日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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【17年7月28日】
かぼちゃの生命力は本当にすごいなと思ってしまう。
背後の紫色の植物は、紫蘇。
紫蘇も意外と強靱な生命力があって、植えたはずもないのに、いつのまにかカーポートのむき出しの地面の部分に、ちょこんと葉を広げたりしている。
その紫蘇葉の密生の中から、触手をのばすごとくに、乾いたおそらく耕作休眠地のほうへと、ずるずると蔓を這わせていく。
ホラー映画の怪物の触手のような印象。
蔓自体は、写真のフレームをはみ出して、手前の方にさらに1メートルくらい延びている。
後ろの方に見える黄色いものは、南瓜の花。
「今くるよ想ふかぼちゃの花見れば」という句を作ったことを思い出す。
花全体の印象からの連想なのだろうと思う。
ここ3日ほど、快適な日を過ごしたけれど、そろそろ本格的な猛暑が復活しそうだ。
明日からは2泊3日で京都へ。
丹後「すき句会」、そして翌日は「醍醐会」。
「醍醐会」のテーマは、長谷川櫂と坪内稔典の両氏。
どんな話になることだろうか、楽しみである。
昨日、読み終わった本のひとつ。
現代人は、生身の存在として、他人とコミュミケーションをとることに耐え難さを感じている。
そこで、自分をキャラ化して、特定の特化された個性に自らをはめ込んで、その虚構化されたキャラとして、同様にキャラ化された周囲に対処しているとの分析。
うなずくことが多かった。
通常は、虚構化されたキャラとしての存在の背後に、実質・実体、あるいは実存としての「自己」が隠されてあるというように思いがちだが、すでにその実体は空洞化、空無化していて、外殻としてのキャラだけが、鎧に魂が封印されて行動するみたいな、何かの漫画のような状況で周囲に対処するという状態がすでに生まれつつあるのではないか、ということも想像される。
漫画では、失われた肉体を取り戻そうとするらしいけれど、そのモチーフ自体がすでに一昔前のもの、ということにもなるのかもしれない。
それにしても、魂ならばまだしも、それ自体がパターン化された個我、キャラが規定する個性めいたものであったりもするのかもしれないが。
生物的な存在とか、実在と呼ばれた自己の本体みたいな、生理的な点も含めて、自らにうるさくまつわりつく重いものから解放されて、ある種の自由の天地に生きるということになるのかもしれない。
私自身は、そのようなありようは文字通り生理的に受けつけがたいけれども。
色々考えさせられる一冊だった。
色々なことが混沌とし始めたようだ。
ある意味、メルトダウン的な状況なのかもしれない。
【17年7月26日】
梅雨前線が南下した(まだ梅雨はあけていないのか……?)ために、大陸からの冷たい空気が上空に入り込んで、終日涼しく、快適に過ごすことができた。
青空が広がり、強い日差しはあったけれど、思ったほどには気温はあがらなかったようだ。
からりと乾いた空気のおかげだろう。
家中に風を通すこともできた。
特に、中二階の書斎の下の書庫は、どうしても湿気を含みがちになるので、本の管理に気を遣うけれど、本日は庫内の空気の入れ換えをおこなうことができてよかった。
。
朝の涼しい大気の中を歩くことが出来て、大変気持ちも良かった。
暑い中を、へろへろしながら歩くのは、かえって健康を害しそうだ。
最近、両手・両足に重りをつけて自身に負荷をかけて歩いている人と知り合いになって、通りすがりに二言三言挨拶を交わすようになったけれど、すごいなと思ってしまう。
そんなことをすれば、身が持たないななどと思う。
ダンベル運動をしていて傷めた左手首の腱は、数ヶ月越しでいまだ快癒はしない。
困ったことだ。
午前中のうちに、所属結社の今月分の投句作品を考える。
13時半がこの地域の郵便物の集配の時間なので、それに間に合わせるべく、頑張って作る。
「おくら」とか、「むくげ」とか、歩きながら目に付いたもので作っておいた句は、残念ながら季が違うので(いずれも秋の季語)今回は使えない。
そのため、机辺に凝固状態で、なんとか7句作ることになる。
昼前、実家の買い物を引き受けて出かける。
買い物の途中で、預かっていたはずのお金をどこかで落としたようで、慌てて店内を捜すが見つからず、とりあえず自分の財布から穴埋めしておいて、こんなことは初めてだと少々がっかりして、これも年のせいかなどと気落ちしていたのだが、おもわぬところから見つかって、これはこれでやっぱり年のせいなのだろうか、と落胆の思いになる。
うっかり、ということが次第に多くなってきているような気がする。
困ったことだ。
明日は、図書の返却日なのだが、2冊だけまだ少し読み残しがある。
集中して残りの部分を読めばよいのだろうが、夜本を読むと、てきめんに目が疲れてしまうので、ついためらってしまう。
改めて後日また借り直そうかと思ってしまう。
これまた、老いの繰り言ということになるのだろうか……。
【17年7月25日】
本日未明。2時間ほど、そうとう激しい雨が降った。
雷も時折鳴っていた。
その後も、今日は終日大雨注意報が出続けていた。
昼前、車で買いものにでた際には、カーナビから大雨による運転注意の警告などもあった。
昼間の気温がさほど上がらなかったことは、せめてものことだった。
今日は、土用の丑の日。
鰻のひつまぶし弁当というのを買ってきて昼食で食べる。
やたらご飯の量が多くて、難渋する。
鰻を食べたな、という感触を楽しむことはできた。
居間のエアコンは、本体に亀裂が生じて、その亀裂伝いに除湿の水が外に流れ出しているということだった。
こんな故障は初めてだと、修理にきたサービス員の方が話していた。
カーテンを洗濯するはめにもなってしまったことだ。
ほとんど使ったことのないエアコンなのに、やっぱり故障はするものなのだな、と思う。
念のために、機械を使わなすぎで故障することはあるのかと尋ねたら、ほぼそんなことはないとの返事だった。
5年保証のサービス期間内ということで、この際外側のボディー部分を残してほとんど交換するらしい。
思った以上に大事になってしまった。
現在のつじつま合わせのために、過去の答弁を今更ながらに修正する、とは。
もともと言葉の軽い人物だから、そんな政治家としては完全に信用失墜行為も平然と行えるのだろう。
心底、呆れた。
【17年7月23日】
6月26日に紹介していた栗の実、1ヶ月弱経過して、少し大きくなったようです。
色合いもやや変化している。
丹波栗のように大きくなる種類の栗の木ではないと思いますので、あと二周りくらい大きくなる程度かもしれませんが、「歩き」の途中で、観察を続けたいと思います。
相変わらず、暑い一日。
とはいえ、今日は曇りがちだったせいか、最高気温も33度どまりだった。
久しぶりに、居間のエアコンを使ったら、本体が突然水漏れを始めた。
しばらく使っていなかったせいなのだろうか。
とりあえず、使用を中止して、電気屋さんに連絡をとっておく。
カーテンが半分染みのようになってしまった。
モニター、本日は2本書く。
今月は本数が多かったので、ちょっと大変だった。
とはいえ、このペースで来月も依頼が来るとありがたい。
夕方、どこかで打ち上げ花火の音がしていた。
本格的なものではなくて、行事開始を知らせる種類の花火のようだった。
今夜8時くらいから、どこかで花火大会が開催されるのかもしれない。
毎夏、自宅の近所からふたつ、みっつ遠花火を見物できるので、今年も楽しみである。
【17年7月21日】
「歩き」の際、見つけた風景。
手前はコスモスで、そのむこうに小型の向日葵は植え付けてあった。
休耕地をそのまま活用したようだ。
コスモスにソフトフォーカスがかかっているようにみえるかもしれないけれど、ガラ携の内蔵カメラには、そんな機能は全くありません。
この風景が、季節が移るとコスモス群落の背後に、枯れた向日葵の姿が望めるという風に変わることになるのだろう。
コスモスの花畑も今から楽しみである。
というのか、その頃はずいぶん涼しくなっていることだろうから、それが楽しみということもある。
昨日、今日とほぼ猛暑日の二日間であった。今日も、夜に入っても、まだ昼間の火照りのようなものが外には残っている。
とはいえ、昨夜は結構涼しかった。
最近は、夜遅い時間帯に、寝室とは別の部屋に移動して、窓をがら開けにして寝ることにしている。
普段はほとんど使わない部屋で、京都時代に一時同居していた甥のベットをそのまま運び込んで置いてあるのだが、そこで寝る。
窓がすぐ横にあるので、夜気が網戸一枚で隔てられてある状態で、風が吹き込むときは、外気に直接触れているようでなかなか涼しい。
ちょうど、高級扇風機の風に当たっているような効果が生まれるらしい(というより、これは完全に逆転の発想みたいなもので、そもそも高級扇風機が自然の風とよく似た風を生み出すらしいのだけれど)。
昨夜は、都合のいいことに風の吹き込む方向が絶好で、一晩中涼しく眠ることができた。
というより、夜明け方には、少々寒くなって窓を閉めてしまった。
今夜も、なかなか良い風が吹いている。
快適な夜が過ごせそうだ。
日蓮関係の文章を引き続き、読んでいる。
専門用語や独特な言い回しが多くて、ほぼ8割5分くらいは理解不能の状態ではあるけれど、しかしそれでも読んでいくと、漠然とこんなことをいっているな、という感触が伝わってくるのが面白い。
各宗派の僧侶や信徒達が、それぞれ根拠とする経典に従って、自らの信仰を保っているようだけれど、しかしその各宗派が信仰の対象とする仏神は、すべて法華経がもれなく網羅し、その根本の存在根拠は法華経によって保証されてあるのだ、的な物言いを読んだりすると、なんというか、言ったもの勝ち的な壮大さを感じて、思わず感心してしまう。
各宗派の関係する経文の部分を丹念に列挙しつつ、そんな風な論理(でもないのだろうが)展開をされると、その高密度な高エネルギーとでもいうものに、これまた感心してしまったりもする。
政治世界は、本当にごたついているけれど、今まで溜まりに溜まった膿のようなものが、あちこちから流れ出ているという印象が強い。
別に、膿を出しきって、すっきり再出発してほしいと、思っているわけではないけれど(所詮、無理な話だろう)。
経済世界は、それなりに好調らしいけれど、こちらには直接関係はない。
最近、新しく出来たドラッグストアーで、9円のもやしとか、20円の豆腐などを重宝している。
日々の生活を考えると、デフレでもまあいいか、的な気分になる。
【17年7月19日】
梅雨が明けたらしい。
豪雨禍が大きな被害をもたらした地域がある一方、ほとんど梅雨らしい実感もないままに、猛暑の夏へ突入、という地域もあるように思う。
天候が、極端な姿をとって、それが異常、あるいは異例の気象となって現れているようだ。
昨日は、朝方、ほんの5分程度だが、まさにバケツをひっくり返すような異常な雨の降り方をして、その後は天気が回復。
今日も終日快晴という陽気だった。
昨日は、気温は最高で32度くらい、今日はもう少し高かったように思う。
明日は、猛暑日が予想されている。
実家の母は、ちょっと暑さに疲れているのかもしれない。
一日、暑さとどうつきあおうか、ということを念頭に、過ごす。
だいたい、終日自宅にいて、室内で過ごす(引き籠もりというわけではないが)というのがこの4年間余りの生活の実態なので、暑さに関しても、節約という観点からはエアコンは使わず、その分服装と、さらに重要なのは居場所ということに配慮が必要となってくる。
服装は、屋内なのでほとんど何も身につけていないみたいな状態だったりもするけれど(なんとなく南方熊樟みたいな感じだろうか……)、居場所についてはその日によって若干違うのだけれど、昨日・今日は午前中は中二階の書斎で、午後からは日差しの影になる1階の居間から、サッシ全開にして風を素通しにした庭に向かって過ごすのが最良であった。
意外と暑さを感じることなく、一日過ごすことができた。
とはいえ、居場所はその条件として吹いてくる風の有無とその方向が肝心ではあるけれど。
風が吹けば桶屋が儲かる、というわけではないか、そこそこ風が吹けば、かなり普通に過ごすことが出来るようだ。
もちろん、熱中症予防に、読書の合間合間などにこまめに水分をとることは心がけているけれど。
冷やした麦茶が夏は最高である、と思う。
朝と夜に分けて、8000歩を歩く。
今日は、歩き出しが8時を過ぎていたので、近所を片影を選びつつ、ぐるりと歩く。こまめに繋げば、住宅の片影通しに4000歩歩くことは可能であった。
夜は、夕食後(朝も、食後ではあった。だから出が遅くなってしまったのだが)、別ルートを歩く。途中、大きな墓地の横を歩くのだけれど、薄闇の中を大小の野良猫がたむろしていて、なんとなく不思議な気分になる。
夜だからというわけではないだろうが、いずれの猫もこちらに対する警戒を解かない。
道路のほうに出てきて、路面に寝転がっているのに、ちょっとちょっかいを出そうとしたら、すげなくそっぽを向かれてしまった。
ちょっと残念、である。
【17年7月17日】
日曜、午後。
外で甥・姪の声がするので、何だろうと道路に出てみたら、一匹の犬に寄り添うようにして二人が歩いている。
どうしたのか、尋ねてみると、迷い犬らしい、とのこと。
やせた秋田犬風の雑種の犬が、後ろ脚を引きずるようにしてよたよたとあるいていく。
最初に見つけたのはコンビニから帰ってきた甥で、実家の前をふらふらになりながら歩いている姿を見て、放っておくわけにもいかず、どうしたものかと相談しながら、姪と一緒に犬について歩いているとのこと。
その犬は、甥が見かけことがあるといい、私にも確かに何度かこの近所を老夫婦と一緒に散歩している姿を見かけた覚えがあった。
どことはわからないけれど、この近所で飼われている犬で、何かの事情で迷い出て、自力で家へ帰ろうとしているのではないかと判断して、しばらく3人でその老犬についていくことにした。
ただ、相当年よりの犬であることは外見からも明らかで、午後の一番暑い時間帯の炎天下をうろうろしていたらしく、犬は相当弱っている様子で、私が急いで自宅に帰ってバケツに水を入れて持って来たりしたけれど、水を与えようとしてもそれを飲む元気もないような様子だった。
やがて、ふらつきがひどくなって、とうとう路上にへたり込んでしまい、横倒しのままきゃんきゃん悲鳴をあげはじめた。
これは、かなりまずい状態ではないかと、とりあえず甥が抱きかかえて日陰の方に運び、そこに横にならせた。
あまりに老犬なので、自宅への帰り道がわからないのではないか、などと3人で話す。
ともかく、飼い犬であることはたしかなので(甥は、抱き上げた際に、その犬が去勢犬であることに気付いた。結構冷静に観察していたらしい)、近所の班長さんの家に事情を話しに行き、散歩姿を見かけたこともあるのでと、地域の広域放送で迷い犬情報を流してもらうことにした。
田舎であるぶん、有線放送がきちんと整備されてあるのだ。
幸い班長さんは自宅におられて、すぐに対応していただけることとなった。
犬は、とりあえず実家の方で保護することにして、甥が抱きかかえて、元来た道を引き返した。
普段は、飼い犬の散歩後のブラッシングをする台に、犬を横にして、とにかく水を飲ませることにする。
息づかいがひどく荒い。
そうとう体温もあがっているだろうからと、母が実家の犬用に使っているバスタオルを持ってきて、それを水で濡らして、身体を覆ってやれという。
そのようにしてしばらくすると、少し状態が落ち着いてきたようで、荒い息づかいもやや静まり、口元に持ってきた皿から水を少し飲む。
やがて、有線放送で、迷い犬のことが流された。
放送は結構良く聞こえたので、ともかく飼い主さんの耳に届くことを祈る。
犬の身体を冷やしながら、そのまま待つ。
放送があってから、10分ほどして、玄関に自転車を引っ張っておじいさんがやって来られた。
散歩している姿を見かけたことのある方だった。
その直後に、おばあさんも後を追うようにやって来られた。
庭で放し飼いにしているのが、戸が開いていてそこから外に出ていっていまったらしい。
お二人で自宅の周囲を捜しておられたらしいけれど、こちらの方まで来ているとは思っておられなかったそうだ。
老犬は、無事二人に引き取っていただいた。
飼い主が見つかってよかった、と一同ほっとした。
犬の名前は「パンチ」という。
飼い主の方のお名前は、結局聞き忘れた。
【17年7月16日】
昨夜は、つい『フーテンの寅 寅次郎相合い傘』を見てしまった。
その前に、高校生の女子達のフーテンの寅さんにたいするおしゃべりみたいな番組をやっていて、興味半分で見終えて、さてテレビを消そうと思ったら、すかさず映画が始まった。
最初は、ちょとだけ見てやめようと思ったのだけれど、今回のマドンナが歌手のリリーさんだと知って、もう最後まで見る他はないと覚悟を決めた。
私も、寅さん映画のファンの中で、多くの支持者を持つだろうリリーさんのファンのひとりである。
申し訳ないけれど、多くの名だたるマドンナ達の中で、リリーさんはその立ち位置や人物像も含めて、全く別格の魅力を持つ登場人物である。
浅丘るり子さんも、本当に幸福な出会い方をリリーさんとしたように思う。
それにしても、見終えて満足して、さらに時をおいて思い出して改めて感動するような映画は、そうそうないように思われる。
寅さんもリリーさんも、身内や二人を良く知る人達以外の、いわゆる世間の人達から見れば、「世外の人」的な軽蔑や不審の対象として見られている人達として設定されてある。
世間から離れるということにおいて、ある種の「自由」がそこにもたらされ、今回はそんな「自由」にあこがれて、家族的に、あるいは社会的に破綻する男がお話に関わってくるという、ちょっと複雑な構造を持っている。
7年後に退職を迎えたら、自分も自由な旅をしたいと飄々と話す男の姿がある種の救いではあろう。
7年という歳月の長さや、その後の思いの実現には多くの犠牲が払われるかもしれない、などと勝手に想像を膨らませつつも。
寅さんとリリーの恋にしても、身内の祝福とは別に、世間からはおそらく軽侮や嫌悪のまなざしが向けられることにもなるかもしれない。
二人の姿を見て、「玄人筋らしい」とひそひそ話をするおばちゃんたちの姿に、それは象徴的に表現されてあるようだ。。
二人の恋には、常に悲劇的な要素や翳りのようなものがついまとっているようで、だからどうしても目を離すことができない。
そんな二人にとって、幸福で平安な一時期は、やはり『寅次郎ハイビスカスの花』の、沖縄の地での生活だったろうと、しみじみ思われる。
沖縄自体が、差別や理不尽な力の元に苦しんできた時間を持ってきたということで、寅さんたちのような立場に対する共感と許容の心性が土地の魂として育まれてきた、というような思いが込められていたのだろうか、とも思う。
『フーテンの寅』は、現実の薄暗さを見据えたうえでの、大人の童話・昔話であろうと改めて思う。
日曜日。
高曇りで、そのせいか気温が思ったほど高くないようだ。とはいえ、30度は超えているだろうけれど。
それを暑く感じさせないというほどに、北よりの涼しい風が吹いている。
やや遅い時間に歩き始めたけれど、さほどの汗をかくこともなく、帰宅しおえた。
どうやら、足の痛み、腰の痛みから回復したようで、ありがたい。
まもなく、モニター視聴の時間になる。
【17年7月15日】
昨夜、ジブリアニメの『思い出のマーニー』というのを見た。
合唱の練習を終えて、帰宅して、テレビをつけたらたまたまやっていたので、なんとなく見ていたら、つい終わりまで見てしまった。
今までにも何度かテレビで放映されたこともあったように思うけれど、ジブリ作品とはいえ、なんとなく見ないままで過ごしてきた。
今回、初めてちゃんと見て、なかなか良い作品だなと思った。
ジブリらしい繊細で細やかな絵の作りと動きは言うまでもないことだけれど、回復と癒しのテーマというのは、ちょっと胸に触れる部分がある。
個人的には、物語の後半に出てくる背の低いメガネの女の子が、印象に残った。
自然体というのに好感を持ったのかもしれない。
土曜日。朝から快晴。
もう梅雨があけたのではないか、とつい思ってしまいそうな日差しと空気の乾燥感だった。
日が高くなる前にということで、母と自分の車を洗う。
そんなに車を使うわけではないのだが、いつの間にか細かい埃(砂か土なのかもしれないが)が、屋根などにうっすらと積もっている。
水で流し、洗剤で洗い、再度水洗い、その後水気をふき取って乾くのを待つ。
その間を利用して、道路に面した目隠し用のスギ(糸杉というのだろうか)の剪定を行う。
高さをだいたいという程度で伐りそろえて、それで終了。
日陰だと、あまり暑さを感じない。
とはいえ、さすがに一汗かく。
汗をかいたついでに、実家に行って(徒歩2分だけれど)、頼まれていた日よけ用の朝顔のネット張りを行う。
すでに、朝顔は相当生長して、立ておいた棒に鶴がまきついている。
北向きの風が吹いていて、結構涼しくて、快適に作業をこなす。
母も外に出てきて、のびた蔓を棒から外して、ネットに巻き付けている。
朝顔の日よけは、西日を防ぐのになかなか効果があるらしい。
作業を終えて、弟の奥さんを交えて、しばらく雑談。
さすがに、エアコンの効いている部屋は、それなりに涼しい。
昨夜の合唱練習場所のエアコンは、強すぎて身体がしんどくなりそうではあったけれど。
本当は、自然の涼風が一番良い。
土曜の午前中は、以上で終了する。
【17年7月13日】
庭の紅葉の木の一部が枯れかかっていて、どうしたのかその原因を調べてみたら、以前に剪定されたところが、すっかり小さな蟻の巣のような状態になっていた。
その部分から先に延びる枝の葉が枯れたような状態になっている。
ネットで検索すると、蟻が繁殖したという事ではなく、腐食菌のようなものが繁殖して、その結果枯死した部分が蟻の巣になっているらしく、問題はその腐食菌を除去しなければならないということのようだ。
関係する薬剤も紹介されてあったので、急いでホームセンターに行って、薬を購入。
枯れてぼろぼろになっている部分を、切り取り、削り取りして、そこに薬剤を塗りつけておく。
本当は、樹皮の代替ができるものがあるらしいのだが、それはホームセンターでは手に入れることが出来ないらしく、とりあえず様子をみてゆくことにする。
雨が降って、削った部分に雨水が浸透しないように注意をしなければならないようだ。
勢いが回復することを願う。
庭の世話をするということも、なかなか難しい。
市立図書館で本を借りてくる。
漫画1、小説2、詩集4、評論1。
結構な冊数が借りられる。
早速詩集を2冊読むが、1冊はちょっと仏教の偈みたいな印象で、違和感を持つ。
でも、こういう感じのいわゆる「詩」は、ちょくちょく見かける。
もう一冊の方は、ずいぶんおしゃれで大人の詩という感じ。こちらは楽しめた
俳人協会関西支部の方から、夏の俳句講座の依頼状が届く。
今年は、例年と少し違って、句会や吟行などの補助を中心にお手伝いをするようだ。
昨年も、飛び入りみたいにして、句会に参加させていただいたことがあったけれど、今年はもう少し積極的に関わることが出来そうで楽しみである。
今日は、最高気温が32度くらいで、昨日よりは暑くはなかった。
午後の蒸し暑い時間帯も昨日ほど持続しなかったし、朝夕には近所をウオーキングすることもできた。
九州は、梅雨が明けたらしいけれど、こちらもそろそろ梅雨明け間近ということなのだろうか。
【17年7月12日】
体調がちょっと悪くて、病院へ。
薬をもらって帰ってくる。
なんとなく、なにをするでもなく午前中を過ごす。
午後、少しいただいた句集や会誌を読む。
大越桂さんというひとの詩集を二冊読む。
『海の石』『花の冠』と題された詩集である。
大越さんは、未熟児として生まれ、重度重複障害の人である。気管支切開により声を失い、強度の弱視でもあり、寝たままの状態の中で、文字を覚え、かろうじて動く手で筆談による周りとの意志の疎通を行い、また詩をかいておられる女性である。
たくさんの胸に迫る詩を書いておられる。
このひとの詩は、一度読み、さらに読み返し、再度読んで、ということを自然に行わせる力を持つ。
叶わぬ夢は
口にしないと決めていた
青い空が遠すぎて
悲しかった
叶わぬ夢を
ことばにしてみた
雲のきれはしが羽の形で
動き出した
始まりのきざし
青い空が近くなった
(「きざしの羽」より)
大越さんにとって、「ことば」というものがどれほどの輝きをもつものなのか、ということを思ってみたりもした。
【17年7月11日】
筒井康隆、短編集『繁栄の昭和』読了。
従来の筒井ワールドの延長というものもあるけれど、全体として筒井康隆復活の予感を感じる。
突然死などしなければよいけれど……。
ただ、一番最後の作品は、自分のために書いたという雰囲気ふんぷんの作品で、読み終わるのが苦痛だった。一応、読み終えたけれど。
完全に、作者のわがままの世界のように思われた。
古い日本映画のファンにとっては、そうともいえないかもしれないけれど。
現在、市内の気温は34度を少し超えたぐらいらしい。
ここは、郊外の方になるけれど、さほど気温の差はないのだろう。暑い。
体表面に汗の薄い層ができているみたいな感じ。
昨夜は、あまりに蒸し暑いので、寝室とは別のところで、窓を開けっ放しにして1時過ぎくらいまで寝ていた。おぼろの月が、結構綺麗だった。
あの月も又、水蒸気まみれという雰囲気だった。
『1冊まるごと俳句甲子園』を読み継ぐ。俳句甲子園読本という感じ。
第1回からの12回までの特選作品が掲載されてあるけれど、個人的には第12回「琉球を抱きしめにいく夏休み」(菊池高校 中川優香さんの句)という作品に大変こころひかれるものがあった。
「沖縄」ではなく「琉球」と詠うところがよかった。
「かなかなや平安京が足の下」(紫野高校 高島春佳さんの句)という句もおもしろかった。さすが、京都の地元の高校生の作と思う。
数名の面識ある人の作品が掲載されてあって、それを捜すのも面白かった。
閉会内審査。やっと正式の場において、加計問題に疑義を唱えるひとの発言が、きちんとに議事録に載ったということだ。
政府とそれに同調する人達は、あわよくばこの1回だけで終わりにしたいと思っていることだろう。
でも、これで終わりにしたら、さらに墓穴を掘ることになるのだろう。
それにしても、自民党からの参考人として呼ばれた、あのお年寄りの方、一体何だったのだろう。元高級官僚みたいだけれど、完全にずれているような印象を持つ。
【17年7月9日】
腰に抱えていた爆弾が、中爆発。
湿布をはり、腰ベルトをつけるが、痛みがおさまらない。
午前中は、二足歩行を開始したばかりの人類のような(見たことはないけれど)、よろよろ状態で過ごす。
午後からの合唱練習も、初めて腰痛による欠席。
残念である。
夕方になって、少しましになったので、夕食の買い物に出る。
左足の親指の付け根の痛みも気になる。
昔、一度痛風で治療を受けた経験があり、6月の検査では異常値ではなかったけれど、もしや……と思う。
昨夜は、鈍痛というのか疼痛というのか、大変気持ちが悪かった。
指の付け根がうっすらと赤みを持っているのも気味悪かった。
こちらの方は、歩くとき以外は終日ほとんど痛みを感じなかったので、あるいは関節炎みたいなものなのかもしれない。
左手首の腱鞘炎ももう二月ぐらい延々続いている。
一時期のひどい痛みからはどうやら解放されたけれど、左手の腕の筋がそのとばっちりというのか、影響をうけたのか、筋に繋がる指の筋が2本微妙に痺れている。
これもなんとも気持ち悪い。
今日は一日、身体のあちこちが痛い状態を我慢しながら過ごしたことになる。
鬱陶しい。
午前中に、ひどい豪雨が降る。
あまりの降りの激しさに、カーポートの天井の一部が雨漏りを始めた。
特に、屋根にずれや亀裂が入った様子はないけれど、吹きつけの激しさに、隙間から雨がしみこんだのかもしれない。
こんなことは、初めてであった。
さんざんな日曜日のようであったけれど、夕食用にともらった実家の甥の作った本格的なカレーの美味さにびっくりしたのは、せめてものことだった。
【17年7月6日】
日蓮の『立正安国論』読了。
様々な経典引用と、専門用語の多用で内容はよく分からなかったけれど、法然に対する全否定の強烈さというものはそれなりに伝わってきたように思われた。
邪教と決めつけ、その否定は正教護持のためには、個人を抹殺することをも辞さないというほどの強烈さであったように思う。
もちろん、実際に暗殺教唆みたいなことはしないのだけれど。
ただ、人は宗教の名においてもっとも残虐なことをしでかす、的な言葉があったように思うけれど、ISを引き合いに出すまでもなく、宗教それ自体が抱え込む闇的な部分のことをちょっと思ったりもしたものだ。親鸞と日蓮は同時代を生きた二人のようだけれど、親鸞には全く触れていないようだ。
大陸の高気圧に覆われているせいか、気温がさほど上がらない。
外を歩いていても、日差しの強烈さはあるにしても、日が陰ると暑さを感じないし、風が吹けば快適な涼しさを感じられた。
九州の身内に連絡をとると、昼間はさほどでもなかったらしいけれど、昨夜は雨と雷がすごかったらしい。
洪水に見舞われる恐れはないと思うのだけれど、今夜も又天気は荒れるらしくて、気にはなる。
8月のウイークリーマンション、電話で直に連絡をとったら、1室だけキャンペーン対象の部屋が残っていたということで、申し込みすることにした。
R大の俳句講座のお手伝いは3日間なので、それ以外の日は、いろいろ京都でできることを予定に組み込んでいこうと思う。
まず、所属結社の京都句会に参加が可能になった。
久しぶりの参加であり、楽しみである。
知人との飲み会も計画できればと思う。
恒例の麻雀大会は、メンバーの不都合で、今回は無しということになってしまった。
残念である。
「俳句甲子園読本」を図書館から借りてきて読んでいる。
いつか参加できたらと現職の時は思いつつ、実現できぬままに退職してしまったけれど、せめていつか一度現地を訪れて、「俳句甲子園」の熱気に触れてみたいという思いは募ってきている。
今年はもう難しいかもしれないけれど。
「日々録」を読んでくれているという、四国の知人にも会ってみたいと思う。
【17年7月4日】
昨夜は、さすがにあまりの蒸し暑さにエアコンを使う。
タイマー付きで途中できれるようにしたけれど、明け方近くまで、寝室の中が涼しい状態を保たれていて、快適だった。
とはいえ、エアコンの冷気自体は、ちょっと苦手なので、設定温度は28度くらいにしておく。
今夏は、異常高温が予想されているようで、例年になくエアコンのお世話になるかもしれない。
台風3号は、こちらには全く影響はなかったように思われる。
一日中、小雨がぱらつくという状態ではあったけれど、それ以上の荒天にはならなかった。
夕方には、青空も見えていたが、夜に入り、また雨がぱらついて、少々蒸し暑くなっている。
昨日は、吟行句会。
私が高校時代まで暮らした町が吟行地となった。
とはいえ、私は海沿い育ちだけれど、吟行地は山側の方で、古墳や廃寺などで名のしられたところである。
名水の里としてもそこそこ知名度があり、確かに水はうまい。その水で作った豆腐も、大変美味しい。
句会は、地元の食材を用いた昼食会の後に、宴会場にテーブルを並べて行われ、なかなか盛会だったと思う。
この会では、今回初めて披講の役を担当して、久しぶりに人前に立つ緊張感のようなものを味わえた。
楽しい半日だった。
近畿理財務局の局長が、国税庁長官に栄転したらしい。
とうとうトップに立ったんだ、と思う。
『十八史略』などをずっと読んできて、中国古代の動乱の歴史なんかに照らしあわせてみると、酷吏として名をなし、やがて王権の崩壊とともに粛正の対象になる、みたいなそんなタイプの人物像をふと思う。
【17年7月2日】
歩いていると、本当にいろいろなものに出会える。
これは、おそらく自家農園だと思うけれど、その周囲の囲いに飾られた様々な小物類。
この状態で四周が囲まれ、さらにこの垣根の前にもう一重の垣根が設けられ、そこにもこの密度で小物が飾られてある。
その多彩さは、見ていて楽しい。
ちょっとしたポップアートでも鑑賞しているような気分になる。
土地の所有者の方らしい人を一度遠目に見かけたことがあるけれど、ずいぶん高齢の方であったと思う。
たまにこのコースをとることがあるけれど、その都度立ち止まって見ている。
少しずつ小物は増えているようだし、その都度新発見のようなものがあって楽しい。
まわりを耕作放棄地に囲まれた中で、そこだけぽつんと異なった世界が出現しているようで面白い。
今日は曇り。
時折、ぱらりと雨が来る。蒸し暑い。
とりあえず、しばらく家中の窓を開けて、空気を通しておくことにする。
奥まったところにある書庫が、一番湿気をためやすいので、壁の湿りなどを手の感触ではかりつつ、空気の流通をおこなう。
敷物がひいてあるところは、四囲が固定されているので、湿気を含んで少したわみが生じているようだ。
梅雨は、ほんとうに鬱陶しい。
さっさと秋になってくれれば、と飛躍的な思いを抱いてしまう。
とはいえ、梅雨の晴れ間の夕景のその空の表情などは、他の季節にはないある種のはかなさのような希望のようなそんな妙な趣が感じられて、嫌いではないのだけれど。
11の個人・団体が合計100万円を拠出したので、20万円以上に抵触しないから、政治資金規正法の記入義務にはあたらない、という理屈。
皆、均一に18.8万ずつだしたとは限らないだろうし、均一なら均一でそうするよう事前の配慮があるとか、そうでないけれどそれを加計の職員がとりまとめたならとりまとめたで、いずれにしても釈然としない点だけが残る。
ところが、今日の某テレビ番組で、政治資金に詳しい政治家ならそれは良くやっている手法らしいということで、改めて政治資金規正法がザル法であることが証明されたような思いになる。
世の中には表と裏があるのよ、と車中で絶叫していた某女性議員のわめき声が、別の意味合いで脳裏に強烈に蘇ってきて、鬱陶しい。
【17年7月1日】
七月に入った。
天気は回復したが、湿気がひどい。じっとしているだけで、体表面にうっすらと汗の幕ができるような感覚。
土曜日なので、フリーに過ごす。
まだ暑くならない間に「歩き」を終えて、午前中は図書館で借りてきた小説『俳魁』を読む。
3.11を背景に、巨大俳句結社の主宰と一作家との葛藤を、推理小説仕立てで描くという体裁のお話。
俳句結社が素材として使われているのだが、そんなところにちょっと興味を感じて借りてきた。
読んでみると、結構面白い。まだ半分くらいで、すでにネタ割れ的な部分はあるようなのだが、しかしこれが終わりにかけて大どんでん返しにつながるのかもしれない、などと思いながら読み進める。
そうなったら、大変面白いと思う。
お話の中に登場する俳句も、それなりに面白い。
作者自身が、俳句実作について相当造詣のある人なのだろう。
今日は、夕方から飲み会のはずが、メンバーの一人が急遽残業のために不参加となり、結果として中止になった。
その人も、私同様早期退職をして、不定期に仕事についておられるらしい。
ちょうど今から繁忙期に入るらしくて、その期間のみということで仕事についているようだ。
わが身のことをちょっと考えてしまう。
R大学の夏期講座お手伝いのために、毎夏1週間京都市内にウイークリーマンションを借りているのだが、今年はこちらの不手際で、あるいは借りられなくなってしまうかもしれない。
キャンペーン価格で借りていたので、かなり割安に1週間を借り切ることができたのだが、正規料金ではとても借りることはできないだろう。
どうしたものか、と思う。
日・月と天気は良いらしいけれど、その代わり猛暑状態になるらしい。
月曜日は、吟行句会が予定されてあり、その世話役の一人にもなっているのだが、参加メンバーが高齢者が多くて、熱中症等心配ではある。
吟行地としては、廃寺址、遺跡群などあって、吟行地としては魅力的な場所ではあるのだが。
明日は、東京都議会選挙。
「都民ファーストの会」が優勢なのかもしれないけれど、小池氏のやり方をみていると、「自民党をぶっこわします」をスローガンとした、某自民党総理の手法を思い出してしまう。
小池氏も、未だ自民党員であり、また右翼集団「日本会議」のメンバーの一人であってみれば、「都民ファーストの会」が清新な新潮流を生み出すかどうか、ちょっと??マークがつかないわけではない。