日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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昨日のうちに本を返却、あらたに借りてくる。詩集2冊、エッセイ1冊、歌集1冊、コミック2冊。詩集1冊、エッセイ、歌集は読了。詩集を通じて自分の中の言葉の位相のようなものを知らされたような思いになる。1冊の詩集は、自分の中の言葉のいろいろなありように、様々働きかけ、刺激をもたらすようなそんな印象。とても良い詩集だった。歌集は、寺山修司の全歌集未収載の歌群をまとめたもの。寺山修司の短歌はとても面白い。ただ、ずいぶんの空白期間を経ての作歌とその作品集ということもあってか、寺山本人も気にしていた自己等類的な作品も少し含まれていたようだった。与謝野鉄幹の「われをのこ……」の本歌取り二首は面白かった。
『孟子』読了。漢文分野は次はなにを読もうかと思う。『論語』が聖人君主的な孔子像を強く感じさせたのに対し、『孟子』の方は孟子個人のもう少し人間臭い姿が描かれてあったようだ。解説文の効能かもしれないけれど。
今日は、久しぶりに地元と京都の知人と、それぞれけっこう長時間電話で話をした。身内以外とまとまった話をする機会がほとんどない家籠り生活を送っているので、今日は久々に外の人と話をした、という晴れやかな気分になる。
コロナ対策。素人目にもよくもまあ、次々と思い付きとしか見えない施策が打ち出されることだと思う。「ワーケーション」なんて、いつだったかやろうとしていた「プレミアムフライデー」並みか、それ以下の単なる軽薄な思い付きにすぎない。今、国民今、国民に必要とされるものは少なくともそんなものではないのではないか……。。
数ヶか月ぶりに図書館に出かけ、本を数冊借りてきた。詩集2冊、小説1冊、コミック2冊。詩集はその日のうちに読み終えて、新鮮な気分を味わった。コミックは、猫ものとSF。時間の隙間を埋めるみたいにして、ちょこちょこ読んでは楽しむ。小説は、初めて読む作家の本。ちょっとファンタジーがかった奇妙なお話。『源氏』と『孟子』は基本毎日少しずつ読み進め、H氏の通史と江戸時代の庶民の生活倫理や道徳をまとめたみたいな一冊は、交互に読み進める。それが生活の中心におかれてあるので、ステイホームがごく自然な日常のありかたとして定着している。
とはいえ、現在の大きな課題が二つ。ひとつは、ツツジについた葉ダニの処置。うかうかしているうちに、数本の木に取りつき、さらに周辺のツツジへと魔手を延ばしつつある。水で吹き飛ばせとネット上の園芸サイトには書いてあるが、ちょっと手遅れ気味。こまめに薬剤を噴霧して、各個撃破と、周辺への蔓延を防ぐくらいしか打つ手はないようだ。傷ましい。もうひとつは、近所の猫。野良ではなくおそらく家猫(鈴付きの首輪をしているので)だと思うけれど、庭をトイレ代わりのウンチやオシッコはいつもの事だが、さらに今度は車をお休み処に利用し始めているようだ。まだ、車体に傷はついていないようだけれど、フロントガラスに泥の足形がくっきり付いていたりして、おそらく気づかないうちに車の屋根でごろ寝している気配がある。ほぼ新車なので、鬱陶しい。猫を寄せ付けない薬を周辺にバラまいているけれど、その効果は薄そうだ。
コロナ禍は、東京とその周辺のみならず、大阪でもその勢いをぶり返しつつあるようだ。政府は、「第二波」の到来を極力否定しようとしているみたいだけれど、秋冬に襲来すると予想された「第二波」がすでにやってきているのではと、多くの人は思っていることだろう。感染数の増加ではなく、医療現場がひっ迫した時が「第二波」の到来である、という専門家の発言などは、その意味すら個人的にはよく分からない。もう少し一般人が得心できるような説明をしてくれればよいのに、と思う。「まだまだ、こんなものじゃないよ、『第二波』は。」という意味を含んでいるのであれば、心底恐ろしい。
コロナ対策について、ほぼ完全にやる気を喪失して職責を放棄しているみたいに見える我が国の総理は、米国で行われる予定のG7への出席の意欲は、満々らしい。さすが、「外交の〇〇」。でも、出かける前に、まず足元をちゃんとしてから行けよ、と思う。外務大臣もイギリスへ外遊にでるみたいだけれど。帰国後の2週間待機はどうするつもりなのだろう……。日本が世界に先駆けて対面外交の取り組みを進めるのだ、という意欲は感じるけれど。迎える方もいろいろ感染対策も講じなければならないだろうし、迷惑を感じなければよいが……。
今日、明日は今月の合唱練習の予定日。とはいえ、地元を離れて遠出した場合は念のため一定期間参加を遠慮するというのは、役員会で自分が提案したことでもあるし、その通り参加は中止する。こういう原則的な留意事項も、GOTOキャンペーン開始によって無意味化しないことを願うばかりだ。
そもそもGOTOキャンペーンは、コロナが終息、ないしはそれに近い状態にまで落ち着いた状態の中で開始されるはずのものであったような気がするし、コロナ終焉(は無理にしても)、感染の速度が落ち着き、コロナと同居できそうな状況を前提として計画されたものだから、それとは真逆の事態に対してはほぼ何の対応策も事前に準備してはいなかったのだろうか、と思われる。そのうえ、誰かの思い付きでその開始時期を前倒しして、その結果が混乱に輪をかける今の状態をもたらした、ということのようだ。これって、政府の失策(無策とまではいわないけれど)なのだろう。最悪の事態を前提にして、施策は練られるべきと、良知派の元知事のコメンテーターの言葉があったりもしたけれど、それが根本的に欠けていたのかもしれない。それもまた、状況の認識と分析に関わるある種の鈍感な傲慢さの反映(現政権の本質そのものではあるけれど)なのかもしれない。危機管理の欠如、ということも。恐ろしいことだと思う。
とはいえ、こんな愚痴めいた言葉も、S新聞の主幹(かな?)で、最近某番組のコメンテーターとして注目される人物にいわせれば、「旅行にいかない人間が、偉そうにごたごた言うんじゃないよ!」と、チコちゃんならず、一喝される態度なのかもしれないけれど……。
H氏の『俳句史大要』を読んでいる。いかにも俳人らしい視点によってまとめられた俳諧通史で、とても面白い。研究者というよりは、実作者としての見識があちらこちらに反映していて、納得させられるところが多い。とはいえ、芭蕉以後、蕪村の登場に至るまでの美濃派、伊勢派などの評価はほぼ「ボロクソ」に近いものであることが、ちょっと気にはなる。作品の評価と、俳句史におけるその位置づけや意味付けには、また別の評価軸の導入が必要のように思われる。その点が、いかにも実作者としての視点や評価の特徴ともいえるのかもしれないけれど。個人的には、愛媛大学のA氏の、より総合的な視点から眺め渡される、庶民史的要素を含む俳諧史もずいぶん面白いと思われる。とはいえ、一読の価値はおおいにある、と思われる。
正直言えば、現在感染が広がりつつある地域には出かけたくないし、その地域からの観光客の来訪はありがたくない。それが地方のエゴだと言われても、キャンペーン自体が感染を広げる可能性を持つなら、それに疑義をとなえ、拒否することはいずれ全体にとって感染を広めない有効な方策となることだろうし。政府の主張とは別に、一部で言われているように、高度感染地域を除外して、当面近隣の比較的感性の少ない県同士の交通や交流までをストップせよとは言わないけれど……。政府の見通しとしては、GOTOキャンペーンを全開にしても、賢明実直な国民自身が自粛して、弾けて旅行に走るということはそれほどあるまい、という計算も一方ではありそうだし。観光業界に対しては、その要望を百パーセント呑み込んでGOTOキャンペーンを前倒し実施までして、それなりに義理を果たし(今後の総選挙時の集票関係に大いに影響があることだろうし)、とは言いつつ「民度」の高い国民の良識的自制的な行動にも期待する(とはいえ、出かける人は出かけるだろうし、それなりのお金を旅行代理店や交通関係、さらに地元の観光業関係にも落としてくれることだろうし)、という高度な「皮算用」の上になされることなのだろう、きっと。
それに、よく言われているように、もしこのキャンペーンを通じて、コロナ感染が広まったとしても、政府は一切責任はとらないだろうし、言い換えるとその責任は地方自治体と旅行者ならびに観光業者の責任(広い意味の自己責任)に転嫁できるから、政府にとってはお気楽な施策のひとつにすぎないのだろう。ついでに、今回のことを踏まえて、来年度実施が予定されるオリ・パラ向けの社会実験、あるいは予行演習としての活用という意味と意義を持ち合わせてもいることだろうし。
それに、きっと政府の計算の中には、これも一部で言われているように、ある程度の感染者の増加、さらには感染による重症者や死者の増加も、当然あらかじめ勘定に含まれていることだろうし。「感染者が増えても、結果として死者が出たとしても、国家の施策にはすべからくそのようなリスク要因も当然含まれていて、それ自体は仕方がないことだよねー。」という本音が見え隠れしているみたいだし。
来たるべき衆院選を念頭に、国会議員諸氏の資金集めパーティーがいろいろと計画され始めているらしい。閉鎖された空間に大人数を集め、密接・密集状態の中でなされるのか、あるいはパーティー券だけは大いに売り上げて、実際の参加者は限られたごく少数という形にするのか、まるでわからないけれど、もしその資金集めパーティの中からコロナ感染が発生したとしたら、はたして、私自身はどんな反応を示すことか、ちょっと興味がないわけでは、ない。
喫緊の用事で、数日間遠出。帰宅して後、少々疲労を感じる。昨日、今日と体調調整。少し戻ってきたようだ。
知人から、『森澄雄の百句』(フランス堂)を送っていただく。数日間、読書から離れていたので、『源氏』や『孟子』を少し読んで、それから『森澄雄』の方を本格的に読み始める。1ページが森澄雄の作品一句掲載、その反対ページで作品鑑賞。そもそも、私自身が森澄雄に興味を持つようになったきっかけが、この本の筆者であり、そのおかげで森澄雄の作品を一通り読むことにもつながった。感謝である。
優れた作品鑑賞は、作品それ自体の価値をさらに高める、というようなことを改めて思う。わが故郷の山を素材にした一句については、あるいは鑑賞文の方が、作品を越えている部分があるのではないか、などと本気で思ったりもしたものだった。それは森澄雄の作品を貶めることではなく、森作品自体がその鑑賞文に飛躍をもたらす大きな力を孕んでいるということなのかもしれない。俳句において、選は創作なりという言葉があったと思うけれど、それと同じような性質において、鑑賞文もまた作品に対するあらたなる創作という側面をもっているのかもしれない。ともかくも、大変面白い一冊である。
東京では感染者が三日連続で二百人を超えたようだ。検査数が多いので感染者数も増えるということも、感染者に若者が多いので医療崩壊につながらないから大丈夫だ、的なコメントも、どこかこの状況を的確に伝える論評としては、うさん臭さいっぱいである。さらに、なんとなくコロナ問題が、東京問題に歪曲、あるいは矮小化されつつあるような雰囲気が感じられる。「悪者は、東京だ」だと決めつけて、ご丁寧に政府までが自らの総括的責任を放棄して、それを東京に押し付けようとしているみたいな、いわば一種の敵視政策が意図的になされているような……。妙な流れが生まれてきているみたいで、変な感じである。
「NHK俳句」見る。本日の主宰は、小澤實氏。ゲストはBISHというバンドグループのメンバーの一人モモコグミカンパニーという若い女の子。小澤氏のリクエストで招かれたらしい。緊張していたせいなのか、生真面目でちょっと神経質で繊細な女子という印象。俳句経験はないらしい。兼題は「水着」だったけれど、選ばれた句がどの句も面白くて、とても楽しめた。ただ、主宰選1席の句は、個人的には中年以降の方の幼少期の体験を詠んでいるような印象を受けたけれど、その解釈がとても現代的なものとして解説されたので、それはそれでなるほどと感心させられたことだ。
新聞を読んでいたら、東京のコロナ感染について、夜の街関連の感染拡大については、その道義的責任みたいなものが強調されておりながら、同様に三密の危険に満ちた通勤時のラッシュとか職場の状態については、個人の発言が時折散見されることはあるにしても、社会的な意味での責任論はなぜか不問にふされている点について、それもまた「夜の街」(という漠然とした、それゆえに様々な、あるいは逆に焦点化されてとりざたされるような)というものに対する差別的な意識の反映ではないか、という意見が誌面尾4分の1くらいを占めて語られてあった。いずれも経済活動の拡大とその帰結としてのリスクの増大という点では共通の性格を持つものでありながら、という趣旨のようであった。通勤ラッシュを三密の典型として槍玉にあげることはなかなか難しいけれど、「夜の街」といいつつ、実際にはいくつかの店とそこに勤務する者とその歓待を期待する客は、非難の対象として格好のものであろうから。差別的な意識に乗っかって、非難の対象を特定化し、指弾することで、実はことの本質をねじまげて、責任を回避しようとするものの存在が朧化されてしまう効果が期待されているような、そんな気もしなくはない。きっと、ひねくれた受け止め方なのだろうけれど……。
お願いはするが、それ以上は法律の制限を踏み越えることとして、自己責任へと丸投げするというのは、実は行政としてはほとんど何もしていないのに等しいこと、みたいな気もするのだが……。
熊本、鹿児島の豪雨被害。「線状降水帯」とか、なんとなく耳慣れ始めた言葉に対して、遠くの地域での「例のあれか」程度の意識でしか思っていなかった自身にとって、テレビの映像で映し出される現地の状況は想像を超えるものだった。
もう、1年の半分が終わってしまった。とはいえ、自分の中で時間の流れがどこかで目詰まりを起こしているような、奇妙な感覚がある。季節の移り行きは、確かに天候の変化とともに動いているようだけれど、こちらの生活時間についての推移がなんとなく滞っているような、そんな感じ。家籠り常習の人間であって、こんな感覚を味わうとは……。
東京は、コロナ感染者が連日百人を超える状態となっているらしい。わが県においても、新たな感染者が出たりしている。PCRの検査数が増えたら、当然感染者数も増加するのだ、と妙にひらきなおったような発言なども、どこからか聞こえるようだけれど。それって、やっと感染の実態にほんの少しだけ近づいたということではないか、などとつい思ってしまう。まだまだPCR検査の検査数が意図的に抑制されていた時期にも、潜在的に症状の見えにくい感染者が結構な数いたのではなかったか、ということだ。その、潜在的な部分が少し明らかになったということではないか、などと思ったりしている。
テレビでは、コロナ担当大臣が、「再び緊急事態が宣言されるのは嫌だろう、だったら国民一人一人もっとちゃんとやらんかい!」的なお叱りを声高になさっていたりする。国民の大半はちゃんとやっているのに、一部の不届き者が感染を拡大させているのだ、的なあえて「悪人」を仕立て上げ、そこに非難と責任を集中させるみたいな雰囲気もあったりするようだ。国民一人一人の努力とは別に、行政として責任をもってその問題部分を改善するような有効な施策をさっさと策定して、実行せんかい、という声もあったりする……。
6月30日には、多くの神社で「茅の輪」をくぐって、半年間の「穢れ」を清め、残り半年を健やかに過ごそうという古くからの風習があるようだけれど、巨大な「茅の輪」で一度日本列島全体を潜らせたいというような、そんな妄想的空想をふと思ったりすることだ。とはいえ、そんな神社を統括する神社本庁自体が、なにやらバタついていたりするらしいけれども。まず、自らの「穢れ」を「祓い、清める」必要があるのかもしれない。
今日は、終日雨。部屋干しの洗濯物が、エアコンのドライ設定をきかせてもすっきりとは乾きにくい。鬱陶しいことだ。