日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 一人言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
16.6「日々録」 | 16.7「日々録」 | 16.8「日々録」 | 16.9「日々録」 | 16.10「日々録」 | 16.11「日々録」 | 16.12「日々録」 | 17.1「日々録」 |
【17年2月26日】
昨日は、丹後「すき句会」だった。
参加者がやや少なく、投句数を少し増やしての句会だった。宿題は、「鬼やらひ」、当日課題は「キャンプイン」だった。
「キャンプイン」は季語として認められていないけれど、今回は季語として扱うという形で1句を作すこととなった。
吟行句を中心に投句したけれど、結果はいまひとつだった。
感性が平凡なのかもしれない、と改めて思う。
4時起きはさすがに眠くて、往復の車中ではついうとうとすることが多かった。
とはいえ、帰りは長谷川櫂氏の『一億人の切れ入門』を読む。
結構色々な創見があって、読んでいて面白かったけれど、ただ1点五七五の俳句の前後にも「切れ」があるという見解は、よく分からなかった。
句中と句末の切れ(「○○や○○」のような句の途中の切れと「○○○かな」のような句末の切れ)は了解出来るのだけれど、俳句作品の前後にも「切れ」が存在するというのは、ちょっと違うのではないか、と思われた。
筆者の見解に従うと、たとえば句末の切れと作品の後に存在するという「切れ」とはどのような関係になるのか、よくわからない。
文芸作品としての独立性という点(特に、俳句のような定型詩の場合は、その独立性が他の文芸に比べて相対的により印象強く感じられるのかもしれないけれど)に関して、それをしも「切れ」と表現することで、俳句固有の表現技法である「切れ」と作品の独立性という点で、混乱が生じてしまうように思われる。
両者の違いを明確に説明するか、あるいは言い方を変えなければ、よけいな混乱や誤解を読者の招いてしまうように思われた。
夕方に丹後大宮駅を出発し、6時過ぎには山陰線の各駅に大急ぎで乗り換え、7時過ぎに浜村駅に到着し、ほどなく鳥取行きの各駅停車に乗り換え、8時過ぎに鳥取駅に到着し、40分ほどの待ち時間の後、特急で終着の米子駅までほぼ1時間。10時前に到着するまで、延々『一億人の』を読み続け、米子に到着する前に読了する。
読み終えて数分、座席で眠り込んでいたように思う。
かなり疲れる。
帰宅後は、即就寝。
翌日(本日)は、夜中に一度目を覚ましただけで、8時過ぎまで寝ていた。
ちなみに、長谷川氏の著作のタイトルの『1億人』とは、「切れ」のもたらす「間」の文化が、日本人の文化や生活に深く浸透しているという見解から、そのように名付けられたようだ。
なるほど、と思う。
【17年2月25日】
今日は、丹後の「すき句会」。
天気は悪くないようだ。
とはいえ、外気温は2度くらい。夜明け前なので、もう少し下がるかもしれない。
2月上旬に、近所の「水鳥公園」で吟行した際の見聞を元に、今月はずっとそれに関わる句を作ってきたので、50句くらいたまったものから少し持って行こうと思う。
宿題が「鬼やらひ」なので、それは車中で考えようと思う。
とはいえ、4時起きなので、車中では不足した睡眠を取り戻すかもしれない。
外はまだ完全な夜の状態である。
【17年2月23日】
茨木のり子の復刊句集を数冊読み終え、続いて同じく女性詩人の石垣しんの詩集を読み始める。
詩集『やさしい言葉』を読み終える。その中の作品のひとつに「地方」という詩がある。その一節。
「いつも次の世代のために
短い命の申し送りのように
もし現在の私のちからの中に
すこしでも周囲の役に立つものがあるとすれば
それは私の植えた苗ではない
ちいさな杉林
ちいさな檜林
地方には
自然と共に成り立つ生業があったけれど
首都には売り買いの市場があるばかり。
市場ばかりが繁盛する。
人間のふるさとは
地方、という美しい所にあった。」
現在の目からみて、この詩をどう読むかということについては、おそらく様々な視点が想定できるだろうか、と思う。
私自身は、この詩を書かれたままにほぼそのままに読み解けるであろう背景を持っているけれど、多くの日本人にとってはどうなのだろうか、とも思われる。
ちなみち、石垣りん氏は東京の生まれの東京育ちの方。ご両親は地方出身らしい。
そういえば、私が住んでいる地域は農作・畑作地帯であったけれど、今ではずいぶん広い地域が耕作休止あるいは放棄地のような状態になっている。
地方も自然と共に成り立つ生業について、その困難さがセイタカアワダチソウの群生地という目に見える形で周辺にひろがっている。
そんな中である小さな企業が、そんな耕作放棄地を買い取っては耕作地として活用する取り組みを行っている。
あちらこちらに分散する形で、荒蕪地を畑地に転換することで、農業形態としては集約的大規模農業を目指しているということになるようだ。
農業が企業ベースで進むということについては、色々な危惧や意見が持たれていることは承知している。
けれど、荒れ果てた耕作地が整地され、ふたたび農地として活用されていく姿を目の当たりにすると、複雑な気持ちになる。
【17年2月22日】
拉致被害家族会が、拉致問題解決に初めて、明確な期限を設定して政府に問題解決を求めた。
面会の際の総理の答えは、期限には触れず、一般的な感想で終わっている。
地元にも、拉致被害者の家族がおられる。
安倍政権になって、全く動きが止まってしまったこの問題について、本当に解決するつもりがあるのか、疑問に感じる。
問題をそのまま残しておくことで、北朝鮮との緊張関係を日本国民に対してアピールする。
その政策の具のひとつとして拉致問題は、手つかずというよりあえて手を付けないままに放置してきたところがある。
しかし、そんな政府に対する今回の期限付き提案は、被害者の会からの最後通牒に近い内容であると思う。
外交に対して自信を持っているらしい総理の、本当の意味での本気の外交手腕の発揮を期待したいと思う。
いわゆる安倍晋三小学校問題が、少しずつ前進してきているようだ。
場合によっては、本格的な不正問題にまで発展しかねない内容なので、きちんとした問題の解決を期待したい。
国有地が明確な理由も明らかにされないまま8億円近く安い値段で、特定の教育関係者に払い下げが行われるなどということを、そのまま放置しておくことはできないだろう。
さすがに、民放テレビなどもこの問題を取り上げ始めているらしい、某国営放送を除いての話らしいけれど。
マスコミが機能不全に陥っている現状において、どこまでジャーナリズムの力が発揮されるのか(されないのか)、気になるところだ。
【17年2月20日】
夕方になって、明らかに風が強まってきた。
北からの風で、今夜は冷え込むという天気予報だった。夜半には雪が降るかも知れない。
高気圧と低気圧の移動が頻繁になっているその影響をもろに日本列島は受けているということなのだろうけれど。
「三寒四温」という言葉は、春先にも使われたりするようだけれど、「四温」の方の恩恵をあまり受けていないような気がする。
長谷川櫂の『芭蕉の風雅』を読了する。芭蕉自身の古典離れを問題とし、「虚にいて実に遊ぶ」はずが、「虚」の根拠たる古典世界を意識的に離れることは、芭蕉自身にとっての大きな目算違いというようなところで、話を展開しているようだった。
ところで、筆者の長谷川氏自身が、芭蕉の批判からも窺えるように、本来古典回帰派の俳人だと思いこんでいたのだが、最近の俳句勉強会の折りの雑談の中で、「どうもそうではない」という意見を聞き、その点がずいぶん気にはなっていたのだ。
長谷川氏自身が、「虚」の立場から「実」の方向へと自らのスタンスを移動しつつあるような話で、『芭蕉の風雅』の主張とも真っ向から反するような内容になるので、その点を別の著作を通じて、確かめられたら確かめてみたいように思う。
「虚」から「実」への移動は、長谷川氏の新聞俳句の選の傾向からの判断らしいので、投句される句の内容というようなことも関係があるような気もちょっとするのだけれど、そう話している人物が、こちらも一目も二目もおくような見識の持ち主だけに、おおいに気になるところではある。
吉本隆明の『実朝』も読了する。
読み終えて、吉本氏の短歌に対する基本的な認識が、万葉以来の和歌の在りように対する分析の中で形成されたものということが了解できたようには思われた。
特に上句と下句の関係性に対する短歌への認識は、この流れの中で形成されたもののように思われた。
とはいえ、筆者の作品鑑賞・分析は、こちらの理解を超える精緻さの裏付けの上に成り立っているようで、なかなか理解しづらい部分も多かった。
『十八史略』は、読み物として読んでみても、ずいぶん面白い。
【17年2月18日】
高橋源一郎の『いつかソウル・トレインに乗る日まで』、昨日今日の二日をかけて読了。
途中までは、村上春樹とか渡辺淳一とか、ちょっとよしもとバナナとか、なんとなく色々な作品のパロディーみたいな、中途半端な印象を持ちながら読んできたのだけれど、あるページのある部分で、それらのすべてが、あたかもちゃぶ台をひっくり返すみたいにひっくり返されたみたいな状態に落とし込まれた。
これもまた、高橋源一郎風な作品なのか、とも思ったけれど、なんとも微妙な読後感だった。
これを書くために、延々と作品世界を組み上げてきたのか、とも思う。
作家の力量とか、作品構築力とかは認めるけれど、これってどうなのだろうか、とも思う。
いずれ俳句の勉強会でテーマになる長谷川櫂の評論『芭蕉の風雅』を読む。
いろいろ勉強しているのが良く分かる内容の評論で、なるほどとそれなりに納得させられつつも、どこか微妙な部分で変な違和感のようなものを感じてしまう。
なぜなのだろうか、と思う。
とはいえ、色々な項目が手際よくまとめられ、参考になることも多い内容なので、とりあえず図書館に所蔵された数冊の文章については目を通しておこうと思う。
今日は、午前中は晴、午後は雨という天気だった。
晴れているうちに周辺をぐるりと歩いて来るけれど、多かった雪はほとんど融けてしまったけれど、大雪の被害を受けて、カーポートの屋根を破損している家を数カ所目にした。
湿雪の雪の重さは、積雪の嵩以上に重量を持っているので、油断をすると屋根カバーが外れてしまうということが起こってしまう。
数年前の今以上の豪雪の際には、カーポート自体が潰れてしまったこともあったようだけれど、今回はさすがにそこまで酷い状態には、少なくとも西部地域はならなかったようだ。
【17年2月15日】
一日晴天で、積もっていた雪もどんどん融けて行くけれど、本道をそれた脇道などには、まだまだ雪は残っている。
篠竹の竹林は、雪の重みにかなりの竹が撓んだ状態を戻せないようなありさまだ。
ちょうど夕日がそんな竹林の向こうに沈もうとするところを写してみたのが、上の写真。
「歩き」がてら、最寄りのコンビニまで買い物をしに行った帰りの一風景。
今日は、朝・昼・夕方と三度に分けて歩く。まだ道に雪が残っているところがあって、長い距離を歩くのが難しいので、近所をぐるぐる歩いている。
今日は、シャワーをやめて、ちゃんと朝風呂にはいる。
風呂場が古い造りなので、ひどく寒いけれど、お湯に浸かるのはやはり気分が良い。
ただ、入浴時の突然死が問題になっているので、その点は十分注意しなければと思う。
洗濯をし、雪を取りのけて干場を確保し、洗濯物を干す。
朝早い時間帯は雲っていたけれど、時間がたつにつれて天気が回復して、半日にぽかぽかと暖かい日差しに恵まれることとなった。
本当にありがたい。
【17年2月12日】
高橋源一郎の『恋する原発』読了。
うーん……。高橋源一郎って、天才とまでは言い切れないかもしれないけれど、天才的な作家と言っていいのではないか、と思ってしまう。
誰かが、別の小説のあとがきで、「高橋源一郎にノーベル賞を」と叫んでいたけれど、村上春樹とは別の意味で、なんとなくその叫びに改めて共感を覚えてしまった。
とはいえ、『恋する原発』。表面上は、ずいぶんえげつない内容のお話ではあるのだけれど。
若い頃の筒井康隆(彼も又、天才的作家のひとりだと思うのだけれど)の熱量の高い狂気とはことなり、どこか静かに狂いつつあるみたいなところが、不思議に心惹かれ、時に本当に感動してしまったりもしている、そんな有様である。
明日は、知人の書展の前に図書館に寄って、本の返却と新たに次の本を借りてこなければ、と思う。
高橋の本も数冊まだ図書館に所蔵されてあることに気付いたので、1冊ずつゆっくり読んでいくことにしようと思う。
今日は、朝のうち、ちょっと雪が降ったりもしたのだけれど、日中は概ね良い天気であった。
雪が、暖かい日差しを受けてどんどん融けていくのを見て、快哉を叫びたいような気分になる。
とは良いながら、数日ぶりの買い物で、やはりいつもよりは多めに買い物をしていることに気付く。
明日は、また寒気が入って雪になるかもしれないとの天気予報もあり、つい用心のために買い込んでしまうようだ。
そう言えば、昨夜は実家で夕食をごちそうになる。
ほとんど食べるものがなくなっていたので、大変ありがたかった。
午後しばらくをかけて、庭木の雪落としをする。
雪が降り始めの頃に、一度ざっと雪落としをしたのだけれど、まだ不十分で、裏の金木犀の太い木の枝(しかも中央あたりにある枝)が、見事に折れてしまった。
遠目に見ると、首を切り落とされた罪人みたいな姿になってしまい、これはまずいなと思って、雪の合間にこまめに雪落としに勤めたのだが、結局雪の降る勢いに追いつけなかったわけだ。
遅ればせながら、木々にまとわりついた厚い雪の塊を、園芸用の硬質プラスチックの棒で、たたき落とし、はぎおとしていく。
それが結構時間がかかる。
ついでに、道路の雪も固まっている部分を崩して、太陽に融けやすいようにする。
これも結構時間と体力がかかる。
連日、かなり身体を使っているはずなのだが、体重が減らない(逆に、雪が降る前に比べて徐々に増えている)のが、とても不思議だ。
【17年2月12日】
ようやく、大雪警報も解け、注意報に変わり、久しぶりに青空と日差しが見えた。
昨夜の新雪が15センチくらいつもっていたのを、お隣さんたちと一緒に雪かきをする。
日差しのもとでは、雪かきで身体を動かしたせいばかりでなく、ぽかぽかと暖かかった。
この調子で、どんどん雪を融かして欲しいと思っていた。
しかし、お昼前になって、天気は一変して、いまはまた雪が降りしきっている状態だ。
雪雲の塊が、次々上空を移動していくので、晴れていると思ったら、急に雪が降り始めるというのは、降雪期の常態なのだろう。
でも、もうそろそおしまいにしてほしいと思う。
そういえば、源実朝の和歌に「時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめ給へ」という作があったのを思い出した。
「雨」と「雪」との違いこそあれ、降りすぎれば迷惑以外のなにものでもないのだ、と何者かに文句の一つも言いたい気分になる。
それにしても、直接関係はないけれど、今読み進めている中で、吉本隆明が「実朝」を論評しようとしている意図的なものが、なんとなく分かってきたように思われる。
特異な人物を通しての、社会構造の分析みたいなことをやろうとしているような気がする。。
【17年2月11日】
一夜明けて、積雪は40センチ弱。
前回の降雪時に比べると、やや少ないようだけれど、東部地域は90センチ強の積雪になったらしいので、豪雪といってよい空模様だった。
西部方面が積雪が東部に比べて少なかったのは、風向きが西風で、雪雲が東寄りに動いていったことがあるらしい。
それにしても、もう雪は十分かな、と言う思いが強い。
さらに明日にかけて30センチから50センチくらい降雪があるらしいという天気予報を聞いて、とりあえずカーポートの雪下ろしだけはしておいたほうが良い、と考えて、半日雪下ろしにエネルギーを費やすことになった。
「歩き」の際に、ご近所さんのカーポートを確認していくと、大体が雪国対応用の、頑丈な造りのカーポートを設置しているようだった。
実家も、もちろん雪国対応の、積雪量50センチも可、という仕様のものであった。
基本仕様のカーポートで、数年前、鉄塔が倒壊するという文字通りの豪雪を良く乗り越えたものだと思う。当時、近所では雪の重みにカーポートが潰れる被害が実際に出ていたのだが。
二階のベランダから北半分を除雪し、今回はとうとうハシゴをかけて、カーポートの南半分の除雪を行う。
正直、ハシゴまで使うとは、我ながら考えてもいなかったことではあるのだが。
でも、結構スムースに雪下ろしができたので、今後大雪が来ようとも(本当に、来て欲しくはないが)、対処法が出来たということにはなる。
午後から、合唱の練習があるはずであったが、道路の除雪状況が不十分で、出かけるのは中止とする。
その代わりというわけでもないが、テレビの「ビフォー・アフター」の2時間版を見て、午後を過ごす。
夕方、また外はちらちら雪が降り出している。
粉雪ではなく、ちょっと牡丹雪風の雪である。これはどちらかというと、春の雪で、積もらない質の雪ではあるのだが、頻繁に積乱雲が発生しては、突然どかっと積もる雪を降らせたりもするので、まだまだ油断はならない。
大雪警報は、いまだに解除されない状態ではある。
もう、いい加減にしてほしい。
ただ、近年雪が少なくなってきたとはいえ、山陰地方は雪国に属する地域であろうし、そこで生まれ育った人間でありながら、雪国スピリッツとでもいうものを明らかに失っているような思いも、少なからずあるのは確かだ。
幼少年期は、ごく当たり前のように冬になれば雪が降り、結構な嵩で雪が積もったりもしたものだが。
【17年2月10日】
昨夜は、激しい北風と雷で、落ち着かない夜だった。
朝になって、積雪が10センチほどあったけれど、大雪警報がでているにもかかわらず、幸い日中はほとんど雪も降らず、時折太陽が顔を出して、日差しは立春過ぎの暖かさだった。
今夜辺りが一つの山場になりそうで、夕方から本格的な雪になりそうな気配である。
昨夜の強風のせいか、自宅に繋がる電線が道路の上に撓むという状態になり、危険でもあるので急いで修理の手配を行う。
昼過ぎくらいには、工事関係の人が来てくれて、しっかり線を固定してもらうことができた。
何が起こるか、わからないことではある。
今日は、終日家籠もり。「歩き」も中止する。
茨木のり子の句集を2冊読み、水木しげるの漫画全集の1冊を読み終え、高橋源一郎の『恋する原発』を三分の一読了する。
高橋の小説は、むちゃくちゃだけれど、面白い。
むちゃくちゃのようだけれど、ちゃんとお話になっているのが凄いと思う。
夕方、実家に顔出し。飼い犬がトリミングに行って来て、顔の大きさが半分くらいになっていた。
毛を切ったあとは、身体が痒いらしい。
ごしごし後ろ脚で身体のあちこちを掻いているのが、少々滑稽に見える。
当人は、それどころではないところなのだろうが……。
夕景の空を見ると、西半分は青空で、東半分は明らかな雪雲が広がっている。
この辺りは、ちょうどその境目にあたっているようだ。
今日一日、天気の境目にあったように思われる。
どこやらで、風がごうごう唸り始めているようだ。
【17年2月8日】
日によって、天気が大きく変わっているようだ。
まさに季節の変わり目、ということなのだろう。
立春を過ぎたとはいえ、本当に寒くなるのはこれからだ、とはよく言われるけれど、幸い今日は朝から暖かい日和である。
早めに「歩き」に出かけ、シャワーと洗濯を同時進行的に行い、日が差し込み始めた庭に洗濯物を干し、そんな風にして一日が始まった。
午前中は、いつも通りの読書。
古文は、『徒然草』を数日前に読み終え、『近世文学論集』に取りかかる。現在は歌論を二つ読み終えたところ。
今日は、賀茂真淵の「歌意考」。和歌は、『古今和歌集』を中心に考えるのではなく、まず『万葉集』をという主張。
『万葉集』の中に詠い込まれた日本人の「直なるこころ」が、様々な夾雑物を含みつつも、『古今和歌集』の世界の中にも反映している、というような考え方のようだ。
それゆえ、まず土台であり基盤でもある『万葉集』に対する正確な認識こそが、和歌を語る場合にも最も重要なことになる、ということのようだ。
論者によっては『古今集』以外は認めないみたいな(『新古今』絶対みたいな論調もあるのかもしれないけれど)強硬な歌論が横行する中での、強力な反論でもあり、また広範な論の可能性も含む内容であるのかもしれない。
『万葉集』を正しく認識することによって、和歌の世界に対する見え方が「コペルニクス的転回(古いけど)」をもたらされる結果、『古今集』的世界も含めて和歌世界に対して、劇的に変化、再認識・再構築化が進むみたいな論であるのかもしれないが……。
現在、寝る前に吉本隆明の『右大臣実朝』を読んでいる。
吉本が、なぜこんな内容の評伝というか、評論を書いたのか、いまのところよくわからないのだけれど、個人的には歌人「実朝」に興味があって読んではいる。
実朝の『金槐和歌集』も読み進めてみたことがあったけれど、どう読んでもこれが『万葉調』の作品だということが了解できず、読むのを長ーく中断していたのだが、今回真淵の「歌意考」を読んでいて、実朝の万葉調も3期に分けられ、本来の万葉調はその第3期、終わりの時季にあたって、様々な不純物が昇華・分解されて、その結果文字通りの「万葉調」の完成をみた、との論評があり、そうなのかと思わせられるところがあった。まだ、そこまで読みすすまないうちに、挫折してしまったようだ。
漢文は、『十八史略』を読んでいる。
現在、「秦」が滅亡の道を進みつつあるのだけれど、『史略』だけあって、肉付けの部分がやっぱり物足りないところがある。
それにしても、古代中国の刑罰と権力争奪にともなう讒言と一族郎党滅殺の歴史は、すさまじいものがあるものだと改めて思う。
首を切るのはまだ罪が軽く、重罪は「腰斬(文字通り、腰の部分で胴体をまっぷたつにする刑罰らしい)」に処せられるらしい、とか。
【17年2月7日】
安倍総理の最近のお気に入りの言葉は、「妄想」みたいだ。
答弁の際にその一言を加えて、野党の質問に対して、露骨に否定する代わりに最近しばしば用いているようだ。
すべてをゼロにする、魔法の言葉みたいなものである。
アベ氏の「妄言」も相当たいした物だけれど……。
GPISの資金をトランプ氏への手土産にするという発言についても、自分にはGPISに指示する権限はない、だから、そのような論調は「妄想」と決めつけていたけれど。
建前ではそう言いつつも、実のところ総理の意向を忖度した周辺が、それに向けて動きを進め、総理が一言、ゴルフのプレーの合間に、雑談のひとつみたいにして、「日本のGPISもインフラ投資に積極的。4年間で最大7兆円くらいの投資は可能、みたいなことを考えているようだよ。」と、トランプ氏に伝えれば、トランプ氏も「日本はアメリカに対して、年金資金をアメリカのインフラ投資に考えているみたいだな。アメリカ・ファースト!」とか、暗黙の了解、以心伝心的にその言葉を受け止める、なんてことはあり得るだろう。
これもまあ、私の「妄想」のひとつなのかもしれないけれど……。
それにしても、トランプに対するアメリカのマスコミの姿勢が、日本の心あるジャーナリストに少しは届けば、日本ももう少し公平な論議が可能な国になるようにも思うのだけれど。
そういえば、放送倫理委員会が、昨年の参院選や都知事選の選挙報道について、一定の姿勢を見せたというのは、ちょっと意外なことではあった。
【17年2月6日】
午後から地元の吟行句会ということで、とりあえず早いうちに一人吟行を行って、作品を作っておこうと考える。
出句時間を守れば、吟行は単独も可なので、一度自宅に帰り昼食を早めに済ませれば、十分会場に間に合うということも考えて、9時前に猛烈な雨(時に霰交じり)の中を車で出かける。
吟行地の水鳥公園は、雨と風が強くて、湖に面してベンチの置かれた休憩所に場所をとって、そこから動けなくなった。
多少なりと雨風(時に風雪)の防ぎになる植栽の陰で、波立つ水面と浮遊する鴨や白鳥の群を遠く眺める。
かろうじて数句作り、1時間ほどで寒さのあまり退散する。
自宅に帰り、コタツに潜り込んで、句を練る。
簡単な昼食をとり、句会場の公園内の野鳥の観察施設へと向かう。
句会は20名ほどの参加であった。
2時間ほどの句会。
ホトトギス系らしい、観察に根ざした作品が多かった。
句会終了後、そのまま施設に居残って、しばらく一人で野鳥観察を行う。
望遠鏡で、湖のあちらこちらを眺めながら、句会に出された作品の出来上がる過程のようなものが、実感できるような思いになった。
施設の職員さんがいたので、しばらく野鳥談義。
いろいろ面白い話を聞くことができた。
そろそろ湖に渡って来ていたコハクチョウの群れの北帰行が始まるらしい、とも聞いた。
今が、白鳥たちの活発な姿を見ることの出来る今年最後の時季ということらしい。
湖周辺に生息する狐の話なども聞く。
帰宅後、一休みして。早い夕食を終え、今度は合唱の練習に市外まで出かける。
昨日、今日と二日連続の練習で、少々疲れる。
とはいえ、唱っている間は、結構元気ではあるのだが。
句会と合唱で終わった一日であった。
帰宅すると、知人から書道の作品展の案内が来ていた。
一度、顔出しすることにしようと思う。
【17年2月5日】
昨日とうって変わって、終日雨。
気温がさほど下がらないのがありがたい。
高橋源一郎の小説『悪と戦う』読了。ジュブナイル小説風の作品だったけれど、結構面白かった。
解説者が、高橋に「ノーベル文学賞」をと力説しているのを横目で見ながら、でも確かにお話としては面白い、と思う。
悪の本体ではなく、その周辺を戦いの場と設定して、3歳の幼児に世界と引き替えに悪に戦いを挑ませる、という風な説明すればめちゃくちゃみたいな作品なのだけれど、でも読めば随所で感動してしまうという高橋源一郎らしい作品だった。
『高柳重信の100句を読む』を読む。鑑賞者は、澤好魔。解釈が面白いといえば面白いのだけれど、なぜか奇妙につまらない。
高柳の作品を、現実世界に引きつけて、妥当な解釈といえばそうも言えるだろう説明が、作品世界の中から飛躍的な部分が合理的な解釈の結果消されているような、そんな印象を持ってしまう。
妥当な、と思われる解釈のゆえに、高柳作品のずいぶん特殊と思われる世界に対する読者の自由な鑑賞が逆に阻害されるみたいな、そんな屈折した印象を持ってしまう。
午後から夕方までは、合唱練習。
オケ合わせも兼ねた練習。
2時から6時まで。途中休憩を挟みつつも、みっちり練習をする。
昼食が、手抜きで、おにぎり一つだったということが影響したのか、ひどく疲れてしまった。
立っているのが苦痛だったくらいなので、ちょっとばててしまったのかもしれない。
会場が暖房効き過ぎで、暑かったのも影響したのかもしれないし。
たぶん、エネルギー切れだったのだろう。
練習を終え、帰宅して夕食をきちんと食べたら、てきめんに元気が回復した。
やはり、腹ぺこだったのだろう。
明日は、水鳥公園を吟行地にして、地元の句会。
天気は、曇りか時折雪という予報だった。
水鳥公園は、昼間は鴨だけになってしまうのだろう。
でかい顔をして、海鵜などもたむろするのかもしれない。
鵜の食害は問題にもなっているので、ちょっと鬱陶しい。
【17年2月4日】
立春の今日、みごとと言って良いほどに、日の出から日没に至る間、上空に雲ひとつないという快晴の天気が保たれた。
ほとんど、天に対してお見事と思わず賞賛の声を上げたいほどの良い天気だった。
こんなに完璧に近い快晴は、一年の中でもなかなかないことではないか、と感慨しきりという状態である。
とはいえ、こちらの生活は午前中に1時間半ほど「歩き」に出た以外は、自宅籠もりといういつに変わらぬ状態ではあったけれど。
しかし、さすがにこんな好天をないがしろにしては申し訳ないとの思いもあり、夕方車で15分ほどのところにある水鳥公園まで出かけることにする。
日没間近で、きれいな夕焼けを眺めることはもちろん、コハクチョウの姿が湖水のあちらこちらに眺められる風景を堪能することができた。
日没近くに出かけたのは、日没からしばらくの時間帯に、中海を越えた安来平野の餌場の方から、この公園に帰水する白鳥の群を眺めることができることがあるので、このタイミングでやって来たのだった。
しかし、すでに相当の白鳥が帰って来ていて、期待していた白鳥の群の帰来の様を目撃出来ず、大変残念。
それでも、水鳥公園は、来週月曜日の句会の吟行地でもあり、その下見的なことができたのはよかった。
普段に比べて、水位が低かったのは、干潮の影響を受けているせいなのだろうか。
日没後のきれいな茜色の西の空高くに半月が浮かんでいた。
【17年2月1日】
それほど気温が低いわけではないのに、ひどく冷え冷えした空気につつまれている。
重ね着をして、寒さを防ごうとしていても、衣類の層を冷気が浸透してくるような感触だ。
2月に入った。あと数日で、立春となる。
土曜日から月曜日にかけて京都へ。
土曜は、雪の残る丹後での句会。宿題が「寒」、席題が「旧正」であった。「旧正」の句は、いまひとつ出来なかった。
句会後は、久しぶりに岩城先生に同行して、京都市へ。
以前は、これが当たり前の行程だったけれど、郷里に帰って以来、初めての同行だった。
沿線の風景も微妙に変化があったりして、年月の移りゆきを少し感じたものだ。
夜は、市内の知人のところに泊めてもらう。
お酒とおいしいつまみをごちそうになりながら、四方山話。
なかなか愉快である。
Tさん、いつもいつもお世話になり、ありがとう。
日曜日は、「醍醐会」。
若者についての社会学的分析をもとに、現代のわかものと俳句についての考察、という風な堅い内容を、わかりやすく、かつ興味深くレポーターのM氏が紹介してくれる。
そこに、若手俳人のN嬢が、個性的な角度でツッコミをいれてくれて、おじさんおばさんだけでは了解しきれない、若者の生態と俳句世界について、導いてくれる。
大変面白かった。
と同時に、自分なりに俳句の在りようについて、以前から思っていたことの傍証を得たような思いにもなった。
面白すぎて、本来この日に帰るはずの予定を、急遽1日延ばして、二次会に参加することになった。
宿舎は、以前利用したことがあるカプセルホテルが空いていたので、急遽そこに申し込んでおいて、宴会の方に参加することにした。
東京から来られたA新聞の記者の方も加わって、20名ほどの参加者で、酒池肉林ではなく酒置歓語状態となる。
席上、久しぶりにお説教などもいただいて、新たな緊張感をわが身にもたらすことにもなった。
小雨の中をカプセルホテルへ。
ずいぶん安くて、結構設備が整っているので、ありがたい。
月曜日。
京都駅へ向かう。何故か、暑い。
着ていたセーターを脱ぎ、コート軽く羽織って、バスまでの時間待ちを中央通路の八条口あたりの吹きさらしのベンチで過ごす(それでも、全く寒くない。普段、暖房をほとんど使わないせいで、寒さに対して耐性ができてしまったのだろうか、とわが身の体質の変化が心配になるほどだった)。
周りに、中国からの観光客らしい人達が、入れ替わり立ち替わりに休憩にくるようだ。
昼の高速バスで帰宅。
米子は、思った以上に雪が残っていた。さすがに、寒かった。