っていただく。車中に夕景の丹後を見ながら、帰る。
帰宅後は、少々疲れたので、早めに寝る。4時過ぎに目が覚め、5時過ぎに「歩き」に出る。涼しくない。
日曜日。午前中は、持ち帰り仕事。読書感想文を、集中して見る。評価をし、感想を書き込んで、持ち帰った分は何とか読了。昼食に、いただいた丹後のちらし寿司を食べながら、録画しておいた「俳句王国」を見る。午後、読書。水原秋桜子の『高濱虚子』を読む。虚子論ではなく、秋桜子の俳句青春群像という内容。なかなか面白い。3時過ぎまで読んで、一休みと気分転換を兼ねて、「歩き」に出かける。1時間ほど歩く。雲行きがちょっと怪しかったのだけれど、歩きから帰ってすぐ、突然の大豪雨となる。現在も降り続いていて、町並みは雨に打ち消されて見えないという有様である。
では、そろそろ『高濱虚子』の続きを読もうか、と思う。

【07年9月21日】
ひさしぶりに、ミューズの練習に参加する。年末の「第九」に向けてのレッスン。例年に比べ、参加人数が多いような気がするのだが、しかし団員の募集〆切は、結局1週間延長されたということなので、予定の人数には達しない状態で、新メンバーによる年末「第九」はスタートすることになったようだ。今回は、テノールが随分良い。バスにも上手い人が入って来ているので、今の段階でかなりの演奏が出来ているように思う。気分良く歌う。
初めての事なのだが、国語表現の授業で、DVDを見せた。ディズニーの「ファンタジア」である。クラシック音楽とアニメの一体感がすばらしい作品で、ちょっと工夫した形で、鑑賞文を次の時間に書かせようかと思っている。音楽の授業でも、ミッキーの出る「魔法使いの弟子」を見せるとのことで、一部生徒は2度見ることになるようだ。そういえば、1年生の作文に「だまし絵」を利用したのも、今日の事だ。どちらも、生徒の反応が結構良かったので、ほっとしている。
角田光代の小説集『トリップ』を読む。各小説が、登場人物で繋がっているという趣向などもある短編小説集だが、とても読み応えのある作品集出る。本物のストーリーテラーという印象を改めて持つ。登場人物繋がりは、劇団ひとりの『陰日向に咲く』で同じ趣向が用いられてあったことを思い出した。そういえば、『陰日向に咲く』も、面白い小説集であったが。
明日は所用で外出、明後日は持ち帰り仕事の読書感想文を一山読み、月曜日は「参」の句会に参加ということになりそうだ。岩城先生の飼い犬ビッキーの調子があまり良くないらしい。気懸かりである。

【07年9月17日】
夜明け前の星空を眺める。今日で、3日連続。月が出ていないおかげで、まだ星空が見やすい。どこからか、小さく歌声らしきものが聞こえる。近所にカラオケを売りにする飲み屋が2軒あるので、そこで夜っぴいて歌い騒いでいるのだろうか、と思う。
昨日は、結局一日自宅に籠もる。美柑みつはる氏の句集『亥子餅』をきちんと読んで、お礼の手紙を書く。「草餅を搗きてよき色生まれけり」「隣り田の湿りもらひて大根蒔く」「初詣七星は柄をのばしをり」「蓼の露赤大山となりゐたり」「小鳥来る蓮浄院の丸窓に」「春耕や鍬が知りをる父の癖」「春耕のはじめの石を拾ひけり」「交配の筆踊りけり梨の花」「木枯に飛ばせて撒けりお礼肥」「八月大名瓜坊に芸仕込みをり」「生きている土を叩きて畦塗れり」「梨食へと袋裂きしてくれにけり」「猪垣に体当たりして逃げしあと」「春子藪細かき雨の来てゐたり」「水浚ふ土管に声を通しけり」「大山の裏に廻りし雪起し」「木偶まはしして種薯の芽を探す」「牡丹雪牛のにほひは吾がにほひ」などの句を感銘句として手紙に書き付けた。ただ、この3倍くらい良いなと思った句があり、特に父母の句、減反の句などにも感銘を受けた。読み応えのある句集であった。
昼過ぎ、近所の大型スーパーに買い物に出かける。途中、大粒の雨が降り出し、半分濡れながら店舗に駆け込む。一通り買い物を終えて外に出ると、すでに雨は通り過ぎていた。北の方を眺めると、巨大な雲の柱が立ち上がっているのが見えた。しばらくすれば、さらに一雨くるかもしれないと思い、急いで帰宅する。ベランダに干していた洗濯物のうち、一番外側に干していたハンカチがびしょぬれになっていた。そのおかげで、他の洗濯物が濡れるのは免れた。かなりきつい降りだったようだ。
『眩』短歌会編『瓦礫の街から 阪神大震災のうた』を読む。震災後、すでに10年以上経過し、個人的にはその後実家が別の大きな地震の被害に遭うなどということもあり、神戸の街自体も立派に復興を果たし、すでに一昔前の大きな出来事のようになってはいるけれど、その短歌を読むと、京都にいてさえ驚くほど大きく揺れたその時の感覚が鮮明に甦ってくるほど、生々しい感触であの日の事が思い出される。職場の事務室で見た、戦場とまがう業火に包まれた神戸長田地区の中継画面がくっきりと思い出される。通勤の駅頭での余震の大きさに驚いた事も思い出す。ましてや、活断層直上の神戸地域であの大震災を経験した多くの歌人達の驚愕や悲痛は想像を超えるものと思われ、その瞬間、その思いが刻まれた一首一首は胸に迫ってくるものだった。
夜、就寝まで、角田光代の小説を読む。『東京ゲスト・ハウス』。旅と日常の狭間、境界領域小説とでもいう内容のお話であった。

【07年9月16日】
朝から良い天気だ。曇のち雨の予報であったのだが、見事に外れてくれている。夜中の3時の星空は、昨日以上に鮮明で、目をこらせば随分たくさんの星が眺められそうな気がするほどだった(実際には、こんな時間帯であっても、ほとんどの星を隠すほどに京都の空は明るい)。東南の空にオリオン座がくっきりと見える。小さな三つ星まではぎりぎり確認出来たものだ。朝、5時過ぎに「歩き」に出かける。高層の雲が紅く輝いている。今日も、モーツアルトを聴きつつ、であった。
昨日は、思い立って洛北岩倉に出かける。学生時代、4年間下宿生活を送った場所である。数年前に一度出かけ、町並みの変貌に驚いた覚えがある。特に吃驚したのは、4年間過ごした下宿の部屋が、3階建ての学生マンションの駐車スペースに変わっていたことだ。その時は、それで何となく気抜けして、そのまま帰って来たのだけれど、今回はもう少しちゃんと町並みを見て、できたら句作出来たらと考えていた。京福電車は2両連結のワンマンカーに変わり、岩倉の駅舎は出入り口の位置がこの前来たときからも変わっていたように思う。駅前通をバス通りまで直進し、京都バスが通る狭い道なりに歩いていく。夕食をよく食べた一膳飯屋は閉店していて、ただクーラーの室外機が廻っていたので、まだ人が住んでいることは分かった。バス通りから小さな中華料理店の横の道を奥に入ってしばらく行くと、下宿に行き着く。ただ、その中華料理屋があったはずの所が草ぼうぼうの空き地になっていて、田んぼであったところに立派な2棟の学生マンションが建っていて、近辺の様子は全く変わっていて、随分戸惑いを感じたものだ(中華料理屋は、空き地ではなく道を挟んだ反対であることに後で気がつく。すでに、誰もすんでいない廃屋状態であった)。細い道を前回の記憶を辿って歩いていくと、1階が駐車スペースになっている立派な建物に辿り着く。自分の部屋があったあたりを確認する。駐車スペース201と番号が振られたちょうどその広さと同じほどの狭い部屋であった。狭い廊下を挟み、1階に3室と4室、2階に4室ずつが並び、風呂なし、共同トイレ、洗面所に簡単な調理が出来るガス台が1つ置かれた、質素な(当時はごく標準的な)学生下宿だった。私の部屋は、1階の3室並びの一番奥の部屋であった。
大学へ向かうときは、バス通りに出るか、田んぼの真ん中に新しく作られた1本道路の方に出るか、いずれかで、下宿横の狭い道からその道路の方へ抜けてみる。昔は、田んぼの他に何もないような一帯が、山の方に向かって新興住宅街にかわり、様相は一変していた。小雨が降り出す中を、ぶらぶらとその道を奥まった方へと歩いていく。岩倉実相院へ行ってみようと思い、このままでは少し方向違いなので、途中から左手の方に抜ければよい、と考えて歩いていく。随分山の手方面まで歩き、行きすぎたことに気付いて、左手に伸びる旧道らしき道へ入る。そこから、実相院へ到る辺りは、昔の岩倉の町並みを残した地域で、やっと懐かしいような感じを持つ。実相院の参道は、何故か良く覚えていて、真っ直ぐお寺まで行き、学生時代は一度も入らなかった寺内に入場料を払って入り、襖絵やヒグラシの鳴く枯山水の庭などを見学する。蝉の声に耳を澄ましながら、20分ほどぼんやりとこじんまりとした庭を眺める。帰りに、もう一度元下宿のあった場所に立ち寄って、暑かったけれどもう少し歩こうと考えて、国際会議場の地下鉄駅まで歩くことにする。岩倉の駅から、比較的近くに見やられた国際会議場だけれど、歩いてみると思った以上に時間がかかった。宝ヶ池の方から敷地内に入って、池の周辺を歩き、一時代前のSF小説に出てくる、やたら細部にこだわった宇宙船めいた会議場を左手に眺めながら地下鉄駅へ着く。京都駅で下車して、いつものコーヒー店でコーヒー豆を、いつものパン屋でパンを買い、帰宅。
夜、車谷長吉の短編小説集『忌中』を読む。この人の作品も、途切れ途切れながら読み続けている。殺人や心中の話が繰り返され、陰鬱な内容だけれど、開き直ったような妙な魅力を感じる作家である。ただ、女性の描き方があまり上手いとは思えない点(男の書いた女という匂いがずっと付きまとっているようで)が、何となく気になる。

【07年9月15日】
5時過ぎに起床。「歩き」に出かける。まだ、夜は明けていない。東の空は白んでいるけれど、太陽は昇っていない。涼しい中を、音楽を聴きながら歩く。今日は、モーツアルト。『疾走するモーツアルト』とかいう本があったような気がするが、本当にモーツアルトの音楽は淀みなく流れ進んで行く。沈黙の瞬間を怖れるみたいに、時の流れの中に音が次々填め込まれていくようだ。『アマデウス』の中で、暗愚なパトロンが、曲の感想を問われて、お前の曲は一日に聴く音の総量を超えているみたいな事を口にして、猛然とモーツアルトから詰問される場面があったように思うが、ともかく音の奔流の中に一気に巻き込まれていく感覚だ。歩いている、という感じをつい忘れて、曲に聴き入ってしまいそうである。
日が昇ると、とたんに暑くなる。朝涼の爽やかさにちょっと遠い、朝日の道を帰宅。シャワーを浴び、洗濯機を回し、朝食の準備をする。ここ1年、朝はもう決まったメニューで、パン3片・野菜たっぷり・ゆで卵1個・ウインナ1本・チーズ1片・牛乳少々・コーヒーたっぷり・その都度の果物1。いつも同じなので、準備も決まった手順でほぼ機械的に短時間で出来る。曇か、雨だと思っていたのだが、日が射しているので、ベランダに洗濯物を干す。午前中くらいは、天気は持つのではないか、と思う。ベランダと言えば、今朝というのか、3時頃に一度目が覚め、外に出てみた。大きな雲の固まりがぽつりぽつりと浮かび、その間から星空が眺められた。いつになく空気が澄んだ感じがあって、大気の流れの激しさか、きらりきらりと星が瞬いているのが鮮明に見られた。東の空低くには、明けの明星が異様なくらいぎらりと輝いていた。この明けの空のような感覚を身につけられたら、などとふと思ったりもしたものだ。
午前のうちに散髪に行く。ごく近くの理髪店。二代目が店に出ていた。お父さんの方は、と訪ねると、知り合いの理髪店の主人が入院中で、その店の手伝いにここしばらく出かけている、ということだった。二代目は、丁寧に髪を刈り、髭をあたってくれた。奥さんが、洗髪の役。いつもいる猫の姿が、今日は見えない。ううとうとしているうちに、散髪終了。すっきりした気分で、店を出る。
近所のコンビニで、「イッキ読み」ということで、『ベルセルク』という分厚い漫画が置いてあるのを見つけ、どこかで聞いたことがあるタイトルだな、と気になっていたので、つい1冊買って読んだら、嵌ってしまった。面白い。読み始めたときは、下手な絵で見づらいななどと思いつつ読んでいたのだが、その異様な世界に入り込むにつれて、だんだんその絵が凄いものに変わってきた。その濃密・繊細な絵柄は、この黙示録的世界を描くにはぴったりだ、それにしてもこの地獄絵図的な絵の凄まじい巧さはどうしたものだろうか、と思う。8巻から読み始め、ここ3日ほどで、11巻まで読む。つくづく凄いな、と感心する。

【07年9月11日】
眠りが浅いな、と思いながら起床。いつもより、20分くらい寝過ごす。と言っても、起床時間は5時20分だから、早いと言えば、早い起床ではないかとも思うが。眠りの質が今ひとつのせいか、頭の調子が良くない。朝風呂に入ってみたりもするが、どうにも今ひとつ状態である。7時前には家を出る。いつもなら、到着駅から歩くのだが、前述のような状態なので、バスに乗る。7時半過ぎには職場着。教材準備など始める。
角田光代に徐々にはまりつつあるようだ。行きの電車で、短編を1編読む。平凡な日々の中に潜む殺意、狂気を主題にした話で、良くあると言えばあるのだが、殺意の根底にある邪悪な思いにリアリティーがあって、ずいずいと読まされてしまう。6時前に退勤したので、そのまま駅まで歩き、途中の「BOOK OFF」でさらに二冊角田氏の小説を購入する。併せて、森澄雄の句集『白小』も手に入れる。同氏の第十句集だそうだ。
帰宅すると、美柑みつはる氏の句集『亥子餅』が届いていた。わざわざ送ってくださったのだ。美柑氏とは、ある機会に句集をお贈りすることがあって、その後県の俳句大会で直接お目にかかり、『鼎座』などを送るという機縁を得た方であった。句集『亥子餅』は、同氏の第四句集で、第三句集にあたると思う『作大将』は地元の古書肆で手に入れることが出来たのだが、新たに句集を読む機会を与えられてとてもうれしい。
『鼎座』第9号のゲラ刷りが出来たとの連絡が入る。データーを渡していることもあるのか、随分早く1校が出来上がって有り難い。この調子で行けば、9月20日過ぎくらいには、第9号が発行出来るのではないか、などと思う。

【07年9月11日】
『鼎座』第9号のデータを印刷所に渡す。今週末には、ゲラ刷りが出来るとのこと。4月から、随分間が空いてしまったことだ。出来れば、第10号は今年中に出したいものと思う。すでに、歌仙は巻き終えているので、その点からも早く出したいと思う。
朝夕が涼しくなっている。日中は、日が射すところでは暑さを感じるけれど、日陰は結構涼しくて気持ちよい。ようやく、夏が過ぎたことを実感する。暑さにやられて、随分しんどい今年の夏だった。元々、夏という季節は嫌いではなかったのだが、今年のように歯止め知らずの暑さの中では、その季節を味わう余裕すら失われてしまう。やっと夏が終わって、ほっとするという感覚は、少々残念な思いを伴うものだった。朝、涼しいものだから、少し長めのコースを歩いて職場に通っている。横を川が流れるコースで、普段歩いている道より10分ほどよけいに時間がかかるのだが、それでも8時前には職場に着けるので、そちらの方を歩く。水の流れは、心を自然と鎮めてくれるもののようだ。少し速歩で、しかし水面を視野の一角に留めつつ、歩く。水の流離などと言うことを、考えたりしながら歩く。どれほど汚濁されようとも、ついには大きな循環の中で、大気に放散され、太陽の光を宙に反射する水の本体の姿、など思ってみたりする。数日前、夕空に見事な虹がかかり、翌朝の朝刊で写真とともに掲載されたことがあったけれど、そんな事も影響していたのだろうか。通勤途上では、いつもそんな風に取り留めないことを考えながら歩いているのだが、今日などはその典型的な状態だったのかもしれない。歩道から足を踏み外したり、自転車にブチあたったり、街路樹の枝に首を引っかけたりしないようにしなければ、と思う。
『尾崎放哉全句集』所載の「新資料作品」の中から、『層雲』の「京都俳談会」「大阪俳談会」の記事を読む。『層雲』掲載作品の合評会、というところであろうか。無季自由律俳句が、どのような観点から評価されているのか、そんな点について関心を抱きつつ、読む。思った以上に、随分繊細な鑑賞が為されている。あるいは、繊細な鑑賞が前提にされないと、相互に作品を理解することが困難なのではないか、という気すらちょっとする。詩作品に対する鑑賞という印象が、こちらとしては強い。言葉や独特のリズムについて、直接的にはわかりにくいのだけれど、放哉や他の会員のやりとりを読み、最後に付された井泉水の寸感を読むと、何となく感じるものはあるのだ。
昨夜も、眠いので8時くらいに寝室に引っ込んで、古今亭志ん生の落語をちょっとだけ聞こうと思って横になったら、そのまま寝入ってしまった。目を覚ましたら12時過ぎで、今更何かをするわけにもいかず、と思って、そのまま本格的に寝ることにする。その後は、1時間毎くらいに目を覚ましながらも、5時過ぎまで寝る。奇妙な夢を次々と見るけれど、起床時は随分すっきり状態であった。6時前に、朝風呂に入ったりして、完全に目を覚ます。

【07年9月9日】
土曜日。大ミスを犯す。丹後の句会の日にち変更が、会員の方達にきちんと伝わっていなくて、句会がお流れとなってしまった。事前に、電話で確認を取っておくべきであった。急遽連絡を廻して頂いて、後日実施することになった。岩城先生にも申し訳ないことをしてしまったと思う。
そんな事態が待っているとはつゆ知らず、駅ビル屋上で句作し、手土産も準備して、いつもの「はしだて1号」に乗車。車中では、投句作品の整理をして、その後古今亭志ん生の落語を聞く。『黄金餅』と『品川心中』の2題。周りに乗客がいるので、笑いをこらえるのに苦労しつつ聞く。『黄金餅』なんて、聞きようによっては随分グロテスクで悪辣な話なのに、それを大笑いの対象に変えてしまうのは志ん生の力量なのだろうと思う。カセットテープを聞いているので、仕草が全く分からないのが残念。話以外の部分で、観客が大笑いしているのを聞くと、どんな手振り・仕草を演じているのかとつくづく思う。宮津駅で、岩城先生と合流。各駅停車で丹後大宮へ向かう。その後の展開は、先の通り。ただ、岩城先生のお宅で、帰りの時間までのんびり過ごせたのは、有り難かった。丹後のお宅にまだ置いてある蔵書や切り抜きの一部などを見せていただく。随分たくさんの詩集を読んでおられると思う。帰りの電車の中では、前半はビールを飲みつつ談笑。後半は、岩城先生は『鼎座』第9号の原稿整理。こちらは、ちょっと酔っぱらってうとうとしたりする。
日曜日。5時から歩き始める。まだ、外は薄暗い。細い三日月と星がひとつ、東の空にかかっていた。いつもはそうしないのだけれど、今回は音楽を聴きつつ、歩く。オーディオの横に置いてあったCD。『ロミオとジュリエット』。全曲聞き終わる頃にちょうど帰宅する。後は、いつもの通り。シャワー、朝食、洗濯。
今日は、遅刊状態の『鼎座』第9号の編集作業を終えるべく、PCの前に座る。作業をしているうちに、自分の作品が、随分季節がずれているのが気になって、予定していた10句をご破算にして、5句は作り置きの句から選び、残り5句は新たに作ることにする。そのために、随分時間がかかってしまい、ほぼ一日仕事をなってしまう。「後書」を書き、編集作業を済ませ、データをフロッピーに入れて終了。その後、小雨の中を夕食の材料を買いに近所のスーパーまで出かける。帰宅後、短時間、昼寝する。目を覚まして、『醍醐会』会員の水野さんからいただいた個人誌『多島海』を読む。10年ぶりの復刊だそうである。その後、角田光代氏の小説を読む。

【07年9月7日】
辻田克巳句集『ナルキソス』を読む。その多様な世界にちょっと目眩すら感じるところだ。月曜句会の辻田氏の選句が、随分オーソドックスなものであるのに対して、句作自体はその範疇を越えた多様な世界が展開されている。やはり、辻田氏は作家であると、つくづく感じる。ただ、月曜句会の句作が、季語からの発想的な側面が強いような気がして、例えば「法師蝉」とくれば、仏教的な題材が展開されるというのは、どんなものであろうか、などとも思う。季語の本意をいかに巧みにずらして一句をものするか、という点にも句作の面白さがあるような気がするのだが。
文化祭終了。疲れた。ただ、今時の高校生の純情にたくさん触れることが出来て、なんとも爽やかに後味を感じているのだ。それにしても、文化祭の取り組みに費やされたエネルギーは、どれほどのものであっただろうか。そのエネルギーの膨大さに、教師をやっていての面白さの裏付けがあるような気もするのだ。とにかく、疲れたけれど、良かったなという印象が強い。
角田光代の小説を読む。幾つかのモチーフの所在とその組み合わせで、作がものされているような気もするのだが、ストーリーテリングの巧みさについ読まされてしまう、というところであろうか。インドを舞台にした小説など、自身の経験を思い出したりしながら面白く読ませてもらった。
明日は、丹後の「すき句会」の日。8月は、休会だったので、楽しみである。岩城先生の句会は、本当に多様な人の参加があるので、刺激的だしとても面白い。自分もまた、硬直した作品を出句しないようにちょっとぴりっとしている点なども含めて、とても面白い。ただ、岩城先生自身は、辻田先生と同じように、自己の思う世界へと一歩ずつ収束しておられるような感触を、最近ずっと持ってはいるのだが。

【07年9月4日】
日曜日。「空の会」で大阪へ。加田由美さんから、天狼の俳人三好潤子について、お話を聞く。事前に、全句集『曼珠沙華』を読んでおく。お話は、「略歴とその周辺」「誓子の見た潤子俳句」「キーワードとしての『装う』ということ」「私の中の三好潤子」の四点にまとめられての内容だった。興味深い話をたくさん伺う。榎本冬一郎とのこと、石川桂郎のこと、天狼「コロナ賞」のこと、天狼大阪句会のこと、潤子とその周辺の人物達。三好潤子の在り方の特質、その作品。公私の生活。本当に多方面にわたり、身近で謦咳に接した方らしい細部の機微に渡る話を聞く。閉会後、会員の皆さんと別れ、せっかく大阪まで来たので、阪急の古本街を逍遙する。相生垣瓜人関係の本があれば、多少高くても購入するつもりであったが、全く見あたらなかった。満員の新快速で、帰る。
月曜日。夕方から月曜会。ぎりぎりまで仕事して、大急ぎで退勤。バス・電車を乗り継いで、句会会場へ。出句〆切まで15分。席題3句、持ち寄り5句を提出する。1句のみ会員さんから特選で選をされるが、辻田先生からは全没、という状態であった。選句に関して、間接的に厳しい指摘を受ける。句会終了後、辻田先生から最新句集『ナルキソス』を恵贈される。ありがたい。円熟期にさしかかったであろう辻田氏の作は、その端正な姿と多彩な内容(そして、何をどのように詠もうとも俳句としての「姿」を失わない)において異彩を放っていると言えると思う。。
火曜日。午前中は通常授業。午後、文化祭の準備。明日一日が勝負となるだろう。木・金両日が文化祭当日となる。1年が仮装行列、2年が教室劇、3年が体育館の特設舞台で演劇という演目。それに、ブラバン・演劇部・美術部・保健委員会そして、生徒会の取り組みなどが催される。展示がほとんどないのが、少々残念だけれど、やむを得ないか。


【07年9月1日】
9月に入った。5時起床。5時20分、「歩き」に出る。まだ、日は昇らない。朝焼けが美しい。涼しくて、歩きやすい。久しぶりに丘陵地帯を歩く。蝉声は少ない。代わって、虫のすだく声がしきりに聞こえる。つい、1時間半ほど歩く。特殊な時間から、日常の時間へと帰還する感覚。西の空に、朝月が白く残っている。
金曜日。午前中4時間連続授業は、ちょっとこたえる。午後、文化祭準備。その間に、会議が二つ。その合間に、授業で返って来た読書感想文を少し読む。あさのあつこ『The Mannzai』を読んでいる生徒もいて、興味深く感想文を読む。ちなみに、『The MannzaiB』は読了。意外な展開などもあり、なかなか読ませる。少年の成長物語という児童文学の王道?を踏まえつつ、物語の面白さをちゃんと生かしたお薦めの一冊であった。6時過ぎに、校内の巡回を終え、7時前に退勤。京都市内へ。ミューズの年末『第九』の申し込みが、第二金曜日までなのだが、来週も再来週も参加出来そうもないので、とりあえず今日申し込みだけは済ませておこうと思う。8時過ぎ、練習会場へ。受付の人が二人、ぽつんと座っている受付で、用紙をもらい、団費を納めて手続き終了。レッスンの声が漏れ聞こえる中を、退出。もう一カ所行かなければならない場所があるので、急ぐ。何とか間に合い、用事終了。帰宅する。
先日送っていただいた木割大雄氏『かばとまんだら通信』作品欄より、感銘句の紹介。「扁額へ開け閉て試す春障子」「三塁を踏ませず春の星見上ぐ」「代走者居て一塁のおぼろかな」「ギギと咬む砂は他郷ぞ浅蜊汁」「挨拶は里の言葉か豆の花」「春なれや智慧は天草訛りなる」「曳き出しに誓詞眠らせ夏に入る」「得たりやと菖蒲の花へ膝を折る」「檜皮葺鳥居へみどりせまりくる」「動くかも知れぬ蛇の衣を見し」
Tさんから、「翅の会」で話題になった相生垣瓜人の資料を送っていただく。論評1編と抄出作品、自注句の一部など。「蛇笏賞」作家であり、岩城先生が高く評価する俳人とのことだが、句に触れるのは初めてである。勉強不足である。