日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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【17年4月29日】
昨日の強制退去の執行は、やはり鳩には通用しなかったようだ。
今朝、様子を見に行くと、雌の鳩がちょこんと巣のあった場所にとまっている。
大きく手を叩いて見たりしたのだが、まったく意に介していない様子なので、仕方なく棒で下からつついたら、びっくりして飛んで行った。
しかし、しばらくすると道路の反対側の電線にとまって、ほうほうと鳴いている。
どうしたものかと考えたが、巣を作った場所が、もみじの木の幹が三ツ股に分かれているところで、巣を作るのに打ってつけの収まりの良い場所であることに気が付いた。
そこで、何でも良いと思ったのだが、レジ袋にペットボトルを2本入れて、脚立に乗っかり、三ツ股部分に丁度それがおさまるように位置を決めて、最後に袋の持ち手の部分を枝に結びつけて固定し、巣を作りにくいような状態にしておいた。
ほんの数日で、若葉が茂って周りから全く隠れたような状態になる場所でもあるので、営巣の環境には打ってつけの場所ではあろうけれど、実はこの周辺には蛇が生息していて、引っ越して間なしの頃、縁の下に蛇の脱いだ皮(俳句では「蛇の衣」などと表現したりもするのだが、そんなに優雅なものではない)を見つけたり、庭のキリシマツツジの錯綜した枝にからみつくようにして40センチほどの蛇が身を休めているところに、草取りをしていて偶然遭遇したりしたこともあって、かならずしも抱卵したり、雛を育てたりするのに好適な環境ともいえないのだ。
邪魔者を設置したせいか、どうやら鳩も諦めたような様子である。
その後、半日姿を見ない。
明日は、勉強会のために、1泊で京都行き。
おそらく二次会が夜遅くまで続くだろう事を見越して、日帰りを急遽変更して、宴会場の近くに宿を取る。
二段式のカプセルホテルの上段。
京都は観光シーズン真っ盛りで、しかもゴールデンウイークに突入したという状況なのに、安く宿が確保出来て幸運だった。
【17年4月28日】
京都でマンション暮らしをしていた最後の頃、昼間は留守になるので、いつの間にか数羽の鳩がやってきて、ベランダをすみかのようにして、自由にふるまい始めた。
その結果、ベランダが糞と抜けた羽根だらけになって、休みごとにブラシを使って、ベランダ掃除をするはめになってしまった。
鳩というのは、ずいぶん鈍感な生き物で、多少大声を出して追っぱらったりしても、全く応えない。
一旦逃げても、近くの電線や屋根にとまっていたりして、こちらの姿が見えなくなると、またすぐにやって来て、ベランダを徘徊したり、エアコンの室外機の下に潜り込んだり、その挙げ句、糞をところかまわずしたりする。
自分のところだけではなく、上下左右の部屋にも若干の迷惑をかけているような気配もあり、なんとかしなければと考えた。
そこで、思いついたのは、鳩の天敵である猛禽類の声を録音して、鳩がやって来たところをみすまして、その声をスピーカーで流すという方法だった。
ネット検索で、鷲や鷹の声を捜しては、録音しておき、休みの日に準備をして、鳩が集まった頃をねらって、その声を流した。
そのとたん、さすがに鳩もびっくりした様子で、一斉にベランダから飛び去っていった。
行方を確かめると、いつになく遠くの方まで逃げていった。
休みごとに声を流すことを繰り返した結果、ベランダの糞の量が明らかに減ったことを確認した。
その後、しばらくして、そのマンションを売却して、私は別の場所で仮暮らしを始めたので、その後のことはわからない。
鳩はもともと、崖のようなところに巣を作ったりするそうで、都市部においては、高層マンションがその崖にあたる印象を鳩に与えるらしい。
本日、裏庭の葉を茂らせ始めた紅葉の木に、番の土鳩が巣作りを始めていた。
紅葉の青い葉が、やたらに土の上に落ちているので、そのことに気が付いた。
気の毒だったけれど、追い払うことにした。
少し組み始めていた巣作りのための小枝も、棒を使って地面に落としておいた。
マンションでのことがあったので、かわいそうとは思いながらも、やむを得ないと考えた次第である。
いくら鈍感な鳩とはいえ、ここは巣作りには適さない、と考えたことだろうと思う。
【17年4月27日】
川柳同人誌『MANO(マーノ)』が20号をもって終刊する。
詩性川柳という、従来の川柳とは一線を画する自在で個性的な作品を毎号読ませていただいた。
とてもおもしろかったのに(おもしろいというだけでなく、どこかに毒やら真空やらを含んでいて、その非日常的なあるいは反日常的なひりっとした感触が、新鮮だった)、これでおしまいというのは、大変残念だ。
編集担当の樋口由紀子さん、佐藤みさ子さん、加藤久子さん、小池正博さん、(倉本朝世さん、そして石部明さん)ありがとうございました。
それにしても、こんな風に物事の終わりに、こんな風に立ち会うことがこの先もふえていくのだろうか、などと考えるとちょっと気が重い。
さっさと終焉を迎えて欲しいものも、もちろんあるのだけれど……。
【17年4月26日】
とりあえず、当面のXデイは、何事もなく経過したようだ。
大山鳴動して……、ということだったようだ。
かえって、国内の方がごたごたしたみたいだったけれど、「内憂外患」とはこういうことをいうのかもしれない。
終日、雨模様の一日。
「歩き」ができなかったので、もっぱら本を読んで過ごす。
いつもと変わりない一日だった。
昼過ぎには、少し昼寝もする。30分ほど寝ただけで、頭はすっきりとする。
図書館で一度借り、読み切れなくて返却して、再度借りた俳人永田耕衣の『耕衣自伝ーわが俳句人生ー(タイトルが、いかにも永田耕衣らしいタイトルであると思ったりする。きっと編集者が付けた書名だとは思うけれど)』を読み進めている。
個人的には、永田耕衣には7割方信用しかねるものを感じている。と同時に、残り3割については、大変興味深いものを感じている。
露骨な言い方をすれば、少々いかがわしい存在のように感じる部分があるということだ、特にその生禅坊主みたいな部分に関しては。
そして、にもかかわらず、その発言の中に時に鋭いものを感じ取って、考え込んでしまうということがある。
なかなかややこしく、厄介な存在であるということだ。
とりあえず、全部読んでみなければと思って、時間を取って読み進めている。
村上春樹の方はそろそろ佳境に入ってきたようだ。物語は、どんどん予想外の方向へと進んでいく。
それを、夜中の2時や3時、ときに4時くらいに読んでいるのは、少々妙な気分だ。
昼間の明るい時間帯に読もうという気分にならないというのも、変なことではあるけれど。
基本的に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』的世界に深く根付いた作品なのかな、などと思ってもいるのだが。
【17年4月24日】
本日も、終日良い天気だった。
青空に雲ひとつない、というわけではなかったけれど、その雲というのが、すべて飛行機雲で、青空に何本も平行に、あるいは交叉するように飛行機雲が浮かんでいるのは、ちょっと奇妙な光景だった。
夕方になって、地平線に雲が現れ、頭上の飛行機雲が幅広に変化していくのを見て、上空に水分が侵入してきているのを確認できた。
明日は、天気は下り坂で、午後からは雨になりそうな予報であった。
午前中をかけて、所属結社に送る原稿を書く。
1500字くらいの原稿だけれど、本の紹介的内容なので、あまり味気なくならないように注意はしたつもり。
午後になって、推敲をしては読み返す、という作業を数度繰り返してから、添付ファイルで送る。
3月に1本という割り当てなので、次の本の準備をしておいたほうが良いかもしれない。
合唱団から葉書が来る。
前回のレクイエムの反省会とクリスマスコンサートの企画会議を開くらしい。
ちょっと顔出ししてみても良いかもしれない、と思う。
ほぼ引き籠もりに近い状態なので、社会との繋がりも、それなりに必要であろうと思う。
明日は一日中、ニュースやワイドショーは五月蠅いことだろうなと思う。
なにやかやと言い募りつつも、何かあったらおしまいということなのだろうに。
【17年4月23日】
昨夜は月がなくて、春には珍しいくらいに空が澄んで星がきれいに見えた。
こんな夜に、流星群出現の時が重なれば、絶好の観察日になるのだけれど。
今日も朝から、文字通り雲一つ無い陽気だった。
風は少々強く、冷たくもあったけれど、異様なくらいの快晴状態だった。
午前中に、モニター番組を1本見て、そのままレポートを1300字くらいでまとめ、昼食を挟んで、次は所属結社に送る為の文章を予定の半分くらい書く。
なんとなく、今日はもうこれで十分と考えて、そのまま「歩き」に出る。
海まで歩き、突堤で魚釣りを30分くらい見物してきた。
北風が強くて、海はかなり波立っていた。
結局、釣りの方は釣果なしのようであった。
島根半島の方を眺めやると、白波たつ海原越しに、巨大なクルーズ船が境港に接岸していて、ちょっと異様な光景であった。
遠目にではあったけれど、目に入る海沿いのどの建物よりも、断然1艘の船の方が大きくて、白い船側が、巨大な壁のように眺めやられた。
2時間近く外出をして、帰宅。
空気が乾燥しているということもあって、少々疲れた。
【17年4月22日】
人の生き死にというのは、内心に相当の影響を及ぼすようだ。
昨夜は、十分眠ることができなかった。
かといって、その分、今日が眠いというわけではない。
内心のどこかの部分が、ずっと活性化状態にあるのかもしれない。
土曜日、午前中。
結社誌へ送る文章の準備として、本を1冊読み継いでいる。
前に読んだことがあるので、三読くらいになるのだが、本の紹介的な内容の文章になるので、しっかり読み直す必要がある。
午後、地元の句会へ。
ここ3回ほど、都合により参加できなかったので、本当に久しぶりの出席ということになる。
とはいえ、結果は相変わらずという状態ではあったけれど。
句会の最後に、代表選者の一人から、水鳥公園について、浮巣やら川鵜の被害やらの話があったので、現状を確認するつもりで、帰りに水鳥公園に立ち寄る。
浮巣は確認出来なかったが、鵜の被害は相当深刻であることがわかった。
水鳥公園と水路を隔てた小さな島が、鵜の糞害のためにかなり酷い状態に陥っているのが、遠目からもはっきり確認できた。
鵜は、食害もそうなのだが、巣を作ってそこでの大量の糞の問題が大きい。
営巣範囲を広げ、対岸の粟島神社の豊かな森などに巣を作り始めたら、一気に神社の杜が消滅する懼れもあるように思う。
帰宅。
文章を送っていた別の結社の方から、原稿の最終校正の確認FAXが入っていた。
2カ所問題の指摘があったので、修正メールを送っておく。
今日は一日、本当に良い天気だった。
夕方になっても、雲ひとつない空が頭上に広がっている。
【17年4月21日】
上田秋成『春雨物語』の中の「樊かい(漢字が出ない)」という作品が、とても面白い。
樊かい(漢字が出ない)は司馬遷『史記』の「鴻門の会」に登場する豪傑の名前だけれど、「春雨物語」の中では、人殺しで強力の盗賊が、自らをそのように名付けたところにその由来がある。
物語は、上下2編に分かれているのだが、本格的な悪人小説で、主人公が極悪人ではあるけれど、大変魅力的でもある人物で、面白く読める。
まだ、下巻の途中までなのだが、どうやらこの先にはさらなる新展開が待っていそうな感じもある。
上田秋成といえば、怪奇小説で有名だけれど、こんな作品も書けるのだ、と楽しみながら読み進めている。
読み進めているといえば、村上春樹はやっと150ページを超えたあたり、まだまだ物語は新たな謎を含みつつ、進んでいくようだ。
夜中の(夜明け前というのか)4時くらいに決まって目を覚まし、1時間くらい読んで、それから二度寝に入るという毎日を繰り返している。
そのせいか、午後早くの時間帯は大変眠い。
図書館で借りた本の1冊に、北杜夫の若い頃の詩作品を集めた詩集がある。
小説家、あるいはエッセイストとしてのドクトル・マンボウ(ずいぶんなつかしい名前である。ある年代以下の人は、この人誰?ということになるのだろうが)の印象とは、ずいぶん異なる。
作品自体が、どこかに既成の詩人達の影響がちらちら感じられて、その分も独立した詩集としての価値をやや落としているところもあるのだが、それにしてもこの繊細なローマン的感性の際だつような作品群には、ちょっと驚いた。
ただ、彼の処女小説のタイトルが『幽霊』だったように思うのだが、その繊細な小説世界に通じる詩作品に出会えたのは、一つの収穫だったように思う。
夕方から、中学時代の恩師の通夜に出る。
音楽の担当教師であるとともに、吹奏楽部の顧問の先生でもあり、一昨年は一緒に「第九」のステージに立つことが出来た、そんな方だった。
【17年4月19日】
夜中、強風と降雨。
朝になったら、陽光がさんさんと照り輝いているという状態。
夜の暴風状態は、なんだったのかと思う。
ただ、日はさすけれど、風は冷たい。
朝、モニターで、ラジオ番組を1本聴く。
懐かしい歌手の特集で、楽しみながら聴く。
昨夕の番組と合わせて、午前中の間に、レポートを2本書く。
全部で3200文字くらい。
提出条件は、600〜800字程度なので、ほぼ倍くらいの分量を書いて送ったことになる。
結構、頑張って書いたという実感はあったのだが、その分、書き終えたらぐったり疲れてしまった。
結果として、午後は夕方「歩き」に出かけたことを除き、うだうだと過ごすことになった。
「歩き」の途中、ふと思いついて、ペット霊園へ行ってみる。
こんな田舎の町ではあるが、私営墓地の一画にペット専用の墓所がある。
お墓の数は、30くらいあって、それぞれに飼い主の思いが反映したと思われる墓石やお供え物などが置かれてある。
最年長で15年くらいの寿命で死んだ犬、猫の墓がある。
人間の年齢で80歳くらいだろうか。
中には、写真が転写された墓石などもある。
ダックスフントらしい犬の正面像が墓石の左隅にうっすらと浮かんでいる。
1時間くらい歩いて、帰宅。
ちょっとお酒をのんで、今はまたぼっと過ごしている有様だ。
村上春樹、下巻に入る。
やっぱり、夜中に目を覚まして、読んでいる。
【17年4月16日】
酷い雨降りだった。
だったと過去形にするには、まだ少々気が早いかも知れないけれど。
それでも、午前中は、南よりの暖かいような冷たいような妙な風は吹いていたものの、天気はなんとか保ったのだが、午後からは一気に崩れた。
夕方、甥を市内まで迎えに行く用事があったのだけけれど、車移動の最中は、車外はざんざん降りだった。
道路の左端に深い水たまりが出来て、注意しながらも、時に派手に跳ねをあげながら走るはめになった。
コンビニの駐車場で30分くらい待つことになったけれど、やって来た甥に「遅い」というと、「会議が続いた」と少々疲れた口調だった。
山本地方創生大臣の発言には、呆れかえった。
「学芸員はガン」「ガンは一掃しなければ」とは。
「学芸員」に対する認識ゼロのその無知ぶりにもあきれかえったけれど、学芸員という一つの資格を有する個人を「ガン」にたとえ、それを「一掃」することで、その存在を全否定するような認識と発言の何様ぶりには呆れ果てた。
と同時に、今現在ガンを患い闘病を続けているひとたち、そしてガンから復帰したガン体験者を否定するような、心ない発言に対して、本当に腹が立った。
無知と非情の上に成り立つ発言であった。
(「ガンを一掃することがなぜ悪い」「現代医学はそのために多大な努力を払っているではないか」と異論を口にするひともいるかもしれないけれど、言うまでもなく山本大臣の発言は、「ガン」を彼にとって排除すべき人間に「たとえた」ことによって、「ガン」は「致命的な要因を持つ悪疾」であるとともに、そのような「致命的な問題を身に負った人間」をも意味することとなってしまい、その「一掃」とは、病気それ自体と、在る課題に対し重大な問題点を持つ人間と、さらに病気に身を犯された生命に重大な課題を抱え込む(あるいはかつてそうであった)人間のすべての否定に繋がる発言であったことになろう)。
大臣という責任ある立場の人間が、発言を訂正しさえすれば、それですべてはなかったことになるなどという甘い認識は、持って欲しくない。
そして、安倍晋三の、山本大臣の発言責任に対する「すでに発言を取り消した」は、あまりに軽すぎる答弁のようにも思われたものだ。
友愛や親子の情愛を持ち出すのに『教育勅語』を引き合いに出す、自らが排除したい人間の事を非難するのにわざわざ病気の「癌」を引き合いに出す。
その単純で悪意に満ちた発想は、いずれもかなり薄気味が悪い。
【17年4月16日】
暖かいを通り越して、暑い一日。
京都からこちらUターンしてきた知人と出会う。
帰郷後、すでに次の職を決め、2週間が経過。仕事は、以前よりは、余裕をもってこなしていけるらしい。
結構なことだと思う。
とりあえず、畑仕事をこなしてからということなので、11時過ぎに旧町内の喫茶店に出向く。
数年ぶりの再開となる。
白髪が増え、ちょっと太ったなという印象であった。
その後は、四方山話。
さらに喫茶店から食事のとれる店に移動して、昼食。
2時前には病院へ迎えにいかねばならないとのことで、その時間近くまで話し込む。
半月分くらいの分量で、会話を交わしたという印象。
ずいぶんと話が弾んだ。
次は、市内へ飲みに行こうと約束して、別れる。
丹後句会のことで、電話が入っていた。
こちらからかけ直す。
句会の在り方について、話を聞く。
今後、いろいろ考えなければならないだろう。
地元の俳句団体の役員の話が来る。
いずれはお手伝いすることになるだろうと思っていたので、了解する。
秋の俳句大会のお手伝い役が主な仕事のようだ。
印刷とか、受付、清記係などを担当することになるのだろう。
夕方まで、所属結社へ送る文章の準備の為に、茨木和生氏の評論集『西の季語物語』を読み直し始める。
大変面白い1冊である。
東アジア情勢は、「大山鳴動して……」という情勢なのだろうか。
ミサイルが1発飛んで、墜落という結果に終わったらしいけれど。
【17年4月15日】
取り立てて、何も起こらなかった一日。
マスコミやネット上の大騒ぎは、今日に関しては幸い空騒ぎに終わったようだ。
なにはともあれ、ということなのだろうか。
とはいえ、総理自らが、のどかに人を集めてお花見に興じる一日だったから、そんなものだったのだろう。
何か起こるとしたら、もっとさりげなく、突然にということなのかもしれない。
ネトウヨや一部専門家と称する人々にとっても、肩すかしの一日だったのかもしれない。
日米同盟のもと、日本は米国の庇護下にあるらしいけれど、その庇護が実効性を持ったことが、今までにあったのだろうかと改めて思う。
この先、どうなるかは、わからないけれども……。
同盟関係の孕むリスクというものが、今回日本人にも少しは実感されたのではないか。
こんなことで、直接の当事者でもないのに、自らの生命や財産を危機にさらすことは、ほんとうにアホみたいだ。
というより、否応なく当事者の立場に立たされてしまう、ということか。
【17年4月13日】
実家の犬、昼前に様子を見に行くと、足の腫れは昨日よりはマシになっているように見えた。
歩くことも、やや微妙にぎこちないところは残しているけれど、なんとか痛み無く移動はできるようだ。
食欲は、いつも通り旺盛のようだ。結構なことである。
今日も、終日快晴。
外を歩くと、暑いくらいだった。
「歩き」も一枚脱いで、腰に巻き付けて歩く。
干拓地のまだ、枯れの残るあたりを、遠くに大山を眺めやりながら歩く。
大山の斜面の残雪は、谷筋だけが細く残っているありさまだ。
棒のような姿で残っている雪を、「竿雪」と読んで、季語にしている。
残雪の傍題としてもないように思えるので、地元だけに通用する季語なのかもしれない。
それにしても、標高がさほど高くないせいか、好天に恵まれると、みるみる雪が融けていくのがわかる。
このペースだと、ゴールデンウイークまでには、頂稜の雪もすっかり消えてしまうかもしれない。
その大山に、地元出身の太い眉毛のタレント「いもと」が雪の残る中、登ってきたらしい。それが本日のテレビ番組で放映されるようだ。
テレビ番組の中とはいえ、世界のハードな登山を経験してきた「いもと」にとって、故郷の山の残雪期の登り心地はどんなものだったのだろうか、とちょっと思う。
今日も、まもなくモニター番組の視聴。本日は、ニュース番組。
そろそろ階下に降りて、メモをとる準備をしなければ。
東アジアの情勢は、緊迫の度合いを深めているらしいけれど、窓外には雲一つ無い夕景が広がっていたりする。
【17年4月12日】
今日は、実家の犬のことで、ばたばたした一日という印象だった。
狂犬病の予防注射の接種を受けるために、午前中に片道30分ほどかけて市外の行きつけの動物病院へ来るまで連れて行った。
その時も、右前足の足先の部分が赤くなっていて、事前に電話で診察を依頼してはあったのだが、担当の先生がうっかり忘れておられて注射等を終えてそのままになっていた。
ところが、帰宅後その部分が異様に腫れてきていて、痛みも伴うらしく、歩き方が変であったのが、腫れた部分を自分で舐めたせいで、皮膚がうすくなっていたのだろうか、出血してしまったらしい。
それも、歩くと血がカーペットにしたたり落ちるくらいの出血で、やむなく幼児用のくつしたで傷ついた部分を舐めないようにカバーしておいたら、今度はその靴下が広範囲に赤く染まるくらいに出血してしまったらしい。
このままで放置しておくわけにもいかず、夕方からの診察再開を待って、再び車で病院まで運ぶことになった。
右足の赤黒く染まったままの靴下が、痛々しかった。
再度診察を受けて、抗生物質の注射と薬をもらって帰宅。
犬は、ペットハウスの中に籠もったまま、ぐったりした様子だった。
幸い、出血は止まったようなので、今日はそのまま様子をみるということになる。
また出血があるようなら、明日も病院へつれていくことになるのかもしれない。
結構高齢のシーズ犬なので、少々気懸かりである。
【17年4月11日】
『神皇正統記』読む。
「神道」の本質は、濁りない邪なきこころの保持というところにあるらしいけれど、そのような心がどのような所からもたらせれるのか、その点が少々気になったりしたものだ。
純粋な心のありようを大切にするということ自体は、なんというのかずいぶん素朴な理想論のような印象が強くて、そのような心のありようをもたらす源泉のようなものが、日本流の神のありようなのだろうか、などと思ったものだった。
純粋な分だけ、それを突き詰めていったら、何もない無の世界に到達しそうなそんな感じも持ったりする。
空無がその本質みたいなところがあるのだろうか。
不思議な世界であり、たとえば「道教」が「教」と書いてあるにも関わらす、宗教的というよりは、自然の背後に「無」というありようを想定し、思想的に定位した教えのようであるのと似ていて、「道」とされているけれど、思想的に抽象化された世界ではなく、「無」を象徴化したみたいなどっちかというと宗教的な世界なのだろうかとも思う。
なかなか面白い。
午前中は、古典を読む時間みたいになってしまった。
今日も雨降りなので、「歩き」に出かけることもままならず、午後も本を読んで過ごす。
高橋源一郎の小説は読了。
詩集を1冊、読む。
その後、結社の主宰の著作の続きを読む。
夕方、20分ほど昼寝。
ずいぶんすっきりする。
夕食の準備だけしておいて、新年度最初のモニター関係の番組を1時間ほど見る。
2週間ほど間があいていたので、ちょっとモニター番組としてみる、という感覚が戻っていなかったかもしれない。
ついつい楽しんで見てしまう。
それにしてもここしばらくは、朝鮮情勢と浅田真生の引退の話で持ちきりになることだろうな、と思う。
間違っても、トランプ大統領の暴走だけは、なしにしてほしい。
最悪の場合、アメリカの戦争に日本が同盟国として巻き込まれることになるだろうから。
それは願い下げにしたい。
こんな事態を想定して、安保法制はあんなに強引に進められたのか、と改めて思う。
「安保法制」=「戦争法」という規定は、誤りとは言えないということが明確になってきたように思われる。
それにしても、こんなに「戦争」のことが、日常生活の一典型的なテレビ視聴の場面で、こんなにも生な話題として日本も含まれる形で行われるようになるとは。
まさに、戦後レジュームからの脱却=新たな戦前という状況ということに直結しているようだ。
【17年4月10日】
8日、9日と京都行き。
所属結社の5周年記念の祝宴、ならびに翌日は記念の句会へ参加。
あわせて、8日には京都の知人数人と飲み会を持つ。
遅い時間帯の高速バスで、京都まで。
それでも、祝宴には余裕を持って到着することが出来た。
バス移動は結構、楽ちんで、その上経済的でもある。
もっとも、8日の京都は雨の一日となって、キャリーバックを引っ張っての電車や町中移動は、少々鬱陶しかったけれど。
とはいえ、数ヶ月ぶりの京都は、桜満開の町であった。
宴会には、会員・ゲストを合わせて250名超の参加者となった。
某ホテルを会場にして、前半は結社の表彰式、後半は祝宴という内容だった。
宴の最初に紹介された今様と白拍子舞が、珍しくもあり、美しくもあった。
祝宴は、後半結構場が乱れてくるものなのに、最後まで落ち着いた雰囲気の中で交歓が持たれた。
雰囲気によっては、少し早めに会場を抜けて、知人達の待つ席へと移動と考えていたのだが、結局最後まで宴に参加して終わった。
約束より1時間半ほど遅れて、ホテルから15分ほどの居酒屋へと雨の中を向かう。
数年ぶりに出会う知人達と歓談する。
会った瞬間から、以前のようなつきあいの雰囲気になるのがありがたい。
ゆっくり飲んで、話をして、居酒屋を出て後は、夜桜の美しい木屋町筋を、客引きの声を受けながら四条まで歩く。
その日は、知人宅に泊めてもらう。
翌日は、11時から市内某会場での句会があるので、間に合うように少し早めに出る。
投句2句を考えつつ、電車、地下鉄を乗り継いで移動する。
バックは、京都駅のコインロッカーに預けてきたので、移動は楽だった。
120名ほどの参加者で、句会。
主宰の150句ほどの作品講評が、なかなか凄かった。
にぎやかに、楽しく、句会を味わうことが出来た。
句会終了後、京都駅へ移動し、バックを請け出して、いつのも中華料理店で早めの夕食をとって、6時過ぎの高速バスに乗る。
10時過ぎに米子に到着するまで、引き出物にもらった主宰の著書を興味深く読んだり、うつらうつらしたりしながら、車中を過ごす。
自宅に着いたのは、11時前。
すぐに床についたけれど、なんとなく神経が高ぶったようになっていて、しばらくは寝付かれなかった。
本日は、いつものような生活。
少々、疲れが残っているような気分だ。
楽しさの余韻ということなのだろうと思う。
【17年4月8日】
所属結社の5周年記念の祝宴参加で京都まで。
昼前の高速バスを使うので、ゆったり気分で準備が出来る。
祝宴後は、京都時代の知人数人と飲み会。
天気が保てばよいのだが。
明日は、記念の句会。
100人余の参加になるらしい。
終了後は、夕方の高速バスで帰宅。
3周年記念の時は、評論賞をいただいたけれど、今回は作品で佳作ということだった。
俳句研究の青木さんのブログ中の言葉が、どうしても思い出せなくて、意地になって思い出そうとして、とうとう思い出すことができた。
「メタ」という言葉だった。
現在、慰安婦少女像についての過激な書き込みで話題になっている(韓国では、本が出版中止になったらしいけれど)、筒井康隆の小説論の中心的な概念でもあり、筒井ファンのひとりとして、その言葉が頭からすっ飛んでしまっていたのは、少々ショックではあったけれど、その「メタ」という概念を俳句に取り込んで語っておられたのが、青木さんだった。
「写生」とは「メタ風景」を導き出す手法である、というような趣旨ではなかったかと思う。
「メタ風景」とは、「風景」それ自体ではなく、「風景」を「風景」として成り立たせる「風景の要素」を指しているように思う。
「写生」とは「風景」を「風景」として成り立たせる重要な要素、いわば「風景」の本質を把握する方法をさしているのではないか、ということになるように思われる。
とすれば、「写生」はそもそも「客観写生」などとも言われるけれど、その「客観」とは「主観」を排除したという意味合いよりも、「主観」の果てに把握された純「客観」的ななにものか(本質とか、真理というものと同質のなにか)を指している、というような解釈にも広げることが可能なのかもしれない、とも思われる。
間もなく出かけるのに、何をややこしいことを考えているのか、と思うのだけれども……。
青木さんの発想は、とても面白い。
【17年4月6日】
そういえば、村上春樹の新作、『ドリアングレイの肖像』的な匂い(グレイの肖像画が、グレイ自身の邪悪な精神に感応するように表情を変えていくという作であったと思うけれど。肖像画が、単なる装飾品のひとつとしての意味でなく、描かれた対象の本質的部分を写実的という手法でなく、反映していくみたいなところが)などもちょっとあったりして、あるいはいろいろな文学作品が上手に溶け込ませてあって、作品世界の一層の厚みや深さを演出しているのかもしれない、などとふと思ったりもしたものだ。
第1巻は、ベットに持ち込んで、目を覚ました真夜中とか、夜明け前に読むことが多くて、ある程度読んで、まだ外が暗いうちに二度寝してしまうので、目が覚めて後、読書自体が夢の一部みたいな奇妙な感覚をともなうものになっていて、それはそれで結構面白かった。
ただ、最後は、昼間のうちに一挙に読みすすみ、読み終えてしまったので、がつがつ読み終えてしまったようで、少々もったいないような気分になった。
ふと思い立って、北畠親房の『神皇正統記』を他の読書と平行して読み始めた。
この1冊も、岩城先生からいただいた本に含まれていたものだ。
最初の方は、記紀神話の世界を辿り直しているようで、少々退屈であった。
インドと中国の神話的世界との年代記的な重ね合わせの部分が、世界史(といっても神話なんだけれど)レベルの中に日本を位置づけようとするようで、結構面白かった。
たとえば、神話伝説上のこの皇統上の人物の事跡は、ちょうど釈迦誕生の頃にあたっている、みたいな考察などが。
今日は、終日雨。
借りていた本を返却に行き、別の本を5冊ほど借りてくる。
うち1冊は、高橋源一郎の作品。これが図書館においてある最後の1冊になるのではないか、と思う。
それにしても、高橋氏、裏ビデオ業界を舞台にしたお話が得意分野のひとつなのだろうか、と思ったりする。
それにしても、その膨大な情報量の処理能力の高さに感心する。
【17年4月5日】
朝が早くなり、寒さも落ち着いてくると、少しずつ起床の時間も早まってくる。
先日、吟行句会に行った際、吟行地の公園で見かけた植物を、てっきりヤマトタンポポ(という名前だったか、西洋タンポポみたいにやたらと丈の高いタンポポではないもの)かと思って、句にも作っていたものが、句会の場で、同じキク科の植物の「地縛り」という植物らしいということを知り、投句はしていなかったので、自分の無知さが曝されることなく、ラッキーなどと思ったことだった。
ところが、今日になって、実家の庭に一輪咲いているその花を見つけて、念のために改めてネットを使って検索してみたら、葉の形からどうやらあれはやはり「地縛り」ではなく「ヤマトタンポポ」らしいと了解できた。
吟行会では、そばには「シロハナタンポポ」なども数輪咲いていたりして(こちらは、偶然NHKの番組で後日名前を知ることができたのだが)、タンポポが群生するのに好適な環境だったのかもしれない、とも思った。
いずれにしても、「ヤマトタンポポ」の群生を確認できたし(「ヤマトタンポポ」は「西洋タンポポ」に圧されつつあるということを聞いていたので)、あらたに「地縛り」と「白花タンポポ」を知ることができて、ありがたかった。
吟行の良さは、実地において、こんな知識を直接(あるいは間接に)知ることが出来るということがある。
ずーっと以前、別の集まりによる吟行会において、田の畦に生えている鋭い刃先の植物を、同行した人から「これはキツネノカミソリだ」と一言教えられて、記憶力の乏しい私も一発で覚えて、以後忘れていないというようなこともある。
色々勉強になるな、ということを実感した。
さらに、今回の句会を通じて、「写生」と、岩城先生の言われる「俳句型紙」(説明はややこしいので略)の接点をかなり明確な形で確認できたことも収穫のひとつだった。
【17年4月4日】
ずいぶん暖かい。
米子も当季最高気温だったらしい。
さすがに20度まではいかなかったけれど、「歩き」の間に上着を1枚脱いで、腰に結びつけて歩く。
日差しも眩しくて、運転用のサングラスを歩きに転用して使うけれど、坊主頭にサングラスのおじさんというのは、ウオーキングをする人にしては、少々異様な姿だったかもしれない。
古典は、文芸評論を読了。上田秋成の『春雨物語』を読み始める。
村上春樹の最新小説の素材のひとつに、秋成の『春雨物語』の一話が生かされてあったりして、読んでみることにする。
村上春樹の方は、午後集中して読み、第一巻を読了する。
面白い。
中盤辺りから、意外な展開が生じ(とはいえ、過去の作品には羊男が普通に登場したりしていたので、さほど違和感はなかったが)。
さらにお話は、『華麗なるギャツビー』などを思わせる筋立てへとさらに物語世界を深化させていって、さて第二巻はどうなることだろうか、と思わせられる。
姪がはたして、第二巻を読み終わっているか、否かで続きが読めるかどうかが決まっていく。
『教育勅語』が注目されているらしい。
それにしても、『勅語』の価値を認めつつ、その『勅語』を教育の中心に据えようとした某校とその関係者を、政府・政権党をあげて、完膚無きまでに叩きつぶそうとしている姿は、かなり異様ではある。。
【17年4月3日】
今日は、「ホトトギス」系の人達を中心とする超結社的句会(ややこしそうな話ではあるけれど)。
私は、「ホトトギス」系の人間ではないけれど、参加しないかと誘われて、吟行を伴う句会ということに魅力を感じて、参加し始めた。
本体が島根県なので、遠距離の場合は参加できないけれど、今回は近場での開催だったので、参加することにした。
この時期、観桜で有名な公園を吟行場所にしての句会だった。
4月に入ったとはいえ、北風の強い日で、気温もさほど上がらず、肝心の桜はほんの一分咲き、二分咲きという状態であった。
とはいえ、先月末から「桜祭」と銘打って、沢山の露店なども公園内に開かれていて、春休み期間中ということもあって、子供連れの来園者がずいぶん多かった。
公園内の施設を借りて、合唱の練習をしたりしたこともあって、まるっきり知らないという場所ではなかったのだけれど、施設などを含めて、ずいぶん公園として整備されてあることが、今回分かった。
猿苑などがあることは話に聞いてはいたのだが、今回は園内を巡回する時間が結構あったので、その猿苑などもゆっくり見物することができた。
20頭くらいのニホンザルが飼育されていた。小猿も数頭その中には含まれていた。
金網越しに猿たちの様子を見学したけれど、結構見飽きなかった。
清潔に管理された環境で、動物臭などもあまり気にならなかった。
句会は、13時から15時前まで。
結構、効率的な進行だった。
7句中、2句が割と評価された。
ほぼ全没の地元句会だと、こんな風にはいかないのが、ちょっと微妙ではあった。
吟行句中心というのが、要素として大きいのだろう。
吟行とは、どれほどしっかりと深くものを見て詠うのか、ということが問われるものだ、ということを今回も感じさせられた。
どちらかというと机上派の私としては、このような機会は大変貴重ではあると思った。
句会を終えて、いつも通り、もう一度吟行地を一人で歩いてみて、出句の背景などを確認したりもした。
7月の句会では、世話役を担当することになった。
吟行地を考えなければならない。
【17年4月2日】
東日本大震災を念頭において書いた短編小説。
ちょっと載っけておこうと思う。
それにしても、世界レベルで幸福度が51番目、G7国の中で最低という現在の日本で、総務省かどこかの聞き取り調査で、65パーセントくらいの人が幸福を感じているという実体があると聞いて、日本人ってなんて慎ましい民族なのだろうか、と感慨にふけってしまったことだ。
個人的な思いとしては、直接的な不幸を感じていないという点では、幸福と言ってもよいのかな、という思いもあるけれど。
もちろん、色々なものに目をつぶって、の話ではあるけれど。
とはいえ、近年政府や中央省庁の出す統計について、どこまで信用してよいのか、という思いも同時にちらついてはいる。
まちがっても大本営発表みたいな性格を、それらの統計や広報が帯びないことを願う。
ちなみに、福島原発に関わる総額が、政府発表と民間機関の発表で3倍の違い(民間試算のほうが政府発表より3倍費用が多いということのようだ)がある、というのはどういうことなのだろうか……。
夕影町
(その1)
それは、大きな空間振動の後で起こり始めた現象だった。ごく局地的な現象、私の職場を含む半径2、3キロの範囲に生じた現象で、しかし局地的とはいえ、なんとも奇妙なものであった。奇妙といえば、きっかけとなった振動自体がおかしなものであった。確かに大きな波動にみまわれたにもかかわらず、建物にも人間にも全く被害が発生しなかったのだ。それこそ、コップひとつ割れることはなかった。その瞬間、その地域にいて、働いたり、家事にいそしんだり、勉学に励んだり、あるいは特になにもしていなかった人まで、すべての者が大きな揺らぎを確かに感じたにもかかわらずだ。
そして、その不思議な空間振動に襲われた日の夕方になって、その現象は生じたのだった。
それはまるで、現実世界全体にうっすらと1枚のベールを被せて、そのベールに誰かがどこかから特別な映写機でひとつの映像を映し出したかのようなものであった。それは、どこかの町の映像で、建物があり、通りがあり、そこに沢山の人がいて、働いたり、生活したりしている情景であった。
それが、今評判の3D映像のように立体的に、私たちの世界に重なるように出現したのだった。
ふと気が付いたら、自分の周囲を別の町の情景が取り巻いていた、というのが、初めてその現象に触れたときの私の実感だった。
仕事机に腰をかけ、本日分の仕事の最後の詰めを行っていた私が、奇妙な気配を感じて、パソコン画面から顔を上げた瞬間に、私の周りには薄墨色の配色で彩られたどこかの小さな事務所の室内が、現実のオフィースに二重撮しされるように広がっていたのだ。
そして私は、私の真向かいに、驚きの表情を浮かべて、私を見つめている、そちら側の人の視線と直面することとなった。
その人の下半身は、ちょうどそこにおかれた書類ボックスと重なって、ボックスが作った影のように見えた。
驚いた私は、相手を見つめたまま思わず座席から立ち上がっていた。
眼前に幽霊を見たような、そんな表情をその時の私は浮かべていたことだろう。私の周りでも、同じような反応が起こっていた。そしてそれは、こちらの側においても、むこうの側においても、同じようなものであったのだ。
そんな風にして、この奇妙な現象は始まった。
夕方、決まった時間にほんのしばらく現れる幻のような町、私たちはそれを「夕影町」と呼ぶようになった。
異変が起こった当初は、町にマスコミが取材やテレビ中継のために殺到したり、見物人が一気に集まり、中には私たちのオフィス内に入り込もうとする者まで現れたり、ということで大変な騒動となったものだった。
そして、それは「夕影町」の人々にしても似たような状況のようで、ある時はむこうのオフィースの入り口で、来訪者と事務室の人とが押し問答をしているらしい様子を目撃して、苦笑いがつい浮かんだこともある。
私の向かいの席(といっても、あちら側の)に座っている人も、入り口の騒ぎにちらりと見やりながら、困ったという表情を浮かべて、こちらに顔を向け、口元に微笑を浮かべたりもしたものだ。
向かいの席の人は、可愛らしい顔立ちの女性で、私とそんなに年が離れていない人のように見えた。
そして、毎日十数分のそんな時間と空間をともにしているうちに、私はどうやらその人に対して好意に似た感情を抱くようになっていたのだ。
(その2)
その時、彼女は自分の机で何かの書き物をしていたようだった。
その席は僕の席と向かい合うような位置にあって、二人の間は向こう側にある大きな書類ボックスで遮られたような形になっていたのだが、そのあたりがちょうど二つの世界の境界に位置しているらしく、ほぼ半透明の状態であったので互いの姿はそれを通して確認できたのだ。
その彼女がなにかの弾みで、手にした筆記用具のようなものを取り落としてしまったのだ。
それを見た僕は、反射的に自分の机の下に頭を突っ込んでいた。
もちろん、床に落ちた彼女の筆記用具を拾おうとしたのだ。
そして、それが不可能なことに気がついて、机の陰から顔を出したとき、おかしそうに微笑んでこちらを見ている彼女の姿と出会った。
彼女は、笑顔のまま小さく口を動かした。
もちろん何を言っているのか、その声は聞こえない。たとえ声が聞こえたとしても、その言葉の意味を僕は理解出来なかっただろう。
しかし、彼女のその表情から、彼女が僕に対して悪感情を抱いていない、ということは、何となく感じられたのだ。
僕も笑顔を返しながら、ふとあることを思いつき、それを実行してみようとその時思ったのだった。
「夕影町」とこちらの世界とがつながるのは、夕方といわれる時間帯のほんのしばらくの間だった。
そして、その時間は毎日ほぼ同じだったので、出現と消滅の時間の予想は確実に出来るのだった。
ふっと揺らぐように現れる「夕影町」は、その時間が来ると、ゆらりとゆらめくような瞬間とともに目の前から消えてしまうのだった。
そして、僕はその時間が来るまでに、あることを準備して、消えるタイミングを待ったのだった。ただ、僕がやろうとしていることには、一つ条件があった。
消える間際に、彼女が僕の方を見てくれている必要があるのだった。
彼女が僕を見てくれているその時、僕はそのたくらみを実行する必要がある。
しかし、それはどうしても今日というわけではない。
今日、そのタイミングが訪れなければ、明日改めて試みればよいのだ。
「夕影町」が、出現する限り、その機会は常にあるということではあるのだ。
そして、その時はやがて訪れた。
テレビの電波が不安定になって、画面が小さくさざ波だつように、「夕影町」がかすかに揺らめきをみせたとき、僕は用意していたものを両手で支えるようにして机の上に立てた。
それは、小さな一枚の紙で、マジックペンで、黒く太く文字が書き付けてあった。
「さようなら」。
そこには、平仮名でそう書いてあった。
彼女がこちらを、そしてその文字の書かれた一枚の紙を見るように、僕は心の中で念じた。
そして、幸運にも彼女は、仕事の顔を上げて一瞬こちらを見たのだった。
僕は、かかれた文字が彼女によく見えるように、右手で紙を少し持ち上げるようにして、残った左手を顔の横で小さく左右に振った。
ちょっと驚いたような彼女の表情が、世界が消える間際の大きな揺らぎの中に残った。果たして、彼女は僕のメッセージに気づいてくれたのだろうか。
実は、僕が彼女に対して行った行為は、「夕影町」に対する民間人の行為としては、その禁止事項に抵触する種類のものだった。
簡単に言えば、「夕影町」とこの世界との関係について、民間人の勝手な交流ないしはそれに類する行為は「厳に慎むべきこと」であり、その注意事項を含む通知文書が、部内にも回されていたのだった。
違反者に対する何かの罰則規定があるとまでは書かれていなかったように思うが、いずれにしても好ましくない行為ということにはなっていたのだ。
確かに、この世界とは違う風俗や習慣が支配するであろう「夕影町」であれば、たとえば僕のした行為、顔の横で手を左右に振るというしぐさは、僕にとっては「さようなら」というシグナルであっても、向こうの世界の彼女にとっては、もしかするととても侮辱的な仕草でさえある可能性がある。
こちらの思いとは別に、深く彼女を傷つけることになるかもしれない。
そんな慎重さが、例の通知の意図には込められていたのであろう。その点では、僕の行為は軽率といわれても仕方のないものであったかもしれない。
しかし、僕の中では、自分の意志をほんの少しでも彼女に伝えてみたいという思いが、あの時の彼女の微笑(あるいはこれも微笑めいたもの、ということになるのかもしれないけれど)によって一気に吹き出してしまったということではあるのだ。
ただ、僕の危惧は、幸い杞憂に終わったようだった。
翌日も、僕は「夕影町」が消える間際に同じように「さようなら」と書いた紙を示して、小さく手をふってみたのだが、その翌日、町が消える寸前に、彼女が僕と同じように小さな紙を机の上に立て、ぎこちなくではあったけれど、手を振ってくれたのだった。
紙には、いびつではあったが、確かに「さようなら」と読みとれる文字が書かれ、その下には丸や四角のような形で構成されたおそらく「夕影町」の文字と思われるものが書かれてあったのだ。
そこに書かれた文字が、どのような意味を表しているのか、初めて見たにもかかわらず、僕にはすぐに了解できたのだった。
(その3)
夕影町は、夕方のある時間帯だけ出現する幻の町である。
もちろん幻と言っても、それは僕たちが暮らすこの世界から眺めた時のことであって、町そのものは僕たちと同じこの世界のどこかか、あるいは僕たちが生きるこの世界とは別のどこかに実在するであろう町である。
あの夕方、僕たちの町を襲った不思議な「地震」とともに、突然僕の暮らす町の一画に重なるように出現した町である。
それはまるで、それまでつながらなかったチャンネルがなにかのきっかけで突然つながり、それまで映らなかったテレビの画面に見慣れぬ番組が映し出されるようなものであった。
夕影町そのものは、テレビ画面と同様、こちらからも、無論向こうからも物理的な干渉は出来なかったけれど、しかし最近のテレビがそうであるように、情報については双方向的な伝達は可能だった。
もちろん直接的な接触は不可能だったけれど、たとえば最近になって僕がそうしているように、紙に書き付けた文字によるごく簡単な意志の疎通などは出来るのだった。
ただ、それは個人が勝手に行うことは公式に禁止されていた行為ではあったのだけれど。
そして、意志疎通とは言ったものの、それは具体的には「こんにちは」「さようなら」というごく簡単な挨拶程度の内容にすぎなかったのだけれど。
僕が夕影町に暮らす一人の女の人に好意を持ったのは、毎日の町の出現と消失の際にお互いに挨拶を書き付けた小さな紙片を見せ合う中で僕の中に生まれたものなのか、あるいは好意を抱いた結果、僕は禁止された行為であるにもかかわらずそのようなことを始めたのか、それは自分でもわからない。
ちょうど、鶏が先か、卵が先かの命題の決着がつけかねるようなものである。
もちろん、自分が挨拶と思っている言葉と行為が、そのまま相手の言葉と行為の持つ意味合いと重なるものであるのか、実のところはわからない。
こちらからの一方的な思いこみに過ぎないものかもしれない。
それは、僕の好意それ自体がそのような性格のものであるのと同様である。
しかし、ごくわずかな言葉であっても、それよって「幻」の相手とつながっていると思えるのは、たしかに心を温めることではあったのだ。
それにしても、周りの人たちに気づかれないようにしながら、小さな紙片にかいた僕の文字はどのようなものとして相手に映っていることだろうか。
夕影町の人の書いた文字は、細い直線や曲線の組み合わせのように僕の目には映る。
その文字は、僕の使う文字とは全く異なったものだったし、少なくとも僕の暮らすこの世界には存在しない形態の文字であった。
僕は、ごく短時間の挨拶の間にその文字の一つ一つを記憶し、紙に再現することを試みた。それらの文字は、次のようなものであった。
最初のあいさつは、「こ」「ん」「に」「ち」「は」と書かれてあった。
別れの時は「さ」「よ」「う」「な」「ら」とあった。
僕にはそれらの文字の発音も実際の意味も皆目わからなかったけれど、状況的な判断から、それらを出会いと別れの挨拶の言葉と考えたのだった。
挨拶の次に、僕は自分の名前を伝えようとした。自分を指さしながら、名前を書いた紙片を相手に示したのだ。そして、それは挨拶の言葉を伝えるほどの時間を必要とはしなかった。
というより、ほとんど瞬時に彼女は僕の意図を察知したようで、別の紙片におそらく自分の名前であろう文字を書いて、僕に示した。そこには、このような文字が書き付けてあった。
「み」「つ」「子」。
彼女は、僕がそうしたように、自身を指さしながら、その紙片を示してみせたのだった。
確かに、それは彼女の名前だったのだろう。
全く世界は違うものの、自らを指し示す仕草の意味の共通性を感じて、僕は大きな喜びを感じていたのだった。
しかし、挨拶と名前の交換以上の意志の伝達は物理的に不可能であった。
夕影町が出現する時間がそもそもごく短時間であったし、さらにその限られた時間の中で、職場の同僚達に気づかれないようにして、より複雑な事柄を伝え合うことは無理なことだった。
それでも、挨拶に名前を添えるだけの毎日のたわいないとも思えるやりとりは、僕にとっては日々の喜びであった。
当たり前のことなのだけれど、こちらの世界に休日があるように、むこうの世界にも勤務の休みの日があるらしい。
それは、定期的に彼女の職場に、彼女も含め人の姿が全くみえない日があることから、そう判断出来た。
その休日のサイクルは、こちらのそれとはずれているらしく、夕方になってその休日に当たる日は、彼女の姿を見ないままに仕事を終えることになる。
物足りない思いのまま、やがて退勤時間が来て、机上の書類などを片付けながら、せめてこちらは休日出勤でもして、顔を合わせる機会を増やしてみようか、などとふと考える時もあった。
もちろんそんな不自然なことは、実行しなかったけれど。
(その4)
夕影町は、夕方のある時間帯だけ出現する幻の町である。
もちろん幻と言っても、それは僕たちが暮らすこの世界から眺めた時のことであって、町そのものは僕たちと同じこの世界のどこかか、あるいは僕たちが生きるこの世界とは別のどこかに実在するであろう町である。
その日、夕影町はあきらかな異変に襲われていた。
僕の仕事場とかさなっている「みつこ」さんの職場の事務室は、部屋全体を巨大な手で激しく揺さぶられたように、机の上に置かれてあっただろうものがすべて、なぎ払われたように床にばらまかれ、天井板の一部はそこにとりつけられてあった照明器具と一緒に、天井から剥ぎ取られて、床にばらばらの塊となって散乱していた。
いつもの時間帯に僕たちの前に突然に現れたその惨状に、僕たちは驚き、そして部屋を出て、外が広く見渡せる会議室へとてんでに移動して、外を眺めた。
僕たちの町と重なるように広がっている夕影町は、多くの建物が倒壊しているようで、奇妙に平べったく見えた。
あちらこちらで、火災が発生しているらしく、瓦礫となった町からちらちらと紅い炎が揺らめき、どす黒い煙が幾筋も空に立ちのぼり、町の外郭がそうであるように、空の途中から霧が薄れるように虚空へと消えていた。
建物の残骸がこぼれ落ちるように広がっている道路のあちらこちらに、ふらふらと歩いて行く人の姿が見てとれた。
その覚束ない足どりから、怪我をしているらしいことが伺えた。
そんな人を横で支えながら一緒に歩いて行く人の姿も眺められた。
なにか巨大な災害が夕影町を襲ったことは確かだった。
「みつこ」さんはどうしたのか、そんな町と人の様子から目を離せないような思いの中で、僕はそう思い当たり、大急ぎで仕事部屋へと引き返した。
事務室の中には人の姿はなく、うち重なった残骸の下に人が倒れている様子もなかった。
幸い皆無事に逃げ出すことが出来たようだった。
ほっとして、僕は自分の椅子に身を投げ出すように腰を下ろした。
その時だった。
半開きになっていた事務室のドアから、人影が走り込んできたのだった。
それは、「みつこ」さんだった。
「みつこ」さんは、一瞬僕の方を見たようだった。
いや、そのように僕が感じただけなのかもしれない。
「みつこ」さんは、床にうち重なっている雑然としたものを踏みつけるようにして、部屋の奥の方に走って行った。
そこには、ある機械が据え付けられてあった。
機械本体は、壁に固定されているようで、多少のことがあっても、床へ転がり落ちて破損はしないようにしつらえられてあるようだった。「みつこ」さんは、その機械のところに大急ぎで行き、その機械の一部を手にした。機械本体についている小さなランプがその瞬間、ぽつりと赤い光を放った。
こんなひどい破壊の中でも、その機械はまだ生きているらしかった。
そして、「みつこ」さんが手にとったものが、一体何なのか、僕にもおおよその想像はついた。形はずいぶん違うけれども、こちらにも似たような装置はあるからだ。
それは、おそらく放送施設だった。
そして、彼女が手に取ったのは、拡声器へとつながっているマイクであろうと、僕は思った。「みつこ」さんは、その機械を自分の口元に持っていった。
そして、その円筒部の尖端に向け、何か叫び始めた。直接声は聞こえないけれど、その大きく開けられた口から、何かを叫んでいるのが見て取れたのだった。
全身に力を込めて、「みつこ」さんは、そのマイクに向かって叫んでいた。
おそらく、同じ言葉をなんどもなんども繰り返していたのだと思う。
僕は、そんな「みつこ」さんの姿を見ながら、そんな事をしている間に、はやくこの場を立ち去ったほうが良いと思った。
この事務所内におそらく「みつこ」さん以外の誰もいないということは、ここが必ずしも安全な場所ではないということを意味しているだろうからだ。
『早く、逃げろ』と僕は思った。『そこにいては行けない』と。
「みつこ」さんは、依然としてマイクに向かって叫び続け、立ち去る様子が見えない。
僕はひどく嫌な予感がして、とうとう本来取るべきではない行動に出てしまった。
僕は、自分の席を離れ、「みつこ」さんの方に歩いて行き、そして彼女の横に立って、早く逃げるように呼びかけてしまったのだ。
もちろん僕の声は、「みつこ」さんには届かない。しかし、僕の姿は見えているはずだ。僕の「逃げろ」という叫びが「みつこ」さんに届かないはずはないと思ったのだ。
「みつこ」さんは、そばに来た僕に気づいたようだった。
マイクを手にしたまま、僕のほうに顔を向けた。
その時、なにか巨大なものが事務室の開け放されたドアから事務室の中になだれ込んできたようだった。
(その5)
夕影町は、夕方のある時間帯だけ出現する幻の町である。
もちろん幻と言っても、それは僕たちが暮らすこの世界から眺めた時のことであって、町そのものは僕たちと同じこの世界のどこかか、あるいは僕たちが生きるこの世界とは別のどこかに実在するであろう町である。
あの日以来、僕たちは臨時的措置として、夕影町出現地域からの一時的退去を命じられた。
夕影町出現地域、直径4キロほどの円で囲まれる範囲に住居を持ちそこで生活する住民は、その周辺に用意された臨時の避難所で過ごすことになり、そこに職場を持つ人たちは当面企業活動を全面的に制限されざるを得なくなった。
夕影町を横切るように走る道路は出現時間の前後1時間の通行を封鎖され、鉄道についてはその時間帯の電車は運休することとなった。
夕影町出現地域は、今度は正式に政府の管理地域として、関係者以外の立ち入りを禁じられることとなったのだ。
夕影町、あるいは夕影町を含む向こうの世界で一体何が起こったのか、それについての政府 からの正式な発表はごく曖昧なものであった。
夕影町を含む広範囲な世界にごく限られた時間内で巨大な災害が発生し、しかも最初の災害に続き、短時間にそれ以上の巨大な災害が連続して、結果として夕影町は壊滅的な被害を被ったと推測されるということであった。
僕たちがまだかつて一度も経験したことがないような大きな災禍に夕影町は見舞われたということであった
。政府の発表が曖昧な分、僕たちの間に様々な憶測が広まった。中には、僕たちの世界には存在しないような強力な破壊兵器の対象となったのではないか、あるいは、ちょうど模型の町並みを高い位置から地面に落とした時のように、大地そのものに何か強烈な力が加わった結果発生した災害ではないか、というような荒唐無稽な説までまことしやかに口にされたりもした。
それにしても、あの日、あの町が消える直前に、「みつこ」さんのいる事務室に、開いたドアから流れ込んできたもの。
あれは確かに水のような液体であった。
それが、ドアの外から室内に向けて高出力のポンプとホースで放出されたように、一気に室内に流れ込んできたのだった。
それは事務室の中をぐるぐるかき回すようにしながらみるみる満たし、部屋の一番奥まったあたりにいた「みつこ」さんを足元から呑み込み始めたのだった。
マイクらしきものを手にしたまま、「みつこ」さんはドアの方をみつめ、すでに腰あたりまでやってきたそれを見、そして「みつこ」さんと同じように腹のあたりまで幻のそれに浸りながら、なすすべを持たず突っ立っている僕の方にその目を向けた。
すでにそれは、二人の胸のあたりにまで達していた。
僕は、思わず「みつこ」さんの方に手を差し出した。
「みつこ」さんもマイクを握ったまま、その手を僕の方に伸ばした。
僕が、「みつこ」さんのその腕を掴もうとした時、不意に「みつこ」さんの姿も、かき回されたような事務室も、その輪郭を失ってぼんやりと霞み始めた。
そして、次の瞬間、夕影町は僕たちの世界から消えてしまったのだった。
消失の時間が来たのだ。
僕は、「みつこ」さんが消えた空間を見つめながら、呆然とその場に立ち尽くした。
あの日以来、僕は夕影町の事を知らない。
ニュースも、政府の公式発表以来、夕影町に関する報道を一切流さなくなった。
夕影町出現地域に居住する人たちは、避難所での生活をしばらく続けた後、別に用意された居住場所へと移動させられた。
出現地域内での企業活動は著しく規制を受けることとなった。
夕影町が出現するはずの時刻の二時間前で、一切の企業活動は停止させられ、速やかに活動を終え、退去。企業活動は以後翌朝まで禁止されることとなった。
通行規制と、間引き運転はそのまましばらく継続され、なにより夕影町出現地域への関係者以外の立ち入りは一切禁じられた。
ほどなく、僕のつとめる会社は、その社屋を別の地域へと移した。
他の企業も、政府の指導と援助のもと、次々と出現地域から立ち退いていった。
夕影町出現地域は、内部の無人化と同時進行的に周囲に高い壁が作られ始め、やがて周りからその内側の様子が望めなくなった。
道路と鉄道は完全に封鎖され、夕影町を囲む外壁のさらにその外側に大きく迂回路が建設され始めた。
僕の新しい職場の窓から、遠くに出現地域を囲む壁が眺められる。
町並みの向こうの灰色の壁は、ひどく現実感を喪失しているように見える。あの壁の向こうで、夕方のあの時刻になると夕影町が今でもその姿を現しているのだろうか、と思う。
それは、遠望する壁以上に現実味の希薄なもののように今の僕には思われる。
ただ、あの日、夕影町が消える間際、なすすべもなく見送った「みつこ」さんの姿だけは、強烈な現実感をもって、僕の中に焼き付けられているのだった。
(「夕影町」終わり)
【17年4月1日】
四月に入った。
天気はよいけれど、風が強い。
今日は土曜日なので、フリーに過ごす一日ということで、少し遠くまで「歩き」に出かける。
残雪の大山が、時折雲に隠れたりもしながら、望見することが出来る。
白木蓮の花が盛りを迎えたようで、歩いている途中、町のあちらこちらで、白い大振りの花を見かける。
白木蓮の花は本当に傷みやすいので、美しく見ることが出来るのはほんの数日ほどの期間のようだ。
限られた時間の中で、せいぜい楽しみたいと思う。
午後は、村上春樹の新作を時間をとってまとめて読もうかと思う。
毎日、明け方近く、目を覚ましたときに1時間ずつくらい読んではいるのだが、上巻の半分くらいまできて、お話が本格的に動き始めたようだ。
4月1日といえば、「エイプリルフール」の日だけれど、いまさら嘘を楽しまなくても、お上を筆頭に、様々な嘘やら偽りやらごまかしやらが盛りだくさん状態のようなので、この際逆にひとつくらい真実を明かしてみてほしいものだと思う。
それにしても、教科書検定で「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という観点から、「パン屋」を「和菓子屋」に書き直させたという嘘みたいな本当の話があるけれど、そうか、「パン屋」は「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」という姿勢に反する職業なのかと、その先鋭的すぎる解釈につくづく感心した。
世が世なら、「パン屋」は非国民の代表みたいな扱いをうける職業だったのかもしれない……(実際、戦時中改名を迫られたパン屋さんの例があったらしいけれど)。
おそらく「過剰な忖度」ってのは、こんなことも指すのじゃないのかな、などと思ってしまった。
検定で修正意見を附した担当官の顔を見てみたいものだ。