日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

         
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【19年9月28日】
2か月ほどかけて準備をし、その後1か月くらい使って書き進めてきた文章を、どうにかまとめ終わった。細かい部分の推敲も重ねてきて、読み返すたびに訂正部分が見つかり、その都度考え込んだり、書き改めたりもしてきたけれど、期限というものもあることで、どこかで踏ん切りをつける必要があった。どうやらその時に達したような気持である。
原稿用紙にして30枚ほぼぴったりの分量に何とか収め、その分いろいろ無理なところや書き足らないままの部分などもある(書き足せば、物理的に条件を軽く超過してしまうので、そうするわけにもゆかず)けれど、ここまでにしておこうと思う。
話題は、平畑静塔という俳人に関するもので、俳句に興味を持つ人でも、今ではほとんど知られていないのではないかとも思われるけれど(ちゃんと「蛇笏賞」受賞作家で、『天狼』の代表的俳人のひとりでもあるのだが)、個人的な興味と共感とで、書き進めてしまった。現代俳句にどれほどの意味や意義を持つ主題なのかも、いまいち書いた本人にも判断しかねるけれど、ともかくもいつか書いてみたいと思っていたものに実際着手できたという、まあ自己満足的なものなのだろうけれど。
平畑静塔については、以前某俳句結社の結社誌に、「縄文」関係のことと絡めて書いたことがあったので、静塔関係の文章はこれで二つ目ということになる。平畑静塔、なかなかすごくて面白い人物である。

【19年9月24日】
小泉新環境大臣の「セクシー」発言が話題になっているらしい。どんな意味で使われているのか、分らないのが残念。本人も説明するのは野暮らしいので、一層意味が不明となる(ワイドショーでは、本人になりかわり、しきりに弁明に勤める律儀なコメンテーターも出現してはいたけれど)。神秘の国日本から来た、神秘の国務大臣ということで。それにしても、「セクシー」は今年度の流行語大賞にノミネートされることになるのだろうか。
結局、被災地の千葉県に一度も行くことなく外遊に出かけた某総理。他の国務大臣とともにラグビーのワールドカップに行く時間があっても、千葉県を訪問する暇はなかったらしい。ラグビーを観戦して、子どもみたいに無邪気にはしゃぐ姿がネット上にあがっていたけれど。おそらくもう、この人は「国民のために気を使っています」的な無駄なパフォーマンスをする必要性をすでに感じていない、ある意味政治的に悟りの境地に達している人物なのだろうか、などと勝手に推測したりもする。
それに、今回の様々な不手際は、いずれすべて森田健作知事が背負ってくれることだろうし。テレビ画面に映し出された憔悴した表情が印象に残る。かつての人気テレビドラマ「俺は男だ」で溌剌たる主人公を演じていた若手俳優森田健作の姿が、今でも印象に残ってはいるのだけれど。「吉川君!」などと独特のハイトーンのセリフ回しなども、記憶のどこかに微光を放ってはいるのだけれど……。
「日本人は他民族にくらべ格段に優れているか」とのどこかのアンケートに6割強の日本人(というのか、大和民族というべきか)がイエスと答えたそうだ。「他の民族」とはどこを想定してのことなのかは不明だけれど、スゴイゾ!大和民族。

【19年9月23日】
個人的な感想なのだけれど、公的な場で「丁寧な説明をします」などと言われても、最近はまるでピンとこない。それどころか、結局おざなりなことを言ってお茶を濁すか、同じことを馬鹿みたいに繰り返して相手の時間を奪うか、ウソをついて相手をけむに巻いて恥じないか、ぐらいの意味合いでしかない、中身の薄い言葉のように思う。昔は、それが誠意の表現であったはずの美しい言葉が、完全に形骸化したのは一体だれのせいか……。
福島の原発の汚染水処理の問題について、溜まる一方の汚染水(この「汚染水」という言葉も、いつのまにかマスコミや政治の世界では「処理水」に変わってしまったらしい。まだ「処理」を済ませていない汚染「水」の略称なのかもしれないが)を何とかしなければならない、ということは確かに喫緊の問題だなと、思う。
世界の原発からでる「トリチウム」を含む排水は、希釈して海洋投棄するのが趨勢らしい。「トリチウム」は比較的人体に害を与えないものらしく、薄めて流せば「処理水」として自然界に大きな負担は与えないとか。ただ気になるのは、世界の原発はきちんと管理された状態の中で、適切な工程を経て処理された「処理水」なのだろうが、今回の福島のように甚大な事故を起こし、その対応のために使われた「汚染水」とは、含有する放射性物質の質と量とが格段に違うだろうから、同じように扱うことはなかなか難しいのではないか、ということは素人の素朴な疑問として持つ。
実際に海洋に投棄することになれば、改めて「処理」がなされ、「汚染水」は初めて文字通りの「処理水」として、扱われることになるのだろうけれど。
ただ、その場合は、単純に国内向けの「丁寧な説明」ではなく、世界に対して文字通り嘘偽りのない誠実な「丁寧な説明」が求められることとなるのだろう。もし、それを怠れば、その時から日本という国は世界からの信用を失うことになりかねない、とも思う。
それにしても、「処理水」を大阪湾に流せばよい、科学的な根拠をきちんと示して実行すれば大丈夫、などと言う発言もあるようだけれど、おそらく海洋投棄が決まれば、それに従って「科学的根拠」の数値などがねつ造されることだって起こりえる今の日本であってみれば、なんとも物騒な発言のような気がする。まして、風評被害が広まり、それが収束するまでに、大阪湾のみならず広く瀬戸内海全域にわたり、どの程度の時間と経済的損失が生じるかなどの「科学的」な予測を持ったうえでの発言なのだろうかなどと、心配になってしまう。余計なことだけれども。
風評とは、知性の部分ではなく、感情の部分に関わるから、科学的根拠などというものがなかなか通じにくいような気もするのだ。
問題解決のためにも、今度こそ本当の意味での「丁寧な説明」こそが求められてくるのかも……。きっと、説明する側の誠意と覚悟も問われることだろうし……。

【19年9月19日】
我ながら不注意で、かなり大きな自損事故を起こし、普通車から安全装備がたっぷり付いた軽自動車に買い替えた。
できるだけ経費切りつめということで、オプションの中では結局「ドアバイザー」という窓の上の庇みたいなものをとりつけるのをやめた。ディーラーの営業担当の若い子に、「雨の日に窓をあけたりすることがなければ、あまり必要ないですよ」と助言され、さらに一言、「ない方が車のデザインが生かせます。僕はそちらの方が好きですね」、これでオプションから外した。
この若い子の一言は、なかなか有効で、車のことなど何も知らなかった私にはありがたいことが多かった。以前、任意保険についても、「うちが取り次いでいる保険より、ネットで探して申し込んだ方が断然安いです。」と耳打ちされて、そうすることにした。確かに、同一条件でも万単位での違いがあった。商売っ気だけではない応対が信用につながるのだなーと改めて思ったりもしたものだ。
それにしても、「ドアバイザー」。なんとなく目に入っているはずのものだろうに、わたしはそれがドアの上の車体の方に装着されているものとばかり思い込んでいた。というのは、「ドアバイザー」とは、ドアと車体の隙間から、雨などが車内に浸入するのを防ぐものとばかり思っていたからだ(ちょっと考えれば、そんな構造していれば、「ドアバイザー」自体がドアの開閉を邪魔するはずなのに……)。
「ドアバイザー」の付かない車が納車されて、改めてそれがある車とを見比べてみて、自分の誤解と思い込みとに気が付いたりした。
ウオーキングの途中、目に付く車に注意すると、やっぱりほとんどの車は「ドアバイザー」付で、私などは「ドアバイザー」なしの少数派だということがわかった。
とはいえ、小さなでっぱりのないドア周辺のすっきり感は、とても気に入っている。

【19年9月18日】
千葉県の倒壊したゴルフ練習場。側面のネットが固定式だったということを今日のニュースで初めて知った。想定外の暴風という面はあっただろうけれど、強い風が吹くことを前提に、ネットは上げ下げ可能のものを普通に設置するものと思っていたので、驚く。風速38メートルに耐える設計で、役所の認可も通っていたようなので、法律的には法の規定する条件を越える不測の事態ということで、ゴルフ場の側もまた今回の台風の被害者ということとなり、かなり免責されることになるのだろうか。ネットが固定されていれば、その部分は壁のように風を受けることは事前に想定できそうな気がするけれど、法律的には柱の強度のみが問題とされているらしく、柱+ネットでの強度などは現在の法律の適用外になってしまうようだ。とはいえ、現実に結果として大きな被害が発生していることから、法的な不備として今後考えられていくということになるのだろうか。国会のお仕事のひとつである。それにしても、最近「想定外」の出来事があれこれ発生して、その結果「法律の網」をすり抜ける、あるいは超える事象が法律の不備ということがあちらこちらから発生しているような気がするけれど。自然も社会のありようも、従来の間尺を越えて変化しているということなのだろう……。このゴルフ場の柱倒壊問題は、今回の台風被害の象徴的な事象のような気がする。
これはつまるところ、すべてが後手後手に回るという、奇妙な悪循環の現れということなのだろうか。
とはいえ、大型停電の対策に原発の再発動を、みたいな頓珍漢な意見が叫ばれたり、従来の法律の枠を超える事態を想定して、超法規的措置ともいえる「非常事態条項」を、などという大胆な発言が飛び出したりなどしなければ、と思う。うっとうしいから。

【19年9月15日】
野中広務氏が官房長官で、小渕総理であったとき、東海村の臨界事故の際、野中官房長官の進言で小渕総理は内閣改造を数日延期して事に対処したということがあったらしい。それ自体が、事故処理に対してどれほどの実効性を持ったかはわからないけれど、少なくとも内閣改造よりも国民に対して大きな危機ともなり得る事態に対処することを優先したということは明らかだ。野中広務氏に対しては、その前職の時代から複雑な感情を個人的には抱いている部分はあったものの、彼が情の人であり(安倍晋三現総理の父君の安倍晋太郎氏は、政治家の資質要件のひとつに「情」ということをあげていたように思うが)、戦争に対する痛みを自分自身のものとして感じていた一人であったということは信じてよいいことだったと思う。そんな野中官房長官であったから、政治の内向きの内閣改造問題よりも、国民に直接関わる原発がらみの問題を数日間優先させたということはあるのかもしれない(それもまた、政治のよくやる外向きのポーズとみる人もいるかもしれないけれど……)。
局地的とはいえ大きな災害が発生し、たくさんの人々が困窮しているさなかに「粛々」と内閣改造を進行させ、その間マスコミの報道が、内閣改造に関わる記事で多くを割かれたということが、今となっては、被災地に対する報道の少なさという不満や非難となって表れているという面が実際あるのかもしれない。内閣改造を数日延期するという決断によって、マスコミの報道内容が災害中心になされる、ということもあり得たのかもしれない(もちろん、災害より「嫌韓・たまねぎ問題」の方に 報道の主軸があいかわらず置かれたままだったかもしれないけれど)。
マスコミが、本当に必要とされる情報を率先して優先的に報道しようとしなければ、「マスゴミ」などと誹られるのも已む無し、ということかもしれないけれど。

【19年9月13日】
五時過ぎに起床。まだ日が昇る前ではあったけれど、そこそこ明るく、また涼しかったので、ウオーキングに出かけることにした。歩き出して10分くらい、まだ歩数も1000歩に達しない頃、なんとなく腰のあたりが痛み出してきた。腰痛は持病と言えば持病ではあるのだけれど、ここしばらく収まっていたので、気にもかけないで毎日歩いていたのだけれど、今日はちょっと嫌な感触。とはいえ、せっかくこんな涼しい時間帯に歩けるというのは、夕方から夜を除いてはないことなので、なんとかもう少し歩数をかせごうとした。ただ、歩くにつれ、腰のあたりの痛みのような感覚が強まってくるような感触。
どうしたものか、このまま引き返そうかとも思ったけれど、ふとあることを思いついた。歩き方をかえてみよう、ということだった。具体的に言うと、「ナンバ歩き」という、昔の日本人の歩き方。右手と右足、あるいは左手と左足を同時に前に出すという(より正確には、右腰と右半身、あるいは左腰と左半身を同時に前に出すらしいけれど)、まるでコントなんかに出てきそうな歩き方。奥の細道を歩きとおした松尾芭蕉と弟子の曽良も、一日20里くらいをそんな歩き方で歩きとおしたらしい。
最初は、なんともぎこちない歩き方になって、油断をするといつもの歩き方に戻ってしまいそうで、少々厄介だったけれど、ただ、確かに腰に対する負担は一気に軽くなって、ほぼ痛みを感じない状態になった。普通の歩き方(左右の手足を交叉するみたいな歩き方)が、体にねじれや弾みをもたらすのに対して、「ナンバ歩き」は、それらの身体に与える負担が軽いようなそんな印象をもった。歩き方も、頭の中で『右・左』と号令をかけながら行えば、両手両足、けっこうスムースに「欽ちゃん歩き」ができるようだった。無事、一時間ほど歩き、その後の腰の痛みも不思議にほとんど残らなかった。ネットで調べてみると、「ナンバ歩き」はそもそも足腰に負担をかけない歩き方だそうで、昔の日本人の健脚にも大きく貢献していたのかもしれない、とも思われた。
ただ、ひとつ気になったのは、そもそもこの歩き方は、普通と異なる分だけ、他人が見たら微妙に違和感を感じるだろう歩き方なので、人と行き違う時は、つい普通の歩き方に戻してしまうことだ。仕方ないことだけれどね(朝早く、不自然なような歩き方をしている人と対面したら、誰でもちょっと引くだろうから……)。
とはいえ、腰に違和が生じた際は、この歩き方もありだな、とは思う(人の姿が少ないところでは)。

【19年9月11日】
日本資本主義の生みの親であり、育ての親でもある渋沢栄一の言葉から(原文を読みたかったが、図書館に置いてないとのことで、やむなく守屋淳による訳文)。話題は、「適材適所」ということ。
「才能の向き、不向きを見抜いて、適材を適所に配置することは、多少なりとも人を使う立場の人間が常に口にすることだ。そして同時に、常に心のなかで難しさを感じている事柄でもある。さらにもう一つ思うのは、人を適材適所につけていくことの背後には、たくらみが潜んでいる場合があるということだ。自分の権力を拡大しようとするなら、こんな手がよく使われる。つまり、自分の子分のなかから良い人材を適所に送り込んで、一歩一歩、一段一段、じわじわと自分の勢力をうえつけ、少しずつ権力の基盤を踏み固めていくのだ。このような工夫をする者は、ついに自分の派閥の権勢を手にして、政治や実業の世界、ないしは社会の到るところで、ゆるぎない覇権を握ることができるのである。しかし、このようなやり方は、まったくわたしの学ぶところではない。」
渋沢栄一は、今度の新札の顔のひとりになる人物。経済界初の人選だとか。
私は、本日のBS番組で、渋沢栄一が経済人としてだけでなく、初めて近代的な福祉活動を日本に定着させた人物としても評価されているというそんな内容を見て、その人の代表的な著作のひとつ「論語と算盤」を読んでみなければと思い、さっそく市立図書館に貸し出し予約を入れて、借り出した。
渋沢栄一の漢文訓読体とか和漢混交文風な、現代人にはなじみのない文体ではなく、その現代語訳なので、訳者の主観なども多少は翻訳文中に入り込んでいるだろうなとは思いつつ、先に引用した部分など、なんとなく当今にも通用するもののように思われたので、ひいてみた。
最後の一文に、渋沢栄一のどんな思いを読み取るのかは、読者にまかされているのだろう……。

【19年9月10日】
今月二度目の関西行は、片道高速バス、片道JRということになってしまった。いっそ関西往復JR切符にしようかとも思ったけれど、ちょっと計算してみたらかなり費用に違いが出るので、バス・鉄道併用とする。こんなふうにあれこれ調べてみたり、いろいろ計算したりするというのは、節約という実用面も含めて、結構面白い。高速を車でということも、移動の利便性はあるのだけれど、一人だと高速料金(昔はATM割引みたいなものがあったように思うけど)やガソリン代などを含めて結局これも割高になってしまうので、論外ということになってしまった。長距離を車を運転して移動するのは、楽しいことは楽しいのだけれど。
文章、思ったより早いペースで書き進む。残りは予定枚数の4分の1ほど。ただ、どのようにまとめをつけるのかが、いまのところはっきりしないのがつらい。短いものなら、書き始めた時点では、途中はさておき、最後の一文などがすでに頭の中にあったりもするのだが。長くなってくると、出たとこ勝負的な、進行に従って内容が展開してくるみたいな感じで進むので、結局手探りみたいなことになるようだ。それでも毎日、少しずつでも文章が前に進んでいくのは、しんどいなりに楽しくもある。
所属結社誌に載せていただく書評のゲラ刷りが届く。今回は、四ツ谷龍氏の「田中裕明の思い出」。四ツ谷龍というひとは、繊細で緻密ですごいなと感心する。
内閣改造。個人的には、どうでも良い話題。ただ、改造するよりは、さっさと次の人に代わってほしいものだ。とはいえ、現職支持の理由の多くは、他の人よりましみたい、という気分的なものらしいので、次の適任者がはたして実際にいるのかどうかは、よくわからないが。
韓国の「たまねぎ」大臣が問題になっているらしい。我が国にも、〇〇氏を筆頭として「らっきょう」大臣・党要職などが存在しているので、食材は豊富のはずが、TVマスコミはやたら「たまねぎ」ばかりを問題にする。なぜだろう……。
今回の台風の被害について、切実な被災地の声をもっとマスコミは取り上げてほしい、という要望があるようだ。実際、停電や水不足などは、生活と健康に直結する問題なのだろうが。
それにしても、ゴルフ練習場の鉄柱が倒れたという被害。ボールが周辺に飛び出さないように鉄柱間に張り巡らされている緑色の防御ネット、あれをきちんと下ろしていたのだろうか。吊るしっぱなしの状態だと、強風を幅広くネットが受け止めて、その風圧で鉄柱といえども折れ曲がったりすることもあるだろうに……。昔、近所のゴルフ練習場では、台風などの時、強風対策のために緑のネットを事前にわざわざおろしていたのを見かけたことがあるが。

【19年9月7日】
重い障害を持つ人が、正当な選挙を経て、国会議員となった以上、その人たちが議員として真っ当に活動するためにも、さまざまな援助をすることは当たり前のことだと思う。ところがそのことに対して、不公平だとか、不平等とか異論を語るひとがいる。いろいろな人がこの社会には存在するので、そんな人たちが一部いたとしてもそれはそれで仕方ないところはあるのだろうと思う。ただし、それほどに公平や平等を問題とし、その実現を求めるのであれば、前提としての条件部分についても、公平であってほしい。ハンディを持つ人は、ハンディを持たないひととできる限りその不利な部分については様々な方策を通じて埋めるということをもって、同様のスタートラインに立つことが可能になるだろう。そのスタートラインに立つための条件整備すら否定するようなことがあれば、そんな人の社会的良識について??マークを付けたくなるのも当然ではあるまいか、などと思う。
体に障害を持つ人が二人当選することで、国会内のバリアフリー化が一挙に進んだ、そのことに政治に対する希望の一端を感じる若者が存在するというようなニュースをネット上で読んだ記憶があるけれど、そういうものなのかもしれないと思う。
昨日は、京都に。ちょっと珍しい句会に参加する。現役の大学生も参加した句会。面白い作品と、活発な議論とがとてもよかった。京都駅構内の開放型の喫茶で句会後、引き続き暑さを我慢しつつ、句会の続き。参加された方たちの、俳句に向けられた真摯な姿に、来月もまた参加したいという思いを強める(とはいえ、実際にはスケジュール的に難しいかもしれないけれど……)。
京都からの帰りのバスの中では、半分本を読み、半分うたたねというありさまであった。
本日は、少し頑張って、文章を書く。原稿用紙4、5枚程度。気楽な文章とは少し性格が違うので、遅々として進まず、かなり疲れる。
午後、市内の知人宅に所用があって出かけ、そのまま1時間以上話し込んで帰ってくる。終日、暑かった。

【19年9月4日】
ブログ版の方は、アメーバブログへと移行が完了したようです。内容は同じものなので、ご都合の良い方を活用してください。
年に1回の俳句選者の仕事、終了。原稿をまとめて、某機関の方へ送る。作品数は多いというわけではないけれど、内容的には普段の句会では経験できないような作品に多数触れることができて、たいへんうれしかった。作品自体のレベルもずいぶんと高いものが多くて、わくわくしながら選句をさせていただいた。とはいえ、結果を送り終えてほっと一息、ということではある。
今月は、地元を離れて3度ほど近畿に出かけなければならなくなりそうだ。いずれも、俳句関係のこと。句会的集まり1回、勉強会1回、純然たる句会1回。安く上がる方法を使って、移動は実行するつもりだけれど、それなりにまとまった金額になるので、その点は痛い。勉強会は、そのまま現地1泊の方が、楽しく、刺激も絶大なのだけれど、やはり宿泊の費用のことも考えにいれなければならない。
日本人の経済状態について、すでに「平均値」というものが、現状を反映していない、というような記事を見かけた。格差が拡大し続けて、中・下位層の数値を上位層が喰ってしまって、出てきた結果としての「平均値」は、格差の実態を反映していない、ということになるらしい。マスコミなどの報道に対して、そんなことは薄々、あるいはかなりはっきりと気づいていたりはしていたが、しかしそれでは「平均値」とは別に、全体的な格差を総合的に反映した現状の統計的数値というのは、一体どんなものになるのであろうか、と思う。
「平均値」といいつつも、現実の日本人は、平均値以下の部分に6割くらいが含まれているらしい……。


【19年8月29日】
「ブログ版日々録」は、ヤフーブログ終了によりアメーバブログの方へ移動しました。まだ移動が完了していないので、つながらないようです。
12月終了と公示してあったので、呑気にしていたら、9月で事実上の運用中止となったようです。この際、ブログはやめようかとも思ったのですが、様子を見つつ、もうしばらく続けてみようかと思います。
もう、9月。秋雨前線の働きで、天気は不安定な状態です。今日は、曇り時々雨。少々蒸し暑いようです。
年に1度の選者の仕事は、選句と選評を終え、あとは総評を書くだけ。明日か、明後日には終了予定。昨年よりは、少々進行が遅いようです。
別口で、平畑静塔関係のちょっと長い文章を書き始めています。現在原稿用紙10枚ほど。とはいえ、進行がおぼつかなく、果たして書き上げることができるかどうかの見通しも立っていない状態ではあります。なんとか、書き上げたいものだ。本は購入するまいと思っていたけれど、資料関係で外山滋比古の評論集を安く購入した手前もあるので、なんとか書き上げてみたいものだと思います。。
おかしな政党とか、異様な議員などが出没し始めていますね。末期症状なのでしょうか……。