日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

         
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【20年8月29日】
安倍総理退陣。難病がその退陣の大きな理由であろうとなかろうと、そもそも政治家としても人間としても信頼のおけない人物の退陣ということで、個人的にはやっと彼の顔をテレビ画面に見ることの不快さを味わう必要がなくなって、幸いなことだと思う。とはいえ、おそらく最後のロング会見になるであろう28日のテレビ放映は、それが見納めというのか、見届けという意味でずっと視聴はしていたのだけれど。見終えて後、やはり安倍晋三は安倍晋三でしかない、ということが最後の結論。このまま、安倍氏も徐々に「過去の人」になっていくことだろうけれど、一議員として、せめて拉致問題をその道義的な部分も含めて自らの最優先課題として取り組んでもらえれば、などとは思う。それが拉致問題家族会の方々に対する誠意であり、責任の取り方(拉致問題の政治利用ならびに、その実効性の欠如という点からも。でも、そもそも責任を取らない人にこんなことを望んでも意味ないのかもしれないけれど)のように思われる。
別に野党が政権を取れとは思わないけれど、自民党の次期総裁候補の大半が、良かれ悪しかれ?「ミニ安倍晋三」的な手腕や能力しか持ち合わせていないような印象。人気の高い石破氏にしても、その人柄や主張については個人的には共感が深い(理知的な側面や持続する意志なども含め)けれど、残念ながらどろどろの日本の政治風土(ひいては、日本民族の体質的な部分からも)は石破氏を受け入れるようなものではまるでなかろうな、という気がする。
安倍晋三の7年8か月は、確かに光の当たる部分もあったことだろうけれど、それと同じあるいはそれ以上の強度において、影の部分の深さというものもあったことだろう。特に、誰かの言葉ではないけれど、この7年8か月の期間を通じて、日本人の正義感や倫理観というものは、おおきく歪みや欠損をもたらされたように思われて仕方がない。某テレビの有名コメンテ−ターの弁護士の言葉を援用するわけではないか、それらの正義感や倫理観の欠如は安倍政治によってもたらされたものではなく、元々日本人の中に内在していたものだということはあり得ることかもしれないけれど。とはいえ、元々あったものではあれ、それを表の社会に引きずりだしたのは、安倍政治に多くの要因があるようには思われる。特に、「差別」と「偏見」と「格差」に関しては、安倍政治が一気にこの社会に活性化させてしまったもののように、個人的には思われる。
もっと早く止めてくれてもよかったし、コロナに関するさまざまの失策で総理としての「晩節を汚す」(という言い方は変かもしれないが)ということもなかったかも、とは思う。

偉そうなことを書き連ねたようだけれど、この7年8か月は自分にとっても、余計なストレスの多い時期ではあったな、というのが、率直な感想。

【20年8月27日】
個人的にはテニスプレイヤーの大坂なおみが嫌いだった。その理由はいろいろあるのだが、気分屋でわがままで傍若無人的なところのある人物という印象が強くあって、いくら凄腕のプレイヤーとはいえ、なんか嫌だなという思いがあった。しかし、最近の米国における黒人差別問題に対する彼女の一本筋の通った発言や態度を見せられるにつけ、自分自身の大坂なおみに対する見方というものが、いかにも表面的で妙な思い込みに歪んだものではなかったか、と思い始めている。

『源氏物語』第一巻を読了。前回に比べ、やはりずいぶん早く読み終えたような気がする。とはいえ、細部にわたって理解不能の部分が山ほどあって、それはそれとしてともかく全体的な流れの中で本文を読み進めることの方を重視する。いずれ2度目の全文通読を終え、3回目を読み始めたとき、もう少し細部への理解が深まっていることを期待してのことだ。コロナ禍の渦中、再び図書館で本を借りだし始めてから、ちょっと読書への意欲が高まってきたような気もする。結構コミックを借りてもいるので、それも弾みのひとつになっているのかもしれないが(『麦ばあの島』は4巻全巻読了。これが、自費出版によるものだとは、と感心する。かなり高価な作品だったけれど、よくぞ選び出して図書館に購入してくださったと司書、あるいは学芸員の方たちに感謝!)。谷川俊太郎の詩集1冊、インタビューをまとめたもの、地元の詩人の詩集1冊、瀬戸内寂聴の句集+エッセイなど、いずれも量的にはたいしたことはないということもあるのだが。ともかく、詩集をしばらくは読んでみたい(面白いので)。次は、金子みすゞの詩集(数冊まとめてそろえてあるので)を読んでみようか。
本を読むのはいいのだが、最近かなり目を使うのが辛い……。特に、小さな文字を読むのがつらい。とうとう、以前何かのついでにいただいていた拡大鏡を時折使うはめになってしまった。テレビのCMでやっている、眼鏡型拡大鏡を使おうとまでは思っていないけれど……。

【20年8月22日】
寺山修司と山田太一の往復書簡集を読む。往復書簡集という形式も、ネットでメールという時代相の中では、全く理解不能なところが世代によってはあるだろうな、と思いつつ、とはいえ結構面白く読ませてもらう。ともかく、彼らの読書量の膨大さにまず圧倒されそうになる。和洋の書籍からの引用を文面のあちらこちらに宝石のごとくちりばめた、なんとも華麗?で自在な書面と、恋愛から砂川政治闘争にわたる個人史、時代史に直結していくかなり濃い内容にも、興味を引かれた。とはいえ、それに感銘を覚える世代というのも、おそらく戦争を幼児期に経験した人たちから、昭和20年代〜30年代生まれの人たちにかぎられていることだろうな、などとも思われはするのだが。幅広い知識と教養と趣味性を身につけることが、文化や芸術に関心をもつ若者のひとつのライフスタイルであった時代という、そんなお話。

【20年8月19日】
五時過ぎ、起床。下へ降りて、外を見ると、カーポートの空きスペースのコンクリの上で、近所の猫(きれいな猫で、家猫のような気がするが)がごろごろしている。まだ、日が昇る前で空気もひんやりしている状態だから、コンクリの上も冷たくて気持ちがよいのだろう。正直言って、トイレや車のことがあるので、気楽に出入りしてほしくはないのだけれど、あまりにリラックスしている姿をみると、今回はお目こぼしとする。ここ数日は、夜中もエアコンや扇風機をつけっぱなし(両方を使うのが最強ではあるが)状態で過ごしたが、今朝は少しマシになっているかも、とは思う。八月も、いつの間にか半ばを過ぎている。

早朝のウオーキング。涼しくて気分が良い。地平線から日が昇ってくるのを眺めつつの歩きは、朝の早い季節のひとつの醍醐味だ、と思う。

コロナの関係で通信句会へと切り替わった会の、今月分の投句作品がメールで送られてくる。1週間ほどの期限を切って、選句と選句評を行わなければならない。コロナ関連の句は、少ない。コロナのことをわざわざ詠む必要性を内心感じないでいる、というもことだろうか。率直に嫌だ、ということかもしれない。

市立図書館で本を借りてくる。詩集2冊とコミック2冊、書簡集1冊。コミックは、『麦ばあの島』2・3巻。ハンセン病療養所を舞台にした話。書簡は寺山修司と山田太一の往復書簡。寺山は、山田の影響で詩歌の世界から演劇の世界へと飛翔していったとも。

総理の療養については、特に何の思いもない。それよりも、そのことを語るA議員の弁に恥らむ。総理の「責任感の強い資質」を語る以前に、自身のいまだなされていない行為に対する説明「責任」をいつ国民に対して果たすつもりなのだろうか。思い出せば、睡眠障害とかいう病気を理由に国会を歳費付きで長期間休み、国会終了直後に退院、何事もなかった風に元気な姿見せるというそのふるまいは、顰蹙以外のなにものでもない、と個人的にはおもわれるのだけれど。最近は、テレビにもちょくちょく顔を出しては、何事もなかったかのような顔をしていろいろのたまわっているけれど、それを許すマスコミもまたマスコミだとも思うが……。


【20年8月15日】
一昨日、昨日と夜はほぼ満天の星空。ペルセウス座流星群出現の極大日をみごと外して(腹が立つ!)、その翌日から見事な星空が続いている。その二日間、夜中にせめておこぼれの流星の一つでもないかと東北の空を眺めてみても、その気配すらないのが残念。とはいえ、昨夜はその方向に薄い三日月と木星であろうか、明るい星が、星々を背景にして浮かんでいる情景はなかなかみごとだった。二階の窓を全開にしてみていたのだけれど、さらに下に降りて、しばらく庭から満天の星空を眺める。空気の動きが一昨日はかなり明らかで、星々がちらちら瞬いていたが、昨夜はそれもなくて、ちょっと秋の夜空のような澄み切った様子であった。流星は結局一つも見えなかったけれど。

コロナ禍。沖縄が本当に心配だ。なにかあると、まるで問題や矛盾の結節点のように、沖縄で被害の実情が露わになるような気がする。昔昔、坑夫たちが、坑道内にカナリアを持ち込んで、そのカナリアの状態から坑内の汚染度、危険度を推測したとかいうことがあったらしいけれど(事実かどうか、ちょっと出来過ぎの感じがしておぼつかなくもあるが)、そのカナリヤにあたるのが、日本における沖縄のあり様なのかも、などとちょっと思ったりする。県任せで、日本政府は相変わらず何もしないみたいで。いつかのように、沖縄を見殺しにするつもりではないのだろうけれど……。そういえば、今日は「終戦の日」であったか。

俳句とはなんだろうか、と考える。京都で行われてきた俳句の勉強会は、今回もコロナ感染拡大のせいで、再々延期となる。実作とは別に、俳句関係の本を読んだり、考えたりする、その支えのひとつがこの勉強会であることを、改めて思ったりもする。

図書館で借りてきた大岡信編『連詩 闇にひそむ光』を読んでいる。正直言って、「連詩」など、きわものみたいなものではとの意識をどこかに持っていたのだけれど、実作を読み、その座談会を読みして、とても面白いもの(特に「実作」が)であることに気づいてしまった(自分に「連句」作りの経験があるだけに一層そうなのかもしれないけれど)。まもなく座談の部分を読み終え、さらに実作を読み進むことになるのだが、なんとなくうきうきした思いで、先が楽しみである。

【20年8月14日】
「花鳥諷詠」俳句が、一行短詩の俳句バージョンなどと書いてしまったけれど、もう一歩進めれば、子規の俳句自体があるいは聖書の言葉ではないけれど、古い器に新しい葡萄酒を入れる的な性格をもったものではないか、とも受け取れるとうような主旨のことが川名大の著作の中に触れて合って、そのような受け止め方もあり得るのだと改めて思ったりもした。ただ、川名はちょっとニュアンスが異なっていて、俳句の改革者としての子規がその改革の内実として、有季定型(特に有季)という古い形式を採用したところに彼の失敗があるとして、いかにも新興俳句的な意味合いが主張されているのだけれど。虚子の場合は、さらにその「有季」という部分を「花鳥諷詠」という形で徹底したという点において、その部分をより拡大強化してしまった、ということになりそうだ。
とはいえ、私自身は子規にしろ虚子にしろ、その作られたものが「俳句」であるということを否定するつもりはない。ただ、はたして子規や虚子の生み出した明治以降の「俳句」というものが、はたして伝統的な意味での俳句としての性格的なものを継承しているのかどうか、というところがちょっと分からなくて、一行短詩の俳句バージョンなどと書いてみたということなのかもしれない(というなんとも頼りなくも無責任な放言であるか……)。
ここでいう俳句の伝統とは、貞門・談林と進化(あるいは、変化)を続けてきた俳諧が、芭蕉という存在によって、おそらく一区切りをつけられたという、その段階での俳諧のあり様のことを意味している。と同時に、実は芭蕉自身がある意味否定している(便利なので使わせてもらうけれど、子規の言う)月並俳諧がそれ自体継続した形で、いわば俳句の底辺というのか、岩盤的な部分を形成し続けてきたという側面を含めての総体としての俳諧の伝統的性格というものをどう継承してきたのか、ということについて、ちょっと気になるところがあるということだ。橋關ホは、その部分について、「糞味噌」に貶しつつ、芸術としての俳諧、あるいは俳句について、ある意味筋を通した主張を展開してはいたけれど。
お盆に入って、連日暑い日が続いている。気温35度など近年は別に目をひくようなことではなくなってしまったようだ。しかし、気温が体温に近い、あるいは体温を越えるという状態は、さすがに体にとって負担が大きいなと感じてしまう。意図的に節約生活を送って来た数年は、夏季もほとんどエアコンは使わず、という日々を過ごしてきたけれど、今年はもう完全にエアコン解禁という状態で過ごす。とはいえ、28度設定にして動かしているとはいえ、時に寒いと感じてしまうのが厄介。より意識的に季節と体との折り合いをつけねばならないということか。

【20年8月11日】
昨日今日と、5時過ぎに起きて、そのまま車で墓掃除に。二か所あるので、二日に分けて掃除。とはいえ、主に草取りが中心なので、少し時間をかけてじっくり草むしりをしようと覚悟しての早朝掃除だったのだけれど、思ったほど草が生えてなくて、例年に比べ楽なことなった。前回、掃除に行ってくれた甥が、たっぷり除草剤をまいておいてくれた効果なのかもしれない。除草剤といっても、すべての草に効果があるわけではなく、その薬に強い種類の草が、枯れた草の代わりに結構繁茂しているのが例年のことではあったのだが、今回は薬と雑草との相性がよかったのか、楽ちんな墓掃除ですますことができた。
それにしても、引きこもることが常態になっていたせいか、久しぶりに車で出かけたのは、けっこう新鮮な体験となった。早朝の空と山の風景は、なかなか素晴らしいものだった。「空が広い!」「山が高い!」ということ自体が、とても心地よかった。時には、少し遠出をしてみるのも悪くないか、と思ったりもした。もちろん、自家用車を使って、人のいない場所を選んでということにはなるのだろうけれど……。
某雑誌の月一掲載の作品、後半6か月分を、まとめて送信。梅雨から真夏にかけての時期に、秋から冬の作品を作るというのは、それはそれで面白かった。吟行という手段を使うことができないので、自分の経験とその記憶、ならびに季語との連関で作る。最近になって、かなり明確に自分はいわゆる「蕉風」俳諧とか、「花鳥諷詠」俳句は無理、とつくづく思っている。「新興俳句」的な質の作品も難しいし、結局「談林風俳諧」が時代錯誤だと思われてもいたしかたないという辺りに着地しそうな気がしている。「蕉風」俳諧はとても言わず、「花鳥諷詠」俳句は、あるいは一行短詩の「俳句」バージョン的なもの、伝統を装う近代詩の一変種かも、などとちょっと思ったりもしてはいるのだけれど。何となく、ではあるが……。
それは、橋關ホ『俳句史大要』読了後、川名大の『モダン都市と現代俳句』を引き続き読んでいるなんらかの影響なのだろうか。本文自体、なんというかわかり過ぎるほどよくわかる、という妙な印象を持ちながら読んでいる。本当に分かっていることとは実は別問題かもしれないけれども。そして、なんとなく「わかり過ぎる」という印象をもたらす点について、逆にちょっと注意する必要があるのかも、などと変な警戒心を抱いたりもしてはいるのだけれど。とはいえ、いままで読んできた様々な俳論の中でも、この1冊は語られた内容のかなり細かい部分まで、なんとなく了解できるという印象ではいるのだけれど。それが、自分は「談林風」という認識につながっているようではあって……。

【20年8月6日】
いつのまにか、もう八月。やたらと暑いということを除いて、自分の中では八月が来た、という実感に乏しい。暦に関係ない生活をしている、というだけでなく、世の中がコロナ一色に近くて、どこか時が停まったままという奇妙な感覚が居座っている、そんな気分だ。いつになれば、この停滞が再度動き出してゆくことだろうか、と思う。
先日、京都の知人たちと「ZOOM」を使っておしゃべりをする。四方山話をしているうちに、いつのまにか2時間ぐらい時間が経過していた。顔を見ながらそれぞれが普通にしゃべっていて、会話が混乱しないのが、なかなか便利だなと思う。3人以上参加の場合は、制限時間があるとのことらしいけれど、途中一人が一端退席して、再度つないだせいか、制限時間の枠が適用されなかったみたいだ(実際のところはわからないけれど……)。知人の話では、ごく身近な人がコロナの濃厚接触者になって、近日中にPCR検査を受けることになったとのことで、ちょっとびっくりする。場合によっては、当人もまたPCR検査を受けることになるかもしれないということで、コロナが他人ごとではないということを、改めてこんな形で再確認することとなった(幸い、近親者が陰性で本人も検査を受けなくて済んだらしいけれど……)。
大阪の知事が、大々的にうがい薬の効用をテレビで公言し、翌日には「予防効果も、治療効果もない」的なおぼつかない発言に後退していたけれど、見ているこちらが何となくはじらむ気分になる。コロナ関連で一気にマスコミの寵児的存在になった人物だけに、ちょっと勇み足(あるいは馬脚を現したとも)ということか。おかげで、うがい薬は一気に店頭から姿を消し、製薬関係の株価が一気に数百円も値上がりするという、そんな余波ももたらしたようだけれど。この話題は、そのうち静かにフェードアウトしそうな気もするが。
『源氏』はとうとう、有名な葵祭の日の「車争い」から、六条の御息所の生霊の話にまで進んできた。それにしても、当時物の怪というのは、当面本人に関わっているようなものだけではなく、その一族が過去から背負い込んできたものまでが、本人の衰弱に便乗して次々出現して、本人を苦しめるということがある(と思われていた)ということが、今回読み直す中で分かった。物の怪の背景も、結構暗く深いものだと思う。漢文は、『史記世家(上)』を読み始める。変化に乏しい生活の中で、明らかに少しずつ前に進む実感を持てるのが読書か、などと思う。
図書館で本を借りてくる。詩集2冊、理系用語の解説みたいな気楽に読める本1冊、コミック3冊。詩集のうち、1冊は三角みづ紀の第一詩集『オウバアキル』。かなり衝撃的な内容の詩集。とは思いつつ、なぜか誰か才能豊かな若いミュージシャンが、この詩に曲をつけて歌ってくれたらどうだろう、などと考えていた。なぜ、そんな発想になったのか、よくわからない。ただ、読む人によってはそうとうきつい内容の詩であるとともに、歌われることで多くの人に共有されるようなそんな部分をもっているという、そんな気がしたということなのかもしれない……。