日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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午前中はなんとかもった天気も、午後には雨。ときおりアラレ、あるいはミゾレ。寒気が入っている割には、思ったほどは寒くないのが、ちょっと妙な感じ。気温は時間とともに下がっているようだけれど、それでも明朝も氷点下までにはいかない。天から降ってくるのは、雪ではなく雨、らしい。今年の冬は、本当に暖冬で、ちゃんと雪が降ったのは1回だけ。積雪も路上に一日もたず、という状態だった。生活的には本当に楽だったけれど、少しは雪も降ってよいか、という気分にすらなりそうだった。さて、来年はどうなることだろう。
午前中に「歩き」納め。1時間ほど。帰宅直後に、(観天望気で予想を付けていた通り)天候急変で、アラレが降り出す。15分くらい強まったり、弱まったりして、今は雨(時折はミゾレ)。
炬燵に入って、『源氏』や『文章規範 下巻』を読んだり、午後はBSのテレビ番組で作曲家山本直純(「男はつらいよ」の主題歌の作曲家。そういえば、昔々一度だけ彼が進行役をつとめるテレビ番組「オーケストラがやって来た」の公開録画を市民会館で見たこともあった)の活動を見たり、「ドクターX」見たりとか。大晦日らしい過ごし方。
夜は、実家で年越しそばをごちそうになり、その後は年明けを待たず寝てしまおう、ということになるだろう。個人的には、比較的穏やかな一年が終わる。
昨日は、午前中のまだ天気が良いうちに、窓ふきを終了。その勢いを借りて、母の分を含め洗車2台。たまにしか使わないせいかホースが駄目になっていて、漏水のため水勢が弱い。昼前まで時間がかかってしまう。午後、新年のしめ縄や鏡餅の買い出し。店舗によってお鏡餅は売り切れたりしていて、三軒目でやっと目的の大きさの鏡餅を買えた。そういえば、二軒目のホームセンタでは、さほど広くもない店舗なのに、迷子の子を見かけた。母親とはぐれたらしくて、店の人が泣いている子の手を引きながら店内をうろうろしていた(そのぐらいの規模の店)。
午後から天気は少しづつ下り坂になっていき、午前中は青空を背景にくっきり眺められた大山も、午後には薄墨状態。二か所望まれるスキー場は、どちらも白抜きになっていて、かろうじて積雪があるように見えた。明日あたり厳しい寒気が侵入してくるらしいから、一気に積雪を増やすかもしれない。南に目をやると、大山が見え、スキー場が視野に入るせいか、つい気になってしまうようだ。それに、夜のスキー場の照明は、遠望とはいえ、なかなかきれいで、心惹かれるものがある。
昼頑張ったせいか、夜ちょっと体調不良。炬燵にもぐりこんで、じっとしている。
結局、「グランメゾン東京」、全話見てしまう。民放ドラマの王道を駆け抜けた作(NHKはこういう形で、良い意味の「あざとさ」を作中に持ち込まないような気がする)、という印象。キムタクが出しゃばりすぎないちょっと抑えた演出も良かった。その分、人間ドラマ、群像劇みたいで面白かった。日曜のこの時間帯のこの局のドラマのど真ん中を突き進んだよう。面白かった。次回作は、奇妙な設定みたいで、どんな風に展開することだろうか。
断続的に掃除。ものは多くないので、掃除機をかけ、ちょっと片付ける程度で、部屋は結構整った状態になる。窓ふきは天気の様子を見て、雑巾がけは明日・明後日の間に終了。ごみ収集は今年の予定は終了しているので、とりあえず極力出さないようにする。庭の落葉は、雨で湿ったりしているので、もう完全に年明けまで手を付けられない状態となる。
午後は地元の句会。今年最後の例会で、参加者も多い。結果は、少しマシ、という程度。出したうちの一句が、どうも先蹤作品があるなと思いつつ、数合わせに投句したけれど、後になって思い出した。村上鬼城の「治聾酒の酔ふほどもなくさめにけり」という有名な作。「初雪といふほどもなく止みにけり」という投句だったけれど、発想も表現も完全に×であった。抹消する。
夕方、NHKで映画「この世界の片隅に」をやっていた。すごい作品だとしみじみ思いながら見る。原作者の漫画は何冊か手元にあって読んだりもしてはいたのだけれど、「この世界の片隅に」は、なぜか上巻のみで、中・下巻は読まずじまいのままだった。どうしてだったのだろうか……。その後の、特集番組も見る。「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」という作が作られたことを知る。見てみたいと思う。何かとNHKを批判するひともいるけれど(私自身も、報道関係についてはかなり疑問を抱くところはあるが)、ドラマとか、特集番組・教養番組の分野で、民放に比べて丁寧で質の高い番組をいくつも作っていると思ったりもするのだ。
「男はつらいよ」の第50作が、で昨日から上演されている。こちらも見てみたい。普段は映画館で映画を見たりすることは皆無に近かったが、ただし盆と正月だけは「寅さん」を見ていた。そんな昔昔の習慣を思い出す。
某誌の主宰をつとめる知人から紹介されて、藤井貞和の『日本語と時間』(時間に関わる文法的事柄を扱っている内容)を読んでいる。知人も言っていた通り、一読困惑するだろう、という言葉通りの状態。読み始めたばかりで、すでに筆者の語る内容がほぼわからない。「一読」すらしていないので、とりあえず読み終えてみようとは思うけれど、果たして読み通す体力と気力が維持できるか、少々心もとない気がする。
昨日は、所属結社誌への投句を一気に17句作り、投函する。疲れる。その後、気分転換をかねて近所をウオーキング。病院に立ち寄って、人間ドックの結果票を受け取ってくる。帰り道、合唱で一緒だった某社の社長さんのところに顔出しをして、近況などを10分ほどを聴く。一時期、体調を崩しておられたけれど、今では元気そうでなによりだった。他の団員も気にかけておられたので、いずれ大丈夫そうとお知らせしようと思う。
夜中、目を覚ましてテレビをつけると、アニメをやっていた。「ダーリン・イン・ザ・フランキス」という作品。「うる星やつら」とか「エバンゲリオン」とかの要素を上手に溶かし込んだような作。オリジナルアニメということらしいけれど、個人的にはわりと面白いと思う。偶然目を覚ました時に視聴する程度だけれど、本日は三話一挙にやっていて、年末特番的なものだったのだろうか、と思う。最後に一気に悲劇的な結末が待っているような、そんなチリチリしたものを感じさせつつ、少年少女の思春期ドラマ風な仕立て方も巧みだな、と思う。
「安物買いの銭失い」とか「安かろう、悪かろう」などと言う言葉を、現政権に対する支持層の姿勢に、ふと連想する。
それにしても、調査・研究という名目で、とうとう「自衛隊の海外派遣(これが今後の本格的派兵に向けての事実の積み上げ、実績作りだということは、素人でもわかるけれど……)」も(国会の議論なしで)決まったみたいだし。仮に、なにかのはずみで一時的であれ戦闘状態が勃発したとしたら、碌な武器ももたない自衛官たちは、どう対処するのだろうか? なんとも恐ろしいような気がする。
谷口智行氏の句集『星糞』が面白い。ちなみに、「星糞」とは「流星」の傍題で、「隕石」のことだと知る。「神々が恋をするやうに俳人は熊野とまぐはふのである」というコピーは、少々恥じらうところはあるにしても、句集の作品世界の特徴をかなり粘着質風な感じで言い得ているようにも思える。邑書林から出された句集なので、このコピーはあるいは島田牙城氏のものかも、などとも思ってみたりもする。谷口氏の所属する結社『運河』は、その地域の風土性を大切に詠うという特徴を持っているように思えるが、谷口氏はそのうえにさらにその土地の歴史や文化や神話・伝説までもすっかり呑み込んで句作を行っておられるようで、重層的な作品世界の、その一句一句の密度の濃さには本当に感心してしまうところがある。
今日は、病院への運転手。検査結果を聞きに行く日であった。少し気がかりなところがあったけれど、結果は大丈夫ということで、運転手としてもほっと一安心、というところ。今年も残り数日、気持ちを落ち着けて、とにかく大掃除を着実に行わねば、と思う。年賀状は昨日のうちに投函済み。遠くは北海道というもののあるけれど、25日中に差し出したので、ちゃんと元日には届くことだろう。
ほんとうにごたついた一年もまもなく終わろうとしている。上から目線的なものの言い方だけれど、日本という国の劣化は、この一年も着実に進んできてしまったような、そんな危惧と嫌悪を持たざるを得ないなあ……、とつくづく思う。新しい年は、半年間のあいだ、「2020東京オリンピック」に浮かれ騒ぐ、狂騒的な状態がきっと続くことだろう。
今日は、地元の山のスキー場開き。稜線付近にはうっすら雪が積もっているけれど、肝心のゲレンデは積雪ゼロ状態。雪のないスキー場開きとなってしまった。これから、年末・年始を控えてどうなることだろうかと、ちょっと気がかりではある。年末寒波は、今年はやってくるのだろうか。昨年は、そのおかげでなんとかスキー場を維持できたのだけれど。これも、年末の一コマということになろうか。臨時的な仕事も、今年の分は来週の火曜日でいったん終了。来年までお休みとなる。人間ドックの検査とその結果も返ってきて、まあいろいろあるな、ということもこれもまた年末の一コマということになるのだろう。精密検査にひっからなかっただけでも幸い、と考えておこう……。パソコンを替え、年賀状ソフトが使えなくなったので、お給料も頂いたことだし、と新たにソフト購入。整理を兼ねて、住所録を一から入力しなおす。一時期に比べて、ほぼ半数にまで入力者の数が減る(減らす)。これから、さらに年を追って数を減らすことになるだろう。年賀状の終活は、まだ考えてはいないけれども。これも、年末の一コマ。年賀状の文面も完成。「歳旦三つもの」という短い連句を趣味的にここ数年入れているので、その分時間がかかる。ただ、「歳旦三つもの」がまるで一般的ではないため、今回は解説的なものを入れ込んだら、妙な内容の新年の挨拶状になってしまった。これは、今回ぐらいで終りにしたほうが良い……。大掃除は、来週後半。天気が不安定なのが、少々鬱陶しい。忘年会も、クリスマスもまるで関係ない生活を送る。年末・年始に向けて、しばらく行っていない市立図書館に本を借りに行ってこようか。『源氏物語』は全五巻中三巻まで読了。このまま年を越すことになる。来年中には読み終えていることだろう。読了の瞬間が楽しみだ。それにしても、『源氏物語』は実に面白い。
NHKの朝の番組。福島の原発事故に対する責任の所在を問うある農家の活動。放射能濃度の高い地域は、表面の土壌を剥ぎ取って土の全面入れ替えを行うが、番組で取り上げた汚染濃度がさほど高くはない地域は、上層の土と下層の汚染されていない土を混ぜ合わせて、全体として土壌の汚染濃度を低くするという乱暴とも思えるようなやり方で対応。そのやり方に異議を唱える人たちに下った裁判の判決は、すでに撹拌された土壌から放射能のみを分離することは無理であり、いったんその状態になった土地については、その土地の所有者にすべての責任と権限・権利があり、そこに残された残留放射能を含む土壌もまたその土地の所有者の「所有」に帰する、とのこと。その土地の放射能問題は、東電に責めを帰することはできないで、土地所有当事者自身の対処すべき問題となる、ということらしい。「放射能もおれたちの財産、ということだそうだ」という怒りを含む一言が胸に残る。
その土地から収穫された米は、通常の食用米の流通からは外された扱いを受け、経済的損失(あるいは補填的な補助金がでているのかもしれないけれど)とやりがい等を含む精神的喪失の両面から被害を被っているはずであろうに。裁判所から、適当に言いくるめられ、だまされているような、釈然としない印象……。
俳句表現にかかわる、ずいぶんマニアックな話の続き。例えば、「ききわけの無き鮟鱇を鍋にかな 櫂 未知子」の句の、「かな」は体言あるいは活用語の連体形に接続するので、「鍋にかな」は「に」という「格助詞+かな」という接続関係になっているので、誤った用法である、という指摘があるということ。確かに、学生時代学んだ古典の授業の文法に時間には、「かな」は「体言・活用語の連体形」に接続するということを教わった。
しかし、例えば正岡子規の『俳句分類』の長谷川櫂編集のコンパクト版をあたってみると、古俳諧の中には「蝉にかへて波の枕の夢もかな 水猿(『椎葉』より)」や「門かさりいつれ尺八竹もかな 行露(『末若葉』より)」、さらに「我頭巾浮世のさまに似ずも哉 蕪村(『蕪村句集』より)」のように、必ずしも「かな」は「体言・連体形」に接続するわけではない(「も」は助詞である)用例も実際に見受けられるところから、平安時代を中心とする文法の範囲から近世の古俳諧においては逸脱する、あるいは新たな用法が「かな」に出現していたと考えられるのではないか、ということもあり得るわけだ。「もかな」から「にかな」までは、ごく近接した使用法として考えられそうであり、とすれば一概に「にかな」の用法を平安時代の基準から誤用と決めつけることには無理がありはしまいか、ということである。
ちなみに、これはあくまで仮説ではあるけれど、「かな」には直前の体言・連体形に詠嘆の意味を添える働きとは別の、前の部分の意味全体に対して(たとえば「ききわけの無き鮟鱇を鍋に」全体に詠嘆の意味を付加するような具合に)働きかけるような用法が表現史の変遷の中でもたらされ、すでに近世にはかなり流通していたか、あるいは「も」「に」に続く語の省略が俳句形式の便宜上なされたのではないか、などと考えられそうな気がすることだ。
俳句表現にかかわる、ずいぶんマニアックな話。「にかな」という詠嘆表現が適切か、不適切か、ということ。昨日、県の俳句大会に出かけた際、知り合いの人からこの点を尋ねられて、確かに俳句の中にはそのような表現で句を閉じるものがあったなという漠然とした記憶はあったものの、それが(文法的に)適切か、不適切かと改めて問われると返答に困ってしまったということだ。何か分ったことがあれば、是非メールで教えてほしいと、わざわざメールアドレスまで教えていただいたこともあり、なんというのか宿題でも出されたような気分で帰って来た次第。
夜、滋賀県在住の某結社主宰で博学の知人に携帯で尋ねてみると、分からない、とのこと。彼でも分からなければ私にわかるはずはない、などとちょっと開き直ったような思いにもなったけれど、「ただし、……」と彼。その適・不適の判断基準がいわゆる学校文法(山田文法のこと)によるものであれば、その判断には大きな保留が付くかもしれない、とのこと。なぜなら、俳人が文法的なことを言い出す場合、その判断の根拠は文法に関する専門的な知識によるというよりは、学校の古典の時間に学んだいわゆる「学校文法」と、それに毛が生えた程度の知識によることがしばしばで、平安時代の文法事象に基づく「学校文法」では、その後の文法それ自体の変遷に対応しきれていないという現実がある、ということだ。俳句表現については、少なくとも近世における用例などまで当たってみる必要があるのでは、という。
茫漠たる話である。せめて、ちょっと正岡子規の『俳句分類』のコンパクト版(子規選集の中にあったはず)をちょっと見てみようか、などと思う。
文科省の試算によると、教職員が通常の算出方法で(というのか、おそらく民間のということなのだろうけれど)超過勤務手当を支給されるとすれば、9000億円もの費用(まさか、単年度において、とは思えないけれど)が必要になるらしい。それがフェイクニュースでもないとすれば、教員はそれだけのただ働きをしている、ということになるようだ。セブンイレブンなんかの比ではない、ということになる。あきれ果てた状態だと思う。法律が変わることによって、超過勤務時間の一部は合法的な勤務時間内に繰り込まれてゆくことになり、9000億円というその額はその分数値上では減る(実質上の教員の負担は変わらないけれど)ことになり、法律変更による状態の改善は、数値上も証明された、なんて文科省なのか、政府なのかは知らないけれど、胸をはることになるのだろう、きっと(統計方法をかえることで、実態はなんら変わっていないのに、数値上は『改善』する、なんてことは、何かの統計で実証済みだけれど)。
今年の漢字は「令」に決まったらしい。「令和」の「令」である。予想通り、という書き込みなどがネット上に散見されたりする。今年の1年を象徴する漢字が「令」ということになるらしいけれど、でも果たして元号変更以外に、この「令」という言葉が今年の何を象徴しているのか、個人的には良くわからない。天皇があらたに即位したことだけが、今年の日本にあった祝福すべきことだったみたいであるが、それか(今上天皇・皇后には、「国民統合の象徴」として、体調に注意しつつ頑張っていただきたいとは思うけれど)。あと、ラグビーくらいか……、でも「令」には格別関係ないみたいだし。
今日は、朝が一番気温が高くて、その後はだんだん下がり始めるという、そんな一日になるらしい。午前中はなんとか曇りでもっていた天気も、とうとう昼過ぎからは雨になってしまった。山の方で、雪になっているのだろうか。なんとも、寒々とした雨になっている。
午前中は、結社誌に出す「読書ガイド」の原稿を書く。川島由紀子さんの『阿波野青畝への旅』という評論。なかなか面白い。
知り合いの人から、『T』誌掲載の連載評論「今こそ、波郷」(著者は岸孝信という方)のコピーをまとめていただく。とても面白いから読んでみなさい、ということでいただいて、読んでみたら本当に面白い。緻密な内容の評論で、きちんと裏付けの部分を積み上げて書き上げられた文章。一編書くのにずいぶん労力を必要とした文章なのだろうな、と感心する。評論らしい評論というのは、このような文章をさすのかもしれない……。
「しいたけ」が美味しい。県内には、傘が大きくて肉厚のブランドもののしいたけなどを栽培しているところもあるけれど、こちらはそんな高級品を買うまでもなく、地元産の一袋数百円の地産地消版しいたけ。大きさはまちまちだけれど、形良くさらに結構肉厚のものが六つほど。そのしいたけ(生しいたけ)を三つ四つただフライパンで焼いて、しんなりしたものを何もつけないでそのまま食べる。美味。しいたけのうま味がそのまま味わえて、立派なおかず一品となる。きのこそのものはあれこれ食べてはいたけれど、なぜかしいたけはずっと縁遠かった。でも、シンプルに調理して、シンプルに食べるしいたけがこんなにうまいとは!
寒い。地元の山はほとんど麓まで白くなっている。スキー場の積雪は、まだ数センチらしいけれど、ゲレンデの形がそのまま白抜きで望見できる状態である。今年登るつもりだった峯の幾つかもすでに雪ということで、来年春へと持ち越しになる。下界も寒い。今日はとうとう冬支度として和室に電気こたつを準備する。これから、読書はその炬燵にもぐりこんでぬくぬく状態で進めることになりそうだ。『文章規範』は下巻に入る。比較的短い文章が収載されてあって、どこかで読んだ覚えのあるものなども含まれていた。あるべき官吏の姿などが説かれたりもしていて、どこかの国の上級官僚に読んでもらいたいような内容のものもあったりした。
今年ももう残りは二十日あまり。何事もなく、穏やかに過ごせればよいのだけれど……。
そうか、「桜」の資料廃棄は、担当の障害者が直接・間接に関係しているのか。ゆえに、廃棄の責任はひとえにその担当障害者や、その勤務体制に属するのだ、と安倍総理は言いたいわけなのだろう。なるほど。どうです、こうやって話を持っていくことで、問題の論点ずらしのみならず、「障害者」を前面に持ち出すことで、批判言語の矛先を鈍らせる効果も併せ持つことになる、みごとな答弁書でしょうということになるのだろう。それをまとめた官僚がそうなのか、それを平然と国会で読み上げる総理がそうなのか、よくはわからぬなりに、自慢げにほくそえむ人間のありさまなどが、背後にちらつくような気がする。
その根底には、「障害者」を軽んずる差別的な意識や、弱い立場の人間を自己の利害得失に平然と利用する、品性の卑しさのようなものを感じるのは、こちらがナイーブ過ぎるせいなのだろうか……?
『文章規範』を半分読了。『源氏物語』は「若菜の巻」を三分の二ほど読み終えた。この頃になって、実は始めて主人公の内面というものについて、いろいろ気になるところが出てきた。遅きに失するということなのかもしれないけれど。「理想的な人物」「完全に近いような人物」という物語世界におけるパターン化された主人公像(もちろん、紫式部はそんな軽薄な地点で主人公を描いてきたわけではないのだけれど)が、彼の晩年に近づくにつれ、崩れ出していくようなところが逆にこちらに共感をもたらす、そんなところがあるような気がする。若い貴公子としての主人公の姿も魅力的ではあったけれど、中年の姿にはさほど興味が感じられず(周辺の人物たちの姿がより印象的であったせいもあろうけれど)、老いに向う主人公の姿に注意を引かれるのも、読者の側の事情によるのだろうか……。
同じ崩壊であるにしても、官僚や政治家のそれは嫌悪感が先立つけれど、『源氏』の主人公については、全く逆の感情が生まれる。作り物の主人公が、次第に人間的な姿をさらすというあたりで、ようやっと『源氏物語』の物語としての深みの一端に触れることができたという(遅いけれど)ことなのだろうか……。
昨日は、久しぶりに終日仕事。目がとてもひどく疲れる(困った!)。それ以外は、現役の頃とさほどかわらない状態で、仕事をこなすことができた。とはいえ、給与には全く反映されないので、ほぼ完全な1日ただ働きということになる。せめて交通費ぐらい支給してほしいけれど、それも全部ぶっこみという条件らしくて、名目上は1円の支給もない。かなり、寂しい。人出が足りない、緊急事態ということで、急遽引き受けたけれど、楽しさ3、しんどさ7くらいの割合の仕事となってしまった。まあ、仕方がないけれども……。
夜は合唱練習。男声ベースパートのみの特別レッスン。(こちらもまた)急遽入団された方の練習補助ということで、予定外のレッスンとなった。とはいえ、ベースパートが6名で、1時間以上かかる大曲を歌うことになるので、1名の新加入は大いなる希望、ということになる。以前、経験されたこともあるらしいので、その点も心強い。時間延長を含め、3時間ほど歌う。実は、前日も全体練習があり、そのせいか、声の調子は悪くなかった。結果として、終わってぐったりという状態ではあったけれど。
そんなわけで、本日は朝寝。その後、午前中読書。昼食後、1時間半ほど歩き、さらに朝に続いて読書。そして、送っていただいた俳人赤尾兜子関係の小冊子を読了する。面白い。
午前中の読書では、阿波野青畝関係の評論を読み始める。所属結社に読書ガイドとして文章を書く必要があるので、読む。丹念な調査と、懇切な資料提供と、丁寧な論評とでなかなか面白い。俳壇での評判も良いらしい。俳人協会の評論賞関係の選考対象になるかも、などと思ったりもする。