日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さ い。

         
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【20年10月31日】
10月最終日。山に登って来た。紅葉も終盤に入ってきて、山の中腹にある旅館の並ぶ通りは、密というほどではないにしろ、ずいぶん込み合っていた。公営駐車場はほぼ満車状態で、車を留めるのにあちこちうろうろする有様。とはいえ、前回山歩きの目的で来たときには、平日だったとはいえ、ほんとうに人の姿のない寂しい状態だっただけに、ちょっとほっとする思いになった。登山者も多くて、細い山道での行き交いがしばしばあって、その都度立ち止まって待ったり待ってもらったりを繰り返した。本来なら、登山の場合、登り優先という約束事があるのだけれど(登りの方が下りより体力的にシンドイので)、実際は、かなり適当に行われていたものだ。私などは、もっぱら待ち中心だったけれど(一息つけるので、また登るペースが遅いので)。それにしても、今日山道を歩きながら、若い人たちの姿の多さに注意がひかれた。昔々は、登山も若者のスポーツのひとつとして認知されていたけれど、いろいろな理由で若者離れが進み、山道を歩くのは中高年のおじさんおばさんというのがここのところズーッと当たり前のようになっていたのだが、コロナ禍の影響のひとつとして、野外スポーツの登山が若い人にも再認識され始めたとか……。少なくとも、キャンプが見直され、ほとんどブームのようになっている現状の中で、さらに興味の範囲を周辺の野山に広げる人がいてもおかしくはないのかもしれない。 それにしても、本日の登山は結局目的地にたどり着く前に、引き返すことにした。膝の具合がどうも今一つで、このまま歩き続けることに自信がもてなかったからだ。案の定(というのか、好判断とでもいうのか)下りの途中から膝が妙に痛み出してきて、なんとか駐車場へたどり着くという有様であった。登山で、膝に不安があるというのは、それ自体が気持ちを萎えさせてしまうところがあるようだ。困ったことだ。次回は、リハビリにふさわしく、コースなどを考えていかなけれぼ、と思う。
ブナ原生林の紅葉は、とても美しかった。

アメリカの大統領選挙を報道を通じてみていると、そのふるまいにどこか正気の沙汰を失っているという印象を持ってしまう。こんな状況の中で、一国の大統領が選出されてゆくのか、と他国の事ながら、少々気分が沈む。日本の方がまし、とも思わないけれど。

【20年10月25日】
今朝は、本当に寒かった。エアコンの暖房の今季初稼働の日。寝室で使い、起床後居間の方に移っても、しばらく暖房を使う。朝の歩きは、薄い防寒着を身に着けてあるく。外出の際、こころなしか、息が白く見えたような、見えないような……。
山は、紅葉シーズン真っ最中だと思うけれど、今後山の天気も不安定になってゆくかもしれない。登山用に最近ストックを購入したのだけれど、雨天はもちろん雪になれば、私の今年の登山シーズンは終了ということになるので、ちょっと気がかりだ。ストックは、膝痛用に準備したものだけれど、その効用は今シーズン中に確かめてみたい。とはいえ、その膝は相変わらず微妙に痛みが残ってはいるのだけれど。なんとも、しつこい。
やむなく最近は、「歩き」を前後半に分けて、前半は路上、後半は海岸の砂浜歩きという形に切り替える。膝への負担軽減のため。砂浜は、足全体の負担は増えるけれど、膝に対してはちょっと優しい、ような気がする。ついでに、家籠り生活を離されて、1時間半ほど、海と水平線を眺め、山と雲を遠望し、潮の香りを満喫するというのは、気分が良い。

【20年10月23日】
新聞コラム欄からの引用。「『国家にとっての良し悪しを気にかけず、自分の地位を保つことだけを考えて権力者に迎合する連中を、国賊と呼ぶ』儒教の古典『荀子』臣道篇の文だ。国賊とは決して『自国政府の言うことを聞かない人たち』ではない。自国の権力者にこびへつらう者たちこそ国賊だ」。「国賊」を「非国民」という言葉に置き換えたら、それはネット上で一部の人たちの使う意味合いと真逆の意味であることに驚く。本来の典拠が中国の古典にあるとすれば、その言葉の意味もそれを出典として捉えるべきものなのだろう。時代の変遷、国家のあり様の変化が、本来の意味をずいぶんとゆがめたものとしてしまった、と考えるのは誤りなのだろうか。。
石破氏が、派閥の会長を辞退するという。総裁選敗北の責任をとってのこと、らしい。ある意味、仕組まれた敗北といって良い結果であろう。あくまで正論の立場に立った石破氏の、権力にこびない姿勢を自民党は受け付けなかった。正論を異論として許容しないある意味「国賊」集団の中で、石破氏の姿は際立って正当に見えたのだけれど。
現在、漢文は『史記 世家・上』を読んでいる。君主の交代が、禅定ではなく、家臣や君家の成員による弑逆であることの多さに驚く。また、賢臣による主君に対する諫言(君主のふるまいや判断の誤りをいさめる言葉)が、政治や政策の方向性に影響をあたえ、暗愚な主君による誤った判断が国の方向を狂わせるとともに、賢臣の死をもたらすという例に暗澹たる思いとなることがある。

【20年10月21日】
『14歳の教室』を読みながら、京都アニメーションの作品『ヴァイオレット・エバーガーデン』のことが、思い浮かぶ。『14歳の教室』では、言葉についても講義が行われるのだけれど、言葉は単なる記号ではなく、さらにその言葉が担う意味がすべてでもなく、その言葉の意味を自ら受肉化する(自分自身のものとする)ことが肝要なことであるとする。『ヴァイオレット・エバーガーデン』は、戦場において殺人兵器として多くの戦功を立てる主人公が、やがて戦傷で両腕を失うことになる。そんな彼女が、戦場において大切に思う少佐からの「アイシテル」という告白の意味を、代筆者として依頼者の手紙を義手にタイプライターという手段を通じて代筆する中で、少しずつ理解していくという、そんなお話だ。戦場において「武器」として殺戮を続け、ついには自らの両腕を失い、深い闇のような状況の中で、一つの言葉が主人公と世界とをかろうじてつなぎとめた。物語は、そんな地点から始まり、代筆者として依頼者の代わりに手紙を書くことで、次第に「アイシテル」という、自分に向けて投げかけられた言葉の意味を自らのものとして理解していく。様々な逸話を交えつつ、人にとって言葉とはいったいなにかを深く問いかける、そんなすごいアニメが『ヴァイオレット・エバーガーデン』という作品であると、つくづく思う。そして、問答無用の放火事件の犠牲となった京アニのアニメーターの方たちのなしとげてきた仕事の大きさと、その理不尽な死のことを改めて思う。
蛇足ながら、個人的にはテレビアニメのエンディングに歌われた「みちしるべ」は、とても好きな歌だ。

【20年10月19日】
図書館で借りてきた若松英輔著『14歳の教室』を読む。これは、実際にある中学校で連続7講座で実践された教育実習の記録だ。14歳とあるから、中学二年生を対象にした授業なのだろうか。その講義録をまとめなおしたものと言った方が正確かもしれない。内容は、14歳の子供たちには難しいかもとも思われたけれど、実際それは14歳をはるかに年齢的には超過した私自身にとっては、ずいぶん難しいものだった。ただ、難しくて理解できない部分が多々ありながらも、とても興味を引かれる内容でもあった。そして、あるいは子供たちはもっと直截な受け止め方や感受の仕方で、この授業の一番大切と思われる部分を感じ取るのかもしれない。そういえば、言い古された言葉かもしれないけれど、「コペルニクス的転回」という言葉を思い出した。コペルニクスによって、「天動説」が覆され、「地動説」が提唱されたことを指す。つまり、世界像が180度反転したということだ。この一冊の本が、というのかこの本が紹介する授業実践も、それに似たところを持っているように思われる。発想の転換という意味で。
最近、金子みすずの詩を読み進めているのだけれど、彼女の詩の中にテレビのCMで耳慣れたものになったこんな詩がある。「 昼のお星はめにみえぬ。 見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。」。目に見えないものは、無いに等しい。無いに等しい物には何の価値もない。そんな今風の価値観に翻弄され、しかしそこに言いようのない違和感を感じ取っている人にとっては、金子みすずのこの詩は、理屈を超えて胸に響くものがあるのではないか。
『14歳の教室』の授業は、その「理屈を超えて胸に響くもの」にまなざしを向け、耳を傾けてみることを促す、そんな性格を持っている。
たとえば、現在の教育が知育偏重で、知識の量ばかりが問題とされている、という批判に対して、量より質だと主張し、その質の中に特定の倫理や道徳を紛れ込まそうとする、そんな姑息な動きまでがある現在の教育のありように対して、教育は知識の「量」ではない、しかしもちろん「質」でもない、問題は「知識」というものそれ自体に対する深い考察を促すことが教育の果たす役割であると考えるのが、『14歳の教室』が目指す教育の方向性であり、教育の姿であるようだ。知識の「量」や「質」はある程度数値化可能であろうが、「知識」そのものは数値化できない。「見えるもの」ではなく、「見えないもの」が「知識」の本体であり、その漠としてとらえどころがなさそうなものに対して、しかしその本質・本体を常に考察し続けるなかで、おのずと知識の「量」や「質」の問題についても、結論的なものではないにしろ、副次的にその時々の最高の見識や実践がもたらされることにもなるだろう、ということを含む内容のように思われる。それは、言い換えれば「知識」それ自体を哲学的な考察の対象とせよ、ということなのかもしれない。そんなことは、ギリシャ以降常になされてきたことだと主張する人は当然いることだろう。しかし、果たしてそうなのか。今の社会はそのような「目に見えないもの」に対する追究を勤めているのか。そうではなく「目に見えるもの」ばかりを追い求め(もちろん、チャプリンの言う「人生に必要なもの。それは勇気と想像力、そして少しのお金だ」を名言とは思いつつ)、その中で社会や人間の生きる力が失われつつあるのではないか、世界全体の衰滅の方向へと世界は舵を切りつつあるのではないのか、という危機感の教育分野における発現が、たとえば『14歳の教室』という実践とその報告をもたらしたのではないか、などとも思ってみることだ。
昼の星はまばゆい太陽の圧倒的な光量に隠されて見えない。様々に恩恵をもたらす太陽の光それ自体が、しかしわれわれにとって同じように大切な「星」の輝きを陽光の奥へと押し込めてしまう。それでもわれわれはあるはずの星の輝きを思い、その存在を感受するこころを持ちたいもの、そんな願いが金子みすずの詩の中にはこめられているようだ。
そういえば、俳人高浜虚子には、こんな一句がある。「爛々と昼の星見え菌生え」。こっちのほうは、ちょっと不気味な感じ。しかし、これはこれでいかにも虚子らしい句ではあるが……。

【20年10月15日】
『凛凛チャプリン』少しづつ読んでいるうちに、返却日がまじかに迫ってきた。今日中に残りを読んでしまおうと思う。この本を読み終えたら、いつかチャプリンの自伝(二巻本)も読んでみたいとも思い始めている。チャプリンについて、そのエピソードを取りまとめて紹介しているこの本は、導入としてはうってつけの一冊かも、とも思う。今は、チャプリンがアメリアを捨て、スイスへ永住を決意したあたりから、彼の家庭生活などへと話が進んでいるところ。それにしても、チャプリンが映画人として「赤狩り」の対象となったあたりの逸話は、ちょっと信じがたいような内容を含んでいて、今に通じる自由の国アメリカの暗黒面をさらけ出しているようなところがあったりする。特に極端な話としては(俄かには信じがたい、というよりは冗談の類としか思われないのだが)、米国当局がチャプリンの反アメリカ的姿勢を検証するために、彼の死後、霊媒をやとってチャプリンの霊を降霊して、その証言を聞き出そうとした(らしい)、などということも紹介してあったりして、???マークが幾つもつくような気分にもなったものだ。チャプリンにしつこく付きまとうストーカーの女性が、彼の子を妊娠したとして、裁判所に訴え出て、それが明らかに虚偽であると証明されたにもかかわらず、当局の意を汲む裁判所が彼を有罪と判断した、などということも無茶苦茶な当局のやり口の一端だったりもするようだけれど……退役軍人会による、チャプリンの映画ボイコット運動とか、いかにもアメリカという気もしなくはない。
年に一度の俳句関係の仕事、終了。とりあえず、原稿をまとめて送信。ほっと一息、というところ。楽しい仕事だった。

GOTOキャンペーン。こんな状況下でなければ利用したい気もなくはないのだが(こんな状況下だからこそのキャンペーンであるわけだけれど)。ただ、このキャンペーンが直接潤しているのが、大手の旅行代理店と、金と時間のある層に偏っているのでは、という批判を聞くと、ちょっと考えてしまう。本当に困っているところには、あまりその恩恵(税金を活用した)が行き渡ってなさそうなところが気にはなる。もちろん、有名な観光地では、その効果が表れているらしいけれど。地元は、いまひとつの状況の様で……。

【20年10月10日】
図書館で借りたチャプリン伝を読む。タイトルが『凛凛チャプリン』という。ちょっとダジャレ交じりの題名だけれど、内容は簡潔ながらにチャプリンのエピソード集的なもの。知っていたことやら、初めて聞くことやら混じっていて、結構手軽に読むことができる。チャプリンの三度の来日が、それぞれ5.15事件、2.26事件、そしてちょっと筋は変わるけれど「安倍貞」事件と、いずれも国内で大きく取り上げられた事件・出来事と重なっているとか、さらに5.15事件では軍部によるチャプリン暗殺計画が実際に画策されていたなどということもあった(暗殺未遂事件は知っていたけれど……)らしい。そんなとんでもない出来事に繰り返し接近遭遇しつつも、チャプリンの日本びいきは変わらなかったらしいけれど。
読書の余波を受けて、今回の通信句会はチャプリンネタで投句をまとめてしまった。お遊びが過ぎるかもしれないけれど、チャプリンファンなら、すぐに了解できるネタを取りそろえた。どんな反応が返ってくるか、あるいは返ってこないか、楽しみのような不安なような気分。
そういえば、映画『独裁者』のヒロインの名前はチャプリンの母と同じ「ハンナ」(スペルとか違うかもしれないけれど)であった。ラジオを通じての、独裁者ヒンケルに扮した床屋のチャーリー(チャプリン)の「ハンナ」への呼びかけシーンは、印象に残っている。

学術会議任命拒否問題は、なにやら泥沼化しつつあるようだ。6人の名簿事前削除問題(任命権者である総理の確認もないまま、誰かさんの手で、あるいはお得意の忖度によって、事前に名簿から抹殺されていたらしいとか。誰がはうやむやになるだろうから、総理が学問の自由に乱暴に手を突っ込んだという事態は、表面上避けられるということなのだろうか。これも論点ずらしのひとつだけれど)やら行政改革、中国がらみの問題まで引っ張り出され、一体なにが本当のところ問題なのか、訳がわからなくなり(あるいは、訳をわからなくし)つつあるようだ(筋そのものははっきりしているけれど)。その結果かどうか、最近の総理の記者会見は、一部のみ限定公開的な、どこかの独裁国家の指導者とかが好きそうな方式がとられているとか、いないとか……。
そういえば、昔々長期政権を誇った佐藤栄作総理の退任会見で、新聞記者をすべて会見場から追い出して、NHKだけを後に遺して、退任会見を実施したことがあったように思うけれど。そんな感じなのだろうか……。

【20年10月7日】
次の台風が来るらしい。地元も、今朝からやたらと強い風が吹いている。台風自体は、まだまだ太平洋上なのに、屋外は風はごうごう唸りをたてているありさまだ。雨は降らない。ただ、明日以降は、わからない。山に登る予定は、来週以降に延期。ちょっと膝の違和感が抜けないので、それはそれで養生期間になるのだが。
季刊の冊子は完成。秋号。ネットを通じて製本会社に発注したら、データ送信後1週間ほどで製本されて返ってきた。出来上がりも丁寧なものだった。費用・日程ともに以前の3分の1くらいの負担で済んでいる。ありがたい。発送して2日、少し反応が返ってきている。
10月中に純粋に俳句関係の仕事がひとつ。年に一度といってよいほどの俳句関連の仕事で、毎日少しずつ進める。ちょっとしんどいけれど、しかしそれに倍する楽しさがある。今月下旬が締め切り。

学術会議関連、どうなっていくことか。大半の国民にとっては、我関せずの問題なのかもしれないけれど……。推薦拒否の撤回書名は、ネット上で13万筆を越えたようだけれど。同じくネット上で撤回表明する学者への罷免要求署名は現在33筆らしい。あまり関心がないようだ。

【20年10月1日】
「女はうそつくもの」的な発言をして、批判を受け、そんな発言はしていないと強弁していた某女性政治家が、自らの発言を「精査」したらやっぱり言っていた、と自己の前言を撤回(弁解?)。「精査」などという簡便な言葉で事を取り繕おうとしているみたいだけれど、それはそれとして、「女はうそつくもの」という発言をいみじくも自ら実証していたという顛末は、微妙に皮肉なことだったみたいだ。

某官房長官が、「学術会議」推薦メンバーについて、6名を除いて任命した件について、6人を「拒否」したのではないかとの発問に対し、6人を「拒否」などというネガティブな受け止めではなく、99人を「任命」したというポジティブな受け止めをこそ評価してほしい、とでも強調しているような主旨の答え方をしているのを聞いた。ふと、誰かの口にした「募ってはいた」けど「募集はしていない」という言葉を思い出した。前者は、一枚の硬貨の裏表を語ったもの、後者は一枚の硬貨を別物のように語ったものという違いはあるけれど、同じ一枚の硬貨のことである点は疑いないこと、と思えるのだが……。認識のずれ、なのか歪みなのか、あるいは発言者が存在する時空それ自体がねじれているのか、いずれにしろ奇妙な感覚を経験させていただいたことだ。

昔は若者たちの発する言葉が日本語をゆがめている、などと言われつけたものだけれど、最近では日本語をゆがめ、空洞化させている張本人は、日本国の政治家諸氏の使う「日本語」によるものであるのかもしれない、と思われる。