日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。
一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。
07.8「日々録」
07.9「日々録」
07.10「日々録」
07.11「日々録」
08.1「日々録」
【08年2月26日】
体調が今ひとつで、授業だけ終えて、午後年休を取って帰宅する。薬の影響と、少々疲労しているせいなのかも知れない。普段は、片道は「歩き」なのだが、今日は往復ともにバス通勤。
帰宅後、野菜たっぷりの饂飩で遅い昼食を取り、そのまま寝る。夕方まで、横になっていて、随分と楽になる。早めに風呂に入り、夕食。夜の服薬の時間までは起きていないといけないのだが、もう眠い。
往復の車中では、外山滋比古の「省略の文学」を読む。「切れ」を中心にして、俳句の特質について、語られる。特に、俳句は「近代文学」とは別の特質を持つ文学の一形態であるという認識は、大変面白いと思った。「第二芸術論」に触れつつも、俳句にとって西洋的な意味で「近代化」する過程には、おおきなリスクが潜んでいたとする認識も面白い。最近読んだ復本一郎氏の『俳句と川柳』や小澤實氏の『『俳句のはじまる場所』などを思い出す。
ブログ版「日々録」に、『週刊俳句』に「一遍上人」論を掲載しておられる五十嵐秀彦氏から書き込みをいただいた。五十嵐氏は「無門」というホームページをネット上に開設しておられ、その中の「無門日記」は、実は私も連日アクセスしては愛読しているページである。現在「瞽女」の起源について考察を進めておられるが、これも読み応えのある論考である。
【08年2月25日】
「週刊俳句」
。五十嵐秀彦「一遍上人論 私性の誕生と『うた』の漂泊(2)」は、非常に読み応えのある作であり、わくわくしながら読み進んだ。一遍の境涯と時宗の教義との関わり、さらに時代状況の中で時宗とその門徒衆(と言って良いのか)が宗教的な枠を越えて、当時の文化の中心へと鋭く浸透してゆく過程などが語られていて、強い感銘を受けたりもした。
夕方、帰宅してマンション7階の共同通路を部屋に向かって歩きながら、何となく街の方を眺めると、その一角から猛烈に煙が上がっている。一目で火事と分かる。煙の太い柱の下部が炎で赤く染まっているのが見える。ここから直線距離で500メートルもないところだ。あの辺りは民家が密集しているところなので、これは大変な事になったと思いながら、さらに見ていると、しばらくしてサイレンが聞こえ、どうやら消防車がやってきたようだった。それからすぐ、一際煙が高く上がってから、急に萎むように見えなくなったので、どうやら速やかに鎮火したようだと思い、部屋に入る。火事に注意を奪われて、寒さを忘れていた。
角川『俳句』。岸本尚毅の評論と藤原龍一郎の現代俳句時評、石田郷子の文章を読む。岸本氏の「写生と可笑味について」は「写生」という方法がもたらす滑稽味の契機について触れていて面白かった。藤原氏の今回の時評は、時評と言うよりは3冊の句集との出会いについて語られていて、とても感慨深いものであった。石田氏の文章は、文章以前に基本的な企画の方向性がちょっとずれているのではないか、と言う気がする(個人的には「マンガ○○入門」の文章版みたいな印象を持っている。「マンガ」は好きなのだが、「○○入門」は頂けない)。それにしても、『俳句研究』の方はどうなっているのだろうか。このまま発行が3月にまでずれ込むのだろうか……。それとも、発送作業はすでに始まっているのだろうか。
名村早智子さんから『玉梓』3・4月号を送っていただく。順調に発行しておられて、感心する。我が『鼎座』の方は、私の個人的事情などもあったりして、ちょっと頓挫気味になっているが、なんとか早く出したいと思う。
【08年2月24日】
「俳句の里交差点」というブログをたまに覗いていて、そこで2月24日に鵜殿の蘆焼が行われる事を知り、出かけてみるつもりであったが、日曜日当日、思いの外の降雪で、あるいは無理かも知れないと思いつつも、ともかく出かける事にする。阪急電車は、駅舎もきれいだし、車内も落ち着いた雰囲気で清潔感があってなかなか良い。阪急線上牧(かんまき)駅で下車。西山が迫っているせいか、周辺は京都市内よりも雪が多いように思う。改札口まで行くと、案の定「蘆焼順延」の掲示が壁面に貼り付けてあった。蘆の状態が悪いので、3月まで延期されるようだ。これはこれで滅多にない景色に出会えるかも知れないと思い、雪の残る道路を淀川河川敷まで歩く。駅から20分足らずの距離。淀川の堤に立つと、一面の雪景色が眼前に広がっている。春の重い湿雪のせいか、蘆は軒並みうち臥せられたような状態になっていた(「ブログ版日々録」に写真を貼り付けておきます)。これはこれで壮観であった。長大な淀川の堤を高槻方面に歩く。時折、北西風が吹き付け、粉雪がぱらぱらと降りかかって来る。ずいぶんと寒い。写真を撮りながら歩き、さらに河川敷へ降りて、間近に雪臥せの蘆を眺めながら、引き返す。せっかくなので、一駅歩いて水無瀬で電車に乗ることにする。途中、水無瀬のゴルフ場の横を通る。一面雪に覆われ、砲台グリーンの部分だけが、僅かに盛り上がっていたりする。ゴルフに熱中していた頃は、練習を兼ねて、よくここに来ていたものだ。対岸の雪の樟葉ゴルフ場は、初めてバーディーを出したコースでもあった。なんとも長閑な思い出として、懐かしい。
車中では、京大教授で地震の専門家尾池和夫氏の『俳景 洛中洛外・地球科学と俳句の風景』を読む。京都周辺の地理と活断層・地震などの話。面白い。尾池氏は、京都の俳句結社「氷室」の同人で、俳人協会会員でもあるそうだ。エッセイの途中に、適宜俳句を織り交ぜた体裁で、活断層や地震について分かりやすく、興味深い話が載せられる。俳誌『氷室』に連載されたものだそうだ。ただ、内容的価値を貶める訳ではないが、せっかくの面白い本なのに数カ所校正ミスがあって、それが気になった。発行人なり、出版社なりが最終チェックをしないのだろうか。
テレビを買うことにした。寝室に置いていたテレビが、購入後すでに20年近くたって、カラーが妙な具合になっているので、現在居間に置いてあるテレビをそちらに回し、空白になった居間に横滑り的に流行の薄型テレビを買うことにした。とりあえず、品揃えの良い京都駅前の「ヨドバシカメラ」で一通り値段だけ確認して、駅裏のソフマップで値段次第で購入するつもりでそちらに廻る。37型液晶程度でと考えていたが、結果として例の「Kモデル」42型サイドスピーカー仕様というのをかなり安くソフマップで買うことにする。来週末には届くらしいので、それまでに部屋の配置など、ちょっと変えてみてもよいか、などと思う。
『俳句研究』は送ってこないけれど、角川『俳句』3月号が来る。
「週刊俳句」
も更新。今号は、評論中心の構成らしい。どちらもまだ見ていないので、これからゆっくり読ませてもらおうと思う。
【08年2月23日】
とうとう花粉症になってしまったようだ。目の痛みはないが、壊れた水道の栓みたいに鼻水が常にじわじわと流れ出ているような有様で、鬱陶しい。こまめに塩水で鼻を洗浄したりしているが、あまり効果はないようだ。花粉の飛散はこれからが本番だろうから、この先どうなることかと思う。
金曜日。久しぶりに2万歩ほど「歩く」。そのせいか、少々疲れてしまう。やはり、体力的には随分落ちているようだ。夕方、ミューズのレッスンに行く。「カルミナ・ブラーナ」練習初参加である。ただ、思ったほど参加メンバーが集まらなかったようだ。見学者50人ほどのうち、団に参加された人は10名ほどで、例年になく少なかったそうだ。それだけ難曲という印象を見学の人たちに与えたようだ(確かに、楽しくも難しい曲ではあるのだが)。歌の出来は、まだまだ荒削りであるが、その分パワーはありそうな気がする。服薬の関係があるので、練習は8時過ぎで切り上げて、帰宅する。京都駅のいつもの店でパンを買う。ガーリックトーストやらカボチャパンやらも買ってみる。外に出ると、スキーバスを待ち合わせる集団が、あちらこちらに点在している。なかなか楽しそうな雰囲気である。
土曜日。高曇りの日。天気は下り坂になるようだ。夕方からは、雪がちらつくかもしれない。とりあえず、洗濯物をベランダに出しておく。ネットの接続状態が少々不調気味なので、プロバイダに問い合わせのメールなど出したりする。そういえば、ブログ版「日々録」の記事の「週刊俳句」に関わる部分が、自動巡回ロボットとやらに、勝手に切り貼りされ無断引用されていていて不愉快な思いをしていたのだが(この記事も「週刊俳句」という言葉が含まれているので、ブログに載せるとすぐに切り貼りの対象になるのだろうか)、ブログへのアクセスの中にも、客引き用の偽サイトがあることを知って驚く。「ブログ日々録」にアクセスがある中で、「john-grace-mari」と「itukaoujisamagaaa」というブログは、どうやらそれらしい。世の中には、幾つかの「ブログ監視ブログ」まであって、こんな情報を広く流してくれたりもする。ネット世界は、薄汚れた部分やら自浄能力やら本当に色々混沌とした面があると思う。
一週間分の「ちりとてちん」をまとめて見る。面白い。特に、草若師匠のお葬式の回の話は、傑作だと思う。NHKの朝の連続ドラマは、出来不出来がかなりはっきりしているのだが、このシリーズはビデオに取っておいてみたりしている。久々のヒット作ではないか、と思う。東京作製のものより、大阪作製の物の方が面白いみたいだ。
それにしても、季刊直販で再開した『俳句研究』。2月半ばには発送されることになっていたのではなかったかと思うのだが、すでに20日過ぎなのに、いまだ送ってくる気配すらない。一体どうなっているのだろうか。どんな誌面になるのか、楽しみにしているのだが。
【08年2月17日】
郷里の方も、積雪があるようだ。2月半ばにして、この降雪というのも、最近では珍しいことではないか、と思う。日曜日。京都も雪が降るとの予報が出ていたが、朝から快晴。日射しは、明るい。
土曜日。『俳句の始まる場所』読了。俳句を、和歌、連歌、俳諧の連歌、俳諧という詩歌の流れの中に位置づけて、形式・季語・切れ・取り合わせ・写生等俳句の諸問題について、その源流を究明しようとする姿勢が明確に打ち出されているのが、印象的だった。和歌の構成おける親句・疎句という考え方を、俳句の一物仕立て・取り合わせの句に関連づけて説明されている点を読み、蒙を啓かれる思いにもなった。見解の是非を判断する力量をこちらは持ち合わせては居ないけれど、明快な論調に、拠典を読んでみたいものだとずいぶん刺激を受けたのは確かだ。
夕方、少人数の宴会があるので、その体調作りを兼ねて、2時間ほど「歩き」、そのまま会場まで行くことにする。丘陵地帯をぐるりと巡り、まだ枯れ様の自然公園の遊歩道をたどり、改装がなった城郭を見上げ、市営グランドでのサッカーの試合をネット越しに眺め、さらに知人の宅に立ち寄って、立ち話ながら近況の報告をして、細雪が降り出す中を、宴会場所の小さな居酒屋へと向かう。5時過ぎから8時過ぎまでの小宴。美味しい料理を食べ、焼酎のお湯割りを飲んで、近況や思い出話などに楽しい時間を過ごす。最後は、都合で来られなかった人に携帯を入れて、ひとしきり喋って終宴。私は、投薬の関係で一次会のみで失礼する。さて、彼らは何次会までいったことやら。うっすらお酒の酔いの中、よい気分で夜の凍み道を帰宅。
日曜日。
「週刊俳句」
の更新。俳句作品は、神野紗希「誰か聞 く」10句。「手袋のかぶせてありし杭の先」このような用法が俳句にはしばしばあるとはいえ、「し」という言葉の使い方が、やはり気になる。「革ジャン光る街灯の下過ぎるたび」こういう質感を感受する感性は良いな、とつくづく思う。「風船を膨らませたる手の匂い」の感覚も。「懐手広場は何も育まず」何となく知に流れてしまいそうな側面もあるけれど、発想としては個人的に面白かった。「菠薐草に晩年の味ありぬ」太宰治に『晩年』という作品集があるけれど、この人の思う「晩年」とはどのようなものかと思う。「錆びくさい味、かおり」?五十嵐秀彦「一遍上人論 私性の誕生と「うた」の漂泊(1)」一遍と時宗には興味があり、書店や古本屋で関係のある本などを探しているのだが、探し方がまずいのかなかなか見つからない。これはプリンターで打ち出して、改めて読もうと思う。斉田 仁「上州の反骨 村上鬼城 第5回 初句集『鬼城句集』と虚子」、野口 裕「林田紀音夫全句集拾読 006」感心しつつ、読む。林田句と鈴木六林男句との比較が面白い。紀音夫俳句の「恨み節」と六林男俳句の「男節」?。中嶋憲武「スズキさん 第8回 ワイルドで行こう」今回も、微妙。私小説のパロディのよう。でも、今までの中では一番面白く読めたかも。
【08年2月16日】
金曜日。入試業務の一日。終わって、かなり疲れる。夕方、京都市内へ。今日が、ミューズの団員募集最終日なので、とにかく申し込みだけは済ませておこうと思う。駅まで歩く。枯れ色の田野の向こう、山並みの奥に、茜色に染まる雪の比叡山が望まれる。普通電車で京都駅まで。車中で、外山滋比古の『省略の文学』を読む。俳句の切れについて触れてある。大学時代習った「ゼロ記号」の話なども出てきて、興味深い。合唱の練習会場になっている某ビルの最上階の小ホールまで行き、申し込みを済ます。人の出入りが多いので、たくさんの団員が集まったのか、と思う。今日は申し込みのみで、そのまま会場を後にする。久しぶりに、駅ビル内のパン屋で何種類か、朝食用のパンを買う。
夜、9時過ぎに就寝。ベットの中で、『俳句の始まる場所』の続きを読む。ちょうど、切れの問題を扱っている部分。母と甥が来たときに購入した温風器を寝室に置いて部屋を暖めているので、布団の中でしばらく寒さに震える事がなくなったのがありがたい。
夜中に2度ほど目を覚ますが、5時前まで寝る。薬を飲み、しばらく『俳句……』を読む。広範に本を渉猟しておられるらしく、色々な資料を援用しつつ話を進めておられるが、七五調のリズムに関わって、坂野信彦氏の日本語は二音節を単位として発音するという説を紹介しておられる。、読みながら、一番基本になる本当に「二音節」で発音するのか、という点がピンと来なくて、とまどってしまう。まして、初五の後に三拍の休止が……などと言うことになると、実感から随分乖離したようで一層分からなくなる。7時まで、二度寝する。
洗濯機を回しつつ、朝食の準備。昨日買ったパンを食べる。ここ2週間ほど普通の食パンだったので、ここのパンの美味しさを再確認する。日射しが明るいので、洗濯物はベランダに干す。ネットで見ると、丹後方面は本格的な積雪で、いかにも雪国らしい様子になっている。寒いだろうな、と思う。3月の丹後句会は、第一土曜日に変更になったので、雪の残る丹後半島を眺める事が出来るだろうと思う。今日は、夕方から新年会を兼ねた小さな宴会がある。久しぶりに宴席に出る。
【08年2月14日】
そういえば、
ブログ版「日々録」
の方に、伏見稲荷大社で撮した写真を1枚貼り付けておきました。よろしければ、ご覧下さい。記事は、「日々録」と同じものです。
5時に目を覚まし、薬を飲み、そのまま布団の中で、小澤實氏の『『俳句のはじまる場所』の続きを読む。だんだん面白くなってきている。芭蕉と虚子に力点を置きつつ、俳句について多面的に論を展開している。俳句と縦書きについてなども、外山滋比古の考えを紹介しつつ触れていて、頷けるものだった。ちょうど、外山氏の『思考の整理学』を読んでいるところなので、そちらの著作もいずれ読んでみようと思う。
5時40分に起床。朝食の準備と、職場に持って行くサラダセットとコーヒーの用意も併せておこなう。サラダは、昼食の弁当に野菜を補填するつもりで、毎食分を作って持って行くことにしている。6時過ぎに朝食、7時前には家を出て、駅へと向かう。朝の寒さが、本当に身にこたえる。今日は、3時間の授業。午後、入試関係の仕事。退勤後、今日も近くまで送ってもらう。1日1万歩のノルマに達しないので、そのまま近所をぐるりと歩いてくる。寒い。近所に出来た中華料理屋が、開店当初以後、客が入っているところを見たことがない。今日も、店主と給仕の二人が、店内にぽつねんと座っている姿があるばかりだ。本格的な中華の店みたいなので、そのうち一度行ってみようとは思っているのだが。
9時過ぎに薬を飲み、しばらく映画「レオン」を見る。
【08年2月13日】
月曜日、午後。「歩き」に出かける。腹の具合が若干不安定なので、遠出するわけにもゆかず、近所をぐるりと一周するつもりで歩く。結局、2時間くらい歩き、初午大祭を翌日に控えた伏見稲荷まで往復する。舞殿に御供物が盛大に展示されてあって、なかなか壮観であった。境内を参拝者がゆったりした流れになって移動し、参道沿いに何軒も露店が出ていて、そこから威勢の良い掛け声なども聞こえる。露店を冷やかしながら、歩く。面白い。
火曜日。母と甥は帰郷。夕方、同僚に近所まで送ってもらう。スコンと抜けたような夕空が美しい。それにしても、寒い。昨日は、歩いていると汗ばむくらいに温かかったのだが。夜、あり合わせの物で夕食をとり、さっさと寝てしまう。新たに借りてきた志ん生の落語を聞く。「鮑のし」と「本所七不思議」。「本所……」の方は、ずいぶん年を取ってからの録音ではないか、と思う。耳を尖らせるようにして聞く。面白い。
水曜日。ひどく寒い。外はすっかり雪景色で、さらに空から白い物が際限なく舞い落ちて来る。今日は、通院のため、午前中は病院。雪が降る中を、病院まで歩く。検査をおえ、特に問題なく、明日から服薬を再開することになる。また、5時起きの日々が始まる。病院から、職場へ。駅からのバスに繋がりが悪く、歩く事にする。正面の山々が白い。見晴るかす京都市上空に、雪雲がわだかまっているようだ。二日連続で、同僚に送ってもらう。車中で、今朝の通勤の苦労話を聞く。降雪のせいで、道路が随分渋滞したらしい。明日も、今日以上に冷え込むようで、明日はどうしようという話になる。こんな時、車を持たない人間は気楽?である。電車、バス。バスが駄目なら歩き、ということになるのだ。
土曜日。岩城先生と丹後の句会に行った帰り。車中で話題になった草野心平贔屓の飲み屋「熊鷹」のこと。岩城先生は、その大きな看板が面白かったと言われた。たまたま読んでいた草野心平のエッセイの中にその「熊鷹」に触れた部分を見つけたので、折角だから引用しておこうと思う。「京都の千本河原町に『熊鷹』とい居酒屋がある。ここはなんの変哲もないのが変わっているといえば言える。熊と鷹とを合併したいやに欲ばったゴツイ名前が面白いが、店の方式は欲ばらないし、こりもしない、いたって呑気なところがいい。ここは深瀬基寛さんの常食屋で、京都へ行くとここへ連れてゆかれる。ツキ出しも五十円どまり位で気楽でいい。土佐流のカツオのたたきを出すが、これは土佐生まれの深瀬さんの直伝だそうだ。」すでに、ずっと前に閉店してしまったとのことだが、ふらっと入ってみたかったような店である。
【08年2月11日】
日曜日。微熱やら、腹痛やらで、一日籠もる。母も、足痛のため、同じく家籠もり状態である。甥のみ元気で、午後レッスンを受けに大阪へ。淡々たる一日である。午後、俳人協会評論賞を受賞した小澤實氏の『『俳句のはじまる場所』を読む。まだ読み始めたばかりで、さほど感銘も受けず。俳句初心者(などと言えば偉そうになるが)を念頭に置いた内容とか。本気で若手育成を考え、実行しておられる俳人の啓蒙書である。
それにしても、しばらく前から気になっているのだが、例えば「週刊俳句」で検索をかけたりすると、「週刊俳句」の記事を含め、色々な記事の断片が乱雑に並べられたブログが何件もヒットして、うっとおしいのだが、あれは一体何なのだろう。時には、「日々録」で触れた「週刊俳句」の記事を、その部分だけまるまる自分が書いたかのような体裁で抜き出して掲載していたりして、一体何だろうか、と思ったりすることもある。あれは一体何なんだろうか? 全く分からない。
月曜日。朝から、快晴。久しぶりに洗濯物をベランダに干す。母と甥は、明日帰郷ということで、甥は午後奈良方面にでかけるつもりらしい。母は、足痛がまだ治まっていないので一日部屋籠もりである。私は、微熱があるのだが、午後になれば平熱に復するだろうと考え、ちょっと出かけてこようかと思う。
【08年2月10日】
土曜日。2月の「すき」句会。折しも、春の雪降りしきる京都駅を出発する。3連休初日と言うことか、珍しく「はしだて1号」は満員状態であった。朝の「緑の窓口」で、指定席最後の1枚が手に入ったのは幸運だった。車窓を流れる雪景色を眺めながら、句会に出す作を考える。岩城先生とは、宮津駅で合流。指定席が取れなかったので、別便で福知山まで行き、「はしだて1号」に乗り換えて来られた、とのこと。寒気の厳しい宮津駅頭で電車を待つが、信号機の故障で延着するとの放送で、やむなくタクシーを使うことにする。宮津市内を抜け、天橋立横を通過し、阿蘇の海に沿って進む。野田川町を通り、峠を一つ越えて、大宮町に入る。「王将」で昼食をとり、凍み雪を踏んで岩城先生のお宅へ。
今日は、色々な不都合が重なったせいか、参加者が少なく、8名だった。席題は、「立春」「薄氷」の二つ。句会を始めるにあたって、前の「いさなご句会」の時からずっと参加してこられ、今年に入って間もなく亡くなられたYさんの冥福を祈る。今回は、悼句弔句がいつもに比べて多かった。句会は、4時過ぎまで。室内が寒いので、大宮の駅舎で暖を取ることにして、駅まで送っていただく。待合室の大きな石油ストーブの前で、「宮津竹輪」を囓り、ビールを飲みながら、1時間ほど電車が来るのを待つ。途中、所用で欠席しておられたMさんが、わざわざ駅まで様子を見に来られる。しばらく談笑。定刻に数分遅れで「丹後ディスカバリー号」が来る。乗車。車中でも、ビールを飲みつつ談笑。京都に近づくにつれて、窓外の雪が深くなるような気がする。積雪の京都に、延着する。ともかく、寒い。
遅い夕食は、受験で京都に来ている甥の手作りのハンバーグとシチューであった。どちらもなかなか美味。我が家の男達は、皆それなりに料理が出来るのが、心強い。若干疲れて、10時過ぎには就寝。
日曜日。7時過ぎに起床。外は、積雪で真っ白である。天気は良い。室内は、窓の結露が凄い。びしょびしょに近い状態で、窓ガラスに触れているカーテンが、すっかり濡れている。洗濯物を部屋干ししているせいもあるのだろうか。
「週刊俳句」
が更新。作品は、宮嶋梓帆氏「記憶」、矢口 晃氏「いいや」各10句。何故か、全体として淡淡(あわあわ)とした印象。読み物は、猫髭氏「静かな場所 対中いずみ『氷柱』10句と田中裕明」が、周到に用意された評論で、大変読み応えがあった。「週俳1月の俳句を読む 2」を通して読みながら、中には作以上に俳句評の方が面白いものがあって(これは、問題発言? その評を引き出す力が作に内在しているということかもしれないが)、「俳句」もまた「触媒」として読者に働きかけ、読者内部に様々な化学反応を促進するものか、などと思ってしまう。
【08年2月6日】
普段は、薬を飲んで、9時過ぎには寝床に入る。それから、しばらく本を読んだり、貸してもらった古今亭志ん生の落語テープを聴いたりする。時には、10時にならないうちに寝入ってしまったりする。ただ、布団に入ってからしばらくの間は、足元が寒くて仕方がない。冷え性というわけではないのだろうが、ともかく足が冷たくて仕方がない。止むを得ず、しばらく靴下を履いたままで横になっているのだが、なんとなく気持ちが悪い。近所のスーパーに980円くらいのプラスチック製の湯たんぽを売っていたので、いつか買おうと思っている内に、今日行ったらすでに店頭から引き上げられてあった。立春を過ぎたからであろうか……。
普段は、帰宅後さっさと入ってしまうのだけれど、今日は寒さ対策のつもりで寝る前に風呂に入る。。湯温もいつもよりは高めに設定する。熱めの湯に胸まで浸かりながら、詩人のエッセイを読むのは、なかなか気分が良い。内容が温泉や料理の話なので気楽に読むことができるのが良い。すっかり暖まって、ちょっと気持ちに余裕があるので、「日々録」を更新することにする。
今、読んでいる本。一冊は、小林信彦著『テレビの黄金時代』。テレビ草創期から、黄金時代といわれる昭和40年代辺りまでのテレビ業界をカバーする作者の体験的エッセイ集。自分自身のテレビ体験なども思い出されて、懐かしくも興味深い内容。もう1冊は、外山滋比古の『思考の整理学』。こちらはまだ読み始めたばかりなのだが、「触媒」と題された文章では話題として「俳句」が取り上げられていて、俳句においては「主観」は「花鳥風月」に「仮託」され、「間接」にしか表現されないとして、作者なりの「俳句論」が展開されていて面白い。作者の「主観」はいわば「触媒」として作品世界を作り上げる重要な要素になるけれど、「触媒」はあくまで反応を促進するものであり、それ自体は反応の背後にあって、多彩な反応の影で変わらざる存在としてそこにあるものとして考えられているようだ。なるほど、と思う。
【08年2月3日】
朝。珍しい情景が、ベランダから望める。手前の家並みは雨に黒く濡れているのに、山の手の住宅街は雪で白く彩られてある。雪雲が、山沿いに通過していった結果のようだ。今日は節分。冬と春とを分ける景のようだ。とは言っても、随分寒い。ちなみに、今年の恵方は南南東。昼食は、太巻き寿司の丸かぶりになりそうだ。
土曜日、午後。「三月書房」を覗きに行く。「歩き」を兼ねているので、地下鉄烏丸から歩く。錦市場を通り、寺町京極を抜けて、寺町通りを上がる。「三月書房」は本当に小さな書店だけれど、店主の見識のお陰か、置かれた書籍が普通の書店にはないようなものがあり、思わぬ本を手に入れることが出来る。今回も、2冊。1冊は、富澤赤黄男句集『天の狼』の復刻版(沖積社・3500円。但し、定価の6割引であった)。「蝶墜ちて大音響の結氷期」や「戞々とゆき戞々と征くばかり」など同氏の代表作が所載される。富澤赤黄男の作品を句集の形で読めるとは思っていなかったので、大変ありがたかった。もう1冊は、『阿部完市俳句集成』(沖積社・13000円。但し、これも定価の6割引であった)。阿部氏の八つの句集をまとめたもの。作者の作品をまとめて読むことが出来るということで、これも大変有り難い1冊であった。
「三月書房」を出て、丸太町通りまで歩き、そこから鴨川河畔に抜け、三条まで戻る。ゆりかもめ、小鴨、真鴨、白鷺、五位鷺、背黒鶺鴒、さらに鵜を1羽見かけたりする。小鴨が、集団で岸の冬草を食んでいるのを見かけたりもする。携帯のカメラに収めておく。京阪で帰る。帰宅途次のスーパーで、店頭販売されている焼き芋の匂いに誘われて、おおぶりのものを一つ買う。夜、入浴、夕食(カレーライス)、早めに就寝する。ベットに横になると、直ぐに眠ってしまうようだ。はっと目が覚めてみると、12時過ぎだったりして、寝ていたのだと分かったりする。
日曜日。「週刊俳句」更新。今号の
「週刊俳句」
に拙文を掲載していただきました。よろしければ、ご一読下さい。
【08年2月2日】
2月に入る。5時過ぎに薬を飲み、その後7時前まで眠る。休みの日は、これが出来るのでありがたい。すこし寝足りた気分になる。洗濯しつつ、朝から野菜たっぷりの焼きそばを作って食べる。焼きそばなど食べるのは、何ヶ月ぶりだろうか。というのか、昨夜夕食に本当に久しぶりに焼きそばを作って食べて、それが美味しかったので、つい今朝も作ってしまったのだ。おそらく中国産だろう冷凍の野菜パックを使った焼きそば。やはり美味しかったけれど、そう連続して食べるものでもないと思う。まして、朝からは少々重かった。食後、防寒をしっかりとして歩きに出る。1時間ほど歩き、そのまま近所の大型スーパーに湯沸かし器を買いに行く。3リットルものを買う。帰宅後、「ちりとてちん」をまとめてみながら、昼食用のカレーを作る。低カロリーのカレールーを使う。海鮮カレー。「ちりとてちん」は、なにやら重たい展開になりそうである。もっとあっけらかんと明るく終わればよいのに、なぜこんな風に話を重くしていくのだろうか、と思う。
復本一郎氏の『俳句と川柳』を読了する。「切れ」について、「首部」と「飛躍切部」とに句の構造を分けて説明される。二重構造という意味が今ひとつ分からないのだけれど、それなりになるほどと思う部分がある。ただし、それを例えば英語俳句にまで当て嵌めていくと、「俳句」と「haiku(外国語によるハイク)」の整合性を付けようとするあまり、かえて「飛躍切部」という考え自体が曖昧になってしまうのではないか、と思う。「俳句」と「haiku」を同一の文学様式と考えるのは、どこかに無理があるのではないか、と思う。いっそ別物とする方が、どちらにとっても良い結果を生むように思う。
角川『俳句』2月号に、清水さんの12句が掲載されてあった。タイトルが「三次元」。X・Y・Z軸の名称の下各4句ずつ。結果として、一つの俳句空間が形成されるということなのだろうか。とすれば、各句がこの座標空間のいずれかの部分で様々に交叉しているということになるのかもしれない、などと考える。各軸より。「呼鈴の側に新聞奥に菊」(X軸)「狐出て賢き人の頬を舐む」(Y軸)「影落す腕木信号田螺の田」(Z軸)。
中国産冷凍野菜の波紋は、ますます広がっているようだ。我が家の冷蔵庫を調べてみても、中国産野菜を用いた冷凍食品が幾つも見つかる。冷凍食品が食生活に浸透していることと、その原材料がほとんど中国産野菜ということによるのだろう。生野菜は、国内産の野菜(あれば多少割高でも減農薬や有機野菜)を買うようにし、冷凍ものについては単品の中国産野菜は買わないようにしてはいるのだが、原材料に使われている場合は、選別は困難。冷凍品は使わなければ良いのだが、そうもいかないし。痛し痒し状態ではある。