日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
19.10「日々録」 | 19.11「日々録」 | 19.12「日々録」 | 20.1「日々録」 | 20.2「日々録」 |
【20年3月29日】 【20年3月27日】 【20年3月24日】 【20年3月22日】 【20年3月17日】 【20年3月15日】 【20年3月12日】 【20年3月10日】 【20年3月8日】 【20年3月7日】 【20年3月4日】
森友問題について、真相解明のための第三者委員会の設置要請のネット署名活動が現在も継続されているようだ。当初、15万筆を考えていたらしい署名数は、すでに目標数をこえ、さらに20万筆へと変更されたらしい。15万筆が20万筆に増えようとも、聞く耳を持たない相手が対象であれば、どのような効果をもたらすかおぼつかないところはあるだろうけれど、一人一人の具体的な意志表明の一手段としては意味を持つようにも思われる。私も、もちろん一筆を投じたけれど。
コロナ騒ぎで大変な時期に、公務員一人の自死に関わってこんなことをやって政権の足引っ張りめいたことをやっている暇はない、と考えるむきもあるのだろうけれど、「コロナはコロナ」、「政治への信頼確認は確認」として、どちらもないがしろにはできない問題であることは明らかなように思われる。
それに、最近ふと思うのだけれど、今現在なんとか「コロナ」を抑え込んでいるのは、実は政治力の問題ではなく、良かれ悪しかれ日本人の国民性に負うところが大きいのではないか、と思われる。逆にいえば、政治が具体的な数値を伴う施策を打ち出すより、この時期に「誇大な美辞麗句」としか思えないような精神論を前面に打ち出そうとしたり、方策に対する奇妙な忖度を発動しようとすることで(「お肉券」とか「お魚券」とか、こんな時期にも関わらす「旅行」への補助とか、完全に時期を見誤っている議論を持ち出そうとしているところがあるみたいだけれど、それこそ議論を長引かせ、決定を遅らせ、実害を伴う足引っ張りだったりするだろう)、混乱を招いているみたいなところがあったりする、それは国民の足取りを迷わせることにもつながりかねないように思われる(こんな意見も、「美辞麗句」並みの薄っぺらな観念論のひとつかもしれないけれど……)。
今日は、亡くなった犬と、それまでの二代の犬たちのお骨を一つのお墓に収める日。犬用の墓地を、歩いて行ける場所に購入し(なんとそこは「樹木葬」であるが)、墓碑をデザインし、葬地を整備し、その準備が整ったので、本日ということになった。
母の運転手で、大きな総合病院まで。あいかわらず外来患者の多いこと、と思う(もちろん、自分達もその一人ではあるが)。病院内を往来する人たちが、皆マスク姿というのは院内とはいえ、やはり異様な印象を与える。それにしても、いつになればマスクの供給は始まるのだろうか、と思うとともに、これだけのマスクが私たちの中に流通しているのだとも、あらためて思う。地元では、相変わらずマスクも消毒液もほとんど店頭に置かれないという状況でありながらも。
自分が今着けているマスクも、何度目の使いまわしだろうか、と思ってみる。
東京は、オリンピック延期が決まるとともに、コロナ感染者の数がうなぎ上りに増えているようだ。「突然に」というこの状況の変化に、戦々恐々の首都の様子が時間を追って報道されているようだ(今日のうちに外出をという人もその中には含まれるようだけれど)。関東圏に親族や知人がいることもあって、こちらも気がかりな思いでニュースをみたりもする。コロナ蔓延は、これからが本番なのかも、などと不吉な思いが胸をかすめたりもする。土日の外出自粛の要請を受けて、すでに食品の買い占めなども進んでいるらしい。実際、親族から一部商品が不足しているみたいだ、ということを知らされたりもしている。買い占めパニックなどにまで事態が進行しないことを祈るばかりだ。
国民の中にコロナ感染に対して緊迫した状況が続くなかでも、知人とレストランで会食し、呑気にお花見に興じる総理夫人とそのお友達が存在したこともまた、「美しい日本」の象徴的出来事かもしれない(「レストランで会食したらいかんのか」、と開き直る、「会食」大好きなご主人もいるけれど。そういうのも、『夫唱婦随』みたいなものなのだろうか……)。勤勉な公務員の自死の原因をもたらしたのもまた、そのお気楽な性格のゆえだとすれば、亡くなった方の遺族の無念さはどれほどのものだろうか、と思う。
読書の時間が明らかに減った。その分、実家にでかけては、子犬と遊ぶ時間が激増している。困ったことではあるが、こういうのを「痛し、痒し」とでもいうのだろうか……。午前・午後の二度、短時間散歩に出る。「散歩」とはいえ、ブリーダーさんの指示に従い、子犬を抱いて近所をぶらぶらするという格好。リードにつないで、路上を歩かせるのはさすがにおぼつかない。腕の中で、子犬は興味津々なのか、ちょっと恐怖を感じているのか、移動に従い、周囲をきょろきょろと眺めている。
夕方には、犬の遊び道具を買いに出る。音の出るボールと、「牛の蹄」。どちらも、甘噛み対策用のおもちゃ(「牛の蹄」は、さすがにちょっとグロテスク。子犬はお気に入りであったけれど)。この時期、子犬はしきりに「甘噛み」してくるけれど、ほっておくと「噛み癖」のある犬に成長してしまうので、おもちゃで発散させつつ、人に向けては厳しく注意。目と目を見合わせて、「ダメ!」と強く叱る。すると、ご機嫌取り(当人は真剣なのだろうけれど)みたいに、しきりにぺろぺろ舐めてくるのが面白い。
コロナに騒然とする世上にあって、つい「和むなー。」などと思ってしまう。
数日前、甥・姪とともに、高速をとばして、関西地区の某ブリーダーさんのところへ子犬をいただきに行く。生後三か月。母考案の臨時の居場所を、後部座席にベルトで固定して、一人が運転、一人がその補助、もう一人が子犬の世話係と、しっかり役割分担も決めて、ここしばらくの引き取り準備の総仕上げ、ということ。快晴の中を出かけ、快晴の中を子犬を乗せて帰宅。場合によって、車酔いする子犬もいるということで、その点が気がかりだったけれど、無事何事もなく自宅まで。
新たな家族の一員として、この家で暮らすこととなった。
そして、数日が経過。毎日、元気いっぱいに過ごしている。食欲旺盛、ウンコもオシッコも大丈夫そう。ブリーダーさんのしつけのおかげで、初日からウンコもオシッコも自分からシートに移動して行う。自分がお世話してきた子犬の中で三本の指に入るくらい、頭の良い犬とのお墨付きも頂いた子犬で、その片鱗を感じる。夜泣きはするものの、昼間は特になんの問題もない。環境に慣れて、おちついて暮らしていってほしいとしみじみ思う。
読書の合間に、実家に子犬を見に出かける。しばらく遊んで、帰宅。再び読書にもどる。『大山の便り』は延長してさらにもうしばらく手元において読める。地元の作家さんの絵本というのか、詩集というのか、それも借りてきて読む。ボールペンによる緻密な線描がすごい。それと、アマゾンで購入してきた『ピアノの森』全26巻も本日読了。作者の一色まことを、途中までは男性と思い込んでいたりしたものだ。『のだめ』とはまた異なるとても面白い作品。無我夢中で読む、一巻を読み終えるのがもったいない、などと久しぶりに感じるコミックだった。
森友問題。自殺された公務員の男性の奥さんの言葉、「安倍首相、麻生大臣。あなた方は調査される側で『再調査しない』と言える立場にありません」。本当に胸に迫る。組織もそれにかかわる職員や政治家も、いったん腐り始めると、どこまでも歯止めなく腐敗し続けるということなのだろうか。
昨夜は、五月下旬に予定している「メサイア」コンサートの連絡会議。身内以外の人と席を同じくするのは、久しぶりという印象。難しい問題が山積しているけれど、ともかく今は、危機管理的な部分の準備も同時進行しつつ、前へ進もうと一応の結論がでる。なんとも危ない橋を渡っているような感触。せめて、国内のコロナ状況が収束に向かえば、と願う。
いろいろ予定されていた行事が、すべて取りやめとなり、毎日の生活は、ほぼ読書・歩き、さらに最近は庭いじりと家の中の整理など。テレビは見ても仕方ないので、ほとんど視聴もしない。読書に疲れると、実家の方に顔を出し、気分転換。そんな毎日。おかげで、スピードアップしてとうとう『源氏物語』は5巻中4巻までを読了。明日からは、五巻目の取りつき「早蕨」の章へと入る。「宇治十帖」も序盤を終え、中盤へと突入…というところか。それにしても、この読書が最近の心の慰めになっているようだ。
T氏の「切字と切れ」もまもなく読了しそうだ。「切れ」について、碌に考えてもこなかったなと今現在改めて思う。とともに、そうは思いつつ、自分なりの「切字」と「切れ」についての、ごくざっくりとした認識などにも思いを向けることができたとは思う。実作の方とは、どうつながっていくのか、実は今一つピンと来ない点があるにはあるのだけれど。切れ字「や」と「切れ」の問題については、割と自分自身の問題として考える道筋がちょっとできたような気はする。また、T氏の「切字」と「切れ」に関する論評の方法も少し見えてきたような気がする(あくまで、気だけだけれど……)。
京都の勉強会で、山本健吉の評論活動とその内実についての見直しを、的な話題が出たことがあったけれど、そこにも一部つながりそうなところがあるような……。
。
地元の山についてのエッセイ、実は『ホトトギス』の俳人中村襄介氏の著作なのだけれど、これがめっぽう面白い。書名は『大山の便り』。地元の出版社(とはいえ、おそらく全国レベルで知名度があるのではとも思うのだが)「今井出版」の刊行物。山に興味のある人は、なかなかこの本に出合って読むという機会はないかもしれないけれど、もし図書館などに置いてあったりしたら、是非一読を、と思う。
孔子も時には、皮肉や嫌味、さらに相当厳しい突っ込みを、弟子や相談者(王侯貴族的立場の人が多いけれど)に加えたりもするようだ。それはそれで、面白くもあるのだけれど……。『論語』を読んでいると、随所に今を読んでいるような気分になる。
今日は一日、いろいろバタついていたような気がする。「朝の一番良い時間」は、『源氏』『論語』、そしてT氏の『切字と切れ』を読むことに使う。『切字と切れ』、俳句に興味を持つ人間にとっては必読書のように思われる。とても面白い。この本をスタートに読んでみたい本が広がっていきそうだ。とはいえ、なかなか手に入らないような本が多いけれど。
その後、昼前まで1時間余り「歩き」。暖かい。昼食後、庭いじり。芝生の手入れ。とはいえ、ホームセンターで買ってきて、自分で植えたもので、ごく狭い範囲に限られているので、冬の間にかなり伸びた部分を、剪定ばさみを使って、チョキチョキと時間をかけて切りそろえるという作業。結構、腰にくる。植えた時期が良くなかったせいか、一部は完全に枯れてしまっていたけれど。さらに、花壇の土入れ、そしてちょっと「苦土石灰」を混ぜ込んだりとか。ツツジについては、いろいろ失敗が重なっていて、改めて薬剤を撒いたりもした。かなり、大変だった。
夕方、作業を終えて、地元の俳人の方のエッセイを読む。地元の山に関するもので、エッセイにしては大部の一冊だけれど、山と山行について楽しく読む。
夕食後。疲れた。さっさと休もうと思う。
『論語』を読む。いろいろ示唆に富む話が多い。ある時、魯の国を飢饉が襲い、財政状況が悪化した。時の天子哀公が孔子に相談すると、孔子は即座に「徹の法制」を取るように進言した。「徹」とは課税率を10分の1とする法制である。すでに、10分の2の課税を実施し、そのうえで財政危機を迎える現状に対し、哀公は孔子の提案を困惑の思いで聴きとめた。孔子は言う。財政危機のときこそ、税負担を軽減し、まず民の暮らしを安定させることが肝要だ、と。コロナ禍による経済状況悪化の中、所得税減税とか、いっそ消費税の減税あるいは一時的な停止、などという願望の声がちらちらと聞こえるけれど。
ある時、弟子の子貢が政治の三要素を孔子に尋ねた。孔子は、「食を足らし、兵を足らし、民を信にす」と答えた。「(食を含む)経済の安定」と「国防」と「道義の徹底」が政治の要件だ、と言う。そこで、子貢はさらに尋ねた。「やむを得ず一つを削るとしたらそれは何か?」孔子は答えた。「国防である」さらに子貢は同様の質問をつづけた。「已む無く次に削るとしたら?」孔子は答えた。「食である。」と。そこまで読んで、さすがにこの答えは無理があるな、と思う。「食」を削ることは、飢餓の状態を招きかねないという点で国民の生命に直接関わることではないか。しかし、孔子は続ける。「人はいずれ死ぬものである。」生命を賭して、「道義」を最後まで貫くというのは、さすがに観念先行では……。
しかし、そこで立ち止まって考えてみる。「食」を残し、「道義」を削ったとすると、遅かれ早かれ、その「食」を巡って壮絶な人間同士の争いが生じ、結果として多くの人命が損なわれることにもなるのだろう。「食」を含む、ものを巡る争いの中で、時に人は本当にあさましい姿をさらすことがある(マスクの買い占めなんて、道義心の欠如した命がけの食物の争奪戦に比べれば、「可愛い」ことなのかも……)。国家の存亡について、人としての矜持という点から、そのありようを孔子は提起しているのかもしれない。あまりに教条的などという批判を蒙るとしても。
『論語』は、今という時代を映し出す、あるいは照らし出す「鏡」のようなものかも、などと。
3月10日は「東京大空襲」の日。わが一族も、この空襲で焼け出され、東京を離れて縁のある地方へと避難した口であるので、今その地方で暮らす、一族の末端に属する私などにとってみても、この日は随分重たいものを持っている。わが一族の敗戦から戦後の流離の起点ともなる、そんな一日でもあるということだ。
明日は、3月11日。「東日本大震災」の日。「大空襲」とは別の意味で、今現在に至るまで震災後の流離の生活を続ける人たちが、多数おられるということを思えば、「復興オリンピック」などという、まやかしに近い代物(「オリンピック」そのものについてまでは完全否定しないけれど)に対して全く興味も関心も持ちえないということは、当然のことではないか、などと一人ぼそぼそ思ってみたりもする。「復興オリンピック」の開催を危うくする今現在の「コロナ」騒ぎもまた、天の下した鉄槌のひとつ、などと古代中国風の妄想めいた思いは、さすがに抱かないにしても……。
再刊した小冊子、ぽつりぽつりとではあるけれど、反応が返ってくることはうれしい。とともに、届け先不明の赤スタンプが返ってくることは、やはりつらい。変更された住所を確認できて、再発送を少しづつ進めてはいるのだけれど。反応とともに、ご自身の著作を送っていただくこともあった。小冊子の内容の一部に「切字」に関係するものがあって、その点に興味を持っていただけたのかもしれない。早速、日々の読書に加えて読み始めているのだけれど、その情報量(勉強量)に圧倒されている状態でもある。
個人的には、長谷川櫂の論評は面白いと思うし、彼の評論は結構読んできていると思う。ただ、彼の論評の面白さには、常にどこかしらいかがわしさ(表現が極端だけれど)のようなものが、毒のように付きまとっているような気もする。確かに、これは面白い見解だし、きっと正鵠を鋭く突いているだろうなと思いつつも、同時にこの見解はどうなのだろうかとかなり明確に疑問に感じる部分が、あちらこちらに散見したりもする。逆説的な言い方をすると、その「毒」に当たりそうな部分が、特に刺激的で面白いというところでもあり、そんなややこしさを孕んでいる評論だったりするのだが。きっと、この先も長谷川櫂の評論は読みつつ、いろいろ刺激を受けたりすることだろうな、と思う。ちなみに、現在『俳句の誕生』を継読中。
臨時的な仕事もなく、一日がすべて自分の思うがままという生活の中で、ずいぶん気ままな時間を過ごしているようだ。「毎日が日曜日」という生活。そんな中で、コロナのことを考えたり、世の中の動きを主にネットを通じて眺めたりする。やっぱり、世の中の動向とは無関係に生活していけるわけではない、ということのようだ。
ずっと気になっていたのだけれど、拉致問題について、家族会は現政権との関係を見直した方が良いのではないかと思う。このままでは、何の成果もないままに、ずるずると問題が先送りされる中で、消えた年金問題同様うやむやのうちに、はっきり言って残された拉致被害者の三人の父母の先行きとともに、問題が先細りするばかりのように思われる。さらに、政治的なカードとしての意味が失われれば、あっさりと切り捨てられることもあり得るのではないか。せめて、拉致被害者家族会のメンバーは、政府のみではなく、自民党・公明党、さらには各野党に対しても、その対策や、救済を個別にでも強く働きかけ、訴えていくことが必要になるのでは、などと素人目に思う。国民的な運動を、というよりも実効性はありはしないか。少なくとも、現政権は、拉致問題に関してはあまり当てにはならない、そんな気持ちが強い。
長い間、休刊していた小冊子を再開、数日前に郵送した。メールなどで反応が返ってきたりもする一方、「あて所に尋ねあたりません」と朱印を押されて返送されたものが数冊。郵送前に、念のため年賀状や会員名簿等にあたって、住所変更について確認できたものは修正して送ったけれど、それができなかったものはやむなく昔のままの住所だった。そのうちの数冊が返ってきたということだ。改めて、別の方法で住所を確かめ、二方だけは訂正ができたが、残り二人は今のところ確認のしようがないままとなった。これも、長い年月のブランクの余波ということになるのだろう。私の手元には40冊ほど残してあるけれど、いずれ地元の句会や集りなどで配布することになるだろうと思う。
午前中は、雑務、そして「歩き」。地元の山は五合目くらいまで再びの降雪があったようだ。春霞の向こうに、ぼんやりと残雪の姿を見せている。あるいていると、田の畔にすでにぽつりぽつりと土筆が生えているのに気づく。土曜日ということもあるのだろうか、子供連れで歩いている人の姿をみかけたりもする。周辺の小・中学校は登校停止状態になっているせいか、子供たちの姿をさすがにあまり見かけないのだが、こんなふうに親子が一緒に歩くのは、子供にとってもストレスの解消になることだろうと思う。なにしろ、周囲は田んぼや畑ばかりなので、さすがに「コロナ」に感染する気遣いはないことだし……。
来週月曜日の九日が、政府の言う「ここ1、2週間」の2週間目にあたるらしいけれど、なんとなく感染は引き続き漸増しそうな様子である。中国・韓国からの入国を遮断する措置を決定したけれど、「遅すぎる」という声が、あちらこちらから上がっているようだ。いずれにしろ、人と物の移動という点でいえば、感染防止に努めつつ、一方で経済を回転させていかなければならないという矛盾した要素をはらむ施策を、はたして現政権はどの程度達成できるのだろうか、と思う。マッチポンプはお得意な政権ではあるけれど、アクセルとブレーキを同時に踏み込む「車」の運転は、至難の業なのだろう。何を生かし、どこを切り捨てることだろうか……。
身の回りで、行事が次々と中止になっていく。山口を除き、中国四県は、まだ感染者が出ていないようだけれど、この先どうなるかは、全く予断を許さない状態なのだろう。ニュースを見ると、次第に全国各地に感染者が見つかり、日本地図の関係都道府県が徐々に感染色に塗りつぶされている状況が目の当たりである。感染者の人数自体は日本国全体からいえば、1000人強というのが現状のようだけれど、日ごとにその人数が漸増し、感染マップが改められていくのは、薄気味悪い。
本日、買い物に出かけた近隣の大型生活雑貨店では、いまだにマスクの入荷はない。もちろん、消毒液の補充もない。さらに、トイレットペーパーは見当たらず、かろうじてティシューペーパーが数個おかれてある状況だった。政府は、マスクを買い上げて、北海道に優先的に配布するということらしいが、引き続き比較的感染者の多い愛知・神奈川・東京都などにも、同様の優遇措置(言い方は嫌らしいかもしれないけれど)を講じるつもりなのだろうか。ネット上では、まず医療関係に率先してマスクは配布すべき(医療用マスクと通常のマスクは質が異なるのかもしれないけれど)、あるいは買い占め業者に対して法的手段を用いてでも在庫を吐き出させるのが先決、的な意見が見受けられる。優秀な官僚たちの知恵や、政府の果断な政治的判断を生かして、この馬鹿げた事態をなんとか解消できないのだろうか……。
コロナの検査についても、なんとなくこのままずるずると検査実績をのばさぬままに進んでいきそうな嫌な感じがするけれども……。