日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

         
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【20年4月30日】
突然の痛風禍。二日前に痛み始め、昨日は病院が休みだったので、本日内科医院へ。3月に一度の検診の結果、少なくとも尿酸値は基準値に余裕ありの状態で収まっていたにもかかわらず、突然のことで困惑。体質的に尿酸をきちんと排出できにくいらしいけれど、この有様となり、数年を経て、これが二度目の通院ということになる。痛み止めと胃薬を渡され、採血されて本日は終了。治療を開始するとしたら、この痛みが緩和されて後、ということになるのだが、前回もそしておそらく今回も、様子を見るということで終わりそうだ。そもそも、ケトン体を多く含む食品は、意識して取らないという生活を送ってきてもいるので、突然思いついたような痛風発作は、迷惑至極というところだ。
風が吹きつけるだけでも痛い、という「痛風」だけれど、そこまでの痛みはない。大発作というよりは、中発作的なレベルなのだろうか。普通に座ったりしてじっとしている限りは、ほとんど痛みを感じない。ただ、就寝して横臥状態になると、ズキズキと痛み出す。なぜだろうか。前回は、痛くてベットに座って夜を過ごすみたいなことがあったな、と改めて思い出したりもしたものだ。

別に出かけることもなく、家籠りが常態であってみれば、痛みを除いてほとんど日々の生活には差しさわりはないようではあるけれど……。


【20年4月27日】
庭木について、今年は勉強することばっかり。引っ越して年数がたって、おそらく専門の職人さんによってそれまで整えられてきた庭と植物の環境と状態とが、その効力を徐々に失い、素人の手に移って以来いろいろ問題状況を積み上げてきたようだった。それが集中的に発現したのが、今年の春。こちらの無知のせいで、庭木のあちらこちらに不調の様子が見え始めて、慌ててネットで検索したりしながら、土の入れ替えとか、酸性土壌の中和とか、毛虫と寄生虫とダニの防除とか、さらに一部枝の伐採とか、あれこれいろいろやることになった。1年剪定を中断していたツツジについても、花期終了後今年はすぐに剪定をしなければ、とも思う。わずかばかりの場所に植栽されてあった芝生も薄くなってきて、そのうえそこにクローバーの侵入が始まり、やむなく一部土を剥ぎ取ってあらたに芝生のシートを移植したりもした。この先どうなることか、今のところその結果はわからない……。それにしても、庭の維持管理というのは、かなりシンドイことだ。今春、庭関係で何度ホームセンターと自宅を往復したことか。買い物などの外出は極力減らし、家籠りしたいと思ってはいたのだけれど……。

也有の『鶉衣』読了。芭蕉の一連の俳文とはまた異なって、なかなか面白い。巧みな語り口が、上手いなと感心したりもする。同じ一巻本中に、『風俗文選』も収載されてあるので、引き続き俳文つながりで、そちらの方に読書を進めようと思う。ちなみに、『風俗文選』は芭蕉の弟子森川許六の作。この機会なので、ちょっと蕉門俳人たちの文章を読み直してみようか、などとも思う。

一日で一番いい朝の時間、頭がまだ新鮮な時間帯には読書をあてることにしている。『孟子』などは昼前の時間帯に読んでいると、時にやたら眠くなって(こちらの理解の度を越えているせいなのか)困ってしまうが、朝の時間帯(朝食を終えて、NHKの朝ドラを見終わってそれ以後の時間帯であるが)なら、結構なんとかなる。『源氏』もまた同様。この時間帯につい「ワイドショー」など視聴するのは、嫌になるのとうんざりするのとで(同じようなことか)、精神衛生上もよろしくないな、とつくづく思ったりもするが。とはいえ、今日は普段になく所属結社の投句作品を作る。ゼロから始めたので、1時間くらいかかったが、作り終えて、気分は爽快だった(句の出来がどうかは、別問題として)。朝の時間帯の理想的な使い方のひとつであろうか。

【20年4月25日】
もう、いい加減オリンピックは中止にした方がいいんじゃないか、と思う。個人的には、元々オリンピック開催は反対だったけれど、コロナ禍が発生して以来、ますますその思いが強くなる(私一人がそう思っていても、大勢になんの意味ももたないけれど……)。オリンピック自体、様々な功罪をもたらしてきたとは思うけれど、それもいまは措き、この先を考えた場合に、このまま1年後にオリンピック開催を前提にいろいろ進めていってもよいものか、と思ってしまう。延長に伴う追加費用数千億円が、どのような負担の形をとるかはわからないけれど、おそらくいつものようにそれだけでは済まないだろうなということは容易に想像がつくし、そんな金があれば当面のコロナ対策に傾注するほうがよいように思われる。さらに、基本的に政府に不信を感じる私としては、コロナの収束に関して、オリンピックを念頭に正しい判断が崩される恐れはないか、ということをかなり本気で思っている。オリンピック開催のために、「日本はもう大丈夫。コロナはコントロール下にある」的な、どこかで聞いたことのある甘い判断、あるいは「忖度」判断を下す恐れがありはしまいかと思うのだ。「杞憂」であるならば、もちろんそれに越したことはないけれど……。

世界中に感染者がひろがり、数十万人の死者がすでに出ていて、この先世界的なコロナ終息がおぼつかないそんな時に、世界の祭典「オリンピック」を開催しようと意気込むことの違和感が大きいのはいうまでもない。自然災害復興を名目にオリンピックを開催することは、百歩譲ればうなづけなくもないけれど、相手が感染症である限り、千歩譲ったとしても「コロナ復興」のオリンピックは、世界レベルでの「コロナ」安定、あるいは出来得れば終息という状況がもたらされない限り、無理筋ではないか、と個人的には思ってしまう。アスリートの方たちには気の毒ではあると思うが。政治的に競技不参加を表明し、オリンピックの道を断たれた方たちもかつてはおられたけれど、今回は感染症であり、つらいものがあると思う。

ついでに、「アベノマスク」も中止した方がよいのではないか、と思う。「衛生品」であるにもかかわらずとんだケチがついた以上、誰が安心してそのマスクを使うだろうか、というのが素朴な思い。それと、予算関係の不明瞭さ。利権がらみということは、最初から言われてきたことではあるけれど、発注四社のうち、一社についてはその企業名が絶対に言えないみたいな強硬な姿勢を発注元のお役所はとっているけれども、なぜ? というのは、素朴な疑問。公開してはまずい事実があるのか? だから、実は最初からその残り一社は、ダミー会社みたいに実際は存在していないのでは、なんていうネタ元不明の情報が流れたりもするのだ。あるいはまた、官房長官が唐突に、「思いのほか安く上げることができた。」などと発言し、個人的にはもしかして予算額より「100億円」くらい安くなったとでもいうのかな、そうすれば、残り三者との発注額のバランスが何とか取れて、そのうえでの社名公表、なんていう手順になるのかも、などと思っていたけれど、これもまた今のところ曖昧模糊たる状況の中で、同じくネタ元不明の怪しげな情報が、実はもともと発注費用は「90」億強だったのでは、などと流布されたりもする。ごまかしたり、だましたりの上手な政権だから、痛くもない腹を探られるより、すんなりすべての情報を公開して、できればそのうえで「アベノマスク」配布を中止、その浮いた予算は是非別のコロナ対策に使ってほしいもの、と思う。ミスはミスと判明した時点で訂正すべく、ミスをミスと知りながら訂正をしないことこそが本当の意味でのミス、などという類の古い言葉もあるようだけれど。

【20年4月22日】
也有の『鶉衣』を読む。也有は芭蕉の流れを汲む美濃派の俳人の一人。『鶉衣』は彼の書いた、今風に言えばエッセイ集というところだろうか。俳人としての深い教養と自由な発想、機知と諧謔のたっぷり盛り込まれた、俳文の一典型といわれる作であるが、ともかく読み物としてとても面白い。今日読んだ内容の中では、「臍」の話とか、娘をなくした友人に深い共感とともに寄せる一文(これは面白いというより、しみじみと胸に沁みる内容であったが)など、印象的であった。

毎夏行われてきた大学生を対象とする「俳句講座」が、今年はコロナ禍により中止となった。またひとつ大きな行事が消えて、今年は本当に当面の予定らしきものはほとんどなくなってしまった状態だ。大学の講義自体が、オンラインによる講義へとどんどん切り替わっていく中で、やむを得ないことだけれど、やはり残念ではある。

散歩中、子犬が逃げ出す、というのが、本日のトピックであろうか……。


【20年4月17日】
美術館も図書館も閉館。楽しみにしていた「草間彌生展」は中止となり、前売り券の払い戻しに行かねばならなくなった。本日は、借りていた本を返却にも行く。閉館の際の返却窓口(というのか巨大な郵便受けみたいなもの)に借りていた本をざらざらと返す。岡井隆の対談集は、読み終えていなかったので、貸し出し継続を考えていたが、それもできなくなって、とりあえず返すことになる。5月6日以降、条件が整えば再び開館になることだろうから、その時に再度借り出すつもり。短歌界の動向というのも、なかなか興味深い。

目の状態がいまひとつで、本を読むのがかなりつらい。小さな字が読みづらいということはすでに相当前からそうだったのだが、そちらの方は某サプリを飲むようになったらかなり改善して、『源氏』や『孟子』の細かい文字を読むときも具合が良いのだが、今度はかすみ目みたいなことになってきた。慢性的な眼精疲労状態なのだろうか……。ヤバイ眼病だったりしたら困るなと思いつつ、眼科へ行くことをなんとなく先延ばしにしている。さらなる視力の低下のようなことがあれば、まずいなと思いつつ、本を読んでいる。

ここしばらく、母ならびに子犬との同居生活が続いている。子犬の世話は、もっぱら母が行っているのだが、子犬の相手というのは並大抵のことではない、ということを目のあたりにする。特に、夜は大変で、高齢でありながらの母の睡眠不足が気がかりである。子犬にとっては、母は文字通り母犬ということになるのだろう。その関係に、私が割り込む隙は本当にわずかだ。散歩、あそび、そして時たま餌を作る程度。それらは、四六時中子犬がまとわりついてくる母のほんの息抜き程の手伝いにすぎない。


【20年4月15日】
コロナ対策の不十分さを、政策の不備の問題から、憲法の基本的人権規定の問題へとすり替えて、この機を利用して憲法改正論議を進めようとする政府与党とそれに同調するマスコミの一部とが、じわじわと動きを進めているのが、素人目にも明らかに見える。国民の中にも、意図的にあるいは「すりかえ」の部分を鵜呑みにして同調の姿勢を示す人たちもいるようだ。考えようによっては、国民の切実な危機感を一つのバネにして、憲法改正につなげようとする政治的意図が透けて見えてきて、そもそもコロナ対策の不備は、後々の憲法改正の布石のひとつとして、意図的になされた「作られた不備」、国民の不安や動揺を煽り、自らの意図する方向へと不安の方向性を捻じ曲げようとする政治的画策の一部(特に現政権は、北朝鮮のミサイル問題一つとってみても、そのやり方が常套的で手慣れたものではあったけれど……)、などという穿った見方が出てきてもおかしくないような状況ではあるようだ。

とは言いながら、実は個人的には「非常事態」という規定を憲法に盛り込むことについては、反対というわけでもないのだが。場合によっては、法的根拠を持つ私権制限というものがどうしても必要になる場合が、今後も想定されるかもしれない、という思い(危機感的な)は自分の中にもないわけではないからだ。
ただ、「非常事態」が法的規定として憲法に盛り込まれる場合、一つだけ前提になる条件がある。それは、そもそも政治が(というより、日本の現行制度の中では政府や与党が)本当に国民の側に立った信頼に値するものであるか、どうかということ。信用できない政治(特に政府・与党)に対して、私たちの「基本的人権」という大切な権利を一部とはいえ丸投げ的に委ねるなんていう危なっかしいことはできるはずがない。
だから、当面あるいは未来永劫に渡って、「非常事態」を含む憲法改正には賛成しかねるという結論に達してしまうことになる。

国民の危機的状況に付け込んで、憲法改正を進めてやろうなどと言う姿勢を見せる政治家というのか政治屋に対しては、ふと「病膏肓に入る」なんて言葉を思い出しもする。深く深く「政治病(歪みや矮小化された概念や観念としての『全体』という地点からしか、ものを認識・判断できなくなるという認知機能障害的な病)」に犯されているとでもいう感触。そんな危ない人たちに、私たちの生活と生命とが握られることにもしなったら、コロナ感染同様に本当に恐ろしいことではある。

【20年4月11日】
大林信彦監督が亡くなられた。映画「ハウス」は、びっくり箱のふたを開けたような映画、という印象が今でも残っている。「さびしんぼう」の富田靖子のメイクも、なぜか印象に残っていたりする。コロナのこんな索漠たる状況の中で亡くなられたことが、さらに残念な思いを強める。

コロナ関連の情報について、最近のNHKの報道は、本当に正確で正しい内容を流しているのだろうか、とふと思う瞬間がある。日本が、他国に比べてコロナの発生を抑え込んでいるというような、国民をちょっと心強くするようなことを声高に流したりするけれど、きちんと検査が実施されていそうにない状況の中で、どの程度その情報が正しいかどうか、信ぴょう性が気になる。嫌な情報はできる限り過少に軽微に、というある種のバイアスが報道内容にかかっていたりしないよな、などと思う。つまるところ、報道機関としての信用性の問題ではあるのだけれど……。気休めよりは、正確な情報をいただきたい。

言霊の世界ではないけれど、自分が口にした言葉はかならず実現する、ということを、幼児的な自己中心性の反映としてではなく、本気で信じている者などがいたら、かなり恐ろしいことのように思われる。子どもならいざ知らず、それが権力を持った一人前の大人だったりしたら、その恐ろしさは膨れ上がる。
現実的な裏付けを持たない、願望を孕む、ほとんど妄想的世界だったりしたら、さらに恐ろしい……。

『論語』読了。通読は二度目だが、読み終えて、「今」を『論語』の言葉の中に実感したりしたことだ。本当の意味での「古典」ということになるらしいけれど。『孟子』を引き続き読み始めることとする。『源氏物語』は「宿木」を終え、「東屋」の巻へと移る。少しづつ終末へと近づいているようだ。岡井隆の『私の戦後短歌史』を読み始める。ひとつの文化運動の現場をのぞき見している気分。

【20年4月2日】
東京では、依然として感染者の増加が続いている。感染医療専門家の発言の中には、これはまだ初戦で、これから本格的に感染爆発が起こると強く警告もしているようだ。なぜ、「非常事態宣言」を政府はださいのだろうか。現在「ギリギリのところで持ちこたえている」という発言が、宣言を出さない錦の御旗的発言として繰り返されているけれど、素人判断であっても、「ギリギリ持ちこたえ」ているのならば、今が宣言発令の最後のチャンスではないか、と単純素朴に思ってしまう。「ギリギリ」を踏み越えたらおしまいだということぐらい、誰でもわかることではあるまいか、などと思ってしまう。河川でも、堤防が持ちこたえている段階では洪水は防げているけれど、「ギリギリ」とは次の瞬間には堤防が決壊して、大洪水が発生する可能性大ということなのだろう。こんなしょうもないたとえを持ち出すまでもなく、緊急に補給工事を突貫的にでも行う必要に迫られている、ということなのだろうに……。
国民の中に多少の犠牲者がでたとしても、大企業を中心として経済の枠組みが保てるのならばそれを最優先事項にしよう、という発想があるのかもと思われてくる。国民に多少の犠牲がでたとしても、国家あるいは国体が護持できれば良しとする、そんな戦前・戦中的な発想の中で動いてきた政府としては、いまの決断保留は決断力不足ではなく、あるいはあらかじめ決められてあった経済大国、あるいは国家としての枠組み護持の基本的な方針であり、判断保留は決断力不足ではなく、ひとつの明確な決断の結果なのかも(それが継続し得るかどうかは次の事として)、などと、不安に煽られる中で、妄想がやたらと広がってくるようではある……。
というより、その基本的発想と姿勢それ自体が、このコロナ事態によって崩壊していけば、それに代わる新たな発想や方向性が全く打ち出されていない状況の中では、経済や社会の枠組みを含めて、国家崩壊的な事態に突入しうるかも、などと思われてくる(あるいは、逆の方向性として、素人目に見ても、明確に戦前・戦中的な発想や方向性の再構築が強力に行われてくるかも、ということもあり得ることだろうけれど。元著名なニュースキャスターでテレビにもしばしば登場する右派論客のひとりでもある某女性評論家は、現在の混乱は現憲法がもたらしたもの、的な発言を某テレビ番組で公言したりもしていたけれど)。

我が身のことも心配ではあるけれど、それ以上に東京を中心とした関東地区で、あるいは関西エリアで暮らす身内・親戚・友人・知人たちのことがとても気がかりである。私は政治家でも宗教家でもないので、心情のリアルとしては身近な人たちに対する危惧や共感を心情の第一の動機とするのは当然だろうな、と開きなおる。そのうえで、さっさと非常事態宣言を出すことで、さらに混乱状態を招く部分はあるにしても、市民の命を第一とする基本的枠組み(命を守るためには、広狭の意味を含め大切な私権も一部犠牲にすることはやむを得ないことと広く認知し、行動するために)がはっきり社会的に打ち出されることになるのでは、と思われる。ついでに言えば、コロナ感染の一因として、若者たちが非難の対象として挙げられてきつつあるようだけれど、社会不安が増大するとともにそのはけ口として特定の対象がクローズアップされて、様々な差別や非難行動が発生することは、誰でも知っている社会現象の一つなのだろうけれど、限られた情報(選別され、特化された情報といっても良いか)の中で暮らす若者たちにとっても、非常事態宣言は情報並びに行動の枠組みや指針をより広範で社会に根差したものとして受信もし、さらに認識を深めるひとつのきっかけにもなり得るかも、とも思う。余計なお世話なのかもしれないけれど。

【20年4月2日】
一部で「エイプリルフールの嘘」などと、ブラックなギャグがでるほど唖然としたのは、総理による「全世帯(個人ですらない)にマスク2枚配布」というコロナ対策。さすがに開いた口がふさがらない。全閣僚、そして優秀な官僚たちが頭を寄せ合って考えた結果が、国民に対する当面の施策のひとつとして「全世帯(全個人ですらない)への布マスク2枚配布」とは……。これで、マスク不足に対する国民の不安や不満が多少なりとも解消されると本気で、本当に考えているのなら、呆れるばかりだ。

故事成語のひとつに「朝三暮四」というものがある。サルの飼い主が、餌代を軽くするために、サルたちに「朝は三、夜は四」の分量で餌をやると告げると、サルたちは口々に文句を言った。そこで、飼い主は「それなら朝は四、夜は三ならどうだ」と提案すると、サルたちは喜んで納得した、という話。目先の利益にとらわれて容易にだまされてしまう愚かしさを警告したものという意味の成語だけれど、政府や官僚たちは、あるいは国民をこのサル程度の存在と見下しているのではないか、などとつい思ってしまう。

とはいえ、国民の中にはこの「2枚の布マスク」を「総理からの恩賜のマスク」として、使わないで神棚に祭り上げるような方もいるのかもね、などとつまらぬギャグをつい口にしてしまいそうではあるが……。

「総理の邪魔をするな」と野党議員に剃刀を送る熱狂的(狂信的?)信者風の国民も登場し始めている状況ではあるし、なにがどうなるかわかったものじゃない、と思う。

【20年4月1日】
新年度が始まった。こんなにざわついた状況の中で迎える新しい年度というのは、生まれて初めてのことだ。一部では、「コロナとの戦争」という表現が使われてあるけれど、「戦争」を知らない世代の一画にいて、武力とは異なる目視できない強力な圧力に対して、世界全体がこのように沸き立っているのを目撃、あるいは経験することになるとは、思いもかけなかったことだ。
今日は、このまま終日の雨になりそうだ。時折は激しい降雨となる。自然の中に心情の反映をみるという、いかにも根っからの日本人的感性が、本日の荒天をひときわ重々しいものに感じとらせてしまうみたいだ。あー、鬱陶しい……。

今年度は、地域の自治会の役員。本日は、さっそく回覧板の手配やら、班内で亡くなられた方の葬儀のことやらで、雨の中を行ったり来たりする。行政からの配布物は、この激しい雨の中配っても濡れたりして不都合だろうと考え、各戸配布分の仕分けだけ済ませておいて、明日へと延期することにする。

新年度、はたして本当にどうなることだろうか。