日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

         
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【19年10月28日】
公選法違反容疑の香典大臣、突如辞任するんじゃないかと書いたけれど、やっぱり辞任した。これで、本人からの証言は事実上封殺され、真相は闇の中といういつものパターン。臭いものに蓋をして、ない物にすれば、それで終了といういつもの手法。だから、似たようなことが繰り返し起こる。時間と歳費の浪費だな、と思う。本人の公選法違反が確定すれば、公民権はく奪で否応なく議員辞職ということになるのだろうが、今の警察や司法では、一級国民の元大臣をそこまで追い詰める信義はないだろうな……、きっと。
ニュースをみるたびに、被災地の惨状が繰り返し報道される。都府県レベルの対応でなんとかなるというレベルの状況ではないことは理解できる。いまこそ国の出番とは思うけれど、ただ、実際のところ国はどのような対応策を打っているのかがまるでわからない。5000億だか、7000億だかの予算をつけて、被災地の人たちの暮らしと生活を守る的なことを打ち上げているけれど、今のところなにをどうしようとしているのか、わからない。せめて、どのような事象に対して、どのような救済策を実施するつもりなのかを、マスコミ(こんな時こそNHK、とも思うのだが)や政府広報等を通じて、可能な限り具体的に知らせてほしいと思う。被害状況の全容が、いまだ把握されていないとの報道もあるので、なかなか難しいことかもしれないけれど……。
NHKのニュース報道のパターン。「政府」の判断や決定に、いちいち「安倍晋三」を頭に持ってくる必要はないだろう。あたかも「安倍晋三」が、よく言われることだけれど、様々な困難を解決する「将軍様」みたいな印象操作を(おそらくNHKの上層部の忖度的指示の結果なのだろうけれど)露骨に感じてしまう。北朝鮮の国営放送でもあるまいに。「安倍」と「金」とが、否応なくダブって見えてきて、不愉快である。NHKの内政についての報道は、見ているこちらが恥ずかしくなる。
NHK。ドラマとか、ドキュメンタリーとか、民放とはレベルが違うところで、すぐれた番組をたくさん作ったりもしているのに、政治方面に関しては民度が低く、時の政権に対して忖度が過ぎるのではないか、とつい思ってしまうことだ。
今日は、一日秋らしい陽気。被災地では、こんな能天気なことは言っている場合ではないだろうとは思うけれど、それでも、気持ちの良い一日であったことは確かだった。

【19年10月23日】
新天皇即位の一連の行事について、行事としての興味をかなり強く感じる。次の「大嘗祭」。新天皇即位の際、ただ一度催される行事ではなかったか。テレビ中継されるかどうかしらないけれど、中継されたら見てみたいと思う。新天皇は、ぜひ「象徴天皇」としての在り方を全うしていただきたいと思う。政府が国民をないがしろにする姿勢を強める中で、国民統合の象徴としての天皇の「国民に寄り添う」姿勢の繰り返しの発言は、本当に重いと思う。
総理は、あいかわらず「美しい日本」的な自らの軽薄なスローガンを、新天皇即位の寿ぎの言葉の中にまで紛れ込ませていた。有識者と言われる人物の中には、政治が皇室を取り込もうとしているのでは、との危惧の思いを語る人物もいる。その危機意識は的外れではないように思われる。
それにしても、当日晴れただの、虹がかかっただの、ニュースにするほどの内容ではないだろうけれど、日本人の天皇に対する深層意識の反映みたいで興味は感じたことだ。ならば、新時代に入り、繰り替えされる天災を、天からの時の政権に対する強い警告として受け止める、などということもある種の生々しさを持ってはこないか、などとも思う。
着任早々の新大臣が、与野党含め、双方から進退を問われつつある現状など、その警告の対象の一つなのだろう。通例、与党からの援護射撃がなされるはずのものが、それもないということは、かなり深刻な状況にまで追い詰められているということなのだろうか。突然の辞任表明などあったりして……。
世の中には、本当に得難い人物というのは存在すると思う。そんな方に直接、間接に触れた周囲の人たちは、その得難い方が不幸にして亡くなったとしても、鮮烈な印象をいつまでも心にとどめておくことだろうな、と改めて思う。本日、昼のワイドショーで、「ザード」のボーカルの方の特集をやっていた。「ギラギラではない、キラキラしたものを周囲にもたらしている人だった」という友人の女性歌手の回想の言葉が、印象的だった。そんな人との出会いを経験した人は、その経験自身がかけがえのないものになるのだろうなと思う。くだらない内容が多いワイドショーだけれど、今回なんともしんみりした思いで視聴した。

【19年10月19日】
教員の「変形労働時間制」、教師の働き方改革と銘打っているけれど、百パーセント「改悪」でしかない、馬鹿げた変更である。机上の空論でしか教育現場を見ない、狡猾な官僚のでっち上げたものでしかない。というよりも、おそらく、それをすべて分かったうえでこのような形での変更を画策しているのだろうと思われる。ともかく、本音は休まず働き続けてほしい、ということなのだろう。自分自身を犠牲にしてでも、職に殉じてほしいということなのだろうとすら思われる。
形式上は繁忙期は少々勤務時間延長を、閑散期にはその分勤務時間を短縮し、休暇なども十分とって疲れた心身を休めてもらう、仕事と休息のバランスを考えた現実的な施策だ、などとしている。しかし、現実の教職員は「繁忙期」だろうと「閑散期」だろうと関係なく、多くが最悪過労死ラインに近い超過勤務を、心身をすり減らしてこなしているのが現状なのだろうから(自宅への仕事持ち帰りもまた、「隠れ超勤」と呼んでいいだろう)。
四月、六月、十月、十一月について、勤務時間を延長するということは、すでに本来の勤務時間を越えて超勤をこなす教職員に、さらに拘束時間を延長することで一方では超勤の実態を誤魔化し、一方では超勤圧力を増やすということではないか、と思う。
働き方改革の結果、子育て教員への圧迫、教職員の過労死、うつ病等による休職、退職など到底改善などされるはずもない。
ちなみに、いま大問題になっている教員間のいじめの根底にあるのも、教職員の全く余裕のない過重な労働が、様々な閉塞状態をもたらし、ストレスによる緊張状態を職場にもたらしていることに由来するのは明らかだろうとも思われる。
さらに恐ろしいのは、最初にちょっと触れたように、実は施策を策定し、決定する側に、仕事のために自己を犠牲にすることに対して、それを良きもの・美しいものとして称賛・賛美する発想が、根底にあるのではないかということだ。職に殉じることは美しい、という発想だ。そして、他者を犠牲にして、自らは何の犠牲もなく、自己の歪んだ美意識を実現しようとするどす黒い欲望があったりはしないか、ということだ。自己の欲望実現のためには、他者に対して非情にも冷酷にもなれる人間は世の中に結構存在する。
ついでにもう一言。行政の側はあくまで、「形」を整えることを主眼とし、その「形」の実現を現場において直接担当する側に、ある意味「丸投げ」する。その結果、様々な不備が生じた場合、行政はまずその制度を実際に運用する側の不備とみなす。なぜなら、自分たちは理想的な「形」を提供したのに、その運用がまずいから問題が生じるのだ、という口実だ。その建前が、机上の空論を良しとし、問題は現場の運用の不備とする一種の「自己責任」論の温床にもなっている、ということに気づくべきだろう。理想的な働き方改革の結果、現場で犠牲者が出たとしても、それは現場での担当者、今回の場合なら当事者である教職員がまず「自己責任」の所在を問われる、ということになるだろう。
教職員の「変形労働時間制」は、教職員のいじめ撲滅のために、まず給食から「カレー」を外す、みたいな頓珍漢な制度改悪であろう。
なんとも、イヤーな世の中である。

【19年10月14日】
今回の台風。被害規模は、「まあまあ」だったとの政府中枢人物の発言。言葉尻をとらえるわけではないけれど、彼の脳内にはおそらく「国家」はあっても、生身の「国民」や、その日々の「暮らし」などは存在しないか、漠たる抽象概念にすぎないのだろうなあ、と改めて思う(想像力の不足、ないしは欠如とも言うらしいけれど……)。
「命を守れ」とのマスコミの連呼。そんな中で、ホームレスの人たちは、避難所の利用を拒否された。当然、という意見もある中で、「税金が、人によって適応除外される現実の進行」と語る学者や宗教人もいる。金払わないと、日本国から締め出しを食らう、ということか……。
いやいや、居住区民以外は対象外で、という理屈もあるらしい。「旅行者など一時的滞在者も、同様に締め出しをうらうのか」、との疑義もあるらしい。よくわからない……。
『文章軌範』読んでいたら、孔子の『春秋』を引き合いに出しつつ、歴史記述者の歴史に対する態度ということが論評された一文があった。歴史記述者(歴史研究者ということか)は、歴史の各事象に対し、批判はできても、それ自体を価値づけることはできるのか(良し悪しを判断づけること)ということについての論考。結論的には、歴史を価値づけることは周公のような優れた名君であって許されること、あるいはそのような名君を後ろ盾(委託、仮託を含めて)とする国家であって初めて可能だ、というような主張らしい。孔子はもちろん歴史記述者という立場ではなく、徳高い仁者であったけれど、『春秋』における人物・事象への判断については、周公の王朝の直接な流れを汲む魯の国の判断であり、孔子は敬愛する周公の名において、魯国の歴史書という立場でなされた判断であり、妥当性を持つとする、なんともややこしい結論。そんなもんかな、などと思う。戦後は悪、戦前は善などとのたまう政治家もごろごろ存在する近頃ではあるけれど……。
水漬く北陸新幹線車両の映像は、東日本震災の際、津波に押し流される仙台空港の飛行機群の映像同様、奇妙な違和感を見るものにもたらすような気がする。なぜだろうか……。

【19年10月12日】
BSの番組を見ていたら、新宿を舞台にそこで生活や活動をしている人たちの姿を映し出すレポート番組をしていた。以前にも一度見たことがあるような気はしていたのだけれど、その中に俳人の北大路翼のことも取り上げられてあった。以前は気づかなかったのかもしれない。しばらく前にも、別の番組に登場していて、マスコミ的にも注目され始めている人なのかな、と思う。BSの方は、少し前の時期の録画なのかもしれない。
北大路翼を知ったのは、島田牙城の邑書林『セレクション俳人 新撰21』の時だったと思う。東京での出版記念会みたいなところへ興味半分で出かけて行って、受付近くで本人を遠目にしたという程度のことではあった。ガタイの大きな、独特の雰囲気を持った人という印象だった。
「屍派」という俳句集団の中心として新宿を拠点に活動されているらしい。最近の番組の方では、エネルギッシュに活動している本人の姿が、その句会と参加メンバーを含めて紹介されてあったけれど、BSの方ではそんな姿とはちょっと違った、迷いや疲労を内に抱え込んだような有様が映し出されているようで(余計なお世話なのだろうけれど)、ちょっとオヤ?っと思ったりもしたものだった(BSの番組自体が、そのようなテーマだったので、そんな切り取り方をされていたのかもしれないけれど)。
『新撰21』の頃の北大路翼については、かなり違和感に近いものを感じていたけれど、2本の番組を通じて、ちょっと興味を感じている。
「ウオシュレットの設定変えた奴殺す」だったか、とても面白い。もともとは、自由律俳句からスタートしていたのか、などという妙な分類も、おそらく当人には全く無意味なのだろうな……。

【19年10月11日】
「かあさん ねえさん 川のほとりで暮らそうよ、庭には きらめく 金砂の光、背戸の外には 葦葉のうた、(後略 最初の三フレーズの繰り返し)」。
「顔をみるのもうんざりだと  行かれる時には  何も言わずにすんなりお送りいたしましょう      寧辺の薬山  つつじの花  腕いっぱいに摘み門出の道にお蒔きしましょう   おいでになるひとあしひとあし  置かれたその花を  そおっと踏みつけてお行きください     (後略 最初の三フレーズの繰り返し ただし、最後は「死んでも涙は流しません」で終わります)」。
最初の詩の題は「かああさん ねえさん」、後の詩の題は「つつじの花」。韓国の現代詩人金素月(すでに亡くなっている)の作品で、翻訳は比較文学者の林陽子。引用は、『キム・ソウォル(金素月)詩集 つつじの花』から。いつだったか、偶然韓国の現代詩人たちのアンソロジーを読んで、ちょっと興味を感じ、今回図書館で目に入ったこの詩集を借りて読んだ。面白いと、思う。なんとなく感覚的に違和感を感じないなと思って読んだのだが、翻訳した林陽子氏によると、この金氏の作柄には、日本の詩人でいえば、北原白秋や荻原朔太郎、そして詩人というより歌人として著名な石川啄木的な要素が含まれるものだとの紹介があった。白秋のエキゾチックな叙情性や朔太郎の特殊な過剰感覚、そして啄木の日々の生活から生まれる喜怒や哀歓など、そんな要素が韓国を代表する近代詩人の作品といいつつ、こちらの感覚や心情に共感をもたらすのかと得心した。個人的には、「かあさん ねえさん」は深く胸に沁みるものを感じる。
猛烈な台風が日本列島に接近しているらしい。明日には、東海から関東にかけて上陸するらしい。異常な気象変動がもたらした、黙示録的な自然の脅威のように、ふと思う。恐ろしい。

【19年10月4日】
腑に落ちないことだけれど、問題を起こした張本人が、そのまま立場に居座って、自らの力で信頼を回復したいなどと熱弁をふるうよりも、本当に信頼を回復したのなら、まずご本人が退場して後任に後を託することの方が一番早い信頼回復の道のような気がするのだけれど……。とはいえ、関電に関しては、遅かれ早かれどこかから圧力がかかって、退任なんてことが起こりそうな気もする。政治問題化する前に、元を立つという最近よく使われる手法なのだろうけれど。
BSで「西大后」のことをやっていた。世界史上の「悪女」としての評価は、中国を植民地化しようともくろんでいたイギリスの(恐らく)御用学者の手になる嘘偽りの評伝によるらしいなどということをやっていた。時の皇帝を巻き込んでのイギリスの中国支配の陰謀を、保守派官僚達の情報網から察知していた西大后が、期待を寄せていた皇帝を自ら監禁することで、イギリスの植民地政策を未然に防いだ豪快ともいえる政治的手腕に対して、(陰湿だけれど)虚偽の評伝により偽りの歴史を構築することで、積年の恨みを世界史的な側面から晴らす、という陰湿なたくらみの結果が西大后=「大悪女」という評価をもたらしたらしい、とか。伊藤博文なんかも一枚噛まされそうになっていたその国際的陰謀を、台湾の歴史学者が1万ページにも渡る文書を発掘、読み通して明らかにしたなどということもあって、学者の能力の光と影の部分を見せられたような気分にもなった。
こういう、手ごたえのある番組は、残念ながらNHKにしか無理なような気もするし、一部報道番組の偏向性はあるにしても、NHKを全否定するつもりは、個人的にはないな、と思う。
朝ドラも、結構面白いし……。

【19年10月1日】
日・月と1泊2日で京都へ。俳句の勉強会。今回は、先ごろ開催された「俳句甲子園」について、その運営に直接携わる方から、「俳句甲子園」について、その歴史的な経緯から始めて、実際の運営に関わる様々な試みや苦労話などを具体的にお聞きすることができた。NHKで特集として取り上げられ、民放の番組「プレバト」でも面白い企画の一つとして、プレバトメンバーと「俳句甲子園」優勝校の生徒諸君との直接対決が放送されたりと、社会的に少しずつ認知の度合いを上げてきている、愛媛県松山の取り組み。その活動の中心にいる方の話が面白くないはずはない、ということだ。
ところで、この勉強会の参加メンバの中に、実際に「俳句甲子園」に出場した、いわゆる初期メンバーの人達とか、大会の地方予選、あるいは大会本選の審査員を務めている人が何人もいることを、今回確認して(薄々話としては聞いていたのだが)、大会参加者や審査員経験者としての、大会運営とはまた別角度からのお話も同時に聞けて、「俳句甲子園」に対する興味や関心が一気に高まった思いでもある。
それにしても、本日の講師の方は、超多忙の上に、体調を崩して入院中の病院から本日抜け出して(病院の了解を得ての事だろうけれど)の講演ということで、手首にまかれた個人認証用の紙テープが少々痛々しくもあった。本当にご苦労様でした。
審査票の実物とか、審査基準の資料などまで見せていただいて、特に審査基準がこれまでの大会での様々な経験を生かした大変優れたものであることを実見できて、ちょっと感銘を受けたりもしたものだった。
いつか、何かの形で「俳句甲子園」に関係出来たら、などとふと思ったりしたことだ。