日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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今日で五月も終わり。とはいえ、なんとなく季節の推移が胸に来ない。別のことに気をとられている状態が続いているせいなのかもしれない。本日は、朝から久しぶりの雨。今日、明日と天気はいまひとつのようだ。
土曜日は、一日がかりで庭木の剪定。隣家と接しているので、自分のところが終わったら、引き続き了解を得て隣の庭に入って、伸びすぎたりはみ出したりしている枝を切り落とす。剪定は切り落とす以上に、地面に落ち散らばった枝・葉の掃除が大変。特に、自分の庭ならいざしらず、他人様の庭まで入り込んでの剪定作業は、その後の掃除にとても気を遣う。大げさではなく、文字通り枝一本、葉一枚までのこさないように注意して掃除を行う。
自分とこの庭は、とりあえずざっくりと清掃。明日天気が良くないという予報がでているので、雨に会う前に枝と葉の大半を始末しておく方が、後々楽でもあるし……(雨に濡れるとそれだけで作業が面倒になる)。かくて、業務用の大きなビニール袋に4袋分の回収が終了。市のクリーンセンターの就業時間が、コロナの関係で早まっているので、16:30までに運び込まねばならず、車に袋をぎゅうぎゅうに詰め込んで急いで持ってゆく。枝葉の総重量は7キロくらいになったようだ。クリーンセンターの巨大な焼却炉に荷物を放り込んで、やっと一息つく。作業を終えて、ともかく疲れたの一言。
都心をブルーインパルスが飛行したそうだ。コロナで頑張っておられる医療従事者の方たちを励ます、という意図のようだ。ブルーインパルスは、地元の自衛隊航空祭で様々な演技を披露してくれるので、その迫力やかっこよさは十分堪能してはいるのだけれど、今の時期にそれ、という違和感が強い。防衛大臣の浮かれっぷりにも、同様に違和感を持つ。正直な話、地方の医療従事者の方たちにアンケートを取って、今回の都心をブルーインパルスが飛行したことが、どれほど自分たちを励まし、鼓舞することにつながったのか、お聞きしたいような思いになる(正直、医療関係者以外のところで変に盛り上がってはいまいか……)。国民に布マスク2枚配布と、結局は似たような発想や意図のもとに行われたことのような気すらする。少なくとも、税金を使っての行事である以上、誰の発案なのかという経緯を明らかにする質問に対して、プロセスは問題外とはぐらかす防衛大臣の態度は変である。父親は一本筋の通った政治家であったと思うけれど、その息子は初期の姿からどんどん変質しているような気がする。残念だ。
すでに、昨年から気になっていたのだけれど、千葉工業大学が開発し、ネット上で公開している花の名前検索システムを使って検索してみて、やっぱりそうかと確認できた。「オオキンケイギク」という外来種の花のことである。「オオキンケイギク」はその繁殖力の高さから、周囲の植物生育環境に悪影響を及ぼすとして「特定外来生物」の駆除対象となっている、きれいな黄色の花を咲かせる植物だ。昨年、地元の新聞紙上の記事で読んで、その後「歩き」の際に、話題としてとりあげられていた植物になんとなく似ているなと思われるきれいな花を、空地や個人の菜園などで見かけたりしていた。今年になってあきらかにその目撃範囲があちらこちらに広がっており、きれいだけれど、なんとなく違和感も感じていた。そんな折、上記の大学の開発したソフトが、スマホで写した写真からその植物名が(600種ほどらしいけれど)高い確率でわかるということで、今回撮影・検索して「オオキンケイギク」と確認できたのだ。県としては、見つけ次第、根元から掘り出して、乾燥の後可燃ごみとして出してほしいと、HP上で公開しているけれど、個人の庭を含めて、他人の土地内でのことなので、どうしたものかと思っている。
昨日、庭でとんでもないものを見つけてしまった。ちょうど、庭木の枝刈りをしている際、茂りの奥に奇妙な物体を発見した。それは15センチほどの大きさで、日本酒を飲む際の徳利をさかさまにしたような形をしたもので、太めの枝から下向きにぶら下がるような恰好をしていた。今まで見たことのない物体で、これは一体何、と最初は思ったけれど、なんとなくその正体が推測できた。おそらく、これはスズメバチの巣だ。そこで、剪定ばさみを最大長さまで伸ばしたうえで、その巣に突き刺して、両断した。すると、中からキイロスズメバチが一匹飛び出してきた。剪定の際には念のため殺虫スプレーを準備しているので、すかさず蜂に噴霧して、木のそばから離れた。他に蜂は飛び出してこなかったので、どうやらその巣にはその一匹だけがいたらしい。殺虫剤を受けた蜂は、ふらつきながら1メートルほど飛んで、そのまま地面に着地。それをみはからって、同じく剪定ばさみで打ち殺すこととした。残った巣は、落として、かけらはすべて拾い集めてビニール袋に収めた。
のちほど、ネットで確認すると、巣にいた蜂は女王バチで、大きくなった巣から分蜂する形で、別の巣をつくり始めたばかりだったようだ。スズメバチの場合は、巣が大きくなると、素人では処置は困難になるけれど、5〜6月期は女王バチが新たに巣をつくり始める時なので、まだ働きバチも生まれていないため、素人でもなんとか対応とのこと。偶然とはいえ、最良の時期に蜂の巣を見つけたものだと思う。それにしても、考えてみればその新たな女王バチが分かれてきた元の巨大な巣がどこかにあるはずなので、そればちょっと気になる。ちなみに自分の家については、思いつく限りの範囲で、捜索をしてみたが、巨大な巣の痕跡もなかった。
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この三日間は、午前中を句作の時間とする。三日で42句作る。数が多ければいいというわけではないけれど、ちょっと多作の試み(といっても、昔々某結社の句会に参加させていただいた時は、短期集中はこんなものではなかったような思い出があるけれど……)。明日、もう一日この調子で句作を進めて、一休み。その後、所属結社の投句作品を1、2日で17句作らなければならない。句作、さらに芝生と庭木の手入れに意外と時間ならびに気力と体力を消耗させられ、空いている時間はぼっと空を眺めていたいような衝動をちょっと感じる。
『源氏物語』は「手習」の巻の半ば、この巻が終われば最後の「夢浮橋」。そして、読了を迎えることになる。6月中には、読み終えることになるだろう。『孟子』は、道半ば。ちょっと読みにくくて、四苦八苦するところがあるのが辛い。隙間を見つけては、ずっと昔に買ったままの、ビアス『悪魔の辞典』を数十年後の数日前から読み始め、そして昨日読了。単純に面白い項目もあったけれど、その機知らしきものとか毒舌らしきものの面白さが理解できない、さらには内容そのものが理解できないというものも結構あった。とはいえ、あれこれ頭をひねって考える機会にはなった一作。
埼玉県の某公立中学の5月某日の予定の中に「健康カード観察」の際に「アベノマスク着用(ないしは、携帯)」を指示する内容があったそうだ。現物はネット上に写真が公開されてある。未着用者は個別指導らしいが、なぜ「アベノマスク限定(この名称は、教育現場で使われるほどに、いつの間に公称にまで格上げされたのか?)限定」なのか、さらに一体どんな指導をするつもりなのか、??。いろいろと不思議だ。当然、プリント作成者の教員個人の判断ではないから、学校長による指示の結果なのだろうけれど、その見識に疑問を感じたりもすることだ(単純に、安倍総理ファンの一人なのかもしれないけれど……)。それにしても、いまだにこちらにはその「アベノマスク」が届かない。とはいえ、県内の高校にはいち早く届き、不良品が数十点みつかったことが、テレビのニュースで報道されていたりはしたのだが。個人的には、送られてきても、ウイルス遮断の効果なしという以前に、その「衛生面」が信用できず、気持ち悪いから使わないつもり。
晩節を汚す、という言葉があるけれど、黒川氏もまたその一人なのかもしれない。とはいえ、個人的には(同情する気は毛頭ないけれど)ああやられちゃったな、という印象が強い。真相は結局藪の中、といういつもの決着を取り、直接責任を取るのは彼一人、ということでこの件はすべて終了するのだろう。今回もまた、何か色々守るために彼一人だけ切り捨てられ(とはいえ、おそらく賭博罪で起訴、さらに有罪、そして弁護士資格の剥奪などということは、政権側の恩情からほぼあり得ないだろうから)、退職金は満額支給され、どこかに天下り的に職を得るか、弁護士として第二の人生を送る、というようなさほど物理的な不利益もないままの顛末になることだろう。なんというか、最初から展開が全部見えてしまう、的な感じ。外れたら、逆にビックリというところ。
それにしても、内閣のご都合主義的な判断で、無理やり退職時期を延長させたことだけは、悪しき前例として残る、というわけか……。
俳句に関わる、マニアックな話(その2)。
文法は、常に表現活動に数歩立ち遅れる、ということはあると思います。我々は、文法に従って、話したり、書いたりしているわけではない、ということ。とともに、文法は一度形を整えられると、今度は表現活動に対する直接・間接の縛りとして機能し始めるということもまた確かなことなのでしょう。「にかな」は誤用という表明も、そんな表現活動と文法との軋轢の表れの一つかもしれません。
以後は、あくまで仮説です。「にかな」という表現は、おそらく特定の誰かの意図的な創作によってもたらされたものではなく、弾みというのか、偶然というのか、ある種の感興の結果として、つい口から出てこの表現世界に着地した言い回しではあるまいか、ということ。突然変異、みたいなものとして。そして、この突然変異的表現「にかな」は、近世の古語やその言い回しがまだ生き生きと活動している時期には、それらの縛りによってほとんど使われることはなかった。とはいえ、完全に死滅したわけではなくて、表現世界のどこかでその命脈を保っていた。なにしろ、強力な文末詠嘆の「かな」表現の一族の異端児ですから。そして、近代において、「にかな」はごくわずかではあるが、復活を果たすことになる。それは、誰かの俳句によって消えかかっていた表現としての命の炎が再燃し(その誰かの俳句とは、たとえば高浜虚子「白粉の花落ち横に縦にかな」であってもいいわけで)、その句に対して興味を感じた別の誰かが試みに自分の句でその表現を用いる、的な具合でその表現の命脈をつないでいく、というようなことがあったのかもしれない、ということです。とはいえ、この「にかな」表現は、近現代を通じて一大勢力にまで発展することは難しかったようですが(自由律俳句、新興俳句などは、そもそも「かな」表現すら使うことがめったになかったようですし)。しかしながら、「にかな」表現は、滅び去ることはなく、今現在その最先端に立つのが、櫂未知子氏の「ききわけの無き鮟鱇を鍋にかな」であるのかもしれません。今後、この「にかな」表現の運命がどうなってゆくのかは、予測のつかないことではありますが、あるいは一つの名句が「にかな」表現の起死回生の一打となるやもしれません。(もう少し、続くかも……)
俳句に関わる、マニアックな話(その1)。
随分前に櫂未知子氏の「ききわけの無き鮟鱇を鍋にかな」の句の、「にかな」という用法について、「かな」の文法上の接続関係から誤用であるという意見について、ちょっと考えを書き込んだことがあったけれど、その後自費の同人誌に書いたことについて、ご意見をいただき、そこでちょっと考えを一歩前へ進めることができたように思われた。「にかな」について、個人的には誤用とは思っていなかったし、その根拠としていただいた意見にあった「に」と「かな」の間に省略があって、それを補って考えれば問題はないという指摘(具体的には、たとえば「に」と「かな」の間に「煮る」という動詞の連体形が省略されてあると考える、ということ。)で、実は省略があるということは考えていたのだけれど、しかし表現的には「に」という場所を指摘する助詞がある時点で、すでに一句の表現は完結していると思えていて、わざわざないものを補う形で文法上の整合性をとる必要はないように思っていた。櫂未知子氏の創作過程を想像することは不可能に近いことだけれど、すくなくとも作者が「鍋にかな」と表現したとき、ここには省略があるよ、などという意識はないままにこの言い回しを用いたように思われる。
実は、正岡子規の『俳句分類』の簡略版を利用して、この「にかな」という言い回しをさがしてたことがあるけれど、偶然なのか、膨大な数の「かな」言い切りの句の中に一句も「にかな」という表現を見つけることができなかった。簡略版が近世の発句をすべて網羅しているはずはないので、たまたま拾い上げられなかったということではあろうけれど、考えようによればその言い回し自体がめったにないものであった、ということの傍証ともなり得るものかもしれない。実際、検索を終えて、「かな」に関する接続関係(「体言・連体形」+かな)は、ずいぶん厳密に行われていたという印象が強かった。
それが、近・現代になって、近世に比べてその使用例がいくつも見つかるということに個人的な興味を持っていたことは確かだ。(長くなるかもしれないので、以下続く。興味ない人には全く退屈なおしゃべりだろうけれども……。)
角川の『近世俳句俳文集』の「俳句」を読んでいる。ついでに、簡単な近世俳人一覧のようなものも作る。データベースソフトがあれば便利なのだろうけれど、持っていないので仕方なく別のものを使ってまとめている。そのまとめる過程の中で、あらたに別の本を読み合わせるということを始める。具体的には、「俳句集」を読んで、そこに出てくる作者の簡単な経歴をまとめるとともに、同じく岩波の文庫『俳家奇人談、続俳家奇人談』を読んで、その内容を補完するということ。文庫の方は、竹内玄玄一による近世俳人のエピソード紹介みたいなもので、一人一人にあてられた分量は多いとはいえないけれど、その分簡潔に作品と作者の特に著名な逸話などを紹介してあって読みやすく、両者を読み合わせるのはなかなか面白い。
確か『近世畸人伝』という似たような本があったように思って、本箱を漁って見たけれどそちらは見つからなくて、出てきたのがこちらの方で、どうやら前者は俳人以外の人物も対象にしているみたいだけれど、こちらは俳人に特化された内容で、結果としてとても都合がよかったことだ。
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ちょっと写真づいているので、ついでに一枚。霧島ツツジが終わり、続いてサツキツツジがそろそろ咲き始めるようです。一本剪定して一輪挿しに。ついでに、たまたまそばにあった「ネコ仏(勝手にそう呼んでいますが。ネコ僧の方が適切かも……)」を取り合わせてみました。「ネコ仏」は、昔々知人の仏師の方に作っていただいた一点もの。これまた懐かしいアニメ「うる星やつら」に登場する怪僧チェリー(分かる人にしか分からないと思いますが)に、どこか風貌が似ていたりもします。
検察庁法改正案が、どうやら一端見送りになりそうとか。ホンマかと思ったけれど、Y新聞が報道していたるするので、本当らしい。文字通り専門家を含む多くの国民の不審や危惧を無視して、いつものように強引に強行採決の挙に出ることが、今回はできなかったらしい。とはいえ、一旦先送りにして、いずれちょっと内容に変更を加えたりして出すつもりなのだろう。国家公務員の定年延長は、与野党含め賛成しているのだから、その部分だけ切り離して提案すればいいことだろうに、政府にとっては本当に重要なことは、そこにはなかったということが、いみじくも露呈したことになるのだろう。A新聞の緊急世論調査で、内閣支持率が一気に33%に急落するほどだから、政権側に相当の危機感が募った結果なのだろう。でも、ほとぼりが冷めたらまた似たような、あるいはそのままの形で提案するのだろうけれど……。コウモリ政党維新も、今回ちょっと間の抜けた役割を演じてしまったようだが。
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ツツジはたっぷり蜜を含んだ花なので、その分後始末が大変。今年は、ずいぶんの花の多さ(昨年は剪定失敗でさみしい開花であったせいか)で、やむなくあたかも「紅花」を摘むみたいに、しおれた花を手摘みしている。放っておくと、しおれた花びらが枝に絡みついて、取るのに苦労することになる。蜜でべたべたなガクの部分が、服や手にくっついて困ってしまう。今日は、その作業に朝だけで1時間半を使い、やっと1本目がなんとかなりそうになる。ただ、まだしおれていない花はそのまま枝に残しているので、いずれ第二弾の作業が必要になる。とはいえ、結構楽しんでやっているところもあるにはあるのだが……。
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近世の俳諧選集を読む。貞門、談林の俳諧の特徴などが良くわかって、ずいぶんと面白い。ただ、俳人の数が多くて、混乱しそうなので、エクセルを活用して、簡単な俳人一覧のデータをまとめ始める。今日は、句会の投句作品をメールで送るが(句会自体は、コロナの関係で開催できないので、メール投句の句会となる)、作る作品がなんとなく、貞門・談林の発句の影響を受けているみたいで、微妙な気分だ。
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子犬の餌を買いに、市内のホームセンターに行ったら、店に入ってすぐのところに、ワゴンに満載状態で「マスク」を売っていた。不織布のマスクで三層構造、飛沫ウイルス・花粉のカット率99%、中国製で大阪の商事会社が販売元になっていた。価格は5枚入りで488円。とうとう、こんな地方都市のホームセンターでも「マスク」の流通が始まったのかと感心して、実家に餌を届ける際、「マスク」を売っていたと報告すると、近所のスーパーでも売っているよ、との話で二度驚く。「マスク」の流通が本格的に始まったのか、と思う。「緊急事態」も間もなく解除されるみたいだし、タイミング的にもぴったりだった。いまだに、例の「アベノマスク」が準備中という状況の中で、400億以上もの税金をかけてコロナ対策には気休めに近い布マスクを2枚配布という、政府肝いりの政策がつくづく間が抜けて感じられたことだ。税金は、もっと意味のある使い方をしてもらいたいものだと改めて思う。布マスク2枚配布したら、国民の騒ぎなどピタっと静まりますよ、と国民を愚民扱いする側近の言葉に、ほいほい乗っかった結果がこれだ!
ここしばらく、芝生とツツジの世話で、朝夕合わせて2〜3時間ぐらいかかりきりになる。特に、ツツジは、今年が例年になく花満開という状態で、そのしおれた花びらの始末と、剪定とを同時進行的にやっているので、かなり大変。蝶や虻や蜂(時に熊蜂も)がまだ蜜を吸いにくるため、ちゃんとした花はそのまま残しての剪定となり、気も遣う。
曲亭馬琴編の『俳諧歳時記栞草(下)』を読んでいたら、そこに季語の一つとして「芭蕉忌」が紹介されてあった。歳時記といえば、通常、季語の解説と例句の掲載というスタイルのイメージがあり、この『俳諧歳時記栞草』も基本的には季語解説と、時に俳句、さらに和歌などがコンパクトに紹介してあった。しかし、この「芭蕉忌」の項については、文庫本サイズとはいえ21ページあまりにわたり松尾芭蕉の人物とその経歴紹介が懇切になされ、さらに内容面で圧巻だったのは、芭蕉の病没にいたる9月30日から10月12日、さらにその後の葬送に至るまでの日々を、彼の弟子たちの書き残した文章を再構成してまとめあげた、まさに複数の弟子たちの手になる「芭蕉終焉記」とも呼べる記録だったことだ。編者曲亭馬琴自身が、その項目の最後にひとこと、「以上、考証ともなるべき書どもより抄出す。」と書き記しているように、芭蕉の身近に師事した弟子たちが、その師の終焉に至る姿をある意味生々しく描きとったもの、と言ってよい内容だった。芥川龍之介に、芭蕉とその弟子たちのことを描いた芥川版「松尾芭蕉終焉記」としての『枯野抄』という作品があったけれど、その短編小説に材料を提供した古典資料のひとつは、これではあるまいか(実際は、確か違うと思うけれど)、とつい思ってしまうほどの濃い内容のものであった。松尾芭蕉の終焉にいたる、師とその弟子たちのいくつものエピソードやその折の句などが、弟子目線で紹介されてあり、大変興味深くも面白いものであった。
朝から雨。今日は終日、こんな天気のようだ。庭のツツジの花も、この雨でどんどんしおれることになるのだろう。今年のツツジは、病気は出たものの、例年以上に開花が盛んで、ここ1週間ほどの間、毎日はなやかな情景に目と心を楽しませてもらった。花が終われば、すぐに剪定作業にかからなければならないが、それは来週に入って天気が回復してからのことになるだろう。
明日は、「母の日」。今日のうちにプレゼントを買いに出かけ、昨年同様、生花ではなくて小さな花の絵(正確にはシルクスクリーンによるなかなか素敵な版画)を、ドライフラワーを添えて送ることにした。市内の大型書店の一角に、おしゃれな装飾品や雑貨、小物類を結構取り揃えて販売するコーナーがあり、何かを贈る場合にそこを利用することが多くて、今回もそうした。結構な降りの中を往復して、帰りに実家に立ち寄り一日早いプレゼント。弟の奥さんにも、日頃の美味しい料理の差し入れのお礼を兼ねて、ちょっと面白い趣向のドライフラワーを贈る。
再刊の冊子の原稿をぼちぼちと書き始める。ごく短いものではあるけれど、いろいろ考えることがあり、少し書いては修正を繰り返す。「切れ字」と「切れ」についての雑感ふうな内容。書きつつ勉強不足を思う(読んでみたい資料が入手困難ということもあるけれど。その点は地方在住の不便さを思う。さすがに、ネットではカバーしきれない。)。
今日から公共施設の一部が再開されることになった。図書館も開館されるということで、出かけようと思いつつも、つい籠りがちの生活の延長で(というか、実際には日々家籠りという状態ではあるが)、自宅でいろいろしている間に夕方になってしまった。明日にでも出かけて行って、数冊本を借りてこようかと思う。マスクは相変わらずその姿をみないけれど、今日は商品棚に消毒薬が数個置いてあるのに気が付いた。体温計の姿もまだ見ないけれど、少しは商品の流通が始まっているような気分になる。ネット上には、マスクの販売が結構目に付くけれど、その商品評価をみると、かなりひどいものが多くて(というより、高評価を読んでも当てにならないと思い、低評価の方を中心に見ているせいであろうが)、粗悪品のオンパレードのようで、まだまだそちらからの入手は控えた方が良いな、と思う。
例の「アベノマスク」は、現在「準備中」ということで、いつ手元に届くかわからないらしく、届いてもさすがにそれを使う気にはならないし。
そういえば、テレビによく登場する気弱な社長さんを演じる某通販会社からも、中国からマスクを輸入して販売を始めるようだけれど、はたして品質はどうなのだろうか、とちょっと気になる。
実は、その会社がプロデュースする歌謡ショーを、昔々どういういきさつか母と一度見に行ったことがあって、懐かしい歌手が次々とステージに登場して、結構面白かったのを覚えているので、さすがに品質的にもそんなにひどい物ではなかろう、などと思ったりする。基本的に、どこかの会社が開発した商品の類似品(と言い切れば不適切かも……)を比較的安く販売するという手法で商いをしているみたいではあるけれど。粗悪品とはいえ、再びマスクが市場に流通し始めたこの時期に、「マスク」に手を出すのも、「機を見るに敏」という商才の発揮かもしれないし。自分で買うことはないけれど、オモロソウな人やな、とは思って見ている。
大阪府の知事が、やたらと評価されている。ネット上などでは、ほとんど時代の寵児とか一代のヒーロ的な扱いで称賛されているようすら見える。社会全体が不安とストレスの渦中にあるときには、きっとこんな風にして一人のヒーロを求める心情がぐっと高まってくるのだろうな、と個人的には距離をおいて眺めている。もともと、大阪でコロナが拡散した遠因のひとつは、それ以前の大阪の医療等に関する予算削減施策(その推進者は、これまた最近やたらテレビに顔を見せ、強気な発言を繰り返すH氏の緊縮政策の結果であり、その点はご本人も一部反省の弁をのべておられたりしていたので、きっと当たらずとも遠からずということなのだろうが。それにしても、政府はそれに近いことをコロナ禍の真っただ中の今において実施しようと企図しているらしい。狂気の沙汰とまでは言わないにしても、まともな判断力の欠如ということをついつい思ってしまうが……。)で、現市長はその尻ぬぐいに奔走しておられるという面も、そこにはあるのかもしれない。
と同時に、素人が見ていてもある意味当たり前のこと(緊急事態の解除基準を明らかにすることは、延長判断と裏表の関係になる鍵情報であるだろうことは普通にものを考えるなら、当然の事なのだろうけれど)をやっておられることが称賛の対象になるくらい、国が行っていることが的外れだったり貧弱だったり、お粗末ですらあったりすることを、一人の市長が浮き彫りにして見せたということも、悪代官に対する「水戸黄門」の姿のように、われわれの目に映っているということでもあるのだろう。
ただ、「水戸黄門」にしろ、スーパーヒーローにしろ、テレビドラマやアニメの世界においてのみの現象であってほしい、と個人的には思う。虚構世界が現実世界に浸潤を開始するということは、病んだ社会がコロナとは別の病的症状を露呈しつつあるような、健全さを失っている指標のひとつですらあるように思われるので。それにしても、政治や社会の危うさを目の当たりにすることは、コロナ禍に加えて、さらに言いようのない不安感を募らせるということであってみれば、さらに辛い……。もっとも、ネット上に限定すれば、それ自体一つの虚構的世界ではあろうけれど。
許された範囲内で営業を続ける個人商店や小規模店舗に対して、クレームや中傷、さらには営業妨害的な行為に走るミニヒーローの出没も、ほとんど病気の世界的現象ではあろうけれども。昔は、隣近所に口うるさいおじさんやおばさんがいて、子供たちのふるまいやご近所のトラブルに口を出す、みたいなことがあったとされ、ある意味日本人の美質のひとつみたいに言われたりもしていたけれど、それとこれとはちょっと本質が違うだろうし……。
突然の痛風。なんとか、痛みはおさまりつつあるようだ。靴を履く際、痛い方の靴はかかとを踏みつぶして、買い物などにでかけている状態。気が付いた人がみれば、この人なにやっているのか、というレベルの姿ではあるのだろう。ともかく、水を意識的に飲んで、尿酸を体外に排出することが肝心のようだ。服薬は、ずっと昔、在京の頃にとんでもない状態を引き起こしたので、飲む意志はなし(というのか、ふりかえってみれば、痛風との突発的なお付き合いは、ずいぶん昔からということではあったのだ……)。
そろそろ「歩き」を再開しなければ、せっかく体重が減少傾向をみせつつあったのに、その甲斐もないということになりそうだ(「歩き」だけでは体重は減らない、ということも確かではあるのだが)。
蕉風一門の俳文集『風俗文選』を読み進める。許六が断然文章が上手いし、視点が面白いし、総合力は突出しているな、と感心する。明治期になって、子規一家の写生文も面白くないわけではないけれど、こちらの俳文のほうが(引用文や出典など、こちらの能力をずいぶん超えている点は措いておくとして)断然読みごたえがあって面白い。写生文と俳文を比べるのは、不公平かもしれないけれども……。
五月もすでに四日。風薫る、というより、ずいぶん蒸し暑い五月ではある。風が吹けば、なぜかやたら強風だったりするし。カーポートの屋根が汚れているのは、黄砂のせいなのだろうか、などとも思う。