日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

      
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【17年9月30日】



一見、ただの草むらのようだけれど、そこではヨシとガマとセイタカワダチソウとの三者の成長をかけたせめぎ合いが行われている。
特に、現在の世相にひっかけての話ではないけれど、静的に見える植物間においても、生存をかけた静かな勢力争いが行われているということなのだろう。
ここは、元の干拓地。
一時は、耕作が行われてもいたけれど、現在では広大な耕作放棄地となっている。
しばらく前は、ここにはガマが沢山はえていたのだけれど、今回はその数は明らかに減っている。
さらに、ガマと一線を画すように、干拓地の奥に向かって、一面にセイタカアワダチソウの群生が広がってもいた。
今回は、そこにアシの侵入が進んでいるような印象を持つ。
一時の、異常なセイタカアワダチソウの増殖に、少しストップがかかったのだろうか、とも思う。
これもまた、自然の全体的な調整能力の発現なのだろうか。

この荒蕪地を水路1本隔てたその先の元の住宅開発地は、鳥取西部地震の影響で、区画整理も終わり、あとは販売という段階で開発がストップし、その後ソフトバンクが跡地を購入して、現在巨大な太陽光発電施設に変わっている。
干拓地を横切り、その太陽光発電施設の周囲を歩くのも、「歩き」の8000歩コースのひとつとなっている。
発電所の先には、中海が広がっているのだが、その対岸には風力発電の白い塔と風車とが遠く望める。

今日で、9月も終わり。
外は、朝から青空が広がっている。
大気は、少々寒いほどだ。
こんな快晴も明日からはまた下り坂へと向かうらしいから、秋の天気とは本当に気まぐれ(実際のところは、大陸からの移動性高気圧による周期的な天候の変化なのだろうが)という思いを持つ。


【17年9月29日】

朝、中二階の書斎から目の前に見るカーポートの屋根が、雨が降ったわけでもないのに、ずぶ濡れ状態となっている。
夜露が、たっぷり降りたためである。
朝が寒くなってきて、いかにも秋らしい情景の一つである。

レジュメの関係で、正岡子規関係の本も少し読んでいる。
子規の『俳句分類』関係の文章だ。
近世の俳句12万句を、たった一人でこつこつと分類し続けた子規。
その努力が、俳句革新を支える大きな基盤ともなった。

岩城先生もまた、近現代の俳句について、別の観点からの俳句分類作業にあたっておられる。
もちろん、近現代の俳句はそれそこ膨大な数になるので、その全体像に迫るような取り組みはほぼ無理だということはあるにしても、子規の視点とはまた別角度から、こつこつと俳句を集めてはカードを作りという作業を進めておられる。
今回の講演は、その取り組みに焦点を当てての話になる予定なのだが、その取り組みの中に、子規との共通点もまた存在するだろうということで、子規関係の本も読んでみることになる。

また、岩城先生の著作の中に、俳句弾圧事件でも知られる『京大俳句』の復刻版を読むという内容の文章があるけれど、それを読む中で、岩城先生自身が『京大俳句』会員の中の藤後左右の『近代俳句構成論』に注目されていることで、今回は無理でも一度それがどのような論であるのか知りたい思いにもなってきている。
子規も左右も、どちらかというと俳句形態論的な視点が中心のような気がするけれど、岩城先生の視点は、俳句内容論的な視点での分類作業なので、その相違点なども触れられたらなどとも思われる。
ちなみに岩城先生の取り組みは、『俳句型紙論』ということで、一応途中経過としてのまとまりがなされている。

子規の『俳句分類』が、自身が言うとおり、自らの死を持って終わる作業であるように、『俳句型紙論』もまた一生の取り組みになるようである。


【17年9月28日】

政治の世界は、一寸先は闇、ということはよく言われるけれど、その現実を刻々と見せられているようだ。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、という言葉を実践したのは、民進党。
その本気度と覚悟は否定しないけれど、その結果はどうなることかは、わからない。
投身自殺的終末を迎えるかもしれない。
希望の党。本体は、おそらく安倍自民党以上の極右的性格を持った政党であろう。
小池氏が総理になった場合、おそらく安倍晋三以上の強烈な政策を打ち出すことだろう。
国民の自由と権利とはさらに大きく制限を受けることになるだろうな、とは思う。
仮に勝利したとしても、旧民進色で少しその色合いが薄まってくれた方が、国民的には結構なことかもしれない。
自民党自体をあながち否定はしないけれど、安倍晋三はもう結構というところだ。
人として信用できない人間にいつまでも総理で居続けてほしくはない。
見苦しい。
自民にとって今回計算外の苦しい選挙戦になることだろうけれど、政権を奪われるほどの敗北はしないだろうから、せめて総理だけはこの際是非替わって欲しいように思う。
小池氏にまんまと不意をつかれ、自民党に大きな不利益をもたらしかねない今回の選挙、その状況をもたらしたのは、総理の自己都合による「国難打破解散」なのだろうから。
共産党はあくまで共産党のスタンスを崩さないだろうから、少数政党として、反権力という立場でそれなりに生き残り続けることだろうとは思う。
民進党が消滅したことで、政権へのストレートな不信票は、共産党に集まる可能性がないわけではないだろうから。
維新は、その下品さに辟易するところはあるけれど、それも一種の関西らしさなのかもしれない。
維新のような与党でも野党でもない「是々非々」の名の下にコロコロ立場を変えるコウモリ政党は、その中途半端さゆえに速やかな退場を期待したい。
大阪という土地と人情は、個人的には好きなのだけれど、維新の姿は、上方の人情や伝統・文化を政治レベルで汚しているような気がする。
公明党は、宗教を背景にした政党だから、教団員の人数が爆発的に増えることがない限り、単独で政権をとることは、絶対に不可能であろう。
ゆえに、政権党の補完・協力政党として、権力のそばに居続けようとすることだろう。
権力とつながることで、教団の力を保持する、これは日本の有力宗教の伝統的な保身術であったことだし。
希望が勝利した暁には、公明と連立内閣を作ることだってあり得ることだろう。
冗談みたいで恐ろしいのは、選挙後に似たもの同士の自民・希望の連立政権が出現するという構図だ。
巨大保守政権による一党支配ということは、これもまたあり得る未来図のひとつなのかもしれない。
ただ、そうなると小池氏の総理というカードはほぼ消滅ということになるだろうけれど。


【17年9月27日】

数日間、良い天気が続いていたが、今日は昼前から本格的な雨模様となった。
時折、強い降りになったりもする様子で、明日未明まではこんな状態が続きそうだ。
それが晴れに転じた辺りから、季節は明らかに一歩を進めるらしい。
大陸からの乾いた空気が、日本列島上空にやって来たら、中途半端な蒸し暑さも解消され、本格的な秋になっていくことだろう。

滋賀県の伊賀上野市が主催する芭蕉顕彰俳句大会に応募していた作品が、鍵和田裕子選に入ったとの連絡を受けた。
投句料が無料で、申し込み葉書が添えられた案内状を送っていただいていたので、それならば出してみようかな、と思ったのだった。
俳句大会の選句料は意外と高くて、ちょっと投句する気になれないのだけれど、その点伊賀上野市の取り組みはありがたい。
それにしても、そういえばむかしむかし角川『俳句』の雑詠欄に熱心に投句していたころ、ときたま鍵和田選に句が入っていたことがあったななどということも思い出した。

午前中は、母の運転手で病院へ。
午後は、レジュメ作り。しかし、もう内容的にはこれ以上は盛り込まないことにする。
知人の助言もあり、これから内容を精選して、どんどん削っていく方向で内容を整えていくことにする。
A4サイズの資料なので、枚数が嵩みそうで、それもなんとか調整していかなければ、と思う。

『濱松中納言物語』の第一部読了。
途中、書写の不備ややや乱れた言い回しなどで、時折理解不能で困惑状態に陥るということもあったけれど、全体としてはなんとか読み通せたようだった。
中納言は、3年間という留学期間を終えて、現地の姫君との間に生まれた自らの息子も唐土の地に残したまま、日本へと帰国することになった。
第二部は、はたしてどのような展開になることだろうか。
自らの父親の生まれ変わりという唐土皇帝の第三皇子との縁なども、ほとんど何の進展もないままに済んでしまったようだけれど、それもどうなることだろうか。
あるいは、父子再会を果たしたというめでたさで、その話はおしまいということになるのかもしれないけれど……。


【17年9月24日】

昨日は、「秋のお彼岸の中日」。
午前中は、「歩き」の後、レジュメ作り、というか手直し。
午後からは、地元の句会に出かけ、その後、母方の墓とわが家の方の墓との、掛け持ちでの墓掃除。
ばたばたと忙しかった。
夜は、実家で夕食をごちそうになる。
手作りの餃子が、大変美味であった。

夜、ひさしぶりに高校時代の文化祭の夢をみる。
歌って踊る演劇という舞台らしく、ぎこちなく踊っている自分を省みつつ、こんなことで本番大丈夫だろうか、と気懸かりに思ったりしていたようだ。
劇はみごと失敗に終わったらしく、高校時代の知人と廊下を歩きながら、他のクラスがいずれも近年になく出来がよいという評判だ、などと聞いてがっかりもしたようだ。
自分のクラスに行ってみると、室内には誰一人姿はなくて、ただ教室の壁やら黒板やら、さらには廊下に面したドアの辺りにまで、濃い鉛筆で、クラスのメンバーのいろいろな思いが隙間無く書き殴ったような状態になっていて、さすがに驚いてしまった。
その後も、脈絡無く夢を見ていたようなのだが、なぜか部屋に置いて置いた自分の大きなザックがなくなっていて、慌てふためくというような夢も記憶に残っている。
全体として、喪失をテーマにした夢のようではあった。

自分が乗っている列車が、床が泥だらけになっているので、なぜかそこにあったモップを使って、綺麗に掃除をしていて、車掌から感謝されるなんてのも、夢のエピソードのひとつとしてあったな、と思う。
それに一体どんな意味があるのかは、まるでわからないけれども……。

今日も、午前中はレジュメつくり。
そして、モニターが1本。
午後からは、合唱の練習に出かける。
そういえば、車のガソリンがほぼ底をつきかけているようだった。

セルフのガソリンスタンドに行くのだが、なぜか毎回店員がやってきて、いろいろ話をしかけてくる。
大丈夫だから、と言って引き上げてもらうのだけれど、一人でガソリンを入れさせるのが、そんなに危なっかしく見えるのであろうか。
それに、そもそもそれならば「セルフ」の意味がはなからないではないか、などとも思う。



【17年9月23日】

今日は「秋分の日」。
昼と夜の時間が等しい日。
これから、本格的に秋らしい日々になっていくのだろう。
日ごとに、秋の季語「夜長」が実感できる夜を過ごすことにもなる。
とはいえ、早寝早起きの習慣が身に付いてしまったわが身としては、朝が遅くなるのはちょっと嫌だなとは思う。

9月分の電気代の徴収のお知らせが来た。
さすが、猛暑の影響を受けて、近年にない金額の請求だった。
おそらく標準一般家庭(全家庭の平均値などもネット上の資料として電力会社から送られてくるのだが)の平均の3分の1くらいの金額だろうけれど、普段は4分の1くらいなので、やはり今月は相当多いようだ。
夜も、エアコンなしではさすがに眠れないような日がしばらく続いたので、その影響は大きい。
特に、電気を食ったのは、古くなった冷蔵庫であったろうと思う。
思い返せば、すでに20年近く使ってきた冷蔵庫で、いまだにちゃんと冷やしてくれるので、そのまま使っているのだが、さすがに今年の夏の間中、頻繁に冷却用のモーター音が聞こえ続けていたような印象を持つ。
冷蔵庫にとっても、今年の夏は相当厳しいものだったのだろう。
来年の春くらいが、買い換えの時期かもしれないと考え始めている。
家庭内で最も電気を使うのは、冷蔵庫だということもあるらしいので、前向きに考えた方が良いようだ。

世の中は、いろいろと騒がしくなっているようだ。
個人的には、少々辟易状態。
とはいえ、来月の選挙に向けて、選挙管理委員会から、期日前投票の立会人募集の案内がきたので、申し込もうかな、とは思う。
バイトの口がひとつ転がり込んできたわけだ。

『十八史略』。
紛争を繰り返してきた宋と金の間にとうとう決着がついた。
金最後の主は、宋・元の連合軍によって、捕らえられ、殺害されて、事実上金王朝は滅びることとなった。
この期に乗じて、宋は失った中原の地の回復を試みたが、それは上手くいかなかったようだけれど。
元は、勢力範囲を拡大し、とうとう東インド辺りまでその版図を広げようとしたが、その元の前に突然奇態な姿をした天の使いの神獣が現れ、殺戮を思いとどまるよう託宣を下したため、元は素直に兵を引いた、などという話も語られる。
実際のところ、何があったのだろうか、などとも思われるけれど……。

今日は土曜日。
暑くもないので、このまま「歩き」に出ようと思う。
また、なにか面白いものに出くわせばよいのだが。



【17年9月21日】

「赤い花なら曼珠沙華」と、古い古い歌謡曲の歌詞にもあるように、普通「曼珠沙華」の花といえば「赤」に決まっている。
とはいえ、ごくたまに白い花の曼珠沙華を見かけることがある。
2、3年前のこの時期に、吟行会で出かけた汽車の窓から、窓外に広がる田圃のそのあぜ道に、道なりに曼珠沙華の群生を眺めている中に、1本だけ白花の曼珠沙華を見つけて、思わず、

「曼珠沙華曼珠沙華白曼珠沙華」

という、白以外は全部季語という句を作ったことがあった。
赤い色彩の中に、一点の白というのは、走っている列車の車窓からも、本当に目に立つものだった。
本日、朝の歩きの途中、意外な光景を目にした。




白花曼珠沙華の群生である。
それも、道路の端、民家の物置の脇に、何本もはえている。
思いがけないところに咲いているので、写真を撮ってしまった。
他の色の花がないので、おそらくこの家の方が、どこかから持ってきて植えたものが、こんな風に増えたのではないかとも思えるのだが、それにしてもこんな身近で見かけることができるとはありがたいことだ。
このしばらく、この道を「歩き」のコースにしよう。

ちなみに、しばらく前に紹介した、水耕栽培風に水路の上に実ったかぼちゃも、このコースの途中にあるので、ついでに様子を見に行ったら、蔓も含めてきれいになくなっていたので、めでたく収穫されたのではないかと思う。
かなり立派に実っていたので、十分食に耐えるかぼちゃだったと思う。

今日も、講演の資料作り。
手元にある資料は、だいたい読み終えたので、講演会のレジュメ作りのほうにとりかかる。
これは、結構楽しかった。
近日中に、岩城先生からあらたな資料を送っていただくことになっているので、それまではこちらの方の準備を主として進めるつもり。

『濱松中納言物語』。
3年の留学期間を終えて、唐土からの帰国直前になって、隠し子が発覚した。
主人公の懊悩も、ピークに達したように思う。
とはいえ、日本だったら、きっと最後まで隠し通したことだろうに、唐土は違うなどと感慨にふけるあたりは、当時の日本の貴族達の習俗としてはごく普通のことなのかもしれないけれど、現代人の感覚からは少々微妙、ではある。

なんとなく、明治時代を背景にした森鴎外の有名な小説『舞姫』などを思い出したりもしたものだ。
『舞姫』では、出産して、その上発狂状態の娘を独逸に残して、日本へと帰国するエリート青年が主人公だったけれども。


【17年9月20日】

そう言えば、今日は「彼岸の入」。
「お彼岸」は春と秋にあるけれど、季語的に言えば、いわゆる「お彼岸」は春の方で、秋は「秋彼岸」と区別される。
「歩き」の途中で、意外とあちらこちらに彼岸花を見かけたのも、むべなるかなということだ。
お墓参りに来られて、墓石を熱心に磨いておられる方の姿などを見かけたりもする。
田舎ということもあるのだろうか、公共の大きな公園墓地とは別に、意外と住宅地の中に小さな墓所が点々とある。
恐らく、裏手に先祖代々の墓所がある、という家も割とあるのではないか、と思う。
住み所と墓所との近接などというのも、地方の町らしい風景なのかもしれない。

今日もまた、少々蒸し暑い。
夜に入って、外気温はかなり下がっているのだろうが、室内は昼の余韻を残しているせいか、やはり蒸し暑い。

今日は、一日使って、講演会の資料作り。
資料の読み込みは今日は一休みにして、ずっと前に作った岩城先生の略年譜をもう少し詳しいものに作り直す作業を行う。
不明な細部を、直接電話でお尋ねしたり、記載事項の裏付けを、30年以上前の雑誌の記述から確認したりと、それはそれで結構しんどい作業だけれど、事実確認ができると、割と面白いななどと思う。
膨大な歴史的資料を読み込んで、記述内容を記録として再構成し直したりというのが、なかなか面白いという人を知っているが、たしかに労力はかかるけれど、事実を流れすぎる時間軸の中に定着するみたいなところは、やっぱり面白いのかもしれない、と改めて思う。

配布用の参考資料と直接講演に用いる資料とを作り分けるというのも、これはこれで気を遣うところがあるな、とも思う。
配布だけして、何かの折りに見ていただければという性格の資料だけで、へたすると結構な枚数になってしまいそうで、これはこれでまずいかなとも思う。
お年寄りの方が多くなるだろうと思うと、文字の大きさや行間の幅などもも含めて資料を準備する必要があるなとも思う。
数年ぶりの作業なので、いろいろ考えながら進める。
さて、どうなることだろうか……。


【17年9月19日】



今年の初「彼岸花」。
見つけたのは昨日の「歩き」の途中。
道路の側溝脇の耕作放棄地に。まだ、蘂を開いていないものもそばに数本あった。
もう「彼岸花」が咲く季節になったのかと思う。

京都在住中、毎年10月の丹後句会に出かける時、嵯峨野線の車窓から亀岡盆地の田畑の畦に咲き誇る「彼岸花」の姿を目にとめていたことを思い出した。
米子市淀江町の白鳳の里で「彼岸花祭」が催されるのも、そろそろのことではないか、などと思い出す。

「死人花」などとも呼ばれるこの花の根塊が、救荒植物として植えられていたということは有名なことだ。
「死人」どころか、人を生かす役目を担っていた時もあったということなのだろう。

風はあるけれど、その風がなんとなく蒸し蒸しとしていて暑いのが残念。
本当は、家中の窓を開けて秋の乾燥した空気を呼び込みたいのに、暑いので窓を閉めて過ごす。
これもまた、台風の余波のそのし残しみたいなものなのだろうか。

『十八史略』、宋の国はあいかわらずのごたごた状態。
儒教を受け入れるか、否かという新たな対立の火種が燃え上がりはじめている。
現在は、反儒教派が儒教派勢力を一気に宮中から追放するという状態。
追放された官吏は、持続的に遠方へ、さらに遠方へと追いやられ続け、併せて官位をどんどん引き下げられるという二重の迫害を受ける。
中には、そんな暴圧に耐えられず、毒をあおって自殺する者や、ストレスのあまり病気を発し、寿命を縮める者なども現れるという有様である。
朱子学の祖、朱き(活字がみあたらない)も登場。
齢70歳にして、迫害を受け続ける。

「彼岸花」、本日の「歩き」の途中、ご近所さんの庭に、1本咲いているのを見かけた。
どうやって、その庭までやってきたのだろうか、興味がちょっとある。


【17年9月18日】

台風一過の快晴、とまではいかないけれど、午前中の小雨も午後には完全に上がったようだった。
と同時に、気温が上がり、少々蒸し暑いほどだ。

昨日は、昼前くらいまでは曇りときどき雨、程度の状態だったけれど、午後からはどんどん天候は荒れ始めて、ほどなく強雨と強風といういかにも台風接近という状態となった。
実家の方の様子を見に行ったり、自宅で本を読んだりして過ごすが、夕方近くになって強まった風のせいで、庭の山法師の木が、さほど大きな木でもないのだが、枝ごと両手掴みで手酷く揺すぶられるような状態となり、最悪の場合、このままでは幹の途中からぼきりと折れてしまいそうな恐れを感じたので、慌てて実家に行き、高枝伐り鋏を借りてきて、雨で全身びしょ濡れになりながら、長く伸びた枝をばばさばさ伐り落とした。
木の姿としては、ちょっとかっこわるいものになったけれど、それが明らかに功を奏して、強い風が吹き付けても、往復ビンタ程度の状態におさまった。
一度家に入り、濡れたものを全部洗濯機に放り込んで、すっかり着替えてから、改めて山法師の様子を確かめに出たが、相当強い風の中でも、もう大丈夫そうな様子なので、安心とちょっと満足感を感じながら家に入った。

雨風は夜遅く、というより、夜明け近くまで続いたけれど、明るくなる頃には、曇り時々雨状態へと回復していた。
雨の止み間に、少し歩こうかと思って出かけると、近所の家のガレージのシャッターが風の影響で扉を上下するための溝から外れて、ぶらぶら状態となっていた。
その家の人も、車が中にある状態で、シャッターがそんな有様なので困惑しておられたが、中仕切をはずした状態で、少しずつ上へと扉を上げることが出来そうなので、二人がかりで、少しずつシャッターを持ち上げて、なんとか上まで上げることができた。
ちょっとした人助けができたような気分で、本格的に歩き始めようと思ったら、雨も急に本降り状態になったので、やむなく「歩き」は中止とした。

帰り道、道路の脇にアルミの細い棒のようなものが落ちていた。
なんだろうと拾い上げてみると、おそらくテレビアンテナの一部のようだった。
周りの家を見渡すと、1軒それらしいアンテナを屋根にのせた家があったので、その家の前においておくことにした。
これも、台風禍のひとつだったのだろう。

午前中は、岩城先生の資料読み。
Tさんの、とても鋭い岩城論があったのだが、その内容に圧迫を感じつつも、なんとかそれに匹敵するようなまとめが出来ればよいが、と思いつつ読む。
なかなか厳しい。


【17年9月17日】

4時過ぎに目を覚まし、「ロミオ・マスト・ダイ」という映画の最後の方だけを見て、もう一度眠ろうとしたけれど、もう眠れそうになかった。
仕方ないので起き出して、雨は降っていなかったので、久しぶりに5時過ぎに「歩き」に出かけた。
外は、全天が雲に覆われていて、大山も標高500メートル辺りから雲に包まれた状態だった。
ただ、一カ所大山の背後の空が、雲が切れて青空らしいものが覗いているのが、いかにも台風襲来を前にした、不安定な空の状態を表しているようだった。

まだ目ざめていない住宅地を抜けて、耕作放棄地が点在する農地の中の道をてくてく歩いていく。
車も通らず、人の気配もまるでない中をひとり歩いていくのは、嫌いではない。
黎明なのか、終焉なのかは分からないけれど、ふとそんなイメージをこの灰色がかった風景に感じたりして、それを楽しんでいるのかもしれない。

1時間ほど歩いてから帰宅。
依然として雨は降らず、風もとりたてて強まっているふうでもない。
このまま、こんな中途半端な状態で台風をやり過ごすことができれば、それはそれで結構なことなのだが、そうもいかないのだろう。
この地域は、地震や大雪では結構被害を被ることがあるのだけれど、台風による被害というのは案外少ないようだ。
南に聳える大山と背後の千メートル級の中国山地のおかげなのかもしれない。

帰宅後、軽く朝食をとって、番組モニターのレポートを1本書く。
今日は、午前中にもう1本番組を見て、レポートを書く必要がある。
来週を含めて今月は10本レポートを書くことになっている。

昨日は、珍しくラジオ番組のレポートを1本書いた。
ラジオは、こんな機会でもなければほとんど聴くことはないが、1時間番組だったけれど、意外と面白くて、メモをA4用紙に3枚とりながらも。楽しめた。
番組の中で、パーソナリティー(もちろん、局アナなのだが)が、即興でラップを聴かせるのが、思いの外上手で感心した。
この人は、裸芸人の小島よしおの物まねも上手くて、アナウンサーも色々やるものだと、そちらも感心した。

今日は、一日家籠もり状態となりそうだ。
普段とさほど変わらない状態ではあるが、気分的には少々鬱陶しい。


【17年9月16日】



「歩き」の途中で見た景色。
耕作地の一画で、送電鉄塔があらたに建設されてあった。
その横には、現在使われてある巨大な鉄塔が並行してならんでいるので、いずれすっかり新しい鉄塔と交代させるのかもしれない。
古い鉄塔の一本は、数年前の豪雪の際、半ばあたりからぽっきりと折れてしまった。
表面の塗り直しなどで、古さは感じさせないけれど、そうとう経年劣化的な状態が進んでいるのだろうか、と思う。

作業員の方が、何人も鉄塔に取り付いて作業をしている姿を、しばらく見上げていた。
鉄塔の先端部は、高さが30メートル以上ありそうだった。
差しのばされたクレーンの腕のそばで、命綱を鉄塔本体に結んで、てきぱきと作業しておられる姿は、一種壮観ですらあった。

携帯の望遠で写した写真なので、ひどくぼやけて写っていたので、いっそのことと、画像修正アプリで、白黒補正強という風にやってみたら、昔々の報道写真風になったので、載せてみた。
この時は、塔の頂上部に二人の方が登って、作業をしておられた。

勢力の大きな台風が近づいているらしい。
三連休をねらい打ちするようなタイミングでやって来るとは、間が悪い台風だと思う。
とはいえ、そんな呑気なことを言っていられないほどの勢力を保っているらしく、さらに進路予想円の真ん中あたりに地元は位置しているので、かなり気懸かりな思いではある。
外は小雨がぱらつく程度で、風もなく、平穏な様子ではあるけれど、しかし海鳴りの音だけが普段になく轟いて聞こえてくる。
海はすでに相当荒れているのかもしれない。
本格的に台風の影響にさらされるのは今夜から明日にかけてらしいので、今の状態は、まさに嵐の前の静けさというところなのだろう。

『濱松中納言物語』。本文は、読み物として恋愛物語らしい華やかさでお話が進んでいるけれど、本文並みに面白い内容が注釈の中に時折現れる。
「中国人なのに作者は和歌を作らせているようだとか」(実際、主人公とヒロインとは日本の王朝貴族のように和歌のやり取りで思いを伝えあっているのだが)、「作者は中国語を日本語の一方言のように扱っているようだ」(日本人の中納言と中国の人たちが最初から会話が自由に通じあっている中で、ヒロインの言葉の中に分かりにくい言葉が混じっていると中納言が感じる部分の注釈)」とか、作者に対するつっこみ的なところがちょっと面白い。
表現的には、ところどころ分からない部分があって、それは言い回しだったり、誤写のせいだったりするのだけれど、そんなところはすっとばしても、何となく意味が了解できるのがありがたい。


【17年9月15日】

『十八史略』の続き。
宋と金の争いは、その後、宋の単発的な局地戦の勝利と、その後の講和策によって、金との間に主従関係ではなく、親族的な関係(叔父甥の関係と表現されてあったが)を成立させる。
金にとっても、宋にとっても、相手を完全に征服し、支配下に置くということが困難であるという認識の下での、力の均衡策に出たということなのだろう。
とはいえ、金の猛将は「十年を待て。十年たてば、宋の力も今より衰えるであろう。」との遺言を残して死に、宋において強力に講和策を押し進めてきた人物もまた死去してしまったので、この安定もいつまで続くか、という点はあるけれど、それはこの先を読みすすめば、明らかになることだろうと思う。

ごく普通に考えたら、たった1発のミサイルが、自らの頭上に落下してくる確率など、限りなくゼロに近い。
オータムジャンボ宝くじの1等が当たる確率の方がはるかに高いのではないか。
まして、こちらを標的としていなければ、事故以外には落下することはありえない。
とすれば、その確率はさらにゼロに近づいていく。
しかも、事故等で日本列島に落下する場合、それを打ち落とす体制はすでに不十分ながら出来ている(らしい)。

宇宙空間とはいえ、日本上空を通過することは愉快とはいえないけれど、国民がこぞって大騒ぎするのは、きっと北朝鮮にとっては願ったりかなったりのことだろう。
ちょうど、テロ組織にとって、自らのテロ行為に対して過剰に反応させることが、テロの目的のひとつであるように。
テロに対する有効な方法は、平常心を保った状態で、テロ対策を講じることらしい。
それは、紛争地域を除き、実際テロ被害にあった国や地域が実践していることだ。
パニックこそ、テロ集団の意図するところだろう。
日本人は、感情的で、扇情されやすい民族性を持っている。
その危なっかしさにつけ込まれないようにしなければ、自ら手痛い目にあいかねないと思われる。

政府は、国民の間に不安や動揺が広がることを防ぎ、安心感をもたらすように、広報もし、対策をも講じるべきだろう。
今のように、国民が漠然とした不安感の中に身を置くという状態を少しでも解消すべきだ。
漠然とした不安は、なにかのきっかけで一気に膨らんでいく。
それは、最悪の場合、思いがけない暴発的な行動に繋がることはあり得ることだろう。
国家レベルでそれが起こった場合、最悪の事態すら招きかねないだろう。
中には、意図的に不安を募らせ、なんらかのきっかけを意図的に作り上げて、自らの意図する方向に向けて暴発を誘導するという、悪辣なマッチポンプ的な存在もありうるだろうことだし。

為替相場は、ミサイルが発射された瞬間、110円台から109円台へと急落したけれど、その後すぐに110円台を回復し、現在111円台にまで円安状態が進んでいる。
日経平均も続伸して、まもなく12000円を回復する勢いになっている。
一瞬下がった為替、それはまさに世界が一瞬びっくりしたという状況の反映だろう。
しかし、その後は、すぐに平常状態に戻り、安全な通貨として円は買われ続け、日本の株も同様にミサイルが通過したにも関わらす、どんどん買われていったらしい。
これが北朝鮮のミサイル発射に対する世界の受け止めであり、現状なのだろう、と思われる。
北朝鮮のミサイル発射による影響は、すでにこの程度のものという状態にまで、世界では折り込み済みのリスク要因となっているようだ。

それにしても、いまのように圧力をかけ続けることによってもたらされるリスクの方が、正直恐ろしい。
膨らみ続ける風船が、いつか破裂しないことを祈るばかりだ。


【17年9月13日】

『十八史略』を読んでいると、時折現代の政治状況とそこに関わる軍人・政治家・官僚たちの姿を思い浮かべることがある。
逆に、『十八史略』の中からは、普通の庶民の姿はほとんど浮かんではこない。
それは、書名の通りいわば略記なので、庶民史の部分は本文から省略されてあるのだというわけではない。
国民の姿は、もともと中国の正史の中にはほぼ全く描かれていないだろうからだ。
描かれてある場合も、いわば代表的な世論を、賞賛ないしは非難の言葉で簡略に伝えるという程度のことだ。
その分、政略と武闘の様相が、鮮烈に浮かびあがってくるということかもしれない。

昨日もふれた宋王朝の武闘派と講和派とのせめぎ合いというのも、そのまま現在の世界や国内の状況の似せ絵のように眺められるところがある。
政治の本質というものが、実はあまり変わっていないということの証明なのかもしれない。
違うところがあるとすれば、『十八史略』には現れてこない、一般庶民のありようということなのかも。

それにしても、今日は早朝から夕方までのほぼ終日、航空自衛隊の訓練飛行の音が轟き続けていた。
飛行音には慣れているとはいえ、こんなにひっきりなしに訓練機が繰り返し上空を飛び交い続けるのは、今までなかったことのように思われた。
何かの動き、ないしはそれを想定した訓練が行われているのだろうか、とちょっと疑心暗鬼めいた気持ちになったりもしたものだ。

沖縄で、戦争遺跡でもあるガマの内部が破壊されたという。
どのような意図をもって、誰がそんな蛮行を行ったのか、気になる。
あるいは、どんな意図もなく、蛮行とも自覚しないでなされた行為であれば、さらに悲惨な現実ということになるだろうけれど。
そこに残された遺物や遺骨?にまで破壊の手が及んでいるらしい。
まさかとは思うけれど、破壊することによって集団自決がもともとなかったものとする、粗暴な歴史清算・隠蔽の思いがその背後に働いたりしていないことを願う。

気詰まりな毎日ではある。
そんな中で、岩城久治研究のための資料読みは、目先の日常を離れて、活字の世界に踏み込むことで、生活に弾みと活力を与えてくれるような思いがする。
実際の内輪の講演会では、どんな話ができるのか、ずいぶんおぼつかない思いもあるけれど、それは当日のこととして、ひとりの俳人の作家活動を、生活的なものを背景として意識しつつも、読み進めていうことは、しんどいなりになかなか楽しいことでもある。
さらに、10月にこの作業が終わったら、引き続き別の俳人について、某俳誌に継続して書く機会が与えられるかもしれない。
そのための準備作業に年末から年始を含め、数ヶ月必要になりそうだと思う。。
その人の資料を、もし可能であれば持っておられるはずの岩城先生からお借りできたら、などと身勝手なことももくろんではいるのだが、それが実現できたら大変ありがたいことだし、資料漬けの生活もまた楽しみなことかもしれない、と思う。


【17年9月12日】



秋を代表する季語のひとつ、「芋の露」。
芋は里芋のことで、写真の露は、もちろん雨粒ではなく、広い芋の葉の上に溜まった朝露である。
露の傍らに、じっとしているのは、芋虫。
何の幼虫なのかは、わからない。
長さ1センチほどの、かわいい芋虫である。
これもまた、「歩き」の途中で見かけた風景。
とはいえ、この小さな畑の周りは、耕作放棄地で、丈高い草むらが広がっているのだが。

岩城先生関係の資料をいろいろ読んでいくと、あれこれ内容が繋がってきて、整理がつかないような状況になってくる。
今日は、初期句集の『負債感』という250句ばかりの作品集を読む。
第一句集が『春暉』きということになっているので、『負債感』はいわば0号句集ということになるのかもしれない。
15歳から25歳までの10年間の作品集。
高校から大学、そして新社会人となってまもない時期を網羅する句集。
ちょっと少年から青年としての作品とは思えないくらいに、成熟した句が多く、改めて驚いてしまう。

資料の中に2010年くらいまでをカバーした年譜も見つかったので(誰が作ったのだろう、あるいは私だったかもしれないけれど、全く覚えていない)、それと照らし合わせながら作品を読み、またいただいた俳誌『霜林』の関係ありそうな号なども参照しながら、なんとか話題を整理していこうと務める。
さて、どうなることか、と思う。
しかし、こういう作業はなかなか面白くもある。

ミサイル問題は、次第にキューバ危機的レベルへと緊迫度を増していく。
核戦争一歩手前で武力衝突が回避されたのは、「偶然」の力によるという発言は、どう受け止めてよいか、分からないけれど……。
日米韓、そして北朝鮮の指導者達には、極東アジアのみならず、世界の未来を見据えて、武力衝突以外で解決する方策が、果たして見えているのか。
不安な気持ちに駆られる。
もっとも、そんな壊滅的な状況を待ち望んでいる連中が、国内外含めて存在することも確かなことではあるが。
それにしても、宇宙空間をミサイルが1本通過しただけであたふたする国民のその意識レベルからは、完全に遊離したところで、事がどんどん進展しているようだ。
この先、一体どうなることか……。

午前中の雨はなんとか上がり、雲は多いが雨はこのままやみそうだ。
ただ、かなり蒸し暑い。

『十八史略』。
宋と金の混乱は、まだ続く。
宋は、個別戦には勝利を重ねるまでに事態を前に押し進めてきたけれど、完全に金を制圧するほどの力を持ち合わせていないので、中途半端な段階で和議へと話を転じるほかはないという状態。
ややこしいことには、新たな勢力として、ここに金同様遊牧民続の国家である蒙古が台頭し始めるという事態が生じる。
宋の国内の主戦派と講話派との対立は、ふたつの波が揺り返すように生じては消え、混乱しつつも、衰亡の方向へと徐々に進みつつあるように思われる。


【17年9月10日】

モニターのレポートを3本書いて、少々疲れてしまった。
27時間テレビとかいうのを、断片的に見て、あとはちょっと本を読んだり、片づけをしたり、近所に買い物に出たりして、その他だらだらと一日を過ごしてしまう。
ちなみに、27時間テレビ、割と面白いような気がする。
断片的印象によるものではあるけれど。

明日は、天気は下り坂になりそうだ。
それを見込んで、今日のうちに洗濯を済ませ、半日外に干しておいたらからからに乾いていた。
白露の候を過ぎたのに、日差しはやたらときつい。

昼過ぎ、30メートル程離れた往来で、約20分くらい、猫が2匹にゃおにゃお鳴き交わしていた。
発情期ではないので、恋の猫的な状態ではなく、けんかでもしていたのだろうか。
その猫が、その前に家の庭を横切りがてら、居間のソファに腰掛けているその家の主人(私なのだが)の顔をしげしげ眺めながら、通り過ぎて行ったりもしたものだった。
飼い猫のはずだが、飼い主は亡くなっていて、身内のひとが代わって居住していたはずだけれど。
きちんと世話をされているのだろうか、などと綺麗な毛並みの猫の姿を目で追いながら、考えていた。

所在ない、という状態は、それ自体どこか疲れてしまう。

そう言えば、夜、何度も目を覚ましながら、ずっと繋がっていく夢をみていた。
しかも、その夢というのが、本当に最悪のもので、近来まれにみる悪夢とでもいえそうな代物で、夢を見ている最中から、目を覚まして後も、嫌な感じがずっと続いていた。
もう夜も9時近くになっているのに、その夢の幾つかの場面は、不快感とともにかなりくっきりと記憶に残っている。
一体、どういうことなのだろうか、と思う。


【17年9月8日】

NHKの「みんなのうた」という5分番組。
なんとなく、子供向けの歌を流している幼少年向け番組的なイメージをずっと持っていたのだが、本日たまたま「みんなのうた」を聴いて、それが全くの間違いであることを思い知った。
歌は、「夢の途中で」という作品で、後でネットで確認したら、池田綾子さんという方が唱っておられるということを知った。
同じくNHKの「こころ旅」でも、主題歌を歌っているひとらしい。
あの曲も、ファルセットの部分などを含めて、面白い曲だなと思っていたのだが。
普通は、5分枠で2曲歌を流しているように思っていたが、この「夢の途中で」は、これ1曲で5分間をたっぷり唱い込んでおられた。
曲も歌声もすばらしいのひとことで、本当に感動した。
もちろん、歌とともに流されるアニメのペンギンもとても良かった。
この1回分で、「みんなのうた」のイメージが、完全に一新してしまったようだ、単純な話ではあるが。

そう言えば、同じくNHKのEテレの番組は、朝の子供向け番組をたまに見たりしているけれど、大人が見ていても十分に楽しめるし、右脳やら左脳やらが微妙に複雑に刺激される快感のようなものがあって、面白いなとは思っていたのだが。
今回、改めてNHKをちょっと再評価したい気分になった(ニュース関係は相変わらず今ひとつという面もあるけれど)。

『濱松中納言物語』を読み始める。中編小説、というところ。
結構読みやすくて、どんどん読めてしまう。
物語の最初が、自分の父親が、亡くなって後、中国の皇帝の第三皇子として生まれ変わったのを、孝養のために息子である主人公がわざわざ中国へと渡って会いに行くということから始まっている。
なんともすごい始まりではあるが、早々に父子の再開はなされ、父親の第三皇子も、自分の前世を自覚している風があったりする。
主人公は、眉目秀麗、学才万能というまさにヒーローとしての条件を身につけた人物で、すでに楊貴妃にも比べられうる、とはいえ、楊貴妃ほどにぽっちゃり型ではなく日本人好みの絶世の美女などもヒロインとして登場していて、今後お話がどんな風に展開していくことだろうか、と思わしめる作品だった。
あるいは、読者サービス満載の、読み物としての面白さを追求した作品なのだろうか、と思う。
ただ、本文がかなり長そうなので、これでしばらくはこの本とお付き合いすることになりそうだ。


【17年9月7日】

終日、雨。
こちらは家に籠もって、資料読み。
今日は、目の調子が比較的良くて、ありがたかった。
講演のネタを一つまとめる。
いくつか準備して、適当に組み合わせて話を繋げねば、と思う。
人前で話すということが、全くなくなったので、ちゃんと話せるか、どうか。

岩城先生から送っていただいた俳誌『霜林』の数年分をその年度ごとにまとめる。
あまりに古いものは残っていなかったようだけれど、それでも昭和30年刊行のものなどが混じっている。
目次をみて、面白そうなところや、材料になりそうなものを拾い読みし始める。
これは、結構時間がかかりそうな気がする。
若き日の岩城先生の作品などを目にすることができて、これはこれで大変興味深い。
丹後や京都の知人の作品などにも出会えるのが、面白い。

『平中物語』読了。芥川が元本にしたのは、平中を主人公にした説話集からのようだ。
『親鸞集』もかなり読みすすむ。とはいえ、内容は2割程度しか理解できていないような気がする。
実際のところは1割にも満たないかもしれないけれど。
ただ、他宗の批判の根拠としてあげている事柄は、こんな風に考えているのか、ということがそれなりに了解できた様な気がする。
ただし、言われた方からすれば、まさに「この野郎、なに言っていやがるんだ!」と思わず親鸞を罵倒しそうなくらいの内容ではあると思うけれど。

政治家は、下半身がだらしない、とは良くいわれることだけれど、もっともだと思わざるを得ない。


【17年9月5日】

最近になって、急に細かい字がみえずらくなり、本を読むにしても、楽譜の歌詞を見るにしても、なんとも不便で困ってしまう。
老眼なのだろうけれど、こんなに急に進行するものなのか、と思う。
眼精疲労的な面もあるのだろうかとも思い、目薬を買ってきて、点眼しているのだが、これは確かにちょっとだけ効果はあるようだと思う。
読書の方は、状態が改善しているところがあるけれど、合唱の際の楽譜は、なかなか難しい。
日本語の歌詞はさておき、英語、そしてドイツ語の歌詞になると、目で追っていくことができない。
なんとか歌詞だけを暗記して、と思うのだけれど、その暗記力のほうもなんともおぼつかないので、困ってしまう。

講演会の資料の一つが、なんとか出来上がる。
こちらも、紙資料を読んでは、パソコンに打ち込んでいくので、紙と画面の両方を交互に見るというのは、本を読むより負担が大きい。
長時間は無理なので、30分から40分くらいで休憩を入れては、作業を行ってきたけれど、まあなんとかまとめることができた。
いずれ老眼鏡なんてものが(近日中かもしれないが)必要になることだろうが、なんとも鬱陶しい。
遠近両用っていうのは、なんとなく信用置けないので、メガネを二つ持つことになるのだろうが、できたら、NHKの某番組で日野昇平が使っているようなメガネが楽そうだな、とは思う。

身内が短期入院から本日、退院。予後はすこぶる状態がよいらしい。
本人も、びっくりしていた。
医学の進歩ってのは、本当にすごいものだと感心する。
来月、もう一度短期入院することになるが、結果は大いに期待できそうだ。

日本とドイツの首脳会談終了。
北朝鮮の核問題について、日本の総理は「日本にとって脅威」と相変わらずの弁であり、メルケル首相は、「日本のみならず、世界にとって脅威」と語る。
危機感を煽りたい総理と、冷静に事に処するドイツの首相と、アジアとヨーロッパという地政学的な相違はあるにしても、好対照な態度ではあった。
考えてみれば、総理は国民に危機感を吹き込み、動揺を煽り立てるのが仕事ではなく、国民のそんな不安に対して冷静沈着を訴え、動揺を鎮めようとするのが、その役目だと思うけれど。

カリブ海上に、強大なハリケーンが発生したらしい。
最大級の威力を持つハリケーンということで、今後カリフォルニア方面は、大きな被害を被る可能性があるらしい。
気候変動の異常さは、本当に世界レベルのものになっている。
「ハービー」の降水量1300ミリなどという数値は、異常だ。
降雪ならいざしらず、地面に均等に1メートル30センチの深さに雨が降るなんて、ちょっと想像がつかない。


【17年9月3日】

最近の安倍総理の動きをみていると、北朝鮮問題が、いつのまにか、本来の米国対北朝鮮の対立・調整問題から、その中心点がずれて、対立・調整を日本が代行して押し進めているような状況に変わってきているようだ。
安倍総理の思惑には、つねにきな臭さを感じているのだけれど、このまま今の状況が進展すれば、北朝鮮の側からすれば、交渉の対象は米国であるけれども、それを阻止しようとする「当面の敵」は日本ということにもなりかねないと思われる。
「国民の生命と財産」を本気で守るつもりがあるのならば、米国対北朝鮮の代理紛争の当事者に自ら進んでなるという選択は、もう少し慎重であるべきだ。
少なくとも、圧力をかけ続けるというやり方が、すでに実効性をあきらかに疑問視されているような状況の中で、愚か者の一つ覚えのようにその線だけで押していこうとすることは、国家存立の危機という局面におかれた場合、最終的には戦争の危機をもたらすということに繋がっていることは、過去の戦争の歴史において、圧力を受けた側の当事者であった日本にしてみれば、容易に想像できることだろう。
もし、米朝が武力闘争の段階に入ることがあれば、部分的な集団的自衛権の発動云々にかかわらず、おそらく日本は紛争の当事者の一人として、北朝鮮の攻撃対象になる可能性は非常に高いだろうと思われる。
少なくとも、首都東京ならびに米軍基地を設置する都市は攻撃の対象にということはすでに北朝鮮が広言していることであるし、「島根県は関係ない」と口にする自民党の某有力議員の発言も、どうなることやらと思われる。
そもそも、日本は北朝鮮との間に拉致問題という日本独自の問題点をかかえこんでおり、そのことを含めて日本としての態度を考えた場合、この圧力を利用して一気に拉致問題の解決をまで図るというような机上の空論が通用するはずはまずないだろう。
日本には日本独自の課題があり、本気で拉致問題の解決を考えているなら、日本独自の方策というものを日本は日本として考える必要はないのだろうか、と思う。
まさかとは思うけれど、拉致問題はあと数十年を待たずして、当事者の死亡という形であいまいなままに終息を迎える問題、というような冷徹な計算が働いていることを懸念する。


【17年9月3日】



写真は、もちろん「空中栽培のメロン」などではない。
農業用の水路にはみ出た
南瓜の実である。
それにしても、植え込みの木に蔓が上手に絡まって、水路に落下することもなく、みごとに空中にとどまっている。
そろそろ収穫しても良いくらいの大きさになっているのだが、持ち主の方は、果たして自分家の南瓜が、こんなきわどい状態になっていることをご存じなのだろうか、と余計な心配をする。

日曜日。
天気予報は朝から好天のはずなのに、突然の豪雨。
ただ、ごく短時間で止んだので、その後は快晴となる。
台風は、東北沖の方まですでに移動しているはずだが、その余波が依然として残っているようだ。

角川『俳句』に連載された岩城先生の「俳句の素材」。
無いと思っていた資料が、出てきた。全部コピーを取って、別の資料の中に挟んだままにしておいたらしい。
いつそんなことをしたのか、本人としては記憶がないのだけれど、とはいえ良く残しておいた、と自分で自分を誉めたいような気分になる。

早速、朝早くからまとめ作業。
連載分10回分までくらいを、参考資料として使えるようにポイントをデータ入力。
その後、1時間ほど歩き、さらに結社誌の短文の校正を済ませ、さらにモニターのレポートを2本書き上げたら、午前中が終わった。
午後は、ちょっと休憩してから、合唱の練習に出かける。
英語やらドイツ語やらの歌詞が鬱陶しい。

とはいえ、暑くないのが本当にありがたい。
今年の夏は、かなりまいってしまった。
毎年、こんな状態が繰り返されるとしたら、かなわんなーと思う。


【17年9月2日】

柔道の試合は、見ていて結構面白いのだけれど、国際大会などで、ポイント性のために、明らかにポイントを計算して、勝負を避けている姿が露骨に見えたりすると、見る側としては本当に興ざめだ。
勝つためには、そのような計算高さも「試合巧者」ということで、技量のひとつということになるのかもしれないけれど、もっと正々堂々と正面から勝負しあえよ、とついつい思ってしまう。
柔道は、肉弾相打つ格闘技なのだ、という印象がこちらの側にいまだに強いようだ。
古くさい人間なのかもしれない。
サッカーの試合などでは、アディショナルタイムの使い方については、そこまで抵抗感はないのだけれど。
サッカーも格闘技であり、最悪国家間の紛争にまで発展するくらい、熱いものらしいけれど、とはいえゲームという印象がまだ強い。
格闘技、というどろっとしたところまで踏み込んでいないのは、競技としてそれなりに洗練されたものになっているからなのだろうか。
とはいえ、サッカーのサポーターといわれる人たちの熱狂ぶりは、よく分からない。
余計なお世話ではあるけれど。

朝から、奇妙な天気。
周囲には青空が見え、太陽の日差しが眩しいのに、上空だけは黒雲が覆って、思いの外激しい雨が降ってきたりする。
台風の余波が、こんな所にも現れているようだ。
時折の虹は、それなりに風情あるものだけれど、せっかく涼しい中を歩こうと思っていたのだが、午前中の間は、この雨雲の断片の通過のため無理なようだ。
土曜日は、フリータイムなので、ちょっと遠出をしてみようかとも思ったのだが、中止。
昨日の続きの資料読み込みに時間を使おうかと思う。

古典の『平中物語』を読み進めている。
『伊勢物語』と同系列の、色好みの男を主人公とした歌物語ではあるが、『伊勢』よりもずいぶん生な世界に近いところを描いているようで、そこはそこで面白い。
芥川龍之介が、この平中を主人公として、ちょっとスカトロジー(糞便愛好とうのだろうか)めいた短編小説を書いたりしているのだが、元の話はこれなのだろうか、などとも思ったりする。
主人公の男が中途半端に格好良いような悪いような人物であるとともに、登場する女たちが妙に生身めいた姿で描かれているようで、面白い。
『伊勢物語』のように、貴族の娘さん達の恋の指南書にはあまり向かない一冊ではあるな、と思う。
『十八史略』は、金と宋との対立の辺りまでやってきた。勢力を拡大中の金のかなりざっくりとした民族性と、宋の衰弱した王朝の混乱ぶりが興味深い。


【17年9月1日】

9月に入った。
初秋らしい涼しい一日だった。
朝、食事を終えて「歩き」に出る。
途中の野道で、高校生らしい男子生徒が、道にしゃがんでスマホでどこかと連絡を取っている様子。
すでに、始業時間が迫っているようなのに、道の途中にしゃがみ込んで、なんとなく元気のない姿なので、夏休み明けの9月1日が、生徒達の事故が多い日と、しきりにニュースなどで放送しているのを見ていたせいもあり、ちょっと気になって、遠目に様子を見ながら歩く。
その後、立ち上がって歩き出したので、何でもなかったようだと思って、本格的に歩き出してから、気が付いた。
この地域では、高校はすでに夏休みは終わっていて、数日前に始業式も終えているはずだった。
9月1日が始業式で、ちょっと学校に行きずらい高校生にとって本日が鬼門の日、というわけではなかった。
とはいえ、全国的には9月1日は子供達の自殺が突出して多い日だ、という現実は変わらない。
社会の荒廃は、こんなところにもはっきり現れている、ということなのだろうか、と思う。

今日から、生活に組み立てを変える。
午前中は、講演会の為の準備作業を中心に、朝の間の「歩き」もきちんと復活(猛暑の時期は、日が昇った瞬間から暑くてとても歩きにくかった)しなければ、と思う。
昼食後は、一休み。
午後からは、古典作品を中心に読書。
夕方、余裕があればさらに「歩き」。
夜は、目を休めて読書は一切なし。テレビはほどほどに見て、早めに就寝、というペース。
とりあえず、10月下旬まではこの調子でいきたい。

本日は、さっそく綴じまとめてあった資料を、少しずつ読み直し始める。
以前、学習会で発表したレポートなどもでてきて、それも読み直してみるが、、自分が書いたものとは色々な意味でちょっと思えなかった。
若さの力、だったのだろうか。
残念だったのは、ずっと残して置いた角川『俳句』の古い分を、引っ越しの際に大量に処分してしまったことだ。
今になって、そこに掲載されてあった岩城先生の連載を通して読めないのが、痛い。
『俳句研究』の方は、資料的価値が高いだろうと思って、そっくり残しておいたのだが、『俳句』の方は、今にして悔やまれる。
在京時代には、場合によって関西学研都市内の国立図書館分館まで出かけていって、資料の検索やコピーなどができたのだけれど、今では無理。

北朝鮮に圧力をかける術が、すべて無効だった場合、その上での次の一手はどうなるのだろう。
北朝鮮という国は、思った以上にしたたかで手強い国のようだ。
現在も、この問題の主導権を握っているのは、実は米国ではなく、安保理でもなく、北朝鮮のようだ。
業をにやした米国の武力による制圧がなされた場合、果たしてどうなることか……。
トランプには、政治家としての叡慮に甚だしく欠けるところがあるように思われる。
何をしでかすのか、分からない。
その分、恐ろしい。
あまりお友達にはなりたくないタイプの人物である。