日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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【09年12月22日】
月曜日。一日年休を取って、京都南座へ「顔見世」を見にいく。母の京都滞在の最後の行事。ここ数年、恒例の事として定着した観劇である。
昼の部のチケット2枚は、電話で予約し、事前に南座の窓口で受け取っておいたもの。ずいぶん高いチケットだけれど、年に一度のことだからと思う。
演目は、「佐々木高綱」「一條大蔵譚」「お祭り」「恋飛脚大和往来より『封印切』」であった。4時間余りの本当に夢のような時間であった。
ともかく、とても面白い、濃密な時間を堪能した。
火曜日。出勤。大掃除がてら、屋外の窓硝子を拭く。上の方の窓は脚立に立って拭くが、なんとも足元が覚束ない状態であった。埃のせいで、何度洗っても、すぐぞうきんが真っ黒になるような有様であった。
水曜日は、日帰りで東京へ行くつもり。『新撰21』出版記念のシンポジウムが、市ヶ谷の「アルカディア市ヶ谷」を会場として開催されるのだ。180名近い参加者が、すでに参加申し込みを終えているらしい。どんな人達が参加するのか、それを見に行くだけでも価値があるものかもしれない、などと思う。柳人のHさんは、参加すると過日の「醍醐会」の二次会席上で話しておられた。俳人のみの参加ではないだろう、とも思う。
【09年12月20日】
朝、某テレビの俳句番組を見ていたら、番組内の添削コーナーで、投稿作品に対して、その日の主宰者が、この句には心情部分の表現が欠けているとして、2句について添削を行っていた。主宰者は「これでよい」としていたけれど、本当にそれで良いのか、どうか。投稿作品とはいえ、その句にはその句自体の方向性があるのではないか。たとえば、心情的要素が少ないとしたら、それは作者の意図した、あるいは意図とは関係なく句自体が志向したものかもしれない。その方向性を無視して、添削者がその好む方向で作品に恣意的に手を加えたとしたら、その作はそれこそ投稿者の句ではなく、添削者の二次創作になってしまうのではないか。添削とは、その句の内包する方向性を見極めた上で、その不十分な点、未熟な点にこそ斧鉞を加えるべきなのでは、と思う。添削者の添削によって、その一句が句としての収まりやまとまりが良くなる、という事とはちょっと違うのではないのか。
5時半。「歩き」に出かける。防寒をしっかりして、出かける。外は、まだ完全な夜で、時間帯的に地上の灯りが少ない分、宵の口などよりもかえって星が数多く見えている。近所を1時間ほど歩くつもりで出かけたのだが、つい足を延ばして丘陵地帯の方まで行く。大きな遊園地の跡地は、運動公園に変わり、野球場やサッカーグラウンドなどがあるのだが、そのサッカーグラウンド上に、Kサーカスの巨大な紅いテントが設営されていて驚く。3月1日まで、京都公演ということでこの地で興業されるらしい。面白い形のテントで、サーカスの華やぎが感じられて、外から眺めているだけでも結構楽しい。携帯で、城を背景にしたテントの写真を撮るが、まだ日が昇っていない状態なので、きちんと写らなかったのは残念。
谷を利用して作られた公園を、池に張った氷とそこに封じ込められた落ち葉の様などを眺めたりしながら、谷に沿って下り、道路に出て、そのまま帰路につく。
2時間ほどの歩きの後、帰宅。まだ、皆寝ているので、寝室で買って来たサンドイッチを食べ、そのままごろごろしている内に、しばらくうたた寝などする。のんびりして、気分が良い。「週刊俳句」は、『新撰21』登場作家の1句鑑賞を始めたようだ。昨夜、『俳句研究年鑑』をざっと見て、諸家5句作品を順番に読んでいったけれど、『新撰21』の各作品の印象(評価は色々あるのかもしれないけれど)が残っているせいか、(その年の各作家の代表句5句ということで、読み応えはあったけれども)何となく物足りなさのようなものを感じたのは何故なのだろうか。実は、こちらの側に俳句的感性が乏しいのではないのか、などとちらちら思ったりもする。
【09年12月19日】
「第九」終了。近年になく、楽しんで唱うことの出来た一夜であった。京響のメンバーもずいぶん若返ったせいか、演奏が変わってとても良かった。特に、弦の響きが大変豊かであった。財団法人化したとか聞いたけれど、そんなことも関係していたのだろうか。
終了後、二次会。出町の「かんから」。いつも使う店が、予約で満員とのことで、こちらを使うことになったのだが、安くて、品目が多くて、結構美味しくて、ということで、こっちを二次会の定番の店にしてもよいかな、と思う。来て頂いた人達と、ちょっと遅い時間からだったけれど、楽しく、飲み、かつ話す。
土曜日。朝寝する。朝食は、コーヒーとパン1枚。外は、快晴である。寒い。
午前中のうちに、母の分と自分の分の年賀状を作る。母の分50枚を印刷する。こちらの分は、まず年賀状を買ってこなければ、と思う。年賀状に書く新年詠を作る。
【09年12月18日】
出勤途中、ドラム缶の上蓋部分に、かなりぶ厚く初氷を見る。寒い。
本日、「第九」本番。ちょうど、終業式の日と重なる。一区切りの感覚である。昼前から、年休を取って、退勤。
一度、帰宅して、昼食をとって、準備をして出かけるつもり。冬型の気圧配置で、京都は酷く寒いけれど、天気は良い。降雪の気配は、全くない。ただ、日が暮れるにつれ、どうなるか、とも思う。コンサートホールのある地域は、京都市内とはまた別の気候区に属している、ということだし。。
邑書林に注文していた『豈』49号が届く。『新撰21』に作品が掲載されている作家の何人かが、文章を書いている。ちょっと疑問に感じる部分もあるけれど、それぞれに面白い。『新撰21』は昨夜、読了。結構一気に読んでしまった、という印象。
【09年12月15日】
日曜日、午後。「第九」最後の練習で、京都会館へ。4時間余りの集中練習。10分の休憩が2度入るけれど、その間は立ちっぱなしで唱うので、辛い。
5時過ぎ、練習終了。あとは、18日の本番を待つだけである。夕景の二条通りを鴨川方面へ。途中、3軒ほど古本屋があり、その中の1軒に入り、目に付いた本を二冊買う。林芙美子の『放浪記』と国木田独歩の『運命』。どちらも復刻版で、1冊100円というもの。。
帰宅後、寝る前にちょっと『放浪記』を読んでみるが、面白いけれども、ちょっとレベルの高い綴り方作文のような点での面白さ、という微妙さであった。その素人臭い文章が、逆に時代のリアルを反映しているというふうな受け止め方をされたのだろうか、などと考える。
月曜日。午前中、短縮授業。午後、成績処理作業。
火曜日。午前中、短縮授業。40分の5限授業は、なんとも中途半端である。午後、成績処理、並びに教科会議。成績データーの打ち込み、終了。これで、一段落、となる。発表待ちの公務員希望の生徒も、先日二次試験合格。就職斡旋も、とりあえず最後の一人が内定を決めて、内定率100%となる。その点でも、一段落。
『新撰21』読み続ける。個人的には、村上鞆彦、五十嵐義知、中本真人など、どちらかと言えば伝統派と言える人達の作品が(共感しやすいという点で)面白かった。相子智恵の作品は、角川俳句賞の作品の手堅い作風という印象があったのだが、今回の100句は明らかに角川の50句よりずいぶん自在で、目を開かれたような思いになった。沖縄の俳人豊里友行は、作品を通じて感じられるその基本的な姿勢というものに感銘を受けた。冨田拓也の硬質で形而上的作品は、以前から面白いなと思っていたが、今回の100句から思いの熱さのようなものを感じて、一層面白かった。
【09年12月13日】
土曜日は、丹後「すき句会」。花園駅待ち合わせで岩城先生の車に便乗させていただく。天気は、雨。途中、青空が覗くときもあったけれど、ほぼ雨模様であった。
途中の道の駅で、地元の野菜などを買ったりもする。新鮮で安い。チンゲンサイ、水菜、椎茸、エノキタケなど。
橋立駅前の食堂で早めの昼食。この地に立ったのは、数年ぶりのことだ。蟹の季節で、さすがに観光客が多い。駅舎横に、銭湯が出来ていたのにはちょっと驚く。
1時から、先生宅にて句会。先日、亡くなったOさんの最後の投句も披露された。その多くの句が、岩城先生選に入ったことが印象的だった。退職後、俳句を始められ、10数年の間に、深く俳句と親しまれたことが思われる作の数々だった。独特のユーモラスな内容が楽しい句、手堅い写生の句、闘病生活を淡々と、あるいは厳しく詠いあげた句。強い印象を後に残された方であった。
5時前、句会終了。今年最後の句会であった。新年句会は、1月の第2土曜日と決まる。いつも通り、缶ビールをいただき、今回のOさんの最後の投句のお世話をされたMさんから、その折の話などを聴く。
Mさんに、車で駅まで送っていただき、駅前のコンビニで買い物を済ませ、頂いたお土産や野菜などで重くなった荷物を両手に、電車に乗り込む。車中では、発泡酒を飲みながら、『新撰21』を読む。面白い。
日曜日。5時半、「歩き」に出る。曇り。そのせいか、そんなに寒くはない。1時間ほど歩き、コンビニで買った朝食を、帰宅後寝室で食べて、そのままごろごろする。清水さんの掌編集を読了。俳句を巧みに織り込み、一話一話が生活感を保ちながら、それぞれに完結している点で、面白く読める。俳句、短歌、連句、エッセイ、さらには小説と、多才な人だと改めて思う。
【09年12月9日】
注文していた『豈』が届く。ところが、号数を間違えて注文していて、思っていたものと全く別の号であった。注文変更のメールを送りはしたのだが、きちんと先方に届かなかったようだ。やむなく、振り込みの際に再注文をしたのだが、届いた号はそれとして面白そうな内容なので、ちゃんと読んでみようと思う。
などと、考えていたところ、本日邑書林から『セレクション俳人 新撰21』が届く。20代から30代の文字通り若手俳人21名の各100句と、作家論並びに合評座談会という豪勢な内容の一冊である。まずは、こちらを読まねば、と思っていたところ……。
さらに、『鼎座』のメンバーの清水貴久彦さんから、俳句のある掌編集『目のしずく』が届く。
ということで、『目のしずく』から読ませていただこうと思う。それにしても、いつの間に、短編小説を書きためておられたのだろうか。
往復の電車の中では、笹原宏之著『訓読みのはなし』を読んでいるが、これがなかなか面白い。普段、なんとなく気になっているが、ちゃんと調べたりしていないいくつかの事柄の解説が書いてあったりして、結構得心したりするからだ。
【09年12月7日】
日曜日。午後、キエフ・バレエを見に出かける。母は、まだちょっと足の状態が良くないので、タクシー・電車・タクシー乗り継ぎで、大津市の「びわ湖ホール」まで出かける。比良登山に出かけたり、琵琶湖岸へ吟行に行ったりする時、大津駅、あるいは西大津駅(今では大津京と改名されたようだけれど)は、通過駅だったり、下車駅だったりしたものだが、ここ数年、そんな活動から離れてしまったので(吟行は、もっぱら近場中心となってしまった)、大津市に来ること自体もも、ずいぶん久しぶりのことだった。
「びわ湖ホール」は、駅からタクシーで10分ほどの距離で、びわ湖のほんのそばに立てられた立派な音楽専用ホールである。待合のフロアーは、琵琶湖側に巨大なガラス窓越しに広く視界が開けていて、琵琶湖南湖から瀬田大橋、さらにその向こうに比良連山が一望に眺められる。公演が始まるまでの時間、窓近くに設置されたベンチに腰掛けて、眺望を楽しむ。比良山はほぼすべての登山コースを踏破した山で、一本の尾根、一つの谷に至るまで、懐かしく眺めることが出来る。
バレエの公演は3時からで、1・2階席は満席、その他の席も7割ほどの観客で埋まっている。大人の客に混じって、小さな子ども達の姿もちらほら眺められる。どうやら、自らバレエを学んでいる子ども達が保護者と一緒に公演を見に来ているようだ。
演目は、チャイコフスキー「くるみ割り人形」。耳に親しい曲と洗練されたバレエ、幻想的な舞台装置と、見事に楽しい公演であった。近くの席に座っていた人が、見終わったときにもらした、「夢の世界みたい」という言葉に、本当にそうだ、と内心強く共感したりしたものだ。
年に一、二度「歌舞伎」を見るようになって、「歌舞伎」は現実世界の中で見る「夢の世界だ」と感じていたのだが、そのような世界がここにもあると改めて思う。
西の空がまだ暮れ残っている中を、「びわ湖ホール」を後にする。冷え込んできて、ずいぶんと寒い。満員の電車を京都駅まで帰り、夕食は駅弁を買って、それで済ますことにする。甥は、一日大学で楽器の練習をしていたという。
ホームページの内容を、一部更新する。『鼎座』に掲載した短編小説十編余りと、ここ数年の句作の一部をアップする。
【09年12月5日】
土曜日。朝から小雨が降っている。朝の歩きは中止。久しぶりに、ご飯に味噌汁の朝食を食べる。洗濯も済ませ、室内干し。部屋の中が寒々とした印象となる。
金曜日。試験第一日。午前中の内に、提出物の点検をふた山終え、午後、採点ひと科目。夕方までには終了。退勤。職場は、今日が忘年会の日。市内のホテルで開かれるらしい。私は、「第九」の指揮者レッスンと重なり、体調のこともあるので、欠席する。
練習は京都市内。時間を間違えていて、今回も遅刻。結構沢山の人が時間を間違えていたらしいことを後で知る。
指揮者レッスン自体は、指揮者・合唱団ともに大変気合いの入ったもので、その上、こちらも奇跡的に喉の調子が絶好調で、そうでなくてもバスにとっては高音域の部分が多いのに、楽々と歌えてしまう。本番指揮者の指導という事の上に、たまたまボイストレーナーの先生が側で歌っておられたことも、良い効果をもたらしたらしい。昔、指揮者の小林研一郎が語っていた、「上手い鶯が一羽いる」ことの意味は、このようなものかと思う。潜在能力を引き出す効果があるのだろうと思う。恐らく、本番でも今日のようには歌えないかもしれない、と思う。幸運な2時間であった。
帰宅の車中、島内氏の著作、読了。面白かったが、ただ最後に自身の体験を語る中で、自分を「李徴」に、そして「袁さん(漢字が出ない)」に擬しているところは、読んでいるこちらも少々恥らむ、というのは前回の感想と同じだ。
続いて、笹原宏之著『訓読みのはなし』を読む。車中読書の次の一冊である。
一駅前で下車。夜道を歩く。途中にある書店に立ち寄って、ちょっと変わった内容の文庫本と『のだめカンタービレ』(漫画である)の最終巻を買う。毎回、面白く読ませてもらった『のだめ』だけれど、この最終巻の評判がネット上で今ひとつなのが気になる。読めば分かることであるが。
沖縄海兵隊基地のグアム移転は、アメリカのスケジュールとしては、既定の路線らしいとの情報がネット上に流れている。既定路線ながら、日本に圧力をかけることで、移転にかかる巨額の費用負担などを引き出すつもりなのだろうか。それにしても、もしそれが事実だとしたら、現在マスコミが大騒ぎして、移転問題の空転とか日米安保の危機だのと声高に指弾している事自体が、全くの空騒ぎということになってしまいそうだが。マスコミは、その辺りのちゃんとした情報を掴んでいないのだろうか(ネットに出るくらいだから掴んでいるだろう……)。あるいは、情報はありながらも、それを公表しない事で、煮え切らない民主党という形でのバッシングに利用しているのだろうか。あるいはまた、社民党の福島党首の例の強気発言の背景も、実際には既定路線情報などに根拠を与えるものなのだろうか。わからない事だらけである。
今日、郷里から母が来京。「第九」コンサートを聴きに来る。ついでに、明日は「びわ湖ホール」にキエフ・バレエを見に出かける予定である。
それにしても、先週の「醍醐会」のレポートは悔いが残っている。俳句固有の方法と、ポスト・モダンの方法の一致(これも偶然というより、方法論の進展としての必然性があることなのかもしれない)ということ以上に、岩城久治と筒井康隆がともに「言葉」に強い拘りを持つ作家同士であるという点をこそ中心に据えるべきであった、と改めて思う。その線で全体をまとめていった方が、レポートとしてもう少し意味のあるものになったのではないか、と思う。
【09年12月2日】
満月である。マンションのベランダから、東の空、見上げる角度に、薄雲をまとった白い月が見えている。
夕方には、何台もの消防車がマンション前の道路を、サイレンを鳴らしながら走り過ぎていった。丘陵地帯のどこかで出火したのだろう。ベランダからは、火元は確認は出来なかったけれども。その時の月は、まだ赤みを帯びた姿で、丘陵地帯のやや上空に無造作に浮かんでいたものだ。
今日で、二学期の授業は終了。明日から、期末考査が始まる。最後まで、ばたばたした授業ではあったが。ともかく、終了。試験は、いつも通り、すべて作り終えていて、夕方にはロッカーの中に保管完了。退勤する。
朝、バス通勤だったので、歩きのノルマを満たしていないのだが、疲れたので、帰りもバスを使う。車中、そして電車の中でも、島内景二著『中島敦 山月記伝説の真実』を読む。文芸評論にしては、ちょっと「文学的」な匂いがあって、筆者の思い入れの深さを感じもするけれど、ややはじらむところがないではない。しかし、そんな点も含めて、面白い一冊である。『山月記』の主人公「李徴」を中島本人に、その友人の「袁さん(漢字が出ない)」を大学の同窓で終生友誼を結んだ釘本久春に想定しての話など興味深いものだった。全集に載っていた『西遊記』を素材に、沙悟浄を主人公にした一連の作品などをふと思い出したりもしたものだ。
年末を控えて、毎日のように新年の賀状欠礼の葉書が届く。そんな年齢なのだな、と思う。
甥の作った茄子の炒め物と、買って来た惣菜のコロッケをおかずに夕食。食べ終わると、甥は部屋に、こちらはそのままリビングで過ごす。洗濯機を回していたのが、終わったので、部屋干しにする。そのままにしておくと、朝、窓の結露がひどいので、小窓を少し開けておく。そこから、エアコンの暖気に混じって外の冷気が入り込んでくるようだ。