日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

         
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【20年6月29日】
土曜日、数か月休止していた地元句会が再開されるということで、場所変更を含めての電話をいただき、家籠りに慣れきって個人的にはちょっと出たくないとの思いもありながら、参加することにした。いつもは一部屋を借りての句会場であったものが、2部屋通しで中仕切りを取り外しての場所設営になっていた。机の配置も工夫されていて、できる限り三密状態を解消するような配慮がなされてあった。参加者は31人、7句投句7句選のこちらはいつも通り。2時間余りの句会。披講役を勤めたりもした。コロナ関連の句はほとんどなくて、なんとなくそうだろうなと納得したりもしたものだ。
句会を終えて、こちらも数か月ぶりに近所の同級生のところを訪ねる。地元の古い写真館の主人で、幸い本人が在宅中であった。しばらく四方山話。経営面でいろいろ大変なのだろうが、当人はそんな様子をまるで見せない飄々たるものであった。「メサイア」コンサートの延期、再延期で彼には迷惑をかけているのだが……。

日曜日、われながら茫漠たる状態で過ごす。一体、何やっていたのだろう、よく覚えていない。本日は、月曜日。雨ではない。それだけでも、気分は楽になる。蒸し暑いながらに、時折の風は気持ち良い。京都の句会はずっと欠席投句続きで、今月もまた同様。そういえば、昨夜2時間くらいずっと句を考えていたのだが、乾ききったボロ雑巾を絞るみたいに何も出ず、やむなくふて寝に近い状態で床に就き、悪い夢見の後、今朝早くから再度句作にかかり、なんとか所定の句数をまとめて、FAXで送信。句会当日のため、上手く届いたかどうか、心配ではある。

本日の新聞の文化欄に、フランス(かな?)の某哲学者の「コロナ以後」の世界のあり様に対する考察が一面を使って掲載されてあった。6点に渡って、「コロナ以後」の世界のあり様や、進むべき(あるいはそうであることが期待されるような、あるいは願望にちかいものとか)近未来のビジョンなどが丁寧に語られてあって、とても興味深かった。ただ、そこに語られてあることを日本の現状に当てはめて考えてみると、それらの実現はいずれも「無理」かな、と思わざるを得ない。日本は(特に政治や経済の分野では)西欧的な抽象化された思念に基づく思想や哲学などが根を下ろす土壌がほとんどないような気がするので。結果として、芥川龍之介の短編「神々の微笑」で語られ、遠藤周作がライフワークとて繰り返し描いてきた西欧の宗教の日本化の問題同様、日本という「泥沼」の中で、西洋の苗はまるで別物として成長する、あるいは根腐れを起こしてしまう、みたいなこと。今、たまたま読んでいる『近世町人思想』(岩波の日本思想体系の1冊)で語られる、江戸時代の庶人の間に流布される道徳律の方が、日本人の実質に深くいきわたったものとして、今現在においても、よりリアルな感じで迫ってきたりすることだ、ちょっと上から目線的なものの言い方になってしまうけれど(とは言いつつも、今の若い人たちの一部には、そんな世界とはびっくりするほど異質な世界で歩き出している人もいるのかも、とふと思ったりもするけれど……)。

【20年6月23日】
大陸からの北の高気圧が優勢で、梅雨前線をぐっと南に押し下げると、本当にさわやかな初夏の一日をすごすことができる。今日も、そんな一日。日差しは強いけれど、風が涼しくて、日中に歩いても、日焼けはしそうだけれど、ほとんど暑さにへばることはない。歩きの途中で、近所の人としばらく雑談を交わしたりする余裕も生まれたりする。今日は、ごみ置き場でカラス対策のビニール人形を設置している人としばらく話す。私より10歳年長とのこと。とはいえ、現役の船員で、今は2か月の航海を終えて、2ヶ月の休暇期間中とのこと。奥様ともどもボランティア的な活動を熱心にしておられる方のようだ。前に少し触れた外来植物の「オオキンケイギク」の駆除作業に参加されたこともあるという。ご近所さんには、いろいろな方がおられることを、またひとつ知る。

某結社誌から俳誌を送っていただく。記事掲載ということで、丁寧に掲載誌を送ってくださる。角川『俳句』に載った作品について、鑑賞文を書いてくださった。自分の活動が自分に反響として返ってくることはほとんどないので、このような配慮はありがたい。家籠り生活で、外部の社会とのつながりが貧しい中で、外の世界からの反響をいただくことは本当にありがたいことだ。特に、コロナ禍によって、さらに外との繋がりが乏しくなる中ではありがたい。一回り上の年齢の方の現役生活の話を聞いたりして、ちょっと考えたりしている中でのことなので、一層印象深い。

とはいえ、家籠り状態で読む『源氏物語』は、1回目より明らかに2度目の方が面白い。「帚木」を終え、「空蝉」に入る。源氏に使われる「小君」という少年の姿が、源氏以上に面白かったりする。

【20年6月21日】
部分日食の日。4時過ぎまで本を読んでおいて、その後日食の観察に。自宅で眺めようといろいろ工夫するけれど、サングラスを重ねて眺めてみても、色付きの紙越しに眺めてみても、太陽がまぶしすぎてその本体の姿が見えなかったり、ぼやけたりで、まともに確認できない。日食グラスなど手元にないし、ガラスにローソクの煤を付けてとかいうけれど、ローソクも適当なガラス板もないので、お手上げ状態。やむなく、「歩き」をかねて、スマホ写真で日食を狙ってみようと、出かける。5時が近づくにつれ、辺りがなんとなくやわらかな光につつまれているような様子になる。おそらく、日食が進んで光量が少し落ちてきているせいかと思う。吹く風も、こころなしかひんやりとしてきたようだ。住宅地を抜け、耕作地に入って、改めて太陽観察。直接見た場合は、やはりまぶしすぎて食の状態などわからない。スマホを取り出し、太陽に向けて写真をとると、太陽本体はまん丸のままであるにもかかわらず、ハレーションというのか、ゴーストというのか、写真に写り込んだ光の残像部分は、不思議にその一部が欠けて写っている。これはどういうことなのか、わからない。
やがて、歩きながら、あるものに目が行く。それは、畑で作物を保護するために畝をカバーする黒いビニール。その切れはしが、畑地に残っていることに気づいた。これは使えるかもしれない、とその切れはしをさらにちぎり取って、それ越しに太陽を覗くと、きれいに一部が丸くえぐられた太陽の姿を眺めることができた。その後は、歩きながら、時折黒ビニールの切れ端を通じて太陽の食の変化を眺める。なかなか、面白い。
本当は、木漏れ日が三日月の食の姿を地面に映し出すというのを見てみたかったのだが、それは条件が悪いせいか、見ることはできなかった。木漏れ日の影は、ごく普通の木漏れ日の影であった。残念である。

一味違った、一日の終わりでした……。

【20年6月17日】
昨夜、ひさしぶりに京都の知人と電話。彼は、某大学の講師を務めているのだが、京都市内の大半の大学がオンラインで講義を行っており、彼自身もご多聞に漏れず、オンライン授業の準備とネットを使っての講義にかなり苦労している様子。対面での講義を懐かしんでいるけれど、京都の大学は当分この形式の講義が続くらしい。町中の様子は、平常の状態に近いらしいけれど、近くの伏見稲荷神社は、観光客の姿はまばらで、特に平日は土産物店の大半が休業している状態らしい。にぎやかな伏見稲荷参道の様子が記憶に鮮明に残っている分、彼の話を聞いて、コロナ禍の影響の大きさを改めて感じる。

今日は、久しぶりに某句会が市内で開催されるはずが、突然の所用のためにやむなく欠席することになってしまった。欠席投句だけでもどうか、と電話ですすめられるけれど、作品の準備も間に合わず、完全欠席ということになる。所用を終えて、午後郵便局へ。京都の有名な書店「三月書房」が今年いっぱいで完全閉店(すでにお店の方はしめておられて、ネットで在庫書籍の販売を続けておられる状態のようだ)するとのことで、この機会にせめてという思いで、俳句関係の書籍を2冊(希望は3冊だったが、注文した時点ですでに1冊は販売済だった)申し込み、その代金振り込みに近所の郵便局まで出かける。京都在住時、「三月書房」は、俳句関係の書籍の購入でお世話になった。とはいえ、店内には詩歌関係では、断然歌集関係の品ぞろえが豊富で、主人が座るレジの背後の書棚には、ずらりと歌集が並べられてあったのが印象的だった。俳句関係の書籍は、店に入って左側の棚の一角が主にあてられてあった。「三月書房」では新本が特価販売されていて、今手元にある俳人の全句集関係は、すべてこの店でずいぶん安くで購入したものだった。懐かしい。

政界は、ざわつきつつも、通常国会を閉幕にするらしい。今夜、A・K・A・A氏らは、超高級フランス料亭で宴会を開催、などとネット上に情報公開されてあった。飲食費用は、税金?

【20年6月16日】
入梅後の猛烈な荒天を経て、本日は絵にかいたような好天。日差しは強いけれど、湿度は低くて室内では過ごしやすい。この際ということで、家中の窓という窓を開けて、北寄りの乾いた風を家中吹き通させている。天気予報では、梅雨の中休みには二種類あると言っていたけれど、本日は典型的な「初夏の再現」型の一休みらしい。終日、風の通るにまかせて、今日は過ごそうと思う。

昨日は半日、諸般の事情で市役所と税務署へ。後日、税務署へは再度赴く必要があるけれど、これで条件は良くなる。それにしても、最近スマホのメールに、やたらと還付金関係の詐欺メールと、有名人を騙る詐欺メールが日に一二回届く。コンピューターから送られる詐欺メールはある程度ブロックできているようだけれど、それをすり抜けて毎日送りつけられてくるようだ。今日は、どんな有名女優・歌手から送られてくるだろうか、などと楽しみにしつつ、「アホか」とつぶやいて即時メールを削除する作業が繰り返される。少々面倒くさい。

国会は、明日で閉幕。国会議員たちは、長ーい「夏休み」にでも入ることなのだろうか(委員会は継続して開催されるので、個別に案件を検討すればよい、との政府の立場らしいけれど)。国民目線よりは、政府・政権に不都合なことはすべからく隠蔽・削除・誤魔かしの政府・政権の立場は、コロナが一端収まっているこの時期にこそ、国会の衆智をまともに集めて目先の対策のみではない、経済対策にのみ偏らない、より大局的な視点から国民の生活と命を守る政策を打ち立ててほしいのに(とはいえ、様々な問題点をはらんだ政府の対応に対する野党の批判は、なかなかやまず、与野党の賛成によって通過した法案はいくつもありながら、「批判ばかりの野党」という作られたイメージはなかなか払拭できないかもしれないけれど)、もうお休みに入るらしい。野党は、臨時国会の開催請求を出すだろうけれど、すでに前科のある政府は、開催時期を無期限惟延期して臨時国会の請求権を実質上「潰す」という手に出るだろう、と誰でも予想できることだ。と同時に、逆に「臨時国会」が開かれるような事態になった場合は、すでに状況が予断を許さないほどに切迫した時、というありがたくない状態もまた想像されもするのだけれど……。それはそれで、怖ろしい。

【20年6月13日】
昨夜来、雨が降り続けている。特に、日をまたいで以降、強い雨が降り続ける。ヤフー天気で確認すると、赤色に染められた雨雲の塊が、この辺りを次々通過しているようだ。強い雨音を聞きながら明け方眠りにつくと、早速大雨と洪水の夢をみたりする。以前暮らしていた京都の町中が鴨川の氾濫でみるみる水浸しになるという、なんとも悲惨な夢であったりする。今暮らしている地域は、地形の関係でほぼ洪水には無縁な土地ではあるけれど、水に対する無意識の恐怖感が、こんな夢をみさせるのかと思われる。

夜が明けても、相変わらず強い雨が降り続けている。県下全域に大雨・洪水注意報が出ているようだ。市内の方が降りはきつい。梅雨末期の豪雨が梅雨の初めにさっそく襲来しているような状況、などとテレビのお天気キャスターが昨日語っていた言葉などを思い出す。天候もまた、奇妙に歪みを増しているような、そんな印象。沖縄は、すでに梅雨が明けているとも。本州は、これから一月くらい、梅雨の時節が続くようだ。

今日は土曜日。すすんで家籠りしているのと、雨に降りこめられて家にいるのとでは、気持ちは異なる。読書は一休みにして、フリーに使う土曜日を、どう過ごしたものかと思う。

【20年6月12日】
少しずつ、外部の活動も再開されつつあるようだ。昨夜は、合唱部会。5月公演予定のコンサートが来年2月に延期され、さらに再延期へと話が進む中で、改めて練習計画などの練り直しが行われる。コロナ禍の下、もちろん通常の活動など出来ようはずもないとはいえ、細く長くで少しずつ前進を開始してみようとの原案がまとめられる。後日、メンバー全体での総会を開き、最終的な活動方針や計画が決められることになる。来週には、小さな句会がひとつ、再開する予定になってもいる。用心しながら、身近なところで少しずつという調子。それ以上に活動の枠を広げるつもりは、いまのところなし。ブラジルでは、まもなく中国や欧州の研究機化によるコロナワクチンの治験が1年ほどかけて実施されるとかいわれているけれど。治療薬ならびにワクチンが開発されない限り、この制限された生活も解消されないのだろうな、と改めて思う。

『源氏物語』ラウンド2。「桐壺」は、速足で通過したけれど、以後はゆっくりと、できるだけ内容の細部を気にかけつつ、読み進もう。現在「帚木」。有名な「雨夜の品定め」まで。源氏を含め、青年貴族たちの姿(ちょっとアメリカ映画の一場面を連想してしまうみたいな。少々飛躍が過ぎるけれど……)が、結構微笑ましい。

I氏から句集を送っていただく。第十五句集とのこと。自らの豊富な経験に基づく日本の自然や風土に深く根差した作品を作られる作者ではあるけれど、民俗学的な知識を背景にお持ちということもあるせいか、作品自体は粘っこい「土俗」的な一般的イメージからは離れて、どこか知的な明哲性を個人的にはふと感じてしまう。なんとも上手く表現できないのだけれど、表現面を含め、俳句的な「洗練」を経た作品という風なところ。簡潔だけれど、その根差すところは深いとでもいうのか……。色々と考えてしまうことだ。

【20年6月10日】
とうとう、梅雨に入ってしまったようだ。これから雨の日が続くのかと思うと、少々気が滅入る。もともと家籠り生活が基本なので、外出について「歩き」を除いては、さしたる問題はないのだけれど、それでもじめじめ、しとしとは嫌だなあ、と思ってしまう。先日、35度超の猛暑日があっただけに、あるいは少しは気温が下がるかもとは思うものの、暑くても晴れのほうが、気分はだんぜん良い。

昨夜は、ひさびさに合唱関連の会議。コロナ禍で延期されたコンサートについて、どうしたものかの三役打ち合わせ(なぜか、私も三役の一人になっていた、ほとんど自覚はなかったのだけれど……)。延期について、どうするのかとか、その間の練習(新聞では、お隣の県で合唱の練習が再開が記事となっていたりするのだが)についてとか。さほど広くないとはいえ、会議室に三役が離れ離れに座って会議するのは、なんとなく珍妙な情景。窓も開け、ドアも開けているので、蚊が侵入するやら、廊下を歩く人が興味半分での覗いたりするやらで、なんとも落ち着かない。

伊藤詩織さんのネット誹謗事件について、中心人物の3名が控訴されたらしい。控訴対象はさらに増えるようだが。厳しく処断されることを希望する。弱い立場の人間をこきおろしたり、茶化したり、結果として傷つけることを自らの表現活動と勘違いしているようだ。さらには、そんな作品に対して賛同し、同調する多くの人間がいることも、気づまりなことである。

【20年6月7日】
今日は、近来まれにみるほどの好天の一日だった。終日、雲一つない(これが実際、文字通り全天見渡しても雲一つ浮かんでいないみたいな状態)超快晴の日で、気温は24度前後ではあったけれど、吹く風は涼しくて、とても気持ちの良い一日だった。腰痛がなければ、ゆっくり、じっくり歩いてみたかったけれど、ここ数日残念ながら普通に歩ける状態ではなかったので、本日もそれはあきらめることにした。

『源氏物語』ラウンド2を始める。今日は、なじみの深い章段ということで、「桐壺」の巻を半分くらいまで読み進める。注釈も辞書もほとんど活用せずに読めたのが気分良かった。細かいニュアンス的な部分まで、詰めて読み取ることはなかなか困難ではあるけれど、とはいえ、表現の背後の微妙な心情の反映的なところをほんのちょっと感じられそうなところがあったりしたのは、収穫であった。

人間には、基本的に創作能力的なものが備わっているような、そんなことを改めて思ったりしたことだ。その証拠は、夢。寝てみる夢である。夢の中では、明らかに言ったこともない、見たこともない、知り合ってもいない、そんな場所や人物が普通に登場したりする。それらは、まず現実生活の中で経験したことの直接的な再現などでは到底ありえない。かといって、現実の体験の変形のみ、ということでもなく、そこに様々な要素が絡まってきて、現実とは別個の世界が、睡眠中の夢という特殊な時空のなかで、発現するということになるのだろう。それは、浅い眠りの中で脳が活動することによってもたらされた架空、ないしは虚構のせかいであり、その夢をもたらす働き自体が、覚醒時の創作的な活動の基本的な働き、あるいはバックグラウンドとして、(個々人により程度の差こそあれ)脳内に機能として潜在的に備わっている、みたいなことを思ったりしたのだ。奇妙で、暗示的な、それでいてとても切実な内容の夢を今朝みたことで、そんなことをつい考えてしまった。

【20年6月5日】
本日、『源氏物語』とりあえず読了。2019年1月17日、『狭衣物語』を読み終えて、引き続きということで読み始めてから、1年5ヶ月ほどかけて読み終えたということになる。岩波書店「日本古典文学大系」の『源氏物語』5巻本を、注釈や辞書を活用しながら一日5ページを基本ノルマとして読み始めて、遅々たる歩みと思いながら、実は意外に早く読み終えたように思われる。最初の思いとしては3〜4年くらいかかるのでは、あるいはついに最後に到達するまでに根をきらしてしまうかも、などとおもったりしていたけれど、読み始めたら面白くて、少しずつ読み進めることができた。高校時代、夏休みを使って、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだ時のことなどもちょっと思い出したりした。読了とは言ったけれど、実はこれでやっと『源氏物語』の世界の入り口に立つことができたかな、という気持ち。これから、あらためて最初に戻り、「桐壺」から読み始めようと思う。

小冊子、思いのほか早く仕上がったようで、すでに業者のから出荷済みという連絡が入った。こちらとしては、封筒の準備とか住所シールの印刷もすでにおえていて、冊子が届き次第送り出し作業にはいろうと身構えているところではある。なんとか、年4回、季刊ということで出したいものだと思う。

今日も暑い。室温は30度に近づいているようだ。外から吹き込む風も、あまり涼を感じさせない。ちょっと海を見に行こうか、などと思う。

【20年6月2日】
同人誌、などというのもおこがましいかもしれないけれど、小冊子復刊第2号(通巻19号)の原稿の準備が終了。さっそく、前回お願いしたネット上の印刷・製本の会社に依頼、データーを送る。それが昨日で、本日にはゲラにあたるものが送られてくる。校正して、印刷了解の旨を伝える。数日後には、製本された小冊子が送られてくる手はず。なんとも手際のよいことだと思う。

子犬が実家にやって来て3か月余り。生後5か月を迎える幼犬ではあるが、無茶苦茶に元気が良い。いまだに噛み癖が抜けないのがちょっと困りものだけれど。ブリーダーさんに言わせると、自分が今までお世話してきた子犬の中で3本の指に入る頭の良い子、ということで、その片鱗は良かれ悪しかれいろいろな場面で伺われる。こちらは、昼前、3時頃、夕方と一日3回実家を訪問しては、読書や庭いじりに疲れた我が身を子犬に癒されて帰ってくるという生活が定着してしまった。実家から帰ろうとする時、サッシ窓の向こうでじっとこちらを見送っている姿(犬にとってはごく普通の当たり前のふるまいなのかもしれないけれど)を見ると、素直に可愛いな、と思ってしまう。

いわゆる「アベノマスク」がとうとう届いた。特に感慨はない。税金の無駄に終わるけれど、使わないし……。国民の税金を使って、自分の名前が全国民に浸透して、良かったね、とだけは言っておこう。