日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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【17年3月31日】
本日で三月も終わり。
三月は「去る月」というけれど、確かにそんな実感がある。
明日から新年度に入る。とはいえ、そのスタートが土日なので、少々気合い抜けがするのかもしれない。
そういえば、本日は世間ではプレミアム・フライデーと呼ばれる日らしい。
なにがプレミアムなのか、よく分からないけれど、そんな日だということだ。
単純な意味で、自分には全く無関係だと思ってしまう。
いつもと変わらない週末であった。
とはいえ、注文していたスチール製の本棚が到着した。
早速、組み立てて書庫に据え付ける。なつかしい色と形の本棚であった。
岩城先生からいただいた本を並べる。ほぼ満杯になる。
古典関係と日本思想史全集などをいただいたと思っていたのだが、中に太宰治全集が一部混じっていることに、本を並べながら気が付いた。
太宰は、高校時代文庫本を中心にずいぶん読んだ作家だったので、懐かしかった。
昨夜は、実家のピアノ教室の発表会。
市内の小ホールを借りて、2時間弱の演奏会を開く。
生徒さんは、幼稚園から中学生まで。
直接の教え子だった人も一人、手助けを兼ねて出演された。甥っ子のトロンボーン演奏もあった。
なかなか楽しい発表会だった。
明日から、四月。
感覚的には、新年度がその年の始まり、みたいな感覚はまだどこかに残っているらしい。
新年度に入り、同窓生が一人、Uターンして帰ってきた。
早速、連絡を取り合う。
こちらでの仕事が決まっているとのことで、忙しい生活が始まるらしい。
【17年3月29日】
地元の結社誌の投句締め切りが月末なので、午前中のうちに急いで10句作って投函する。
近所の郵便ポストは、午後1時に郵便物を回収に来るので、ぎりぎり明日には間に合うと思う。
『十八史略』、いわゆる「三国志」にあたる部分をごく簡潔に紹介している。
とはいえ、やはり諸葛孔明はなかなか格好が良い。
ただ、個人的には彼が最後に対決した司馬イ(漢字が出ない)という人物が、大変興味深かった。
結局彼は、孔明との直接的な戦闘を避け続けた魏の国の武将で、身内から「臆病者と笑われてよいのか」と糾弾され(とはいえ、その非難に応えるように別の武将を戦いに派遣したら、みごとに大敗してしまい、ほら見ろ、やっぱ勝てないだろうという結果に終わったけれど)、あるいは孔明から、男らしくないという皮肉の意味を込めて女物の衣装を贈られたりもしたけれど、一切無視して、ひたすら守りに徹した人物である。表面的には、臆病で無能な武将のようでありながら、孔明の日々の生活から彼の発病とその死を予想したり(これは見事に的中するのだけれど)、さらに孔明がまとめた兵法に基づく8つの陣形について、その意味するところをきちんと理解して、孔明の天才的な戦略家としての能力に賞賛の思いを語ったりもする。
ある意味、偉大なる凡人とでも呼びうるような、そんな人物ではないか、などと勝手に想像したりもしたものだ。
ちょうど、映画『アマデウス』で描かれたような天才モーツアルトに対するサリエリみたいな関係ででもあろうか、などとも二人のありようを思ったりもした。
天賦の才はないけれど、その才を理解するほどの能力の高さは身につけている平凡人(天才に対する)。
しかも、司馬イはそんな自身の身の処し方をちゃんとわきまえている、そんな叡智の持ち主、というところが、孔明とは違う彼の魅力なのかもしれない、などと思う。
『十八史略』の上巻はまもなく終わるけれど、ずっと読み通してきて、大変面白い。
岩城先生からいただいた本を収めるために、本箱をひとつ注文する。
いつもはアマゾンを利用するのだけれど、今回の品物がカード決済しか駄目、という条件なので(なんで、そんな不便な条件を付けたのだろうか)、しかたなく楽天の方から注文する。
こちらは振り込みも可能なので、利用することにした。
書庫の全壁面はすでに埋まっているので、今度は壁に平行に本箱を設置することにした。机なども置いてあるので、中での移動が若干不自由になりそうだ。
【17年3月26日】
昨日は、丹後「すき句会」。
2度目の車による丹後行き。片道200キロ、4時間足らずの走行とはいえ、普段は買い物の20分程度しか車を運転していない者にとっては、ちょっとした冒険みたいなところがある。
行路は、きれぎれに自動車専用道があって、下道と繋げて走ることができるので、快適だったり、のんびりだったり、変化に富んだものになった。
終日、良い天気だったことも幸いした。
山の中を通るときは、周囲に雪がまだ残っていたので、ノーマルタイヤに履きかえたばかりだったので、ちょっと心配なところもあったけれど、さすがに路上には一片の雪も残ってはいなかった。
いつもは、岩城先生が待っておられる食堂へも先に着いて、マスターと少し雑談する余裕もあった。
句会は、参加人数が少なくて、その分、普段より出句数が増えて、ひとり10句前後、その場で作ったものなども含めて出すことになった。
選もいつもの7句選から10句選にと増やされたけれど、今回予選にとった句が多くて、10句に絞り込むもがなかなか大変だった。
披講後の話し合いについても、かなりつっこんだ話が出てきて、そちらの方も面白かった。
4時半前に句会は終了。
岩城先生からいただいた段ボール3箱の書籍を車の後ろに積んで、一路帰宅の途につく。
西に向かって帰るので、夕方の西日が強烈に眩しかった。
幸い、その点は予想していて、運転用のサングラスを用意しておいたのが良かった。
夕景の山や海の情景は、ずいぶんきれいだった(帰りは、ちょっと風景の方に目を向ける余裕があったみたいだ)。
カーナビの帰着予想時間通りに帰宅。
さすがに疲れて、ワインをちょっとだけ飲んで就寝。
朝、4時過ぎまで眠り、しばらくテレビを見てから、二度寝。
6時過ぎに再び目を覚ます。
日曜日。
ぼっと朝を過ごす。
本を返却するために市内へ車で向かう。
しばらく、車の運転は満腹かな、と思いつつ、市立図書館へ。
あらたに、詩集やらエッセイやら俳句関係のほんやら5、6冊を借りて戻る。
午後は、そのうちの1冊を読んで過ごす。
松井牧歌著『寺山修司の「牧羊神」時代』という本。
直接は何の共通点もないのに、自分自身の高校から大学時代のことをちょっと思い出して、なんとなく懐かしいような不思議な気分になる。
【17年3月23日】
坪内稔典の『モーロク俳句ますます盛ん』を読んでいる。
坪内氏といえば、「三月の甘納豆のうふふふ」という俳句で有名な人物で、この句のもたらす印象から、ずいぶん軽い、やや軽薄派の俳人みたいなイメージがあるように思うけれど、実体はずいぶん違うということを改めて思う。
とはいえ、この本のタイトル自体が、そのケーハクなネンテン氏というイメージで付けられた命名のようで、編集部が付けたのか、本人が付けたのかは判然としないけれど、もう少しマシなタイトルを付ければ良いのにと思ってしまう。
本文の内容は、俳句研究者としての豊富な知識と見識に裏打ちされたずいぶんかっちりとした俳句評論で、いろいろ考えさせられた。
まだ、半分くらいしか読み終えていないので、このあともしかすると「軽薄派のネンテン氏」的な内容が盛り込まれるのかもしれないけれど、さてどうなることだろうか。
それにしても、桑原武夫の俳句第二芸術論について、当時の有力な作家達の批評の限界に触れつつ、桑原氏の提起した芸術としての(文学としてのという方がピンとくるけれど)俳句について、真剣に考えてみる必要を説いていると思われる部分について、大変興味をひかれた。
限界という点について、俳句を俳壇・結社との関連の中からしかとらえきれていない部分があるのではないか、ということが、坪内氏の問題提起のように思われた。
俳句を表現史的な視点で見直すところに、桑原氏に対する真の意味での反論・批判の起点があるのではないか、ということのようにも思われた。
表現と言う点から文芸としての俳句を見直す、ということは、坪内氏の俳句自体の本質的な性格の部分にも関わっていく問題のようにも思われる。
その典型例のひとつが、先に紹介した「甘納豆」の句だったりするかもしれないのだ。
坪内稔典氏もいずれ俳句の勉強会で取り上げられる人物の一人であったようにも思っているので、今回のこの評論集はおもしろい材料を提供してくれる1冊になるかもしれないと思う。
【17年3月22日】
終日良い天気だったけれど、風はけっこう寒い。
夕方まで読書していて、一日まるで身体を動かしていなかったので、「歩き」に出る。
特にコースも決めないで歩いていると、なんと現在日本に3台しかない(これは後で聞いたことではあるが)ドローンの飛行練習の場に行き会った。
某書店所有のドローンということのようで、社屋に隣り合う広い駐車場を使って、若い社員の人が操縦の練習を行っていた。
同僚らしいひとと二人並んで、ドローンを飛ばしている。
6枚プロペラの付いた機種で、下部にジャイロで水平を保つ仕様のカメラが取り付けられたものだった。
端から見ている限り、操縦自体はさほど複雑な印象を持たなかった。
ゲーム機でも操作するような簡便さで、2本のスティックを器用に操作して、ドローンを空に浮かせていた。
手元の操縦機にカメラに連動するカラー画面が付いていて、背後から覗くようにして見せてもらうと、ドローンから見おろした駐車場の全景がきれいに映しだされてあった。
少しお話を聞いたりしたのだが、このタイプのドローンは6枚のプロペラのうち、3枚までが停止しても大丈夫とのことだった。
ちょっと意地悪い質問をしてみて、片面3枚が一度に停止した場合はどうなるのか、と尋ねてみると、本体が回転しつつ、空中に静止した状態になるとのことだった。
なるほど、と思う。
珍しいものに行き会った「歩き」だった。
ちょっと集中して、高橋源一郎の『銀河鉄道の彼方に』を読み終わる。
360ページあまりの結構分厚い本で、少しずつ読んでいたのだが、それでは物足りなく、午後を使って残りページを一気に読み終えてしまう。
SF小説の体裁で、いわゆる夢オチ趣向とも言えるのかもしれないけれど、テーマはとても哲学的で、同時に作者のストーリーテラーとしての力量が発揮されていて、とても面白かった。
今週は、良い天気が続きそうだ。
週末の丹後行きは、車検を終えたばかりの車で、長距離ドライブをしてみようかとも思う。
【17年3月19日】
いつもの「歩き」。今日は少し足を伸ばして、農業用水路沿いに歩く。
ふと気が付くと、用水路の側壁と舗道の間の、継ぎ目みたいなところに、一列に土筆がはえていた。
一列のというよりは、その分しかコンクリートとコンクリートの間に隙間がないので、結果として1列状態になったのだろう。
写真でははっきりとは見えないと思うけれど、側壁の立ち上がった部分に、なにかがひょろひよろと見えているのが、当の土筆である。
こんな状態で、延々四、五百メートルくらい土筆の列が続いている。
土筆は胞子と地下茎の両方で繁殖するらしいから、まず胞子が狭い隙間(それも土ではなく、周辺の畑地から飛んできた砂)に落ちて繁殖を始め、あとは地下茎で横へ横へと延びていったのだろうか、と思う。
土筆は、地下茎では繁殖しにくいということもあるらしく、主に胞子による増殖なのかもわからない。
いずれにしても、歩きながら横を見ると、延々と土筆が一列に生えている様子は、少々滑稽な感じがする。
今日は、終日春らしい気持ちの良い日和だった。
のどかな気分で一日を過ごすことができた。
【17年3月17日】
今日も、一日良い天気だった。
住宅地の周りでは、本格的な春耕にとりかかる農家の人達の姿が、目につき始める。
「歩き」の途中で、一休みしておられる葱農家の方と少し話をしたりもする。
過日の大雪にともなう雪害はなんとか切り抜けられたらしいけれど、倒れかかった葱を保護するために、高畝の高さを一層高いものに盛り直して、倒れるのを支えたとのことだった。
ずいぶんな作業だったろうと思われた。
葱栽培は、本当に手がかかって難しいものだと、相当高齢のその方は、淡々とした口調で話しておられた。
いつも行く大型スーパーに地元産野菜を卸しておられる農家の方と、いつだったか買い物の途中で話をした時(出しておられたサツマイモを回収して帰るのだが、よければ少し安くしますよ、というのが話のとっかかりだったけれど)に、自分は他の野菜は作るけれど、葱だけは難しくて作らないと言っておられたことなども、思い出したりしていた。
しばらく前に、「歩き」の際に使っていた万歩計の調子がおかしくなり(単に、電池切れなのかもしれないけれど)、どうしようかと思っていたのだが、単純に自分で歩数を数えるということをやり始めたら、なんとなくその方が良いように思われてきた。
使っている万歩計が、安価なもので、あまり精密な動きをしないので、速歩で歩くと、きちんとカウントを取らないということがあったのだが、自分で数え始めたら、好きな速さで歩くことができ、その分強弱を含めて「歩き」に変化を与えることができて、これが結構良い。
その上に、歩いている実感みたいなものが、、万歩計に頼っていたときにくらべて強まったりして、各コースについて、少しずつ歩数確認が進むにつれて、万歩計が必要ないという状態になってきた。
ここから、次のそこまでざっくりとではあるが歩数が何歩ということが分かるので、一度カウントをしておけば、あとは歩数の合計で、何歩あるいたかが計算できることになる。
近辺の道という道は一通り歩いてはいるのだが、いっそ各コース毎に細かく歩数確認をして、それを地図の中に書き込んでおこうかと、ちょっと伊能忠敬みたいなこと(全然違うけれど)まで考えている。
なかなか面白い。
【17年3月16日】
今日は、車検の日。9時過ぎに、車を取りにきてもらう。
車を購入して、もう3年がたつのかと思う。それは、郷里に帰ってきてから3年が経過したということでもある。
それにしても、ほとんど遠出することがないので、走行距離はうんと少ない。
遠出といえば、3年間で京都に2回、丹後に1回行ったくらいだろうか。
岩城先生からいただいた本が段ボールに4つ分くらい、丹後のお宅に置かせていただいたままになっているので、もっと昼間の時間帯が長くなった頃に、本の運搬を兼ねて、丹後へ車で行きたいものだと思う。
あまり長距離を運転しないことについて、何か問題が生じるだろうか、と車を取りに来られたお店の方に尋ねてみたら、バッテリーの消耗が早くなるということを言われた。
運転距離が短いと、バッテリーが充電するより消費する割合が高くなって、結果としてバッテリーの消耗を進めてしまうらしい。
なるほど、と思う。
代車を借りて、市内まで出かける。
自分の車より3ランクくらい上の車で、運転していてもなかなか気分が良い。
図書館で、本の返却と、新たに5冊ほど借りる。
姪から、村上春樹の新作の上巻を借りたけれど、こちらは読み始めるのにまだ少しかかりそうな気がする。
とはいえ、最初のほうだけ、ちょっと読んでみる。
確かに、村上春樹の小説だ、と思う。
面白そうである。
午前中は、曇り時々雨。午後からは、天気は回復する。
天気予報はここしばらくは雨はなさそうだ。
天気の良い分、夜は寒い。
まだしばらくは、湯たんぽのお世話になりそうだ。
湯たんぽのほわっとした暖かさは、心地よい。
床暖房なども、電熱によるものより、お湯による暖房のほうが、身体に優しくて、気持ちが良いのではないか、などと想像してみる。
大阪の小学校問題は、混沌状態を呈しているみたいだ。
どうなることだろうか……。
【17年3月14日】
春寒料峭というけれど、本日は少々寒い。
寒気が入り込んできているらしく、晴れたり、急に雨が降り出したりと、冬の初めに近い空模様となった。
明日は、山沿いでは雪になるらしい。
筒井康隆に『残像に口紅を』という長編小説がある。
お話としても面白いのだけれど、なによりこの小説には、ほとんど奇想天外という仕掛けがほどこしてある。
それは、言葉が少しずつ消滅していくという趣向だ。
言葉といっても、単語というわけではなく、五十音のいくつかが、話の進行と共に数語ずつ消えていくというものだ。
音が消えれば、当然その集合である単語も使えなくなり、文章表現が極端に制限を受けていくということになる。
しかも、最後はすべての音が消滅し、小説も終わりを告げるという結末となる。
ワープロのキー(ローマ字入力でなく、平仮名入力だったのだろうけれど)を使えないようにして、小説を書き進めていったらしい。
言葉の芸術である小説が、言葉を失っていく中で成立するかどうか、という野心的なあほらしくもある果敢な挑戦だった。
書き終えて、筒井氏の胃袋に数個穴があいたとか、あかなかったとかいうけれど。
高橋源一郎の『ミヤザワケンジ・グレーティストヒッツ』を読んでいたら、筒井の作品に肩を並べる(とまではいかないけれど)ほどの奇想の作品にであった。
「ガドルフの百合」という作品だった。
筒井の作品では五十音が消滅していくのだけれど、高橋の作品では物語それ自体が、徐々に消滅していくという趣向のものだった。
具体的には説明しがたいが、機会があれば、筒井の作品とあわせて両氏の作品をご一読いただけたらと思う。
権力は、長く続くと腐敗し始めるといわれるけれど、腐敗するのは政治家のみではなく、政治家を取り巻く官僚とその機構自体も腐敗していくということを、今目の当たりにしているような思いになる。
【17年3月13日】
本日も、朝から快晴。
大山の残雪(春の季語ですが)に、太陽の光がてらっとあたって、頂稜から5合目くらいにかけて、鈍い銀色の光の道のような様子になっている。
ガレ場に残っている雪が、1本の道のような様子になっているのかもしれない。
そういえば、谷筋に残る雪のことを「竿雪」(谷の中に細く残っている雪なので)と呼ぶらしいことを、こちらに帰って、句会の場で知った。
「雪」は冬の季語だけれど、「竿雪」は残雪の傍題のように思われる。
それにしても、山の北西斜面にあんな角度で日差しがあたるのも、季節の推移の証のひとつかもしれないと思う。
昨日、本番を終えて、一晩が経過したにもかかわらず、頭のどこかにずっと昨日唱った合唱曲が、エンドレステープみたいに流れている。
本番の翌日は、だいたいこんな調子で、余韻にひたるという叙情的な風情ではなく、残響かなにかのように曲が残って、勝手に唄が流れているような状態だ。
朝食後、ゆっくり「歩き」を終え、モニター番組を1本見て、レポートを書き、メールの添付ファイルで送り、という風に、いつもの生活に戻っているはずなのに、頭の一部だけがまだ、その日常に帰還し終えていないようである。
久しぶりに(数年ぶりに)、筒井康隆のの小説を読んでいたのだが、読了する。『世界はゴ冗談』という短編小説集。
いつもの筒井ワールドという印象が強かったけれど、その分やはり時代の移り変わりのようなものを感じはした。
高橋源一郎の『ミヤザワケンジ グレイティスト・ヒッツ』という、宮沢賢治の小説をヒントにしたり、題材にしたり、名前だけ借りたりと様々な手法を駆使して書かれた短編小説集を同時進行的に読んできたせいか、筒井康隆と高橋源一郎の似たような部分と、明らかに違う部分とが感じられて、その比較の中で、筒井の作品に、かなりある種の古風さを感じたりしたのかもしれない。
詩人気質の高橋源一郎と評論家気質の筒井康隆という両小説家の気質の違いなのかもしれない。
【17年3月12日】
合唱、本番終了。
体調が今ひとつで、ゲネの時立ちくらみしそうになり、本番が不安だったけれど、とにかく最後まで唱いきることが出来た。
合唱の出来自体は、唱っている当人にはわからない。
どうだったのだろうか、と思う。
ほぼ1年間にわたるレッスンの集大成が本日ということで、ともかくやり終えたという思いが強い。
帰宅後、ワインで祝杯をあげる。
あとは、もう休みたいということだけである。
3月の本番というのは、ある意味ちょうどひと区切りとして最適な時期だったのかもしれない。
本番に向けての、詰め詰めのスケジュールが終わり、明日から、またいつもの生活が始まることになる。
少し新たな試みを生活に加えたいな、とも思う。
ともかく、今日は休息する。
【17年3月10日】
大阪の某小学校問題も,認可申請取り下げということになったらしい。
これで、小学校の開校は事実上なしということになった。
やっぱりね、という印象。
自主的な取り下げというよりは、マスコミの追求もあっただろうけれど、何らかの政治的バイアスが加えられたということが事の真相のように思われる。
これですべてを幕切れにしたい圧力が、このばたばた劇の背後に存在したことだろう。
とはいえ、保育園・幼稚園はまだあるので、いずれ改めて小学校開設という動きもあり得ることだろう。
今回の事を「貸し」の一つとして、より巧妙なやり方を通じて。
ほっとする官僚、政治家も多いことだろう。
この先、この問題に関して、さらにどれほどの追求がなされるのか、それは疑問。一気に盛り上がり、簡単に忘れるというのが、我々日本人の特質の一つみたいだし……。
数十億円の土地を無償提供、という新たな話題もあるみたいだけれど、どこまで追求出来ることやら。
それにしても、今回の問題で、現在の日本の薄暗い部分がいろいろ白日の下に曝されたのは、悪いことではないと思う。
【17年3月9日】
大阪の某小学校問題も、末期症状を呈し始めたようだ。
これで、認可されるようなことがあれば、大阪の行政機構は信用を失うことになるだろう。
とともに、認可されずということで、この問題を早々に打ちきりにしたい人達の存在が背景にある、という点からも、認可は難しいという側面も生じてきていることだろうと思う。
右傾化教育の実態の一部が、マスコミを通じて日の下に曝されることになったのは、良いことだろうと思う。
右傾化教育とは、ある種の洗脳教育という、その本質の一端を見せつけられたみたいだしね。
長靴発言の軽薄な高級官僚の話題などもあったらしいし。
お騒がせなことだ、と思う。
午後から、天気は回復してきて、きれいな青空なども見えていたけれど、それにしても気温は低い。
少々、寒い。
荻生徂來読了。
面白かった。
原典主義に徹底して、朱子学の注釈主義に猛烈に批判的であるのが、印象的。
朱子学は、江戸幕府公認の官学ではなかったかと思うけれど、それに批判的であるということは、注意をひかれた。
単純に反体制というわけではなくて、より純粋に儒教の基本理念を原典に基づき、探求していこうということらしい。
儒教とは、本来国家の経世維持の学問であり、徳治主義的な朱子学に対して、より実践主義的な「道」をよる国家運営を重視するのが徂來先生の立場のようだ。
原典を読む場合も、訓点などに頼らず、白文を読み込めということを強調したりもしている。
そのためにも、素読を重んじ、食事とトイレ以外は、終日対面素読というような学習法を紹介・提唱したりもしている。
初学は、読みやすいものから白文・素読を実践せよ、ということのようだ。
今読んでいる「十八史略」なども、徂來先生お薦めの1冊ではないか、と思う。
もちろん、こちらは返り点頼りに読んではいるのだけれども。
そういえば、今ちょっと話題の『教育勅語』も、その基本の精神は儒教精神に基づくものであり、国家神道とはまた別ものの世界で、中国で生まれ、はぐくまれ、成熟した思想なのであろう。
その『教育勅語』を信奉するものが、しばしば反中国だったりするというのも、おかしな構図のようにも思われる。
もちろん、現在の中国が、儒教精神の生きた国家であるか、どうかということはあるにしても。
【17年3月7日】
真冬に逆戻り、とまではいわなけれど、寒い一日。
午後にかけて、雪が降り、一時は吹雪状態にまで雪が強まる。
カーポートの屋根も、これは霰でうっすらと白くなっている。
これが最後の積雪になればよいのだが。
大山では、15センチほどの新雪がつもり、いまだに150センチ以上の雪が残っている。
スキーシーズンはもう少しあとまで伸びそうだ。
夜になると、斜面中腹に2カ所ライトが煌々とともされて、それが遠望できる。なかなか雰囲気があって、きれいだ。
今シーズン、せめてスキー客の客足がうんと伸びることを願う。
歯医者に行く。
検査されたり、写真をとられたりして、1時間近く、診察台で、横になったり、起きあがったりを繰り返す。
腰が痛くなってくる。
こんな検査、必要なのかと少々思う。
診療点数の半分は、この検査の点数で占められていた。
いつもの倍以上の料金を支払うことになる。
感じの良い、丁寧な歯科医院ではあるのだが……。
今年の確定申告では、初めて医療費なども計算して提出した。
定期・不定期の通院や薬代などがあり、一定控除の対象になるようだ、ということを知る。
母も、今年初めてそうして、控除されるらしい。
知らないということは、不利益をもたらすことにつながるな、と改めて思う。
【17年3月5日】
日曜日。快晴。
半日、布団や毛布を干す。
「歩き」8000歩。周囲に少しずつ春の気が濃くなってゆくのを感じる。
モニターのレポート1本書く。
また、モニター用の番組を一つ見る。
それで、午前中は終わり。
午後は、いよいよ来週日曜日に迫った合唱本場に向けての練習。
淀江町のホールを借りて、オケと一緒に練習。
1時過ぎから始まり、6時くらいまで、連続してのレッスン。
少し形がみえてきたような気がする。
それにしても、疲れる。
練習の前後に、ステージのセッティングと片付けという力仕事もあって、本当に疲れた。
夕景の町を、仄かな茜空を西に見ながら車を運転して帰る。
明日は、吟行句会で昼間は松江市まで遠出する。
夜は、市内で合唱練習。
なんか、忙しい。
コンサートには、身内が聞きに来てくれることになった。
まだ買い取りのチケットが残っているけれど、知人等に連絡を取ったけれど、皆都合がつかないとのこと。
京都にいた頃には、コンサートとその後の飲み会とで、知人達と楽しむことが出来たけれど、地元の方は、なかなか難しい。
【17年3月4日】
土曜日。
一日、予定を立てずに過ごす。
とはいえ、モニターのため、ラジオ番組を1本聴いて、レポートを書く。
ラジオも、きいてみると結構面白い。情報が、余計な映像など一切なく、言葉のみの世界であるので、その分こちらの情報感受力が刺激されるような気がする。
モニターが、1年間延長ということになった。
貴重な収入源のひとつなので、大変ありがたい。
終日、好天。やや、大気中に水蒸気は多いかもしれないけれど、その分穏やかな日和となる。
「歩き」も、久しぶりに海まで出かけてみる。
長い砂浜の先に、雪をいただいた大山のゆったりした姿と、前衛峰的に高麗山が似たような姿で横たわっているのが遠望される。
突堤で釣りをしている人達の様子をしばらく見物してから引き返す。
海流の変化で、砂浜の一部がおおきく抉られて、防風林から続く砂浜であったところが、広々と海に変わっているのがちょっと荒涼たる気分を誘う。
【17年3月3日】
本日は、桃の節句。
午前中は不安定な天気だったけれど、午後からは快晴となる。
青空が目に心地よい。
京都御所内に、梅林と隣り合わせで桃林があったと思うけれど、この時期、桃の花はさいているのだろうか。
地元の方では、桃の花はほとんど見ない。
そう言えば、子供の頃、住んでいた家には、狭い裏にはに桃の木が1本植えてあって、毎年小さな桃の実が二つ、三つ実っていたので、当然桃の花も咲いていたはずだけれど、実の方の記憶はあるけれど、花の方の記憶は全くない。
花より団子ということだったのだろうか。
村上春樹の短編集、読了。「木野」という作品が、なんとも薄気味悪かった。他の作品と異なり、ホラーテイストの小説だった。
でも、村上春樹はこの類の小説はとても上手いな、とも思わせられた。
市立図書館に行き、本を借りてくる。
石垣りん詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』を半分くらい読む。
すでに1950年代に現在と似たような状況の進行を石垣りんは意識していて、そのことを尖鋭な問題意識として表現していることが感じられた。
「しずかに耳を澄ませ
何かが近づいてきはしないか
見きわめなければならないものは目の前に
えり分けなければならないものは
手の中にある
午前八時十五分は
毎朝やってくる
1945年八月六日の朝
一瞬にして死んだ二十五万人の人すべて
いま在る
あなたの如く わたしの如く
やすらかに 美しく 油断していた」
これはいうまでもなく原爆に寄せた詩ではあるけれど、現在の我々にとっては、直接の原爆禍というより、ここに詠われたような状況が象徴的な意味をもっているように思われる。
1952年の作。今から60年以上前の作品ではある。
今の人達が、石垣りんの詩を読んだとして、どの程度胸に応えてくるものなのか、私には判断はつかない。
ただ、古い詩として、時間の流れの中に捨て置いてよいものとは思われない。
荻生徂來という江戸中期の儒学者の「徂來先生問答書」というのを読んでいる。
「候文」調の読みづらい文体の文章で、最初は読むのに難儀したけれど、少し慣れてくると結構内容が面白い。
かなり毒舌家で、単刀直入な気質の人物らしく、学問に関わる質問に対し(相手は、それなりに地位のある勉強好きの武家の人物のようだけれど)、反朱子学的な立場で、いいずらいことを本当にずばずば直言しているところが、ある種爽快な感じがする(俳句の毒舌先生夏井いつき風)上に、色々な具体例を挙げるのだけれど、それが大変身近な事柄を例として上げつつ、ずいぶん説得力を持つ例示であるだけに、共感を覚えながら読み進めている。
なかなか面白い。
【17年3月1日】
3月に入った。朝は冷え込んだけれど、昼間は良い天気でおだやかな一日となった。
昨日、確定申告を終える。
いずれにしても、確定申告はやっておくほうが良い、ということは聞いていたので、今年もきっちりとやっておく。
ネットを通じて、作成が可能になっているので、活用させてもらった。
これは、利用者目線に立った使いやすいもので、毎年お世話になっている。お役所仕事としては、結構重宝している。
母の分も合わせて、税務署まで持参する。これも、毎年のことだ。
姪が、村上春樹の最新長編小説前後2巻を買ってきた。
両方で4000円もするので、自分で買うには高すぎると思い、姪におねだりしようと思っていたのだが、きっちり買ってきていた。
すでに、少し読んでいるらしく、とても読みやすいというのが、初発の感想らしい。
読み終わり次第、こちらにまわしてもらうことを約束して、それまでのつなぎにということで、同じく村上春樹の短編小説集『女のいない男たち』を別に貸してもらった。
昨日今日とで、半分くらいまで読みすすんだが、これはこれで面白い。
言葉というものを主軸に据えて、女を反射鏡にして男というものを照らしだそう、という風な小説のように思われた。
いずれにしても、「ことば、ことば、ことば」である。
暖かくなってきて、歩きやすくなったということもあるが、体重がなかなか落ちないので、近所の丘(砂が堆積して、小山状になったところ。松などが生えていて、雑木林風になっている)を軽いジョギング風に走ってみたりもする。丘とはいえ、高さは20メートルくらい、長さは150メートルほどなので、何往復かをする。小さなアップダウンが、身体への軽い負担になって良いような気がする。
まだたっぷりの雪をいただいた大山が遠くに見えたりして、結構景色が良い。
昨日・おとといと夜合唱の練習が続いた。本番は12日の日曜日。最後の追い込みの時期にあたっている。明日も、夜練習がある。
3月は、結構慌ただしいことになるかもしれない。
お世話になっている岩城先生の俳句について、「週刊俳句」に吉田竜宇氏の一文が載っていた。
もし興味があれば、お読み下さい。
URLは以下の通り。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2017/02/blog-post.html