日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いました。
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、という事です。
一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。
07.9「日々録」
07.10「日々録」
07.11「日々録」
08.1「日々録」
08.2「日々録」
【08年4月29日】
5時前目を覚ます。服薬後、しばらくベットでごろごろしているが、やがて起床。すでに、太陽は昇っている。朝食の準備。洗濯をする。ほとんどが甥のもので、あきれる。パンとみそ汁、野菜とイチゴの朝食。一休みして、コーヒーを飲んでいると、甥が起き出してくる。甥は、ご飯、みそ汁、卵のシンプルな食事。朝は、あまり食べたくないと言う。今日も、大学に練習に行くとのこと。2回目の洗濯。甥に段取りを教えて、自分でさせる。甥は、そのまま大学に。こちらは、洗濯が仕上がるのを待って、借りてきたDVDを見る。『ヒーローズ』というアメリカの大人気テレビドラマ。確かに、面白い。
日曜日。『翔の会』。とうとう、竹中宏研究がスタートする。今回は、その第1回目。参加者は4名。今後、さらに数名参加予定。今回は、アドバイザーとしての竹中氏の参加はないので、すべて自分たちで進めることになる。先月の『醍醐会』の時に配られた資料を基に、自由に疑問点などを出し合って、話合う。ともかく、配布された資料が一筋縄どころか、二筋も三筋のいかない難物なので、皆四苦八苦状態であった。5時前、終了。とりあえず、次回は各自が今回の話し合いの中で問題となった幾つかの点について、分担してレポートを作成、持ち寄りで話し合いを深めることになった。私は、著論部分で扱われる「気ばらし」という事について、M氏は竹中氏の言う「近代」の意味について、K氏は芭蕉の「物の見えたる光」に触れた部分について、T氏は、「戦後俳句史」との照応関係で、資料を読み込んでくることになる。散会後、他の人たちと別れ、本日分のノルマ1万歩の「歩き」。北大路から、京都御所まで歩く。途中、「ブック・オフ」に立ち寄り、車谷長吉『赤目四十八滝心中未遂』と満田春日句集『雪月』を購入。御所は、目の中が染まるほどの新緑であった。
月曜日。夕方から、生徒指導部の歓送迎会。こちらは、送り出される方であった。薬の関係で、夜8時以降は飲食不可なので、1時間足らずであったが、参加する。職場の歓送迎会は欠席したので、久しぶりの同僚との飲み会。色々と楽しい話を聞く。うっかり、時間を超えたので、急いで帰宅。薬を飲んで、就寝。
印象的な夢を見る。夜汽車の中。外は、濃い藍色の空間が広がっている。外の風景の中に、1基の天体観測ドームが銀色に輝いている。その鈍い光が、車窓を貫いて、鮮烈に目に映る。汽車は、猛烈なスピードで移動しているはずなのに、いつまでもドームは窓の外に同じ大きさで見えているのだ。
【08年4月26日】
金曜日。校外学習(早い話が、遠足)の日。旅費削減のせいか、担任と一部副担任以外は、居残りとなる。私も居残り組みの一人なのだが、この間を利用して、午前中進路関係の挨拶回り2件。午後、溜まり始めた分掌の仕事を整理し、教材を作り、企業からの挨拶回りを1件受け。偶然、前々任校でお世話になった先生が、退職後ボランティア活動の一環として学校訪問に来ておられるのに出会った。こちらが挨拶をしても、最初は誰なのか分からないという様子だったけれど、名前を名乗るとびっくりしたような顔をされた。10数年ぶりの再会ということもあるけれど、私の体型や面立ちが当時と随分変わってしまって、分からなかったと仰られた。ボランティアでチベットの小学校を訪れ、その折りアンナプルナやマチャプチャレなど実物のヒマラヤの高峰を眼前にして感動した話などを聞く。今年も行かれるようだが、今回は標高5000メートル辺りまで行くことになるので、高山病が心配だと言われる。夕方退勤。一度帰宅し、倦怠感が強いけれど、ミューズの練習へ出かける。今週は、京都駅裏と練習場所が近いのでありがたい。車中で、これまた偶然に前任校の同僚の先生に出会い、近況を交換しあう。今日は、歓送迎会とのことだ。京都駅頭で別れ、練習場所へ。9時前まで練習。疲れる。早めに練習を切り上げ、ホールのロビーで丸ソファーに腰掛けながら、薬を飲み、一休みがてら大窓越しに京都駅の夜景を眺めて、それから帰宅。帰ると、即就寝。ともかく疲れる。来週は、練習が1回休みになるのが、ちょっとありがたい。
土曜日。5時前に目を覚まし、服薬。一休みして、朝食の準備。こちらは朝はパン食なのだが、甥は米食なので、ご飯を炊き、具だくさんみそ汁を作っておく。資源ゴミを運び出し、洗濯を2回して、その間に朝食。ベランダ一面に洗濯物を干して、一休み。8時過ぎ、寝坊したと言って、甥が起きてくる。実は、ゴミ捨ては甥が行くことになっていたのだ。風呂掃除を命じる。「週刊俳句」から、作品鑑賞を書きませんか、とメールが入っていたので、その気になる。何か、新しい企画があれば、とのことなので考えてみる。『鼎座』がしばらく出せていない状態なので、一人細々と吟行をしては作品を作り溜めているだけで、それ以上の活動を何もしていないので、『週刊俳句』のお話はありがたい。
昨日は、肌寒いくらいだったのに、今朝はずいぶんと暖かい。ベランダのサッシ戸を大きく開けておく。稲荷山が、ぼんやりと霞んで見える。資源ゴミを出しに行った際、マンション周りの植え込みの躑躅が、満開状態になっていた。点々と植えられたアメリカハナミズキも綺麗な状態になっている。
甥は、このあと学校に練習をしに行くらしい。こちらは、一休みしたあとで考えよう。いずれにしても、ノルマの1日1万歩の「歩き」はこなさなければならないので、ちょっと出かけることになるだろう。今日は、BSで「春の全国短歌大会」があるらしい。今、テレビではオリンピックの「聖火リレー」が中継されている。中国の大旗が沿道にうねり、1本の聖火の周りを、数十人のトレーニングウエア姿と制服姿の警官が取り囲み、ともに走っている姿は、異様でもあり少々滑稽ですらあると感じるのは、不謹慎なのだろうか。
【08年4月24日】
水曜日。術後6ヶ月の検査を受ける。特に問題はなく、ほっと安心する。院外に出ると、日射しが目に眩しい。暑いくらいで、上着を脱ぐ。午後、出勤。授業を1時間、会議二つ。7時前に退勤。甥も帰宅が遅いので、夕食は帰りのスーパーで、寿司と総菜の中華を買って帰る。夕食の前に、少しお酒を飲む。明日から、第5クール目の服薬が始まる。この4週間で、ようやく薬も終わりとなる。
木曜日。五時起床。薬を飲んで、しばらくぼんやり横になっている。もう眠れないので、テレビをつけると、NHK「俳壇」の再放送をやっていた。主宰は、正木ゆうこ氏。ゲストは、京大総長の尾池和夫氏であった。少し早めに出勤。甥はまだ、就寝中。
夕方、帰宅すると、すでに帰っていた甥が、夕食の準備をしてくれていた。ご飯もちゃんと炊いてあった。夕食は、ミニトンカツと野菜、鰹のたたき、大根ともやしのみそ汁であった。野菜は、やや多め。
『希望学』を読み終え、簡単な紹介文を添えて、図書館に返却する。これで6冊目、読了。あと、数冊は小論文関係の参考図書として紹介する予定。外山滋比古の『修辞的残像』を読み始める。面白い視点で、表現の諸相について、論が展開される。自己の体験的なものを微細に考究し、それを根拠として論を組み立てていく。少々分かりにくくて、仮説と考えた方が納得がいくような部分もあったりするのだが、しかし刺激的で面白い。寝る前には、少しずつ古俳諧を読んだりもしている。これも、面白い。ただ、長時間読む気力がないので、少しずつ楽しむという状態である。
【08年4月20日】
良い天気だ。6時前に起床。ご飯にみそ汁、卵と納豆、魚という典型的な日本の定番朝食。昨夜、半分まで見ていた「パイレーツ・オブ・カリビアン」の後半を、VTRで見ながら食べる。
土曜日、午後。腹痛を抱えながら、いつもの「歩き」に出る。天気は良い。少々暑いくらいだ。春たけなわとは、この時期の事を言うのだろうと思う。つい、足を延ばして「城南宮」まで行き、曲水の庭を観賞する。ちなみに「曲水の宴」は今月の29日だそうだ。参道を挟んで、両側に庭があり、敷地の割には意外と広い。源氏物語に出てくる植物などが庭園内に植栽してあって、その名前を確かめたりしながら、ゆっくりと歩く。次から次へと観光客がやって来る。京都は、春の観光シーズン真っ盛りということなのだな、と思う(この日、鴨川に歩きに出かけた甥は、河畔を逍遙する観光客の多さに驚いて帰って来た)。10句ほど句を作る。庭を出て、さらに歩きたかったのだけれど、腹の状態が悪くなってきたので、急いで帰宅する。その後は、自宅で休息。
「週刊俳句」
で、鴇田智哉氏が「俳句における時間」と題して、時間を主軸とする俳句論を展開しておられる。個人的には作品のファンであり、湖面に広がる水輪をイメージとする、時間の捉え方などはこの人らしくて美しいな、などと感心しつつ読む。ただ、今号の内容については、何となく違和感を感じながら読み終えた。本末が逆ではなかろうか、というような気がしたからだ。たとえば、鶯の鳴き声(それもこの人は、「ほーうお、ほけきょ」と書き留める。「お」の部分がこの人らしいな、とまたまた感心はするのだけれど)に韻律があるとするけれど、それは「韻律」に対する「経験」の蓄積と「認識」の成熟がある程度あって、初めて一連の音の繋がりの中に「韻律」を見出すのではなかろうか、という気がするのだ。だから、鶯の声に韻律を感じるという前提で話は始まると言うより、なぜそこに「韻律」なるものを感じるのか、ということがより根元的な問いかけになり、俳句の本質を考えるならば、その地点に立つべきじゃなかろうか、などと勝手に考えたからなのだ。だから、「韻律」は「音」であり「心地よさ」であって、そこには何の「意味」もないと展開される論についても、そうなのかななどと思ったりするのだ。もちろん、「意味」という言葉をどのように把握しているのかということも、そもそも問題なのかもしれないけれど。ただ、「心地よさ」もある部分経験によって獲得される感覚のような気がするし、その獲得の過程の中に「意味」(私の場合、「意味」と書きつつ、実は「言葉」のことを念頭において話している)が介入する余地はあるのではないかと思う。
今週の作品10句。松本てふこ氏の「不健全図書10句」が面白かった。松本氏とは、ある句会で数回同席する機会を得ていて、出句作品から面白い感覚を持った人だな、と感心していたのだ。「骨つきの肉をしやぶるや花祭」「たんぽぽのどこかみだらな踏まれやう」「春寒の物問ふ瞳大きかり」「亀鳴きて出頭要請ありにけり」「不健全図書を世に出しあたたかし」「啄木忌吸物に麩の浮かびをり」など、その感覚というか、世界把握の感触が大変面白いな、と改めて感心する。「豚 の 春」の作者二輪 通氏は、「後記」によると「豚」の句しか作られないという方だそうだ。以前、芒だけを句材とした長山あや句集『芒とや』を読んで、「芒」が作者の中で、次第に外部のものから内部に取り込まれ、変質・内面化されていく過程が感じられて、大変面白かったのを憶えているが、二輪通氏の「豚」はいかなるものであろうか、と思う。「地虫穴を出づれば豚に湧く疑惑」「営林署内逃げ回る豚の春」「包帯ゆるみ豚の卒業早まりぬ」「花守に豚は叱責されたきを」「豚の不敗神話の中のさくらかな」「観桜のもつとも豚の重装備」「亀鳴けば前向きに豚生きるといふ」。たくさん引用したけれど、「豚」というものが、「生身」に近そうなものから、「暗喩」さらに「寓話的存在」として、時には単なる狂言回し風なものとして描かれているようで、そのような試みは面白いな、などと思う。夏石番矢氏の一連の「空飛ぶ法王」作品などもちょっと思い出したりしたものだ(夏石氏の方がその俳句世界はずいぶんと広いけれど)。そういえば、4月26日に「週俳」のオフ会というものが開かれるそうだ。きっと面白そうな人たちが、参加されるのだろうな、と思う。いずれ「オフ会」の報告というような形で、『週刊俳句』上に公開されることになるのだろう。参加はとうてい無理なので、それを楽しみにしたい。
【08年4月19日】
校門を出た、すぐ脇のうち捨てになったような小さな畠に、大根が今きれいな白い花を咲かせている。二畝の大根が収穫もされないまま、薹が立って、思いの外可憐な花を咲かせているのだ。反対側の歩道には、八重桜の歩道があって、そこもいまピンク色の八重が「たわわ」と表現したいくらいな様子で、咲き競っている。
土曜日。6時前に起床、洗濯を二回、台所周りをきれいにして、風呂掃除。曇天のベランダに、とりあえず大量の洗濯物を干して、朝食。先日レンタル店で借りてきた、「ヒーローズ」のDVDを見ながらの朝食。後を引く面白さで、ついつい借りてきた2巻を通して見てしまった。ここ数日、腹の状態が悪く、みそ汁で卵入りおじやを作り、梅干し一個とともに食べる。お腹に優しい感じでありがたい。幸い、今日は腹の状態が落ち着いているようなので、助かる。9時前になって、甥が起きてくる。みそ汁とご飯は準備しておくので、あとは適当に自分で食事を作って食べている。今朝は、大きなオムライスと具だくさんみそ汁(言わないと野菜を食べないので、みそ汁に野菜各種を放り込んでおく)。食べ終わると、「憲法」の授業のレポートを書くと言って、部屋に帰っていった。
やはり、授業が始まって1週間目というのは、思った以上に心身に負担がかかるようだ。てきめんに、体調がおかしくなり、それが一番弱い胃腸の方にもろに現れたようだ。一日中腹痛を抱えながら、授業や校務をこなすのは、かなりしんどい。放課後は、進路関係の生徒面談が控え、進路希望のはっきりしない生徒達を押したり引いたりしながら、話を進める。さらに、進路部に引っ越して以来、LANに接続したパソコンの動きが異常なほどに遅くなり(最悪の時期には、一太郎を起動してから5分間も画面が出てこないことが普通にある状態だったのだ。桐、エクセルは10分待っても起動すらしないという状態で)、仕事が滞って苛つくことばかりだった。原因は、LAN上のプリンターにあるようで、プリンターを削除すると普通に動くので、いっそプリンターを切り離した状態で使おうとすら思ったのだが、そうもいかず(教師の教材準備や事務的仕事の処理の多くの部分に、パソコン・プリンターはしっかり食い込んでいるのだ。動きの遅さは、仕事の足引っ張りになって、鬱陶しいこと限りない)、数日前設定マニュアルとは違うやり方でプリンターを繋ぎ直し、若干状態が改善したのが、せめてもの事であった(一太郎の起動が、5分から2分に変わった程度のものなのだが)。サーバーに古いパソコンを使っていることも原因なのだろうか。
金曜日、夜。ミューズのレッスン。今回は京都市内での練習になるので、そこまで出かけていくのがしんどい。腹痛もまだ残っているので、気が重い。とは言っても、休むわけにもいかないので、出かける。9時前まで練習。合唱自体は、良い感じの部分とまるでガタガタの部分とが混在。5月に入ると、京北町での合宿も予定されているので、そこで一気に第一段階の仕上げをということになるようだが、参加は無理だろう。チケットは、S席はすでにほぼ完売。A・B席はまだ残っている、と言う状態らしい。いちおう、S席を12枚確保しておく。練習を終えて、小雨の中を帰宅。腹筋を使うせいか、手術した部分が痛み、のろのろ地下鉄駅に向かう。帰宅後は、すぐ就寝。
玄田有史編著『希望学』、幸田真音『タックス・シェルター』を並行的に読んでいる。『希望学』の方は、人が「希望」を持つための諸要素の分析みたいな内容で、割と常識的な結論を統計処理による数値データで裏付けるという辺りが面白いかも。心理的側面から言えば、少子化と経済格差の間には有意の関係性は見いだせない、などと結論づけている辺りも面白い。『タックス・シェルター』の方は、中だるみがあったり、お決まりの筋立て的部分もあるのだが、全体としてはとても面白い小説。経済小説というのだろうか。ネット取引やら、「租税回避策(タックス・シェルター)」やら、そちらの方面の話なども出てきて、興味深い。
【08年4月13日】
うまきいつこ句集『帆を張れり』読了。句集名は、劈頭の句「薄氷に羽毛ひとひら帆を張れり」による。感覚の良さ、言葉の用い方、季語の斡旋、定型の生かし方、句作7年足らずの作を収めた句集として、その完成度に驚く。上手いな、と思う。気持ちよく読み終えた一冊でした。
金曜日。一旦帰宅してのち、ミューズの練習へ参加。9時前まで、レッスン。早めに切り上げて帰宅する。甥はまだ帰って来ていない。
土曜日。丹後「すき句会」の日。「はしだて1号」は、久々の満員状態で、指定席が取れず、40分ほど前から、自由席に並ぶ。窓際に席を取り、体調が今ひとつ良くないので、ぼんやりと車中で過ごす。北に向かうにつれ、桜がまだ散らないままであるのに気付く。宮津で下車、岩城先生と合流して、普通で丹後大宮まで。駅舎内の喫茶で昼食を取り、岩城先生宅へ。体調が悪く、句会が始まるまで別室で休む。本日の課題は、「彼岸潮」「日迎」「日送」であった。一人10句出句、10句選と、いつもより少し多い。特選は3句。特選句については、各自が一言ずつ発言することになっている。今回は、K氏の大変面白い句が出て、ひとしきり話題となる。桜の句としては、大変面白いものであった。各人各様の投句が面白く、活発に遣り取りしているうちに、結構元気を回復する。ありがたい。定時に句会は終了。その後、いつもの通り、車で送って下さるMさんを交え、三人でしばらく雑談。岩城先生と私は、いつもの通りビールを飲みつつ、となる。のどかな気分となる。駅まで車で送っていただき、ホームに出る時になって、列車の時刻が変わっているのに気付く。3月の編成替えで、発時間が10分ほど遅くなっている。この時間を使い、岩城先生は、近くのコンビニに飲み物の買い出しに行かれる。こちらは、駅舎の席で荷物番となる。時間が来たので、ホームへ出る。ホーム脇の桜が1本、肌寒い夕景の中で満開の花をつけているのが印象的だった。すぐにやって来た電車に乗る。乗客は、いつもに比べてやや多い。座席の方向がいつもと違うので奇異な感じを受けるが、その後、電車の経路まで変わっているせいでそのようになったことを知り、少々驚く。
日曜日。掃除、洗濯、炊事の後、甥を連れて買い物へ。移動用の自転車を購入。ついでに、いくつか雑貨を買って帰宅。午後は、疲れて、休養。3時過ぎくらいまで、横になっている。夕方になって、ひどい雨降りとなる。夕食は、弁当にする。甥が、雨の中を買いに行く。
【08年4月9日】
少々、疲れ気味かな、と思う。9時には、床につき、いつの間にか眠り込んでいる。目が覚めると、真夜中だったりする。ちょっとテレビをつけてみたり、古今亭志ん生の落語をイヤホンでしばらく聴いたりして、そのうちまた、眠り込んでしまう。そんな事を数度繰り返している内に、5時になり、薬を飲んで、その後はもう眠れないので、ベットの中でぼんやりとしている。
甥はまだ眠っているので、みそ汁だけ作っておいて、こちらは朝食を済ませ、出勤。車中では、山田昌弘著『少子社会日本』を読む。格差社会が、少子化をもたらしたとする論考。興味深く読む。本日は、午前中は体育館で健康診断補助、午後はホームルームなので、進路室で分掌の仕事。甥は、今日が初めての大学の授業と言うことで、疲れてしまったらしく、夕食の買い物はこちらでする。出来合いのものを買って帰宅。授業は、ドイツ語と体育だったそうだ。申請した単位が、規定より3単位オーバーしていたので、取るつもりだった「哲学」の授業を諦めるという。夜、洗濯。天気予報では雨になるそうなので、部屋干しとする。
うまきいつこ句集『帆を張れり』を古書肆で見つけ、購入。出版当時、評判になった句集で、一度読んでみたいと思っていたので、見つけた瞬間、即購入する。後日、ゆっくり読もうと思う。
【08年4月5日】
日曜日。良い天気である。6時過ぎに、起床。朝食をとり、一段落。甥は、まだ眠っている(結局、起きて来たのは9時過ぎであった。寝る子は、……である)。日曜日は、「
『週刊俳句』
の日」、のフレーズで始まるブログもありそうな、今日この頃。本号は、「週刊俳句賞」(大学生大会)の発表。5人の特別審査員(筑紫磐井、島田牙城、岩淵喜代子、今井聖、石田郷子)と互選・読者投票の総合評価で入賞者が決まるという、ネットならではのユニークな賞。第2回「週刊俳句賞」受賞者は、大穂照久氏
「昼の月」
に決定。おめでとうございます。ちなみに、大穂氏のプロフィールは、「大穂照久 おおほ・てるひさ 1986年生まれ。早稲田大学俳句研究会所属。好物はカステラ」とのこと。興味をお持ちの方は、一度ご覧下さい。なお、私の拙文も同号に掲載していただいていますので、よろしければ、ついでにご一読下さい。
評論というのは、どうしても単純化の方向に向かうので、その過程で論点に沿わない部分を切り捨てつつ、論としての抽象度の精錬と整合性を図るということがあるのだろう。ただ、それを読む人が切り落とした部分を論点の切り捨てと受け止めると、その論自体の正当性に疑義を感じるということにもなるのかもしれない。ましてや、論者自身が性急に自己の所論の焦点化をはかる過程で、その傾向が一層強化されるということがあるのかもしれない、とも思う。復本一郎氏の『俳句と川柳』について、両ジャンルをわけるポイントが「切れ」の有無であると規定することで、実は俳句と川柳両方に渡って大切な部分(例えば、俳句で言えば切れのない俳句を、川柳で言えば切れを含む川柳)をそのジャンルから除外してしまう、という風な問題点が生じる事が指摘されていたりする。私自身は、評論の生理から考えて、論旨を厳密化しようとすればするほど、そこからこぼれ落ちるものも生じるだろうと思われるし、最悪の場合、論のために事の本質が歪められるという本末転倒的な現象も発生しうるだろうと思え、今回の復本氏の評論の場合、最悪とはいわないけれど、所論が現実をやや狭く切り取る形でなされた点に問題があったのではないか、と考えたものだ。俳句と川柳はその形式面あるいは、俳句の側から言えば「虚実皮膜の間」に遊ぶ姿勢にしても、「俳」「諧」の精神を生かすという点からも、川柳との間に相互浸潤が生じる部分があるだろうし、「間」を生かすという日本文化の特質の一つから言っても、それが俳句なり川柳なりにも取り込まれ、生かされるということはあり得るだろうと思われる。だから、「切れ」の問題にしても、それが俳句と川柳を截然と分けるポイントにはなりにくだろうけれど、ただ俳句の方がより意識的に「間」というのか、「切れ」を生かそうとした部分があり、それが形式の特徴の一つとして注目され、考察もされ続けてきたということではないか、とは思う。ちなみに、これは川柳をやっている人に聞いてみたい気がするのだが、川柳において「切れ」というものが正面から取り上げられてきたことがあるのだろうか?あるとすれば、川柳においては、「切れ」とはどのようなものとして捉えられているのだろうか、そんな事を教えてほしいなとも思う。
ぼんやりとテレビを見つつ……。「ガソリンが値下がりすると、車を利用する人が増えて、一層の環境破壊に繋がり、世界の趨勢に反する」(これって、論理の飛躍を含め、一般の国民を愚民視する発言ではないのか?)とか、「年金加入者全員に自己の加入履歴をチェックしていただく」(これって、不祥事の責任を年金加入者全体に転嫁してはいないか?)とか、「(『靖国』とかいう映画が、どんな映画化は知らないけれど、某団体や、おそらく一部政治家の圧力によって上映中止に陥っている事態に対して)遺憾」といいつつ、相変わらずあえて手を拱いている事とか(思想信条の自由や表現の自由はあっても、それを侵害する『自由』までは、さすがに憲法も保障はしていないだろう)、マスコミ向けのコメントとして、論点ずらしの手法なのかもしれないけれど、とても拙劣なのではなかろうか、などとと思ってしまう。こんな事、言ってても仕様がないのだろうけれど。
【08年4月4日】
土曜日。甥は、朝から大学へ。単位登録と、教科書購入のため。こちらは、朝食を挟んで、2回の洗濯。台所を綺麗にして、部屋に風を入れて、と色々動く。9時を過ぎて、一休みする。午後、冷蔵庫が届くことになっている。これで買い置きが可能になるので、日々の買い物が楽になる。ありがたい。
金曜日。一度、帰宅して、夕食の準備をしておいて、ミューズのレッスンに出かける。夜、出るのは少々疲れるけれど、好きで行くのだから仕方がない。練習は、かなり進んでいるようだ。全体合唱の部分は、ほぼさらい終えたようだ。パート別の部分は、これからで、特に男声合唱にとっての最難関「イン・タベルナ」が、大きな障壁となって残っているのは、若干気が重い。壮大な早口言葉のようで、歌詞を暗記するだけでもとても大変なのだ。前回やったときは、結局覚えきれない部分が実は少々残ったまま本番に突入、という状態であったのだ。9時少し前、早めに練習を抜ける。会場のロビーで、京都駅の夜景を眺めながら薬を飲んで、それから帰宅、。直ぐに就寝する。
尾崎翠の『第七官界彷徨』並びに、その他の短編読了。不思議な作品というのか、実は良く分からなかった。作品に続いて、簡単な創作ノートみたいなものがついていたのだが、それを読んでも結局作者が何を描こうとしたのか、よく分からなかった。ただ、場面場面の出来事や登場人物たちのやりとりの奇妙さに引っ張られて読み進み、読み終えたというところ。ただ、何か印象に残っているのが、不思議。
「週刊俳句」の鑑賞文をなんとか纏めて、メール。3月は俳句作品が少なかったのが、こちらにとっては幸いした。「不易流行」ということに搦めて、一文をまとめる。明日から、1週間「週刊俳句」サイトに掲載される予定です。
【08年4月3日】
通勤の途上、満開の桜並木の下を歩ける場所がある。樹種は、ソメイヨシノだけではなく、花びらがやや青みをおびた桜も交じっていて、その微妙な色合いの違いが、桜の天蓋をいっそう美しいものにしている。これからは、朝桜や、夕桜を楽しむ、という日がしばらく続くことになるだろう。
ここ二、三日、小論文指導絡みで、刈谷剛彦氏と増田ユリヤ氏の対談集『欲ばり過ぎるニッポンの教育』を読む。いわゆる「教育改革」に対して、かなり痛烈な批判的内容の一冊。高校生が読むには、ちょっとハードかもしれないな、と思う。簡単な紹介文を書いて、図書館に提出。その後、借りっぱなしにしていた尾崎翠の『第七官界彷徨』を読む。なんとも奇妙なお話で、どう説明して良いか、ちょっと困惑する。主人公の少女と男性三人の本当に奇妙な共同生活を描いたもの。全くリアリティーはないのに、しかし描かれた世界は不思議に胸に迫ってくる。言葉によって構築された夢のような世界である。
甥が同居を始めて三日目。料理が出来、夕飯など作ってくれるので、ずいぶんと助かる。今日は、八宝菜・回鍋肉など中華料理を二品作ってくれていた。なかなか美味であった。割と楽しそうに毎日通学しているので、安心している。さて、どんな学生生活が待っていることだろう。
最近、疲れ気味で、9時過ぎには床につく。「週刊俳句」の3月掲載作品の鑑賞文を書かせてもらうことになっているのだが、何とかしなければ。