日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。 |
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市立図書館で借りた本の1冊、辺見庸の詩集『眼の海』を読了。変な言い方かもしれないけれど、読み物としての詩集を楽しんだ、という印象が強い。このような印象を持った経験は、じつはあまりないのかもしれない。詩の中になにかしらの物語性(散文詩的な感じではなくて)が感じられて、それが面白かった。作品そのものは、3.11の東日本大震災とその後の原発事故を素材として詠いあげられたもので、執拗に積み重ねられる言葉のもらたす特異なイメージが直接こちらの感性へと流れ込んでくるような、奇妙な力のある作品群だった。作者は、新聞記者であり、芥川賞受賞作家でもあり、そして詩人でもあるという、何重の意味でかの言葉のプロということになるのだろう。同じ時に、金子みすゞの詩を読んでいるせいか、両者の資質と作品の性質と性格の違いのようなものが、強く感じられて、そんな点でも面白く思われた。もっぱら童謡詩人と評価される金子みすゞと辺見膺とを同列に扱うのは変かもしれないけれど、作品世界における言葉の比重、その極大と極小という対比関係を引き合いに出しつつも、言葉の世界に対してふたりともに優れた詩人としての素養を強く感じさせる、そんな印象を強く持ったりした。それは、あまりにシンプルな姿で、広大な余白の中にふわりと成立する金子みすゞの詩世界と、言葉によって自らイメージする世界を隙間なく埋め尽くそうとする力技の辺見庸の詩世界の相違ということになるのかもしれない。どちらも、詩としての醍醐味を感じさせ、とても詩というものを堪能させてくれるように思われる。ついでにいえば、辺見氏の作品、その詩的イメージが最近のアニメのもたらす異世界の印象にどこか近いものがあるのも面白いと思う。辺見氏の詩を楽しんだ、ということの中にはそんな要素もふくまれているのかもしれない……。同時進行的に読んでいる、三角みづ紀詩集『私を底辺として。』は全く別の感触の試作品で、こちらはちょっと内心苦痛を感じながらも読まされているというような性格の詩集ではある。
そういえば、先日、近隣の市の市役所並びに学校に対して、爆破予告の脅迫があったらしい。学校関係は、即日臨時休校。メールによる脅迫らしいから、遅かれ早かれ犯人は挙げられることだろうと思うけれど。こんな田舎の県の地方都市ですら、前代未聞(文字通り、地元関連としては初めて聞くような)の事件がおこったりするのか、と改めて思う。コロナ禍による閉塞的な状況が、こんなバカげた出来事をこんな片田舎にももたらしたりするのだろうか、などと実家で話す。こんな認識自体がふた昔も前のもの的な受け止めも一方ではあるのだろうけれど、でも実際のところ社会現象においては、タイムラグ的なものもあるわけだ。コロナが、ほぼ同時進行的な様相を見せつつも、感染の実態が地方によって差があるように。
そういえば、高齢者の行方不明者情報を、地域の広域放送が拡声器で流すということが年に何度かでてきた。先日も一件、六十台後半の方の情報提供を求める放送が繰り返し流されていたことだ。ここからはかなり遠くの地域で発生したことのようであったけれど(拡声器の声は、なかなか聴き取りにくいのだ)、気にはなる。高齢化社会の進展と無関係のはずはない。高齢化社会は、都市部も地方も関係なく、同時進行している事態ということなのだろう。こんな時には「自助」はあてにならない。「共助」と「公助」こそが必要で大切、と改めて思う。ちなみに、行方不明の方は、後日無事発見されたらしいけれど。それも、広域放送からの情報。
朝四時から漢流ドラマの続きを見る。月曜日はやらないので、今週の分は本日から。池に沈められたヒロインは、ほぼ予想通りに救い出された。ただ、意外な人物がそこに関係していて、それがドラマにちょっと深みを与えていた。この人物も、今後の展開の主要人物の一人になることだろう。しかし、この人ももしかすると陰謀により殺されてしまうかも、などとも想像する。さて、どうなることか。前回、ヒロインが池に沈められるまえに発した一言が、きっちり伏線として生かされてあった(実は、これはこちらの予想通りではあったけれど。当たって、なんとなくうれしい。こんなドラマの楽しみ方も、きっとあるのだろう、などと思うが……)。テレビに視聴予約の機能があったことを思い出して、明日からそれを生かすことにする。見逃がしが、きっと減ることだろう。
朝6時前に家を出る。今日は、山に行く。高速自動車道を使って、ちょっとだけ遠出。滝を見て、峠を訪問し、さらに峠の近隣の山に登る(山は途中で断念する)。山中を16〜17キロほど歩く。平地の歩きでも、最近はそんなに歩くことはないけれど、今回は登り下りのある山道を膝に故障の気配を感じつつ歩く。個人的には、登りより下りの方が実は苦手。登りはひたすら耐えればよいが、下りは思いがけない事態があちらこちらに潜んでいて、緊張もする。滑落以外に、膝や足首をひねるのが怖い。特に、今回膝の違和感を押して、というよりは、膝に違和感を抱えつつも山行は可能かを確認するために出かけたところもある。整形外科の医師の判断を追認するという意味でも試しに歩いてみる、ということがあった。違和感が強まれば、改めて治療をお願いするということになるのだが、今回は歩ききれた上に、帰宅後も痛みはほぼない状態。ちょっと安心する。毎日の「歩き」にも関係することなので。
帰宅後、入浴。体重を測ると一日で2キロ強減っていた。一瞬うれしかったけれど、いずれ水分が体から抜けただけだろうから、早晩回復することであろう。お湯につかってリラックス。筋肉痛は、今日ではなく、おそらく明日でもなく、明後日辺りに現れることであろう。そうならないためにも、明日も、また律儀に「歩き」に励まねば。実家から、一日顔を見せなかったことを心配して、夕方電話がかかってきたりした。
朝の早い時間帯を除き、終日雨。明日も一日雨のようだ。実家の犬も、そのせいで日課の散歩が出来なくて、ちょっといらいらがたまっているような様子。しかたないので、おもちゃでお相手したりなどしたが、思いのほか効果的なのが、犬を抱いて、サッシ戸を開け、縁側から雨がかからないような状態で、そのままぼんやり外を眺めさせるという方法。もっと子供だったころ、まだ散歩が無理な時期に、そうやって縁から、あるいは玄関から外をぼんやり眺めさせるということがあったので、その時の子犬の記憶がよみがえるのでおとなしくなるのではないか、などと思っている。雨を含む湿りをおびた少しひんやりした空気に触れることや、植木越しに聞こえる町中の様々な音に耳を傾けることが、少しは欲求不満の解消になっているのではないか。時には、そのままうとうと眠ってしまうこともあったりするので、悪い手ではないように思う。
雨の日は「歩き」に出ることもできず、本を読んだり、句を作ったり、といういつもの生活にプラスして、最近はテレビで映画を見ることが多くなった。主にBSの午後。面白い作品が連続して放映されるということもあるせいだけれど。先日はスコセッシ監督の『サイレンス』。遠藤周作の小説『沈黙』を原作とする作品。日本人の監督による映画化も以前にあったけれど、個人的にはこちらの作品の方により強く感銘を受けた(設定上、ちょっと無理なところもあったけれど)。特に、「穴吊り」という残忍非道な拷問を考え出した井上筑後守を演じたイッセー尾形の演技には本当に感心した。今日は今日で、フェリーニ監督の「道」をやっていた。これは以前にも一度見ていて、やはり辛い内容の作品で、見るのをやめようかとも思ったけれど、結局おおむね見てしまった。実は、この映画は、『沈黙』の作者遠藤周作の推奨映画で、彼独自のイエスキリスト像を主人公ジェルソミーナに重ね合わせて鑑賞した、そんな映画作品でもある。哀切な音楽が、これも良い。
菅新内閣が誕生。マスコミは、妙にヨイショする姿勢が明らかだけれど、これから本当にどんなことをしてくれるのか、ということが肝心。個人的には、安倍晋三のテレビへの露出度がうんと減ったことが良かったねという程度。先日、拉致被害者の会の方が、「政府はなにもしてくれなかった」と厳しい発言をしておられたけれど、やっと安倍内閣の拉致問題に対する7年余りの無為無策に対する正当な怒りが、家族の側から表にあらわれたのかな、と思う。
「歩き」に行く際、雨に降られるのは愉快ではないので、天気予報には注意をしているつもりだったけれど、昨日はちょっと油断してしまった。雨がふることは予報でわかっていたけれど、少し降り出す時間が遅くなるそうな気がしたので、そのまま出かけたら、自宅から一番遠い地点で雨が降り出した。雲の様子を見ながらなんとか小雨でもたないかなと期待したけれど、それは外れて本格的に降りだしてしまった。体への負荷を考えると走って帰るわけにもいかないので開き直って、ずっと速足のままで帰ったら、みごとなほど上から下まで、外から中まで濡れネズミ状態となってしまった。初秋の雨とはいえ、ズブ濡れはさすがに寒い。帰宅後、すぐに着替えて、靴の中には新聞紙を詰め込んでおいて、風呂に入る。濡れたものはそのまま、帽子まで含めて洗濯。今日もまた、朝から雨。終日こんな状態らしい。
川名大の『新興俳句表現史論攷』を読み進める。関係資料を広く蒐集して、それをきっちり読み込んだうえでの論考は、通説や定説の否定・修正を含めて説得力がある。著作の三分の一は、戦時中の俳句弾圧事件に対する詳細な検証がなされているが、なかなか目にすることのできない文書なども複数にわたって紹介されてあって、資料的価値も高いものだと思う。論理的で緻密な文章にも感心し、特に内容の細部にわたって慎重に選ばれた言葉の使用(研究者や評論をものする者にはそれが当たり前なのだろうけれど)に、心惹かれるものがある。
お祭り騒ぎめいた政界の現状と、それを追随するマスコミってのは、どうなんだろう。ついでに、「専守防衛」という憲法の規定に抵触しそうな内容の文書を安倍総理は、まるで「遺言書」のごとく書き残そうとするらしいけれど、それは総理を離れ、自民党総裁に戻ってから、党内で内々に発表すればよいこと。あくまで、自分の(元)総理としての影響力を党内のみならず、安全保証問題全般にとどめておこうとする意図が丸見えのやりかた。いずれ、将来の「安倍」再復活の布石のひとつとも、などと憶測を生みそうなふるまいでもある。某新聞(念のために言い添えると「朝日」新聞ではない)の社説では、退陣後にまで影響を留めるようなやり方は越権行為と指摘されてあったけれど、私自身もそう思う。
今日は9月9日、「重陽」の日。かつて中国においては、高きに登り、菊を浮かせた酒を飲んで健康を寿いだらしい。だから、というわけではないが、久しぶりに山を歩いてきた。文字通り、山を歩いてきたので、頂上に登り立ったわけではない。天気は今一つであったけれど、ブナの原生林の中を歩き、がれ場に足をとられつつ険しい北壁の下あたりまで歩を延ばし、いずれ登るルートの下見を兼ねてまだ歩いたことのなかった登山道を少し歩いてみたり、となかなか楽しい3時間ほどの山歩きだった。運動不足の影響は否めないものの、膝に負担をかけない登り下りの歩き方を復習したりしながら一汗(二汗というにはまだまだなので)かいた。コロナ禍のせいで、中腹にある旅館街にも登山道にも人の姿は本当に少なかった。雪不足の冬を過ぎて、新緑から夏山、そしてやがて紅葉の時季へと続く大切な期間をコロナ禍の影響をもろに受けて、この地域はこの先本当にどうなることだろうか、と気がかりだった。
山は曇天だったけれど、下におりると豪雨にみまわれた。狭い地域の強雨であったと思うけれど、車のワイパーが最速にしてもほとんど用をなさないくらいのひどい降りだった。実は、雨が降るのは午後からと天気予報を信頼して、洗濯物をそとに出しっぱなしで出かけてきたので、これはもう一度洗濯のやりなおしか、と半分覚悟していたのだが、自宅が近づくとまるで雨の気配はなくて、幸運であった。帰宅後、遅い昼食を食べて、実家に顔出し。犬の散歩だけすませて(夕方は雨と思っていたので、実際散歩途中で雨が降り出す)、帰宅後はそのまま昼寝タイム。夕方まで寝入る。ひさびさに遠出で山歩きということで、なかなか気分の良い一日であった。
英国アストラゼネカ製薬のコロナワクチンの治験が、一時中断ということになったらしい。副作用か否かの確認作業のための中断とのこと。コロナワクチンの一刻も早い開発は本当に願わしいことではあるが、そのための安全性の確認については、拙速ということは是非避けてほしい。新開発のワクチンの全国民への接種が、そのまま壮大な人体実験の場であったりするような事態は是非避けてほしい。それにしても、ワクチンの副作用に対する製薬会社の損害賠償に対して、あらかじめ国が配慮することを決めるというのは、ほとんどブラックユーモアのような気がしなくもないのだが。
明け方から、風が強まってきている。台風10号の影響がいよいよ出始めているようだ。さきほど、ガラスか何かが倒れる音がしたので、外へでて自宅の周囲を点検すると、そとに出したままの瓶が風で倒れたようだった。外の流しに横にして、転がらないようにしておく。それ以外には、風で倒れたり、転がったりするおそれのあるものはないようだ。天気予報によると、この強い風は昼過ぎまで続くらしい。雨は、時折ぱらつく程度でほとんど降っていない。九州在住の兄によると、強風のせいで家全体が揺れ、恐ろしくて一晩中眠れなかったらしい。
眠れないまま、夜明けにかけてBSの演劇を見る。桟敷童子という劇団の『翼の卵』という作品。最初は、なんとも泥臭くて重苦しい作品という印象であったが、みごとな舞台装置と照明の効果、それらを背景に演じる役者たちの熱演に、次第に引きずられるようにして、とうとう最後まで見てしまった。ネットで調べると、桟敷童子という劇団は根強いファンを持つ、実力のある劇団のようだ。確かに、とても見ごたえのある舞台だと、感心した。この舞台を生でみることができれば、さらに強い印象を受けそうだ。客演の原田大二郎のちょっと抑えた演技も、この演者たちの中では好印象であった。
日曜日は、一日かけて小冊子にのせる短いお話を書く。なぜか、仔猫を主人公にしたものとなる。内容は、ちょっと残酷なもの。1回読みきりの予定が、前編・後編の二分立てとなりそうだ。前編は書き終えて、後編はまだ頭の中。出来・不出来はさておき、お話を書くということはずいぶん楽しい。
目の前のカレンダーを見て、曜日の確認をしながら、それが8月のままだと気が付いて、あーあと思いつつ、1枚切りはがしたりしている。これって、完全に老化現象なのだろうか……。ごくたまに、この先どう生きていこうか、などとふとそんな感慨を感じるときもあったりして(もちろん、「死ぬまでは生きる」、という基本的な思いと方向性は揺るがないわけではあるが)、なんとなくため息の一つも吐いてみようか、などという心境になる。
季刊で、と考えている小冊子の原稿をぼつぼつ書き始めている。9月中に出せれば良いが、などと思う。「この先、どう生きて」などとちょっとした感慨にふけってみても、結局自分がやってみたいなと思うこと(だけ)をちょこちょことやり続ける、その継続の中にしかその思いに対する回答めいたものはないのかも、などとも思う。いつだったか、川柳をやっている女流柳人から、○○君はよっぽどしあわせよね、と直言されて、別にそれに対して反発する思いも発言もなかったことを、今思い出したりもしている。
超大型台風が列島弧南西部に接近しつつあるらしい。瞬間最大風速が80メートルという予想など、いままで聞いたこともない数値だ。なんとなく、自然もまた羽目を外しだしたかのようだ。まして、9号、10号と数日を措かず連続の襲来とは。そんな折も折、昨日、南西からの強風が吹く中、住宅地から100メートルほど離れた農地と荒蕪地とが入り組んだ場所に火災が発生。みるみるうちに炎は燃え広がって、東京ドーム1個分くらいの範囲を焼き尽くしてしまった。幸い、民家が少ない場所だったので、宅地の一部を燃やした以外は、主に荒蕪地の乾いた草ばかりが、ごく短時間のうちに焼尽されてしまったことになる。火災の原因は知らない。タバコのポイ捨てだの、農地でのごみ焼きのせいだ、などと流言はあったらしいけれど。
安倍内閣の7年8か月の肯定的評価が、あのA新聞の世論調査の結果で71%あったらしい。逆に、評価しないは20%程度。安倍政権は高評価、という判断が示されているとまとめられるようだけれど。異例の長期政権において、それが長く続いたという点からも、どこかの分野に対しなにがしかの肯定的評価が下されるだろうことは、ある意味当然のことであろうと思われるが、そんな中でほとんど何も評価しないという層が20%いたことが、逆に個人的にはちょっと驚きだった。その時々の評価とは別に、長いスパンの中でのオールオアナッシング、1か0か的な調査とその結果にはあまり意味を感じない。この部分は評価するが、この部分は評価できない的な結果の総体を見せてほしいように、個人的には思われる。
いつのまにか、9月であった。着実に時は動き、季節は移ろっているのだろうが、こちらの体感的時間経過が、どこか客観的な時間の移り行きとはシンクロしていないような変な気分。今年は、そのことを繰り返し、繰り返し感じている。これって、精神的にも不健康なことなのではあるまいか……。
八月最後の日は、病院で検査。半日がかりで、腹部の内視鏡。今まで、何度か経験してきたので、それ自体はさほどのことはなかったけれど、とはいえ、薬液を飲んで強制的に腸内を空にするというのは、後になってみると結構消耗することみたいだった(年のせいだろうか……)。とりあえず、長い目で見て経過観察。一安心であった。それにしても、消化管が全体にわたり空っぽになるということは、滅多にないことなのだろうけれど、気分が良いような、悪いような変な後味が肉体的に残る。帰宅後は、軽く食事。その後、午睡。夜、普通に食事。その後、ちょっと横になるつもりが、いつの間にか寝入ってしまっていた。夜中に一度しか目が覚めない、などということは近年なかなかないことで。疲れてたんだと改めて思った次第。
9月初日は、6時過ぎに起床。ああ、寝過ごしてしまったと思い、すでに太陽が昇りつつあるそのさなかを「歩き」。すでに、暑い。ウオーキングのために新しく買った靴の履き初めであったけれど、靴底がもう少し厚くて、クッション性が良い方が、と不満が残る。
通信句会の結果が送られてくる。「八月の斜面あまねく草なびき」「亡き犬を夢に遊ばせ天の川」「ひぐらしや今も口あけ防空壕」などが、会員さんたちの目にとまった句のようだった。俳句は(なんか辛いようなところがあるものの)面白いものだと思う。
自民党総裁選は、全党員による投票を経ることなく、地方代表を含む両院総会で決まることになったらしい。石破排除が決定したということだろう。異質なものを頭から排除するという体質は、自民党内にも浸透しているらしい。それはおそらく、党としての結束とか一貫性とは別種の事柄。安倍一強の7年8ヶ月は、政党としての劣化を自民党にももたらしたよう。もっとも議員たちは、そんな自覚はきっとないだろうけれど(なにしろ、皆さん「安倍一強」を謳歌されたことだろうし)。でも、国民にとって、おそらくそれは不幸なことなのだ。