日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。             
一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

      
16.9「日々録」 16.10「日々録」 16.11「日々録」 16.12「日々録」 17.1「日々録」 17.2「日々録」 17.3「日々録」 17.4「日々録」


【17年5月30日】
夢に知人が出てくることがある。
なんとなく、心のどこかで気にしているのだろうか。昨夜は、久しぶりに電話をかけてみた。
毎年、1度は会う機会のある人達ではあるが、昨年はこちらの都合で出会うことが出来ず、1年半ぶりくらいに声を聞くことになった。
結構元気そうで、なによりだった。
「日々録」も読んでくれているということなので、挨拶代わりに一言触れておこうと思った。
今日も快晴で、暑い一日だった。まだ5月だというのに、今日の最高気温は30度だった。
今年の夏は40度近い猛暑も予想されているらしいけれど、すでにもう暑い。
さすがに夕方になると、気温は少し下がるけれど、それでも昼間の余熱を感じてしまう。
朝、母を病院へ送って後、一度帰宅して読書。
病院は昼過ぎまでかかって、再度迎えに行く。4時間以上かかった勘定になる。
治療に時間がかかったということはあるけれど、それにしても長いなと思う。
午後は、投句作品を作ったり、本を読んだり、日が陰った頃を見計らって歩いたりで過ごす。
西脇順三郎の『旅人かへらず』読了。
女性なるものも相変わらずほとんど感じられなかったけれど、通し番号の意味は理解できた。
いわば、作者の詩的歩行の道しるべのような働きを担っているようだ。その順番に従って、「旅人かへらず」の世界は進行する。長短様々な詩文も、その流れの中で前後関係を含めて鑑賞すべきもののようだ。
その流れが、作者による詩的歩行とでもいうものなのだが、もちろん散文ではないので、様々な飛躍もその中で生じる。
時には、歩行が切断される部分もあったりするけれど、そんな切断や飛躍も含めての、一詩の鑑賞ということになるようだ。
そして、作者のその「歩行」は、なかなか面白い。
解説文では、作者西脇順三郎は「目の人」との解説があったけれど、個人的には別の誰かが言っていた「歩行の人」という方が、作者のありように適っているような気がする。
『和泉式部日記』を読んでいる。読み始めてしばらくして、こちらに帰ってきてから一度読んだことがあるということに気がついた。
長くもない日記なので、そのままもう一度読むことにした。まもなく、読了することになるだろう。
和泉式部といえば、兄弟に恋した女子と言うことで、妖女とか悪女風なイメージが与えられているようだけれど、なんとなく奥行きの乏しい人のような印象を受ける。
日記自体が、日記と称するとはいえ、おそらく第三者の手によって書かれたものだろうから、その分作者の実像や実態が薄れてしまっているような気がする。
その点が、物足りない。


【17年5月29日】

     

航空祭の写真3枚。
ブルーインパルスの飛行演技を2階の寝室の窓から眺める。
銀翼を輝かせながら、雲一つ無い青空を背景として、見事で華麗な空中集団演技を繰り広げる様子に、つくづく感心する。
ブルーインパルスは曲技飛行を専門とする独立部隊で、広報を担当する集団であるらしいけれど、あれほどの技術と経験を持つ人達が、もし仮にも戦争場面に参加するということがあり得るのだろうか、などとふと思う。
ずいぶんと、複雑な心境になる。

「君死に給ふことなかれ」皐月の航空祭


【17年5月28日】


宅地の裏手に小山があって、そこが樹木が茂っている。
落葉樹も混じっているけれど、一番に目に付くのは篠竹で、それがちょっとした竹林風な風情を作っていて、その茂りの中を一本貫いて畑地の方へ通じている細い道に、落ち葉とともに笹の葉をうっすらと積もらせている。
篠竹が両側から道にかぶさってくるところは、まるで笹のトンネルのようになっていて、実際には100メートルくらいの長さの道なのだけれど、それがその小道に独特の奥まった雰囲気をもたらしている。
「歩き」のコースの中に、時折その道を含めて歩くことがある。
ほんのわずかな時間だけれど、深山幽谷ふうな雰囲気を味わうことができて、お気に入りの道のひとつになっている。
風の強い日、竹と竹が打ち合う軽く乾いた音が、頭上から聞こえてくるのも、なかなか味わい深いものではある。
わざわざ夜の時間帯を選んで歩くこともある。
道路の街灯の明かりから離れて、明かり一つ無い闇の道を歩いていく。
梶井基次郎の短編小説『闇の絵巻』などが思い出され、明かりに汚されない「清潔な闇」ということを思ったりもする。


【17年5月26日】


垣のツツジが、ようやく咲きそろいつつあるようだ。
昨年に比べて、花の数はずいぶん少ない。
まだ花蕾の状態のものもあるけれど、それにしても目に見えてすくないな、と思う。
やはり、冬の2度に渡る豪雪の影響がこんなところに残っているようだ。
ご近所さんのつつじも、同様に花の数が少ないようだ。
花よりも、樹木本体の方に栄養が分配されたようだ。
春先に油かすをかなりたっぷりと与えたつもりだけれど、花の方にまでは十分まわらなかったような気がする。
それにしても、今年は花のみではなく、例年のモチ病の発症もすくないようだ。
今日は、午前中のうちに所属結社の投句を7句作って、郵送する。
明日は、地元結社の句会で、7句準備をしなければならない。
午後作るつもりで、結局1句もできなかった。明日の午前中が、勝負となることだろう。
明日の夕方は、私同様帰郷した同級生を含め、数人で市内に飲みに出かける。
地元に飲みに行くということは、滅多にないことだ。
車は使えないので、列車の時刻を確かめておかなければ。


【17年5月24日】
西脇順三郎の『あむばるわりあ(と読むらしいけれど)』を、難渋しつつ読了する。
結局、全体を読み味わうということは不可能で、詩の一行、あるいは一節、さらには一語を楽しむ、という程度でしか、読み通すことができなかった。
続いて、『旅人かへらず』を読み始める。序文が、西脇の詩を考える場合に重要らしくて、いくつかの評言の中にも、その一節「幻影の人」という言葉が引用されてあったが、それがどのようなもの、あるいはことを意味するのかはわからない。作品のなかでは、「幻影の河童」などという表現でも現れてきている。
それにしても、個人的にはその言葉より、「この詩集はそうした『幻影の人』、そうした女の立場から集めた生命の記録である」というまとめの一文に違和感を覚えた。
作品を少し読んでみたが、作品のどこにも「女」という存在を感じないということなのだ。
強いて言えば、男の立ち位置から想定する「女」というより「女的なもの」の表現ということになるのかもしれないけれど、それにしても違和感はまるで解消されない。
また、作品ひとつひとつが通し番号をふられて載せられてあるのだが、たとえば、
 三 
      自然の世の淋しさ
      睡眠のさびしさ
 四
      かたい庭

 五
      やぶからし

などは、詩文単体としてみれば、特に五などどう鑑賞してよいか、わからない。
通し番号に導かれて、全体の中に位置づけて読む、ということなのかもしれないけれど。
不思議な作品である。

『十八史略』、唐の玄宗皇帝の治世を語る部分の中に、「懐愼」という宰相の話が出てくる。彼は、清謹倹素な人柄の人物ではあったが、世の人からは「伴食宰相」と呼ばれていたらしい。「伴食」とは、「おしょうばん(主賓にくっついていって、一緒にごちそうなどにあずかるというような意味合いだが)」ということで、その職についても、実力が伴わず、同僚にまかせきりで自らはなにもしない(できない)ということを意味していたらしく、「懐愼」自身人柄は悪くないけれど、職責を果たす能力に欠けていた人物のようだった。このあたりを読んでいて、否応なくある国務大臣の姿を思い出さざるを得なかった。
自らは、まともな答弁が出来ず、背後に控える官僚達に答弁をまかせきりにしていた人物であった。
そんな人が主管する法律が、衆議院を最近通過したりもする。
その人物の人柄が「清謹倹素」であるか不明ではあるけれど、職務においては「伴食宰相」ならざる「伴食法務大臣」と呼んでみたい思いになることだ。


【17年5月23日】
谷川俊太郎の詩集『東京バラード それから』を読んでいたら、こんな詩があった。

  東京は象です
  かぜひきの
  かさかきの
  ちのみちの
  リューマチの
  ノイローゼの
  チアノーゼの
  かわいそうな
  大きな象です
  オリンピックサーカスに売られてゆく象です
  ひめられた自分の力に気づいていない
  いなかものの
  若い象です−−
  急求熟練調教師党派不問

この作品が作られたのは、2011年より前みたいなので、ここでいう「オリンピックサーカス」は、来る2020年の二代目「東京オリンピック」を指しているわけではないだろう。
かといって、初代「トウキョウオリンピック」をここに持ち出すのも、さすがに陳腐以外のなにものでもないような気もする。
なんとも正体の掴めない「トウキョウオリンピック」。
詩人の豊かな幻想力がもたらした、架空の祭典のことなのかもしれない。
それにしても、最後の1行が、黙示録めいた不気味なものに思えるのは、おそらく未来からの、2020年という時代の光か影のもたらす預言(予言というわけではないのだが)めいたなにものかの反映であろうか。


【17年5月21日】
丹後「すき句会」に出かける。快晴のもと、新緑の山々と山陰ジオパークの海岸線を眺めつつ、片道4時間(なんと復路は3時間余りで200キロを走行しおえたが)のドライブを楽しむ。
今回は、句会の前にいろいろ話し合うことがあったのだけれど、概ね皆さんの意見の一致をみることができて、大変うれしかった。
話し合いの関係で、句会の方はかなり慌ただしい進行となってしまったけれど、2ヶ月ぶりの句会ということもあって、面白い作品が出そろったように思う。
次回は、7月に句会が持たれる。
その時もまた、車を使って来ようかとも思っている。
日曜日。午後から、県の俳人協会支部の総会が持たれる。
大きな施設の中にある会議室を会場に開催。会自体は40分程度で軽快に進行、終了し、その後恒例の句会が持たれる。
珍しく選に入り、最後は同数によるじゃんけん勝負ではあったけれど、賞をいただくことができた。
全没の連続の中での快挙といってよいことのように、我ながら思う。
ここしばらく、連句の捌き役のようなことをさせてもらっているのだけれど、今回恐らく普通の連句ではやらないだろうというような、かなり掟破りのような試みを行う。
連句に参加しておられる方達も、ここ2日ばかり苦吟しておられたことだろうと思うのだけれど、みなさんさすがに練達の士揃いで、こちらが感心するような付け句を送ってこられ、その選に大変苦しむはめになった。自業自得ということなのかもしれない。
でも、面白い進行になったようにも思われる。
現在、歌仙のウラ5句目に入ったところである。
この先、どのように世界が展開していくのか、楽しみである。

北畠親房の『神皇正統記』を読んでいて、彼自身が問題にしているのは、南北朝の対立とともに、朝廷を中心とする公家政治と武家政治の対立ということなのだろうと、改めて思う。
本文中で、後醍醐天皇の記述が他の部分に比べて多いのも、単に自分が同時代を生きているということだけではなく、その中で建武という時が武家政権の圧迫に対して、窮迫衰亡しつつある朝廷の権威の回復がなされた希有な時期と言うことに対する高い評価の反映でもあるのだろうと思われる。
今上天皇の退位に関し、議論の過程の中で、ある有識者(最近、この有識者というものが、大変いかがわしい印象をともなって感じられるのはなぜだろうか)が、天皇は皇室の維持と皇室の祭祀のみを事とすればよい、という趣旨の発言をして、批判を受けたらしい。
世が世であれば、彼は不敬罪に問われたことであろう。
新憲法の時代に生きていることの恩恵を、かれもまた被ったわけであろう。本人に、その自覚があるかどうかは、不明であるけれども。
いずれにしても、その有識者にとっては、皇統の維持と祭祀以外の天皇の国事行為などはもっての外のことであるらしい。
今上天皇が被災地をまわり、国民と膝を交えその苦しみや悲しみを共有し、自らの身体にむち打つようにして、国外の戦没者の慰霊のために旧戦地を巡り慰霊を願う事などは、その有識者にとってはおそらくもってのほかの行為のように見えることだろう。
ちなみに、天皇の活動を皇統維持と祭祀に限定する考えは、安倍晋三もその一員である日本会議の基本的な認識であるらしい。
女性天皇の問題や、女性宮家に対する取り組みの弱さの背景には、現在の皇室のありように対するそのような勢力の批判・非難の思いがあるように思われる。
今上天皇の退位問題を1代限りの特例ですまそうとする姿勢もまた同様の背景によるものなのだろう。
かって武家政権が、皇室の権威を利用して自己の政権基盤をたしかなものとするとともに、その皇室の権威が自らの政権にとって危惧の対象とならないように様々に圧迫し、時には皇族を遠流の刑に処するなどという暴挙をまで犯したということを、北畠親房の『神皇正統記』を読み終えて、ふと思ったりもする。
改憲を志向する一党にとって、実は最大の護憲勢力は非力な野党などではなく、「象徴」としての勤めに誠実にそして自らの命をもかけておられる今上天皇であるということは、思えば皮肉なことかもしれないと思う。


【17年5月19日】
明日は、丹後の「すき句会」。
いろいろ話し合いをする必要がありそうだ。
昼が長くなったので、車で出かけることにする。
片道4時間くらいだけれど、列車を使うより時間・費用ともに経済的だし、それに車を運転することは、結構楽しい。

「加計問題」、おあおりを喰らった京都産業大学は気の毒としかいいようがない。
京都でも、個性的な大学のひとつなのに、残念なように思う。
IPS細胞の応用などを念頭においた獣医学部は、京都らしい取り組みで未来志向の魅力的な内容だったと思うのだけれど。
1度に二つも獣医学部を増やせば、さすがに文科省や獣医学会の反発は猛烈なものになるだろうから、認可する場合、1校に絞るというのが両者に対する戦略だったのか。
その結果、総理のお友達の学校が残り、京産大は断念せざるを得ないという状況になった。
くっきりと明暗を分けたわけだ。
唐突な方針変更、まだない地域に1校のみというのは、「加計」を生かすための単なる便法に過ぎないだろう。
人数調整の関係からいっても、現在全国合わせて1000名弱の総定員の状態の中で、「加計」1校の定員数が160名はおそらく異常に多いだろうし。
その点に対し、設備・人員の点で危惧の声は挙がっていたはずだ。
商売の臭いがプンプンしているようだ。
「加計」は、急ピッチで工事を進めているらしい。
森友の二の舞にならなければ良いが……。
……別になってもかまわないが。


【17年5月18日】
朝から雲一つない快晴。
ひさびさに6時前に起床。
外が明るくなるのが日ごと早くなってくるのが実感できるけれど、床を離れるのも日ごとに早くなっていくようだ。
シャワーを浴び、新聞を読み、朝食(とはいえ、昨日蒸かしたさつまいも半分+牛乳)を食べる。
昨夜は、昼間歩けなかったので、夜スロージョギングを行う。
歩くより速く、走るより遅く(変な言い方だけれど)、息が切れない、汗もほぼでない、そんな緩いペースで30分ほど近所を走る。
さすがに、あちこちで犬に吠えられて困る。
「歩き」に比べて消費カロリーもやや高く、身体への負担も軽いので、これも体調管理の選択肢の一つではある。
二階の部屋の窓を開けて、外気を取り入れる。
カーテンを開けておくと、すでに眩しい程の日差しが差し込んでくる。
今日も、外出にはサングラスが必要な一日になりそうだ。
天気の良い日には、「歩き」にも、車の運転にも、眼鏡のうえからかけることのできる運転用のサングラスを使う。
近年、目が弱ってきているなということを実感するからだ。
もちろん、パソコンを使うときは中国製の安いブルーライト遮断メガネをかけてもいる。
ブルーライト4割カットということらしいので、裸眼であるよりは多少の効果はあるのだろう。
本を読むためにも、目にかかる負担は少しでも軽くしておきたいと思う。
効果があるかどうか、不明だけれども、実家からもらったブルベリー入りのサプリメントも飲んでいる。
なんとなく、夜空の星が見えやすくなったような気になる瞬間はある。


【17年5月17日】
「共謀罪」の強制採決が行われようとしている、その前日に皇族のひとりの婚約のニュースが突然流された。
本日の某新聞の見出しでは、「婚約内定」と見出しが振ってある。その「内定」の見出しに違和感を覚える。
「婚約発表」ならまだしも、昨今では「内定」がニュースとなるのだ、と思う。
まあ、たしかに今季の大学新卒予定者の就職「内定」率の高さの話題は、小さくニュースの記事になってはいたけれど。
めでたいニュースではある。皇室ネタの大好きな日本人の志向に沿って、早速メディアは大々的に報道する。
婚約者とされる相手に朝駆けの取材を行い、彼が会社に出勤する姿を延々映像で流す。
まるで一躍大スターのような扱いになる。
おそらく、ここ数日、NHKを筆頭に通常ニュースでも、各ワイドショー番組でも、このおめでたい「婚約内定」の話題が延々と流されることだろう。
そして、その背後で、「共謀罪」の強行採決は粛々となされ、その話題はめでたい「婚約内的」の話題の影に隠されることだろう。
「婚約内定」の話題の出所は、宮内庁ではないらしい。どこが、この話題を突然にマスコミに流したのか。
不思議である。
最近、政治的な大きな話題がとりざたされようとすると、決まったようにそれとは別の国民の耳目をひくような話題がマスコミに提供される。
今回の皇室の話題など、その最たるものだろう。
言い換えると、それほど大きな意味を持つ物が、その影で隠されていくということでもあるのだろう。
こんな風にして、マスコミを通じて、政治的な重要な事柄が国民の視線からそらされるという動きがあらわれているようだ。
もちろん、その中には意図的にそれを行う某新聞やその同系列の新聞や大政翼賛的なメディアの存在もあるが。
そして、こんな批判めいたことを書けばめでたい皇室の話に泥を塗る的な非難の圧力が、たとえばマスメディアにかかっていくことだろうとも思う。
こんな風にして、国民にたいする何者かの情報操作や隠蔽が繰り返しおこなわれていくことになるのだろう。
そして、国民はそんな状態をあたりまえのこととして自然と受け入れていくことだろう。
そう言えば、個人的な妄想のついでとして、いずれ「共謀罪」が施行されていく中で、警察組織内に「テロ等」に対して特化された特別の権限を持つ部門か部署が設置されることになるのではないか、と思う。
「テロ等」に対して、法律が出来たので、その法律をより専門的に円滑に運営・実行していく特別な部署である。ちょうど、かつての「特別高等警察(いわゆる特高)」のようなものだ。


こんなことを、こんなところで書いたところで、特に何の意味もありはしない。
ただ、自分の中では今後の日本がどのように変化していくのか、それを一応見守っておきたいとの思いはある。
恐い物見たさの好奇心のなせるわざなのかもしれない。
定職を離れた人間の消閑の思いのひとつということかもしれない。
そして、その備忘録の役目をこのブログは果たしているという一面もあるのだろう。
還暦を過ぎて、私自身が生きてきた時代や社会、そして恐らくもうしばらくは留まるだろうこの世の中を、それが良かれ悪しかれどう変化していくのか、目に収めておきたいものだ。
そんな自己満足的な一文であっても、目にとめてくださる方がいれば、自分のありようが自己閉鎖的な密室ではなく、少しは外部に開かれているという証になるようにも思う。
それは、たいへんありがたいことでもある。
それにしても、上田秋成の『膽大小心録』という老いの繰り言めいた痛烈な随筆は、この年齢の読書ということで、思いの外自分に強い影響をもたらしているのかもしれない。


【17年5月16日】


画面の真ん中に直立しているのは、裏庭の金木犀の木。
途中で断ち切れているようになっているのは、今年の冬の豪雪で、雪の重みに絶えきれず折れてしまったので、やむなく鋸で切り落としたものだ。
その枝に、数本の小枝が伸び始めていた(ガラ携のカメラなので、不鮮明だけれど)。
雰囲気的に、『風の谷のナウシカ』(映画版)の最後のシーンにちょっと通じるのではないか、などと思ってしまった。
植物の生命力というものは、なかなかのものだと思う。
北畠親房の『神皇正統記』も、後醍醐天皇のところまでやってきた。
北畠にとっては、同時代的な内容ということになるのだろうか。
いままでになく、延々と記述が続いている。
人の世の流れの背後(歴史の流れといいかえても良いのだろうが)に、神の意志が関わっているようないないような、妙に中途半端な記述が繰り返される。
つまるところ、神の意志は人知でははかりしれないという形での、人の歴史と、それに対する神の干渉・采配ということについて、ある種の合理化の契機のようなものが、記述の中にちらついているのが見え隠れする。
神と言えば、先日「歩き」の途中で、貞享年間創建の神社の掲示板に、一時期ネットで話題になった(まだ話題は続いているのかどうか、しらないけれど)、「私日本人で良かった」みたいなコピーの入ったポスターを見かけた。
ずいぶん可愛らしい女子モデルが起用されたポスターであったけれど、実はそのモデルが中国人であった、ということが色々な意味で話題になったようだ。
これがそうなのか、と現物を目の前にして思ったけれど、モデル自身は清楚で豊頬の美少女という印象で、好印象であった。
日本人のありたい姿のイメージが、中国人の姿を借りて表現されてあるというのが面白かった。
神道の世界でも、こんな風にグローバル化が進んでいるということなのだろう。
北畠の無理矢理めいた合理化の論理で話を押し進めるよりも、こんな風に開かれた世界に神道も解放されればよいことだろうに。
とはいえ、その世の中の方が少しずつ閉塞状態に進みつつあるようだけれど……。


【17年5月15日】
裏庭の金木犀の枝の剪定と水やりの効果が少しは出たのか、落ち葉の量がうんと減っている。
植物も、自分の体が危機的状態になっているとき、それから回避する方法を自然に仕込まれているようだ。
その最大のものは、自らの葉を落として、樹体全体にかかる負担を軽減さえようとする仕組みなのだろう。
成長に折り込まれた生命維持機構ということになるのかもしれない。
手入れをする側としては、そんな植物の異常に出来るだけ早く気付き、手を打つことがとても大切なことになるのだろう。
今回もまた、ひとつ植物から教えられたように思う。
そろそろチャドクガが飛び始めたようだ。
葉っぱに卵を産み付けて、気が付くと沢山の幼虫に葉っぱの大半を食べられてしまっていた、ということがあった。
奥まった所にある山茶花の木で、気が付いたら幼虫とそれが吐き出す糸とで、酷い状態になっていたことがあった。
昨年、この時期に薬剤を散布したら、その年のチャドクガの発生はほとんど無かった。
今年も、今夕の風の少ない時間帯に薬品を噴霧しておいた。
キリシマツツジの花芽がようやく目に見えて膨らみはじめた。
ちょうどこのころから葉の変形をもたらす(かなりグロイ変形状態になるが)モチ病も出始める。
毎日、注意してみているが、すでに数枚の変形し始めた葉を見つけたりもしている。
薬剤による防止法もあるらしいけれど、見つけたら即ちぎって捨てるということを実行している。
大きくなって、成熟した状態になると、来年もっと酷い状態になるらしいので、成熟する以前に切り離すのがそれなりに効果はあるらしい。
さらに暑くなると、ツツジの葉っぱを食い荒らすコガネムシも出現するのだけれど、闇に放り投げても引き返してくるので(これは俳人にしか通用しないギャグかもしれないが)、これは見つけ次第、殺虫剤を噴霧ということになる。
庭木を維持するのも、結構手間暇がかかるものだと思う。
それがあまり苦にならないということが、せめてものことではあろう。


【17年5月14日】
それにしても、上田秋成の随筆『膽大小心録』を読んでいると、その口調と内容の辛辣さに、ちょっと圧倒される部分はある。
時の権威に対して、平然と否を決めつける口振りは、なかなか厄介な人物だったんだろうな、という思いを強くさせる。
頑固一徹、絶大な自己肯定感が、かえって清々しているとすらいえそうな気がする。
随筆と言うことで、当時の京・大坂辺りの話し言葉なども随時折り込まれていて、それが縦横無尽な斬りつけ方にも反映しているようだ。
共謀罪、いずれそれに賛成している人達にも、直接・間接に影響を及ぼしてゆくことだろう。
賛成派は、影響から除外されるというのは、全くの思い違いに過ぎない。
それは、自分で自分の首をやんわりとしめながら、息が実際に苦しくなるまで気付かないようなものだ。
すでに、当初からその問題点に気付いている人達と、時間のずれはあっても、結局同じ状況、同じ結論に導かれているようなものだ。
そして話はそこでおわるわけではなく、極端なことを言えば、現在それを推進している与党やその直接の賛同者の人達も、当然その影響下に置かれるということだ。
特に、(当分起こりそうにないけれど)現在の与党が野党化したさいには、避けようもなくその影響をうけることにもなるだろう。なぜなら、共謀罪の本質は、現在の権力機構を維持するために、多くの権利を拘束するという点にあるからだ。そもそも法律の無人格性は、厳然たる部分があり、権力による恣意的運用の部分を除き(今問題になっている焦点は、実はこの部分だ)、厳格にその法理を適用しようとするならば、権力機構維持という点でのみ法的な力は発揮されることになるからだ。
皮肉な言い方をすれば、現在野党の皆さんも、立場が変われば、この法律を恣意的に運用することで、自己の政権や権力機構の維持が可能になりますよ、ということであろう。
とするならば、この共謀罪に関わって、最終的な勝利者は誰なのか、それは明白であろう。
権力機構すら背後で動かす(それはまさに金田法務大臣の背後で、マスクで顔を隠した二人の人物が、金田氏の答弁を動かしている有様に象徴的に表現された)官僚機構こそ、その最後の勝利者ということになるのだろう。
権力の本体は変わることがあっても、それを支える官僚機構は変わることがない。誰かの弁をかりれば、官僚機構は永遠に不滅です、ということになる。
官僚機構って、ほんとうに恐ろしい。
特に、それを構成する官僚自身の堕落(公務員として、全体の奉仕者としての役割を担うはずが、国民全体のためにではなく、他の特定のなにものかのためにその高度な能力を発揮しようとするようになると)って、本当に恐ろしいと思う。

昨日、今日と、硬派な内容が続いているけれど、こんなこと書くのも少々疲れた。
今日は、若干空に水蒸気が多いような気はするが、全般に良い天気で、とてもありがたい。
朝のうちに、モニターを1本仕上げて、送信。
午後は、「歩き」と読書で過ごしたい。
昨日は、西脇順三郎の詩を、某詩集全集の中から見つけて、読む。
なかなか面白い。
特に、自身の経験を素材にした長ーい詩が、大変面白い。虚実の間に遊び回っているような印象すら持ってしまう。
西脇関係の評論では、画家の池田万寿夫の講演記録を読み始める。彼も又、西脇の深い理解者、共感者の一人であったらしい。
裏庭の金木犀の枝の一部を鋸で、切り落とす。弱っている樹体の保護的な効果があるらしい。
もちろん、伐り口には細菌等の侵入を防ぐ軟膏をたっぷりと塗っておいた。
紅葉も茂りすぎているようなので、若干剪定をして、採光の調整など行う。
今日は、母の日。
とはいえ、昨日市内にでかけて色々な用事を済ませるついでに、花屋さんでカーネーションを購入、花束に仕立ててもらって、昨日のうちに母に贈る。
実家の弟の奥さんにも、日頃のお世話に敬意を払って、ピンクのカーネーションを1本贈る。


【17年5月13日】
共謀罪。維新は、取り調べの可視化を主張して、一部法案の変更を行った。
ただ、それは共謀罪の持つ本質的な問題に全く届かない、間抜けな提言のようだ。
(維新以外の)野党が問題にしているのは、共謀罪の対象になる以前の被疑者ですらない者を対象にして実質上の捜査が警察によってなされる可能性があり、被疑者ですらないもの(つまりそれはあくまで一般市民にほかならないわけだが)が、実は共謀罪の捜査対象として組み込まれ、警察による実質捜査がなされる可能性が多分にあるという点を問題にしているようだ。
俳句の会で個人の家に集まって句会を楽しんでいる人達も、近所の人がそれをなんとなくうさんくさい集団と見なして、警察に告げ(昔ならこれが密告ということになるのかもしれないが)、警察がもしその告発内容の真偽を判断しようとして、具体的な行動を取るとしたら(当然取るはずだ。そうでなければ、対象に対する告発の真偽の判断などできるはずがない。なんらの具体的行動もなしに判断が下されるとしたら、それはいわゆる予断とか、神の宣告の類のものだろう)、その段階で善良な俳人諸氏もすでに平凡な一般市民ではなく、犯罪活動を起こす可能性をはらんだ凶悪なテロ集団の構成員かもしれないという、被疑者的な危うい立場にすでに立たされているということになるのだろう。
ましてや、のどかな句会ならまだしも、一定の主張を持った市民運動や労働運動(それが企業活動や政府の施策にどちらかというと反するような主張内容を持つ場合だったら、ほぼ確実に)は、うろんな集団とみなされ、警察による積極的な「調査」の対象になることだろう。
沖縄の基地反対闘争なんかは、いずれ確実に共謀罪の対象に祭り上げられることになるだろう。
そんなややこしいことになるのなら、句会なんかやめとこか、活動なんか中止しようか、ということになるのは目にみえているだろう。
維新の修正案は、その部分を問題とせず(与党もまた意図的にその部分は触れない)、被疑者として警察の取り調べを受ける際に、理不尽な取り調べが行われていないかどうかを映像・録音等で残しておく、そのことが警察の取り調べのありように、強要や精神的暴力、さすがに肉体的拷問はしないだろうけれど、精神的拷問などに対する牽制となるということを付加的に条件付けるということに過ぎない。
理不尽に逮捕、「調査」されないことこそが、市民の基本的人権を守る最も大切な事であるにもかかわらず、維新の馬鹿げた修正案は、「あんじょう安心して逮捕、調査されなはれ。取り調べは、ちゃんと記録にとってあるんやさかい。なんか、理不尽なことあったら、その証拠になるんやから。まかしとき!」と、落語の八っつあん、熊さんみたいな呑気なことを宣っているわけだ。
自民党と共闘を結ぶ公明党などと比べ、野党でありながら野党の口封じのお先棒担ぎを嬉々として実行している、確信犯的に悪質な政党が維新なのだろう。
与党に恩を売ったり、売られたり、こうもりのように自らの立場を変える、それは恐らく「是々非々」ではなく、「利害打算」ということなのだろう。
さっさと第二の公明党になる、あるいは公明党に立場を取ってかわる位の方が、維新の正直な在り方ではないかな。


上田秋成の随筆『膽大小心録』を読んでいると、その嫌味で皮肉たっぷりな物言いに、ついついこちらも影響を受けてしまうことだ。
いやいや、気をつけなければ……。


【17年5月12日】
裏庭の金木犀が、異常なほど落葉しているので、春落ち葉(すでに春ではないが)にしては奇妙だなと思っていたのだが、ネットで検索して、どうやら水不足らしいということに思い至った。
ここしばらく、良い天気が続き、時には乾燥注意報も出たりはしていたのだが、雨なども折々降っていたので、水やりの事はほとんど念頭になかった。
ただ、例年になく葉っぱが落ちるので、さすがにこれは金木犀自身の自己防御的な落葉かも知れないと思い始めて、ネット検索した結果だった。
早速、木の周辺にたっぷりめに水をまいておく。
これで状態が好転すればよいのだが、と思う。
庭のヒラドツツジはもうすっかり花期を終えた。
それに対して、キリシマツツジの方は、まったく花咲く気配すらみせていない。
開花期は4月から5月ということで、例年はすでに咲いている頃なので、こちらは豪雪の影響かと思っている。
ヤマボウシのほうは、緑の葉を茂らせるばかりである。
昨夕は、遠雷を聞いた。
大気が不安定になっているらしかった。
山沿いでは、相当の雨が降ったらしい。
今日も、大気は不安定らしいが、幸い雨は降ってはいない。
風もほとんどない。
こちらに帰って来てから、2年ほどたったころから、やたらと風の強い日が増えたように思われる。
気圧の高低が風の強風に繋がるように思うのだけれど、高低の差が大きくなっているような気がする。
その分、天候が極端な現れ方をするようになったのではないか、そんな気がする。
エルニーニョの関係かも知れないけれど、エルニーニョ現象自体が、従前と違う様相を呈してきているのではないか、と思われる。


【17年5月11日】
実家の犬の足の傷が酷い状態になった。
化膿していたところが、一時期は良くなりそうであったものが、再び赤く腫れ上がってきて、痛々しい状態となった。
行きつけの動物病院に連れて行ったところ、腫れの状態を見て、即座に切開しようという判断になった。
麻酔をかけて、眠らせて、その状態で腫れた部分をメスで切って、膿を一気に出すということになったのだった。
おもちゃみたいな注射器で、麻酔注射が打たれ、犬は1分も経たずに眠り込んでしまった。
後ろ脚が微かにけいれんしているみたいで、それが気になった。
医者は、大丈夫と言い、それから慣れた手つきで、これもおもちゃのようなメスで腫瘍を切り開いた。
赤黒い膿が一度に溢れ出し、治療台を汚した。
手を添えるようにして、膿を圧し出し、ピンセットを使って、中に芯がないかを確かめてのち、傷口から薬を入れて、治療は終わった。
抗生物質の注射を1本打った。
後は、そのままにしておいてもかまわない。仮に犬が傷口を舐めても、ほっておいてもらって良いとのことだった。
ちゃんと目が覚めるまでには1、2時間かかるとのことで、とりあえず治療台に寝かせたままでしばらく様子をみることになった。
眠っているついでに、耳掃除と目やに取りもしてもらった。
普段なら、ずいぶん大きないびきをかいて眠る犬が、静かなままで身じろぎひとつせず横たわっているのが、奇妙な姿に見えた。
自然に眠りに落ちることと、薬で眠らされることとの違いなのかもしれない。
受付の方から、こちらの様子に気付いて、「ワンちゃん、大丈夫。」と声をかけてくれる人もいた。
自分も犬を飼っていて、酷い状態でここに運び込んだ事があるらしい。
20分ほどそのまま様子を見て、やがてうっすらと目を開け、意識が少し戻ってきたような状態になったので、犬用のキャリーバックにいれて車に戻る。
犬は車の中でも眠り続け、自宅に帰ってもバックに入ったままいびきをかいて眠った。
結局、そのまま夕方の6時くらいまで、眠り続けたようだ。
昨日は、谷川俊太郎の詩集を2冊読み、今日は西脇順三郎の詩を読む。
西脇順三郎は、以前読んでなんとなく肌合いの違いに、以後読むことを敬遠してきたのだが、改めて読んでみると、とても面白い。
以前は、一体何を読んでいたのか、と我ながら思ってしまった。
日本とヨーロッパとの渾然あるいは混沌とした世界の中から、懐かしいような日本の姿がその作品世界の背後からじわっと浮かび上がってくるようなところが、面白い。
西脇に関する評論集を図書館から1冊借りてきていたので、それとあわせて読んでいこうかと思う。

自分がやりたいと思う生活を4年余り続けてきた。
この先も、そのスタンスを維持しつつやってゆくほかはないな、と改めて思う。
世相と世情は、決して明るくはないけれど。


【17年5月9日】
昼前から雨。
夕方には本降りになっていた。
甥を迎えに市内へ。今日は終日忙しかったとのこと。
朝のうちに「歩き」に出る。高曇りのうえに、黄砂の関係で、視界は良くなかった。
大山が紗幕の向こうにぼんやりと頂上稜線を見せていた。雨の気配濃厚という姿だった。
広い農地の中の農業用道路をてくてくと歩く。雲雀の声が、あちらからもこちらからも降ってくる。
繁殖の時期なのだろうと思う。
農地は、長ネギ、タバコ、苺などの植え付けが目についた。タバコは、四月中に植え、これからどんどん大きくなっていく。
禁煙・嫌煙の風潮が進む中、タバコ農家は大変だろうな、と思う。
この地域も、ネギーマンなんていうユルキャラが登場するくらいの長ネギの産地ではある。
畝を高くした葱畑が、耕作地の中では目立っている。
葱の共同出荷場という大きな施設も耕地の一画に建っていたりもする。
農地の外れあたりに、大きな養鶏場の廃墟が残っている。
長さ50メートルくらいの鶏舎が数棟、壁が壊れ、屋根のトタンが破れた状態のまま放置されてある。
中に入ると、すでに養鶏場の臭いは完全に消えている。
その代わり、周辺と夏草のにおいが籠もっているようだ。
荒廃を目の当たりにするようである。


【17年5月7日】
川島和子という人のスキャットを初めてまとめて聴いた。
「宇宙戦艦ヤマト」のスキャット部分を歌っている人だということだが、テレビでアニメを見ていたときは、その透明な歌声に大変心惹かれたことがあったけれど、それを歌っている人がこの川島和子という人だとはまるでしらなかった。
偶然、昨夜その人の歌声を少し聴いて、ユーチューブでまとめて聴きなおしてみて、すごいと思った。
今更何をということなのかもしれないけれど、それにしても人の歌声というものがこれほど心地よいものだということを、感じさせられたのは久しぶりのことだった。
その純度と透明感はすごい!
しばらくぶりにモニター視聴とレポート作り。
今月は4本しかないので、貴重な1本ということになる。
過日の連絡で制限字数を守るように指示があったので、それに従うことにする。
とはいえ、一番最初にレポートを書いた際、字数オーバーについて問い合わせをした時、字数にこだわらず自由に書いてくださいと連絡があったので、そのつもりで書いてきたので、少々拍子抜けがする。
担当者が変わったので、そのせいもあるのだろうかと思う。
個人的には、600字から800字という制限範囲であれば、ひとつの話題について感想と意見を書けば、それで満たされてしまう程度の字数なので、実務的に言ってもこちらの方が楽々ではあるのだが。

「権につき勢にしたがう風景を木になり花になりて眺むる」

歌人小高賢の最後の歌集『秋の茱萸坂』の中の一首。
とはいえ、歌集を読むのは河野裕子の作品を集中的に読んでいた時以来数ヶ月ぶり、まして小高賢という歌人の存在は、先日図書館で偶然この歌集を手に取るまでは知らなかった。
69歳で突然死された方で、その遺歌集ということになるらしい。


【17年5月6日】


ガラ携のカメラで撮ったものなので、ひどく不鮮明なものにうつっているけれど、茶色の体色の動物はキツネ(ホンドギツネとかいうらしいけれど)です。
中海沿いに広大な干拓地があり、その一画が東京ドーム数十個分くらいの広さの太陽光発電所になっているのだけれど、その敷地内で目撃しました。
背後に写っているのは、ずらりと並んだ太陽光パネルの一部です。
「歩き」の途中で偶然見つけたもので、仕切の金網の内側に親狐と小狐2匹がいました。
写真は、親狐(雌のキツネのような印象を持ちました)です。
どうやって、ここまでやってきたのか、何しろここは南北に延びる巨大な砂嘴の真ん中辺りに位置していて、東西は日本海と中海に挟まれているという自然環境だからです。
砂嘴なので、もちろん平たい地形で、山などはありません。
広大な発電所の敷地の中で、どのように生活しているのか、よくわかりませんが、野鼠などが生息していることだろうから、それを補食しているのかもしれません。
こんなところでもキツネが生きてるのだと、つくづく感心しました。


【17年5月4日】
今日はみどりの日。
フェーン現象の影響をうけて、蒸し暑い。
12時の時点で、気温は27度。夏日の気温になっている。
半袖一枚が、ちょうど良いぐらいの温度になっている。
昨日は、実家のピアノ教室の教室のドアを修理した。
薄い銅板を開かなくなったドアの隙間に差し込んで、とりあえず開けて、その後は動きの悪くなった部分に錆止め剤を噴霧しておく。
なんとか、開閉が可能になる。
今日は、花壇の煉瓦のずれた部分に、とりあえず接着セメントを埋め込んでおく。
植物の生長とともに、育った地下の部分が周りを押しやって、煉瓦のズレが生じたらしい。
本当は、植物自体をなんとかしないといけないのだが、さすがにそれは素人では無理なようだ。
裏のビニール波板の修繕とか、樋の錆に錆止めのペンキを塗ったりもしなければならないが、一度には無理なので、天気の良い日を選んで少しずつやらねばと思う。
実家の木に巣をかけたはずの土鳩が、結局作りかけの巣を放棄して、どこかへ行ってしまった。
鳩が巣を作っている様子を、そばの電柱にとまった大きな鴉が伺っているようなところを、何度か見かけたと実家の者が言っていたので、その影響はあったのかもしれない、と思う。
鳩は、一年中発情期らしいということは、先月の地元句会で野鳥の会のベテランの方から教えてもらったことだが、とはいえ、春先のこの時期、はやく落ち着かねばと鳩もおもっていることだろうと思われる。実際のところは、分からないけれども……。


【17年5月3日】
憲法記念日の日、安倍晋三が「9条」の改正を提案してきた。
1項2項をそのまま残し、新たに自衛隊を憲法の中に入れるというものだ。
公明党の加憲(いまあるものの上に、足りないものを追加するという考え方)という考え方に沿った内容にするらしい。
なんとなく無難そうな主張のようだけれど、おそらくそんな単純なものではないだろう。
「自衛隊」なのか、「自衛軍」なのか、「国防隊」なのか、「国防軍」なのか、その呼称はわからないけれど(当然「軍」という表現を使うことだろうが)、それを条文に入れ込む際、全体の整合性を取るという名目で、1・2項の条文自体にも当然手を加えてくることだろう。
その中で、その精神や趣旨を生かしたという名目で、そうとうきわどいというより、なんとでも解釈可能な条文に手直しをすることだろう。
そのやり口は、「安保関連法案」の際と同じような手口で、すでにその手の内を見せている。
成功体験がすでにあるというわけだ。
朝鮮情勢が不安定で、国民の危機感が高まっているこの時を、絶好の機会として、「9条」の改正を持ち出してきたわけだ。
朝鮮情勢が不安定である限り、安倍政権に対する支持率は高止まりを続けるという読みが当然あるだろう。
憲法改正(得に、「9条」改正)を悲願とする安倍晋三が、政治家として勝負に出てきたということなのだろう。
今、北朝鮮が日本にミサイルを撃ち込んで欲しいと一番願っているのは、安倍晋三だという笑えないジョークが、真実味をおびてくるような気がする。
安倍晋三にとって、この朝鮮情勢は、一種の神風のようなものなのだろう。
こんな風にして、世界の多くの国のように普通に戦争の出来る、中国や北朝鮮みたいな国家統制の下におかれた「美しい」日本が仕上げられていくのだろう。
これで、多くの懸案事項が「9条」改正のためになおざりにされることだろう。
2020年の東京オリンピックが、「9条」改正と抱き合わせになることで、ますますナチスによるベルリンオリンピックと同じような様相を呈し始めたことが、これで明らかになったようだ。
ここ数年のうちに、ネット上でも、こんな書き込みが不可能になるような事態が生じているかもしれないな、とも思う。


【17年5月2日】


花の季節になりました。
ヒラドツツジと白い花(花萼)はアメリカ花水木。
キリシマツツジは、今冬の二度の豪雪の影響なのか、全く開花の雰囲気すらない状態。
かなり痛めつけられたような印象を受ける。
日・月と京都行き。
俳句の勉強会は、なかなか興味深く、続く二次会は、なかなかハードであった。
祇園近くのカプセルホテルに泊まる。
よく眠れた。
翌日は、高速バスまでの時間を、京都散策。
祇園から八坂神社、岡崎公園、それからあとは、鴨川方面に下って、岸沿いに七条まで、そして京都駅へと2時間強の歩きだった。
岡崎公園の、有名な垂れ桜が、その周辺整備の結果、かなり酷い有様になっていることに驚いた。
前日、知り合って少し話をした俳句会を一人で運営しているおじいさんの紹介してくれた「枝垂れ桜」を見に、岡崎公園の奥の方まで歩いた。
一回り小さな垂れだったけれど、往年の枝垂れ桜の雰囲気を保っていた。
それにしても、祇園界隈は、あまりに整いすぎていて、ふと映画のオープンセットの中に入り込んでしまったかのような錯覚を持った。
「一力」の高塀の向こうで、鯉幟が無風状態のせいでだらりと垂れ下がって見えたのが、変に印象に残った。
鴨川の流れを見ながら、昔登ったこの流れの上流に並ぶ北山の山々の事を思ったら、妙に懐かしいような気分になった。
京都を離れて4年目で、どうやら京都が思いでの対象におさまったようである。