日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
19.5「日々録」 | 19.6「日々録」 | 19.7「日々録」 | 19.8「日々録」 | 19.9「日々録」 | 19.10「日々録」 |
【19年11月30日】 【19年11月28日】 【19年11月27日】 【19年11月20日】 【19年11月18日】 【19年11月15日】 【19年11月11日】 【19年11月6日】 【19年11月3日】 【19年11月2日】
十一月も本日で終り。昨夜は、夜突然に霰が降りだし、その音にビックリしたけれど、今朝の快晴の空には、雪をいただいた大山の北壁がまぶしく輝いていたりしたものだ。正確には5合目より上は積雪があったようだ。スキー場もゲレンデは全体が白く見えたけれど、その量自体はたいしたものではなさそうだ。ただ、四国高松の知人から、白銀の大山南壁を屋島から望見したと連絡をもらって、ちょっと驚いたりしたものだ。
年末を控え、実家の犬の出張トリミングを手伝う。行きつけの犬の美容院が閉店して以来、その店のトリマーの方に自宅まで来ていただいて、実家の犬のトリミングをしていただくことになった。別の仕事の合間にわざわざ来ていただける、それも田舎暮らしの余裕のひとつなのかもしれない。その際、助手的な役割で、犬を抑えたり、抱き上げたり、切られた毛の始末をしたりと、私がお手伝いをすることになったのだ。だいたい1回のトリミングに2時間程度かかり、その間トリマーの方はもちろん、「助手」の私も立ちっぱなし状態となる。それが結構シンドイ。いつものことながら、丁寧な仕上げがみごとで、実家の犬も気持ちよく(かどうかはわからないけれど)新年を迎えることになるのだろう。午前中一杯かかった調毛であった。
午後、その実家にB社のピアノが届いた。アップライトの古いピアノに替えて、新しくB社のピアノを購入したらしい。ピアノ教室の方には、グランドピアノが置いてあるので、こちらは個人的な楽しみで使うようだ。その試弾を聴いていたのだが、なかなか素晴らしいものだった。ちゃんと調律が終わっていないらしいので、その調整が済めばさらにすてきな(これは文字通り「すてきな」としか言いようがないような音色であった)演奏が楽しめるのだろう。ただ一人全くピアノが弾けない我が身にとっては、うらやましい限りのことではあるが……。
教員の変形労働時間制導入の法案は、すでに衆議院を通過していたのか。ということは、このまま成立する可能性が高いということになるのだろうか。公聴会だったのか、現職の教員の憤りにみちた発言が紹介されてあったりしたけれど、本当にこんな愚劣な法案を作った連中も、それを成立させようとする連中も、ひっくるめて薪かなにかのように一括りにして地獄の釜にでも放り込んで一気に焼尽させてしまった方が、よっぽど未来の日本のためになるという思いになる。過激、だろうか……。
ここしばらく、何かしら毎日の予定が詰まっていて、本日は久しぶりに何もない日となった。天気は荒れ気味で、時折強い風の吹く音がカーテン越しに室内まで届いてくるような状況で、断続的な降雨もあって、今日は一日家籠りの日となりそうだ。
ずっと読み継いできた『源氏物語』は、「若菜の巻・上」からしばらく全く進行なしの状態で、古文と古語に対する感覚が鈍ってきはしまいかと、少々気がかりではある。漢文は、『文章規範・正編』が間もなく終わろうとするところで中断が続いている。図書館は、先だってついうっかり返却日を思い違いしていて3日ほど遅く返却ということをしでかし、引き続き新たに借り出すことがなんとなくできなくて、そのままで過ごしてきた。結果として、新しい本は今全く手元にない状態となってしまった。コミックの「ピアノの森」@〜Bを返して以降、続きを是非読みたいなと思いつつも、それもできないでいる(「のだめ」とはまた違う面白さのある作品)。なんとなく、自分の中でほとぼりが冷めるのを待つという感覚であろうか……とも思う。
とりあえず、本日はこのあと所属結社投句用の十句を作ってみようか。関西旅行中にも二十句ほど作ったけれど、それはそれとして新たに作ってみる。自分自身、こんな生活を送っているので、日常性にかなり希薄な部分があるのではないかと常に胸のどこかで感じてはいるのだが(それは確かに、金子兜太やてふこさんのような輪郭のくっきりした存在感的なものとは反対側にあるような「薄さ」ということになるのだろうか)、その貧しい日常性を素材に十句作ってみようか、などと思う。
「桜を観る会」。ある意味、こんな馬鹿馬鹿しい話題で、世の中をざわつかせている安倍晋三は、残りの任期の二年弱を待たず、さっさと退任してほしいものだ。その状況をさらに焚きつける(火消しに躍起となっているようで、逆にその後ろ暗さを際立たせつつあるような言説に対しても)愚かなネトウヨをこれ以上増殖させて、本来の日本の美質を際限なく汚すような真似もさっさと終わりにしてほしいものだ、とも思う。上から目線というより、ネトウヨと呼ばれる人たちの多くが、実は同年代だったり、さらには上の世代だったりするらしい実態に対して、恥じらうような思いも感じつつあるということで……。
二泊三日で関西に出かけてくる。句会が二つと、その間に京都散策、ならびに知人との会食という楽しいプランで。高速バスでの往復(とはいえ、新幹線を含むJR利用の半額で移動ができ、さらに乗り換えなしで楽々!)、カプセルホテル利用の宿泊(個人的には、大きなお風呂や朝食付きなど、結構気に入っているけれど)という節約パターンの旅であった。句会は、二つともとても楽しいものだった。とともに、なんとなくそれまでの自分の句とは違う、妙な気息のようなものをふと感じたりもして、それも面白かったし、ありがたくもあった。京都は、紅葉真っ盛りで、その分観光客も多かったけれど、人の多さにげんなりしつつも、それを凌駕する紅葉の美しさは、やはり京都ならではと思わせられたりもしたものだ。
その旅行中に、金子兜太の句集『百年』(旅行中に読もうと思ってはいたのだが)と、松本てふこさんの句集『汗の果実』(これは、句会に参加した折いただいたもの)の両方を読み終えたのも、大きな収穫であった。特に、てふこさんの句集は、「満目これ俳句」的な世界に対する繊細でしかも骨太なパワーを感じさせられる俳句愛に満ち満ちた句集のように感じられた。すごい、と思う。
節約旅行とはいえ、最初のお給料はこれですべて消えてしまった。しかし、こんなお金の使い方は満足感だけを後に遺してくれるものと、しみじみうれしく思われたものだ。
臨時的な仕事を始めて1か月。明日は、給料日。支給額はだいたい分かっているけれど、交通費とかがどの程度なのか、説明もないし、まるで分からない。ネクタイを絞めて出勤する生活は、昨年来とはいえ、どうもいまひとつしっくりこない。やはり疲れる。数年前までは、12時間勤務は当たり前で、休憩時間なし、土日出勤ありという状態の中で、それをごく当たりまえのように送って来た自分自身が、なんとなく嘘のような気分になってくる。
嘘のようにというのは、もちろん今現在がそれに比べて嘘みたいに幸福というわけではないけれど。
そんな背景があり、若干早く退職もした。定年を待っていれば、おそらく身が持たないという予感というか、心身の感触があったからでもある。力を残したまま、郷里に戻り、そこで次の生活を始めようという目論見が当然あり、条件的にそれを許す要素もあって、退職後の心身の不安定な時期(反動というものはあるのだ)を乗り切って、今に至るという、そんな感慨を感じたりしているということだ。
あれこれ思えば、臨時的な仕事を含め、現在の我が身はいかにも「お気楽な」身分ということになるのかもしれない……。
明日のお給料が、楽しみである。
なるほど、起訴するということは、相手に説明責任を放棄させる正当な口実になり得るわけだ。実際に、「訴追の恐れあり」を口実として、様々な説明責任を放棄し続けるお偉い方々の前例を何度も目にしながら、そのもたらす結果に本当には気づいていなかったということを改めて認識したことだ。なんでも検察に訴えかければよいということの落とし穴と逃げ道とがあるということ、これも民主主義の「公平と公正」がもたらす、大きな不正ということであるのか……。
次の総理としてふさわしい人は?という某アンケート。小泉も安倍も抜いて、石破がトップとなったようだ。個人的には、石破が総理になるとしたら面白いと思ってはいるのだけれど、残念ながら石破という個性は、日本の現在の新自由主義が保守面を決め込む政治風土の中では、異質なものとして排除され、いじめの対象とされることは、大人の世界でも、子供の世界でも同根の事象なのであろうか、と思う。軍事オタクという点を除き、最も冷静で公正な見識を今現在表明しているのは、石破だと思うのだけれど……。少々古いタイプの政治家という側面もあるけれど、それは過小評価されるべき特質でもないだろうと思われる。
どのニュースも、ワイドショーも、寄ると触ると「エリカ様、エリカ様」と「エリカ様」を連呼しているようであるけれど、マスコミが全力を挙げて取り立てるような話題であるのか、どうか。面白おかしい話題の一つを、深刻めかして骨まで嬲りつくそうとするマスゴミ的本性が、恥ずかしげもなく発揮されているように、個人的には見えてくるのだけれど……。『他に取り上げるべき話題があるだろう』、などとネトウヨの常套句風にもっともらしく上から目線で言うつもりは毛頭ないけれども、なんか馬鹿みたいではあるような気がする。清原の話題のほうが、よっぽど電波に乗せるべき価値はあるのだろう、などとも思ったりする。
石田波郷について、短文を一つ書いて送る。若い波郷の体温や感性や息遣いやらをちょっと感じさせるような一句を話題とする。
共通試験、国語の記述式問題を国公立の二段階選抜(いわゆる足切り)から除外してほしいとの考えが文科省にはあるらしい。自己採点の困難さから、二段階選抜を実施する大学への受験生の出願に対して、文科省としては自信ある制度保証が出来かねるという、責任放棄めいたなんとも頼りない姿勢という印象を持ってしまう。自己採点の正確性に関しては、別に二段階選抜実施校に限定されず、いずれの大学への出願に際しても大きく関係してくることであろうけれど、特に一部の大学への受験生の配慮要請とすれば、それもまた受験の公平性に関わる問題のような気もする。無理に無理を重ねて、ベネッセへの配慮を押し通そうとするより、よく言われるように記述式は二次試験で実施すればよいだけの話なのだろう。受験生の配慮より、特定の一私企業への配慮を優先するような姿勢は、受験生切り捨てと指摘されても仕方ないもののように思われる。
桜を見る会、前夜祭、私などには一生無縁であろう超一流のホテルが、格安の5000円で立食パーティーをお膳立てしてくれたらしい。それが通常価格でなければ、一流ホテルのサービス(忖度)営業ということになるのかもしれない。そこに食事を提供した、超一流の寿司屋も含めて、自らの名前と信用と矜持とを貶めるようなことを、まさかするとも思われないけれど……。というのか、本当に格安5000円で会場と料理とアトラクションとを提供したとすれば、その時点でそのホテルの品格を含め、格付けはぐっと落ち込んで、ホテルにとっては酷いマイナスイメージが付与されるようにも思われる(もっとも、太っ腹営業とか、薄利多売商法とか、さらに「総理御用達」商店という別の格付けが持ち込まれるのかもしれないけれど……)。
別に野党に政権を取れとはいわないけれど、もうそろそろ長期政権のつもりに積もったヘドロを吐き出して、刷新の機運を作り上げる時期が来ているように思われる。このまま、ずるずると泥船が混濁した閉塞水面へと沈没していくような、そんな悲惨な状況を目のあたりにするのは、なんとも鬱陶しいことだ。
久しぶりに、幼少期を過ごした町へ出かける。車だと1時間もかからないところだけれど、逆になかなか行く機会がない。今回は、関東地方在住の中学の同窓が一人、短期で帰ってくるということで、集まれる数人で会食することになった。ひるの時間帯だったけれど、同じく同窓生の経営する韓国料理店で食事。他のものはお酒も飲んだが、私は車だったので、もっぱら食べることが中心。近況から始まり、いろいろ思い出すことをとりとめなく話、最後は結局健康問題、という流れ。同窓生で、あらたに亡くなった人などもいて、時間の経過というものを思う。3時間近くいて、帰郷した同窓生を車で実家まで送って、その日は終了。楽しい半日だった。
別の日は、二か月ぶりの句会へ参加。地元句会とはまて別の集まりで、結社の背景の違いもあって、新鮮な思いで参加。互選の結果、ばりばり特選や高点句をいただいて、気分良く過ごす。地元句会では、毎回ほぼ撰ゼロという状態なので、複雑な思いも若干あるけれども。
長谷川櫂の『俳句の誕生』を読み進める。基本的にこの人の主張には、ちょっと眉唾的な印象も持つのだけれど、今回の著作については、結構共感するところが多い。というよりは、私自身も俳句については、この人と近いところで受け止めたり、考えたり、さらには句作している部分があるように思われる。とはいえ、それが結果として「1か0か」という結果をもたらすとすれば、これまたちょっと微妙な思いにもなることだ。
共通テスト。国語・数学の記述式について。高校生4万にが反対署名を出すなどという、今どきの高校生の行動としては普通考えにくいような反応がありつつも、ベネッセを筆頭とする受験業者との利害関係(それ以外に、記述式をごり押しする理由はおそらく存在しないだろうけれど……)の中で、このまま実現しそうな気配は濃厚だ。某テレビのコメンテーターが珍しく皮肉交じりに、「受験生より能力の落ちるバイト生が、採点を行ったりすることにもなる」制度的なことを宣ってはいたけれど、いずれにしろ採点の正確性・公平性はなかなか担保しきれないだろうことは確かだ。50万人の記述式採点をごく限られた期間内に、公平・正確にやり切ることは、それを中止することの何倍ものエネルギーを消耗することになるだろう。……でも、あの文科大臣はやるつもりなのだろうなあ。
日本は、受験生も(あるいは受験生の人生それ自体をも)商売の対象として売り買いするような「美しい国」と成り果てたのか、とも思う。
11月は、本格的な冬を控えて、小春日和的なのどかな日和を期待していたのだけれど、昨日は本当に寒かった。夜も、結局寝具を一枚増やして、なんとか落ち着いて眠ることができたほどだった。寒いなりに、真夜中の星空はなかなかきれいではあったけれど。年ごとに視力は低下してくるのせいか、サプリメントや胡麻(セサミンは目にも効果があるはず)の効き目も少々おぼつかない状態だ。満天の星空というのは、幼少期とか、山行において、何度も目にする機会があったけれど、さほど空の条件が悪化していはいないだろうに、満天という迫力を味わえないのがかなり残念。
山の夜の星空というのは、光害の影響をほとんど受けないので、もろ生星空というものを味わうことができる。北アルプスの稜線での星空や、白山別山尾根上のキャンプの折の星空などは、鮮烈な印象として記憶の中に残っている。
「星取県」などと自称する県の一角に暮らして、粒だつ星々の空を当たり前に鑑賞できた、そんな「視力」が懐かしい……。
首里城再建の寄付、ネットのふるさと納税サイトを利用して協力が可能らしいけれど、クレジット決済という方法のみのようで、基本的にネットを信用していないので、別の方法を探す必要があるなと思う。それにしても、目標額1億円をすでに突破して2億余りも寄付がなされているのはすごいことだ。
ひねくれ人間としては、善意やボランティアの在り方について、ちょっと思うところがないわけではないけれど、ともかく2022年までに再建という沖縄知事の思いが、一部でも具体的な形で実現されたら、とまず思う。
とはいえ、そんな善意の集まりを、「ワンチーム」などという流行(はやり)言葉で括るのは、個人的には気持ち悪い。
パリのノートルダム寺院火災の際も、たいへん驚いたけれど、先日の首里城火災も、あの時以上に衝撃を受けた。個人的には、沖縄との直接的なつながりは特にないけれど、ずっと興味を抱いてきた地域ではあったので。ある瞬間には、まさか放火ではなどという不謹慎なことも思ってしまったけれど、ニュース報道によるとその可能性は低いということで、その嫌な感じは薄れてよかった。原因は究明中ということのようだが、首里城が元に戻ることはないにしろ、今後の再建のためにもしっかり原因を明らかにしてほしいな、と思う。
建物の性格上、屋内へのスプリンクラーの設置等ができなかったらしいけれど、初期消火の重要性を思うと、法律的には設置義務から除外された施設とはいえ、内部を保護しつつ、しかし火災に対応するような防火施設の検討や設置などが必要になってくるのかも、などとも思う。後世に伝え、文化的遺産として残すものに対しては、十分にお金をかける意味と価値と必要とがあると思われる。
数百か所もの問題点が指摘され、その改善も進んでいないらしい米国産戦闘機をわずか数機購入を見合わせるか、将来的にそのための必要な予算を沖縄に回せば、購入後のメンテ費用などに必要な金額を合算したら、首里城再建のための国からの(我々の税金からの)潤沢な予算措置は十二分に可能なのだろうに(すでにもう購入契約が終わっているなら、それも難しいかもしれないけれど)……、というような意見の方が、私自身には納得できるものだ。
米軍基地問題で、「おんぶにだっこ」状態である沖縄に対して、軍費をほんのわずかばかり削減して、沖縄の人たちの心の支えといわれる「首里城」の再建の手助けに回しても、なんら罰はあたらないようにも思われるけれど(そんなのは色々な意味で嫌だという潔癖な人もいるかもしれないが)。
軍備と文化政策という次元の異なるものを、ごっちゃにするな(さすがに「味噌も糞も一緒にするな」とは言わないが)、などという声もきっとどこかにあるだろうけれど、限られた予算のその配分について、巨大な枠付けを持つ予算項目のひとつで、当面ほんのちょっと削っても国民生活に大過ないものは、国防関係予算では、などと。
沖縄の首里城火災は、本当に衝撃的な出来事だった。当日、夜明け前に目を覚まし、いつも通りテレビを付けたら、早朝のニュースの画面に激しく炎上中の様子が映し出された時は、一体どこの火事だろうかと思ったのだが、それが首里城であることを知って、とても驚いた。後に、首里城は戦災を含め、数度の火難にあったということを知ったけれど、驚きは収まらなかった。
民間活用の英語入試。文部大臣の「身の丈」発言がとどめの一刺しとなって、延期という結末となった。多くの人たちが、背後に現在の政治に内在する差別の意識や、さらには利権の影などを強く感じ取っていたことだろうな、と思う。無理を通せば道理が引っ込むと、今回も甘く考えていた文科省や政府は、思わぬ逆風にようやくに延期を決定する破目となったようだ。とはいえ、あくまで延期なので、改めて提案をするつもりではあるのだろう。撤回では、メンツもたたないことだろうし……。税金や権力を活用して、一部民間企業の後押しをして、その結果上前の一部をいただくという利権発生とその後という構図は依然として生きているのだろうし。税金100億を吉本興行という一私業に提供した政府の思惑やら、吉本の戦略やらをふと思う。
今回、入試に非参加を判断した「TOEIC」は賢明であったということなのだろう。
最初から東京オリンピックに対して、全く興味を感じていなかったので、昨日今日とマラソン・競歩が東京から北海道に変わったという顛末も、ある種の狂騒的出来事としか見えなかった。東京も、莫大な税金を、消費的催しに使うより、いずれ来る巨大地震と津波の対策に今からあれこれ準備しておく方が賢明では、などと思ってはいたのだが……。オリンピックに焼尽される税金が、震災による死亡者を数万あるいは数十万レベルで救うことにつながるかも、などと思っていたことは確か。他人事のようにみていたので、今回の問題も「東京は温暖」などというオリンピック東京誘致への言葉のまやかしが遠因としてあった、と私などは思う。とりあえず誘致に成功して、後のことはまた考えればなんとかなる、という甘い(あるいはその場しのぎの良い加減な)判断が、結果としてなんともならなかったということ?
ひねくれた見方かもしれないけれど……。