日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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学校の一斉休業。「要請」と言いつつ、実際にはほぼ「命令」に近い性格のもの。ただし、これもあくまで都道府県や学校設置者の最終判断による休校ということで、何か問題が生じればそれは直接判断を下したものが背負うことになるのは常識。だから、島根県は休校は当面実施しないと表明できたわけだ。つまり、最終はこれまた判断主体の「自己責任」ということになるのだろう。
自民党の某議員が「総理は勝負に出た」とのたまったらしい。「勝負」? ああ「コロナ蔓延に対して本気で対策の勝負に出たのか」と一瞬思ったけれど、おそらくその「勝負」の方向性は、そこには向いてはいないだろうな、と次の瞬間には得心する。誰にも反対できないことを逆手にとって、自らの権力基盤構築に資するということは、一度も日本に向って発射されなかった北朝鮮のミサイルを利用して危機感を煽った手口などと同様なものなのだろう(ただ、今回はそんな虚報は通用しないようだけれど)。国民の安全や命までも、自らの権力構築に活用する、政治家はきっと本当に因業な種族なのだろうと思われる。
もちろん、学校を休業にすること自体は個人的には反対ではない(反対のしようが、ない)。ただ、そのやりかたがほとんどいつもの「思い付き」による丸投げ方式という点は、なんともいただけないとうことだ。基本的に「コロナ」に対する認識の甘さや楽観論がここまでの対応の甘さ・遅さをもたらし、その結果が今現在の混乱の根源なのだろう。おそらく、専門家たちの痛切な危惧を正確には私たちに伝える術は一部のSNSを除きなかっただろうし(どんな意図があってか、それすらよってたかって潰そうとする連中はいるみたいだけれど)、政府も諸般の事情からその情報は積極的に取り上げることもなかったようだし(あるいは、逆に情報に混乱をもたらす御用医師などという存在も、御用キャスター、御用コメンテーター同様に存在するのだろうか)、政府の広報機関化している多くのマスコミも当然十分な情報を一般に流すことはしなかったのだろう。その結果、私たち自身にも早くからの準備や覚悟が足りなくて、今さらじたばたしているということなのだろうか……、などと思ってみたりもする。
それにしても、休業・活動自粛等によって、業務に減収等被害が生じた場合、国の方からその損失に対して「ほしょう」すると聞いて、「思い付き」の割にはずいぶん豪気な対応策を考えているな、とその配慮に感心しそうになった。しかし、本日になってその「ほしょう」とは「補償」ではなく「保証」、損失に対して企業等があらたな融資を銀行に求める際には、国が「保証人」になるので安心して銀行は企業に貸し付け、企業は安心して借金して、借りた金はきちんと返しなさいということらしくて、一気に評価は下落した。借金返済に困窮した場合、企業の倒産はありうるし、とはいえ銀行は貸し倒れはなくて国から保証を受ける、ということのようだ。銀行にとっては、なんとも甘い政策ではないか、と素人目にも思う。結局、国民目線ではなくて、別の方向に向けられた方策なのだと、またまた政府の施策の底割れを感じてしまった。しかし、内心、これが実はガセ情報であって、「ほしょう」はあくまで「保障(損失補償)」であることを切に願ってはいるのだが……。
岩波文庫版『子規紀行文集』を読む。有名な「はて知らずの記」をはじめとして、八つの紀行文が収載されてある。面白い。子規の文筆家としての力量の高さをつくづくと感じる。作家としてのサービス精神の所在なども思う。これらは、「写生文」としての好適な見本であり、指針としても読めそうな気もする。本文中、折々の俳句や短歌なども織り込まれてあって、それも興味深い。次に担当する読書ガイドの候補作はこれかな、などとも思う。
2年間、某結社誌に連載させていただいた一連の文章が、3月号で終了。貴重な誌面を割いて、執筆の機会を与えてくださった某結社に感謝。某結社は3年目の歩みに入られるとのこと。
コロナ問題。軽症者は(何を基準として「軽症」とするかは、素人には判断がつかないが)自宅療養。確かに、これからの問題として、それ以外の方策はないのかもしれないが、ふと、発症家庭はミニ「プリンセス・ダイヤモンド」号状態?という不吉な想像がちらりと頭に浮かぶ。不謹慎かもしれないけれど。発症家庭を孤立化させない方策も必要になるのでは……。
新型コロナ肺炎に対する国の基本的方策指針がでたけれど、つまるところ、自分の命は自分で守ってね、ということなのだろう。一見当然のようでありながら、いつもの「自己責任論」の延長線上での取りまとめのようだ。コロナに罹患すれば、それはあなた自身の不注意によるもので、国としてはあれだけ注意を促し続けてきたのに、なぜその指示に従わなかったのか……、という風に。国家としては、患者数を抑えることに意を尽くすということが最重要事項のようで、そのために検査機関を増やしたり、検査手続きのさらなる簡便化を図ったりはしないで、できるだけ自宅待機で耐えてくれと、我慢強い日本国民の基本的心性に期待するというところか……。すでにあちらこちらでいわれているけれど、きちんと検査をすればあるいは罹患者数はお隣の韓国同様一時的には急増するかもしれないが、しかしその後の指示・管理の対応はより効率化・有効化できることだろうに、と素人目にも思われることだ……。正確な実態把握がなければ、適切な対応策など成り立ちはしないのは、ごく常識的な知見だろう。目先の数値の伸びを抑えるために、あえて検査を受けづらくするなど、まさかそんな非人道的な事をしているとは思えないけれど、平気で嘘をつく、改竄する、情報を知らせない(見えなければ、それはないと等しいという妙な理屈が立派に通用しているみたいだけれど)という体質を見せつけてきた政府であってみれば、どこかに疑問符が三つ四つ付きそうな気がすることだ(????)。
先日、犬のブリーダーさんに会いに大阪まで出かける。車を利用。久しぶりに高速を走るけれど、荒天気味とはいえなかなか快適だった。こころなしか、車の通行量が少ないような気はしたけれど、コロナの影響ではあるまい。大阪市内は、さすがに交通量は多く、道は錯綜しているようで、目的地に行き着くのにかなり苦労した。普段、田舎の道をのんびり走っている者にとっては、大阪の交通事情はとても厳しい。
姪とふたり、子犬を見せてもらう。写真や映像以上に、元気で可愛い子犬だった。生後二ヶ月過ぎくらいで、思った以上に小さい印象を受ける。炬燵のある居間をちょこまか歩き走る姿は、人形そのものであった。あぐらをかいて座っている私の方には、8歳のオス犬がやってきて、あぐらの中にどっこいしょという風情で身をおいて、リラックス状態。ちょっとなでてやったりしているうちに、いびきをかいて眠りはじめた。なんともほっこりした数刻だった。引き取ることを決めて、あらためて訪問することを約束し、ブリーダーさん宅を辞去。行きは猛烈な雨の中、車を走らせたけれど、帰りは本当にうそみたいに回復した天気の中を走る。
運転は途中から姪に交代。リアシートでのんびりしようと思ったが、姪の運転が何となく気になって、ちょっと落ち着かなかった。
夜は、実家で会食。帰宅後は、すぐ寝る。やはり、久しぶりの長距離運転は気疲れしていたようだ……。
京都寺町筋の「三月書房」の閉店が決まったらしい。たくさんの文化人や学者、学生たちが出入りをしていた有名な京都の書店だ。間口の狭い、小さな、しかしある意味いかにも京都らしい個性的な書店だった。私も在京時代には通ったことがある。今、手元にある俳人の全句集はすべて「三月書房」で購入したものだ。高い本が多かったけれど、びっくりするほど値引きして売られていたので、私なども手に取ることができたのだ。主人が座るレジの背後には、歌集がぎっしりと並べられてあった。歌集の品ぞろえとして、もしかすると日本一ぐらいの充実度かも、などと勝手に思っていた。
ある時、レジに座るご主人に、歌集ばかりでなく句集も置いてくださいと話をすると、ご主人はぽつりと「句集」は商売にならない、と言われた。世の歌人たちは、歌集を自ら購入するから本としても出回るし、いちおう商売の対象にもなるのだが、俳人は他人の句集をほとんど自腹で買わない。句集は、そもそも贈答品のように送り贈られるものとなっていて、ごく著名な俳人の句集を除き(これも正確な言い方ではないが)本の流通自体にほとんど乗らないということのようだった。
なるほど、と得心する。
後継者がいない、ということが閉店の理由であるようだ。誰か、後継に名乗り出てくれたら、などと勝手なことを思う。
本日、水鳥公園に集まっていたコハクチョウの北帰行の出発を見送ることができた。近所をウオーキングの際、水鳥公園方向からのコハクチョウの声を聴きとめ(かなり距離は離れているけれど、白鳥の声は思いのほか遠くまで伝わるのだ)、普段ならば早朝に餌場へ移動するはずの白鳥が、公園に残っているようだということから、そろそろ出発なのかもしれないと思い、「歩き」の足を延ばして公園まで。思っていた通り、公園にはコハクチョウたちが集まってきていて、しばらく様子を見ていると、数十羽ずつに群れを組んで、湖水を飛び立ちはじめた。ちょうど地元のテレビ局から撮影に来ていて、その話によると公園管理局から「そろそろ」との連絡を受けて、コハクチョウが飛び立つところを撮影に来たという。絶好のタイミングであった。白鳥の数は、みるみる少なくなっていく。残雪の霊峰を背景にして、北帰行に旅立つ白鳥の姿は、冬の終わり、春の到来を実感させてくれる情景であった。
新型肺炎。地方暮らしという気安さから、まるで遠くの世界の話のような気分がどこかにあったけれど、あるいはこちらが思っている以上に、事態は深刻さを増しているのかもしれない、などとちょっと思い始めている。地元は、韓国・香港からの定期便が停止し、年に数回寄港するはずの大型クルーズ船もやってこない。海外からの通路を遮断した形になっているけれど、今度は国内からの感染の広まりが気がかりだ。人-人感染は周知の事実となり、さらに目に見える症状がない状態での感染も実際におこっているのではないかと思わせる事例もあるようだ。
オリンピック開催以前の早い時期には、「新型肺炎完全終結宣言」を出す必要のある日本国としては、一刻もはやく「完全終息」を実現してほしいと思う一方で、「福島原発は完全なコントロール下にある」などという類の不正確な情報を世界に発信しないことを願う。
実家で15年暮らしてきたシーズーが、2月9日0時過ぎに亡くなった。ここ1か月ほどで目に見えて弱りはじめ、高齢のためかと思っていたのだが、そうではなかったようだ。1日だけ苦しんで、その夜には亡くなった。家族皆にとっては大きなショックだった。9日夕方、火葬。東京在住の甥に連絡して、家族皆で見送る。お骨はその日のうちに実家へ。夕食は、実家で皆で食べた。お骨は居間の飾り棚に置かれた。食事のたびにテーブルの下から、まるで権利のように自分の夕食とは別に食べ物を催促した姿が、そこにはもうないというのは奇妙な感覚ではあった。
実家から帰り、少し時間的には遅かったけれど、「歩き」に出る。犬をつれて散歩した経路をたどり直してゆく。帰京後、7年近く、天候不順の日以外は散歩に連れていくことが、私自身の日課の一部にもなっていた。年齢が進み、視力と聴力を失ってから、時につまづいたり、塀に頭を当てたりすることもあり、リードを引くこちらとしては、通路のすべての状況が注意の対象になった。やがて、でっぱりや小さな段差、溝蓋の穴、はみ出す植物の枝や根、草むら、散らばる小石のことまで目が行くようになった。そして、それらのひとつにとつのものに犬のふるまいが記憶として結びつくことになった。夜道を歩きながら、そんな犬の行動やしぐさを思い出しながら歩いた。
ペットとは、本当に純粋な愛情や愛着の対象であるとつくづく思う。
いずれ、歩いても15分くらいのところにあるペット霊園に、初代、2代のシーズーを移して、彼も一緒に収められることになる。初代から同じ名前である。小さな墓碑には、その名前だけを刻んでもらおうと家族で話して決めた。
どうやら、今夜から明日午前中にかけて、雪が降るらしい。確かに、戸外は立春を過ぎたにもかかわらずずいぶんと寒い。ただ、今年は寒さのために息が白くなるという状態を見ずじまいである。俳句の冬の季語「白息」の出番がないということが、今季の冬の異常さの証しの一つのように思ってきた。とはいえ、明日は久しぶりに朝新聞(朝刊ではない)を取りに出た際、「息白し」を実感することになりそうだ。。
「愚か者」を装って、すべての意味や価値を無化するという形で、事態の切り抜けを図るという手法がある、と何かのコラムで触れていた。「募っていたけど募集じゃない」というような口実はその典型らしい。ずいぶん多くの顰蹙をかった発言のようだけれど、当人がその線であくまで押していった場合、それを打ち破る有効な方策・口弁が実はほとんどない、ということだ。なぜなら、その発言の馬鹿らしさを論理的に、あるいは説得的に解きほぐし、理解させるべき素養を相手が持たない、ということになるからだ。いくら正当なことを言っても、相手がそれを理解できない(実際は、あえてしないという姿勢を貫くということらしいが)状態であれば、説得自体がほぼ無意味化していくということだからだ。なんというのか、すごいなと思う。ある意味、無敵である。
水を飲みたくない馬を泉に引っ張っていて無理やり水を飲まそうとしても、それは無理ということなのだろう。場合によっては、さあ水を飲ませてみろ。でもおれは絶対飲まないけれどね、というようなこと……。時には、無理に水を飲まそうとする方がかえって悪い、みたいな奇妙な逆転現象が起こったりもするし。
本日は、定期の通院。ちょっと数値が悪くて、ともかくもう少し経過をみましょう、ということになる。ちょっと気が重い。大学から週2で派遣されている若い担当女医さんが、明るくて、それが慰めであろうか。しゃきしゃきした喋り口は、おそらく地元の方ではないな、などと思ったりもしていたが……。それにしても、いろいろと寒い。
今日は、午前中マスク探し。新型肺炎予防のためのマスク。自家消費用ではなく、東京で働く甥っ子のために。雑踏の中で過ごす可能性の高い生活にとって、予防という意味でもマスクは必要になるだろう。そのマスクが、店頭から消えているという状態らしい。オイルショック時のトイレットペーパー買い占め、品不足という出来事を思い出し、いつもの過剰反応かという思いもないわけではないけれど、それはそれとしてのことだ。
そして、地元のホームセンター、大型スーパー、コンビニを車で走りまわるけれど、いずこも完売。売り場には、商品がほぼ全くない(小児用マスクと実用向きとは言い難い高級マスクは少々あったけれど)。こんな田舎の小都市とその周辺ですらこんな状況なのかと正直驚く。在庫数がそもそも少なかったのだろうな、ということも想像はできるけれど、やはりちょっと驚く。自分たちの生活には直接影響(インフルエンザ程度の用心は必要なのだろうけれど、そして実際地元ではインフルエンザがまだ流行っていることだし)をもたらすわけでもあるまいとは思うけれど。まあ、地方と都市部とではおのずと事情も違うことだろうし。
ともかく、なんとかマスクを手に入れて早めに送る必要があると考え、結局別ルート(もちろん不正なルートではない、誰でも買えて、ただあまりそこで売っているだろうことに意識が向かない場所のこと)から、マスクを手に入れて、さっそく荷造りして、黒猫宅急便で送る。明日の夜には到着するらしい。送られた当人がどうするかはわからないけれど、備えあれば……ということではあろう。
7キロ「歩き」の後での、マスク調達騒動で疲れてしまう。午後、ボケーと過ごす。夕方近くなってから、『源氏』と『論語』をいつものごとく読む。『源氏』は「幻」を終え、「匂宮」まで読了する。光源氏のあっけないような死(もちろん本文中では直接触れられていないけれど)の後の物語。『論語』は注釈がちょっとうるさいくらい詳細。注釈とはいいながら、お説教を読んでいるような感触がないわけでもない。
積雪のないまま、二月に入ってしまった。日が差すと、暖かい。