日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。 |
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冊子完成。奥付を1月30日にしておいたけれど、ほぼその通りとなった。印刷所から届いたのが、3時過ぎ。一気に発送作業にかかる。土日を間に挟むので、実際に届くのは月曜日以降なのだろうけれど、それはそれとして、一気に作業。部数は百数十部に足らないけれど、ひとりで封筒に入れ、糊付けをして、というのはそれでも集中して1時間くらいはかかる。糊が残わずかなのに気づいて、足りるかどうかひやひやしながらなんとか終了。そのまま、郵便局まで。全部で200部印刷製本して、その3分の2を今回発送。まとめて発送分はユーパックを利用。経費節減が課題なので、全150部ほどを最安で発送できたと思う。こういうことを細かく調べて調整するのも、醍醐味のひとつではある。I先生にSNS、回りの人に配っていただくことになっているUさんに携帯。連絡を済ませて、今回の作業もほぼ終了となる。
外気温は3度。雪がちらつき始めている。今夜はかなり冷え込みそうだ。けれど、内心はほかほか、という気分である。
昨日の昼間は、近所の猫が庭に日向ぼっこに来ていたのだけれど、今日は枯葉とうっすらの雪。けっこうな降雪があって果物を少し置いておくことをして以来、野鳥がやって来ることが多いので、ミカンを四つ切にして庭のあちこちにちらせて置いたのだけれど、メジロは姿を見せず、ひよどりがでかい態度でミカンをむさぼっていたりしていた。それが昨日のこと。今日は、なんともうすら寂しい様子である。今夜は、少し雪が積もるかもしれない。まだ1月なのだと、改めて思う。
知人から句集を送っていただく。ずいぶん長い経験があるように思っていたのに、第一句集ということで、驚く。炬燵に入って、さっそく読ませていただく。ちょっと「男ぶり」という印象の諸作。一連の火祭の句が、本領を発揮しておらるたように思う。人間関係を背景に置く作品なども味があって、心に残る。読み終えて、お礼のメールを送る。いただいた句集はかならず読む。お礼と感想も、可能な限り送る。それが、個人的に礼儀だと思っている。とはいえ、昔はそういう点について、かなり雑なところがあったけれど、これも年のせい??。
コロナ、とか東京オリパラとか、少々鬱陶しくなってきている。金のためのオリパラは、中止すべきとも思う。コロナの変異種も恐ろしいし……。無観客、なんて話もでているみたいだけれど、医療スタッフを含むボランティアの問題とか、そもそもマラソンは無観客なんて可能か、など少し思う。
雨なれど、暖かき日、みたいな一日。午前中は、天気がもったので、実家の犬の散歩もできた。「散歩」というと、嬉しがって文字通りそこらじゅうを飛び跳ねるので、連れて行かざるを得ない。明らかに、「サンポ」「イク」という言葉を理解している風だ。歩いている間中、空模様が気になる。全天、荒天の予兆の巻層雲だらけ。昼過ぎには、きっちり雨がふりだし、夕方から夜に入っても一向にやまない。寒くはないけれど。
小冊子は校正を終えて、印刷製本にかかるとのこと。数日後には製本しておくられてくる。かろうじて、予定の1月中に発送もできそうだ。PC上で編集して、データを送ればあとはお任せ、というのは本当に楽だ。料金も、印刷所に依頼する3分の1くらいで済むし、コロナにも影響されないし……。
非常事態宣言後、2週間の経過。東京は、昨日は感染者600人台、今日は再び1000人台とのこと。なかなか厳しいものだ。東京圏での変異ウイルスも気になる。静岡の変異ウイルスは、あるいは東京ないし、関東圏からの飛び火であったりして。そういえば、東京は濃厚接触者の追跡はもう行わないのだったっけ。跡付けはもう無理か……。症状が出てきた人に、検査して、ウイルスの種類を判定するということ? 無症状のひとは、どうなるのだろうか。放置なのか。そのうちに、感染、広がるよね。変異種だったら、再びの感染爆発もあり得るかも。お上は、そういうこともしっかり考えてくれていると思うけれど。
某漫画家の原画展を見に行く。精緻なその絵のあまりのみごとさに、思わず原画の複製集を購入。国外においては、それ自体が美術品とまで高く評価されている原稿・原画につくづく心惹かれる。その余韻を乱さないため、同じ会場内の別室で開催されていた細密画の展覧会を別の機会に回すことにしてしまう。今では、見とけばよかったかも、と少々後悔する。ちなみに、今日はなぜか全館入場料無料であった。なんだったのだろうか。
昨日、今日と荒天。実家の犬の散歩ができないのが、気になる。様子を見に行くと、しきりに足の裏をなめている。ネットによると、それは退屈か、欲求不満か、足の裏をけがしているかの時にしばしばでてくるしぐさだとか。おそらく、一番目か、二番目の理由であろうな、と見当付けて、ちょっとおもちゃで遊んでやったりする。特に、散歩が大好きな犬なので、人間同様家籠りの生活はストレスになるのかもしれない……。
小冊子、ネット印刷へと発注。問題がなければ、今週中には製本されたものが送られてくることだろう。こちらは、封筒の準備や住所のタックシール印刷など、こまごました準備をすすめておかなければ、と思う。毎月、いろいろな結社から俳誌を送っていただいているので、そのお返しにということでもないのだけれど、年4回くらいはこちらもお送りしなければと、あたかも贈答品みたいに思ったりしているようだ……。如何せん、同人3人(うち1人は故人なのだが)の極小グループであり、季刊というのは実にふさわしい形式のように思われる。
吉増剛造の慶応大学における講義記録である『詩学講義 無限のエコー』を少しずつ読み進めている。図書館の貸出期間2週間ではとうてい読み通すことができず、引き続き延長してさらに2週間、借り出して読んでいる。古典・漢文同様できる限り毎日読み継いでいるのだけれど、さてこの2週間で読み切ることができるやら。とはいえ、これはぜひ、まず一度よみきってしまいたいという1冊。いいかえると、ともかく粘ってでも読み終える価値のある1冊、という思いが強い。言葉の使用が、詩人ゆえにということはないのだろうが、かなり難解でしかも刺激的で、読み進まずにはおれないという奇妙な魅力というか、ひきずられるような力に満ち溢れた1冊。その証拠の一端は、受講者の学生たちの講義への短い感想メモの中に強くうかがえる。まるで、新しい傷口から鮮血がにじみ出るみたいに、吉増の言葉にグサグサ突き刺された揚句の、深く鋭い知性や感性のひらめきのようなものが、そのメモを読むこちらの側にもジンジン伝わってくるような内容。受講生たちはさぞかしスリリングな知的・感性的な体験とその刺激を受け止めていることだろうなと思ってしまう。誰かが言っていたけれど、現代の3人の本当のプロの詩人のひとりはこの吉増剛造だとのことたが(残りのうちの一人は谷川俊太郎であるとして、その選択からこの「本当のプロ詩人」という評価に納得してしまったのだけれど)、その力量のなせるわざかとつくづく感心する。
昨日から、突然の腰痛。正確には、骨盤と大腿骨の接するあたりが、かなり痛い。昨日は、へたをすると痛みのためにたちあがることが無理みたいな状態であったけれど、本日は痛くない方の足で立ち上がる術を開発したので、なんとか立って歩ける状態となる。とはいえ、快晴なのに、犬の散歩を十分できないのが残念。
やむなく、終日読書ということになる。『源氏』『史記』は相変わらずとして、ドリアン助川のファンタジィー『夕焼けポスト』と、渡辺優のSF『クラゲ・アイランドの夜明け』読了。『クラゲ』の方は、久々の中編SFで、結構楽しむことができた。主人公の少年が、なんとなく「エバンゲリオン」の主人公めいていて、それもSFだなあと思う。
季刊の小冊子の原稿が集まる。1月中に出したいと思っていたので、どうやら間に合いそうだ。発注すれば、1週間程度で冊子として完成版が送られてくるのがありがたい。ほとんど外に向けての活動をしていない状態では、この冊子が唯一外界との繋がりか、などとつぶやいてみる。本当に、家籠り状態が続いていることだ……。とはいえ、コロナ感染が近在でもちらほら見受けられる状態なので、気を付けねばと思う。
眠れる獅子であるのか、眠れる豚であるのか、いずれにしろ、やっと国会が目を覚ましたらしい。のんびりお休みしている間に、コロナ感染はそうとう酷い状態にまで進行していたようだ。非常事態宣言から2週間、一応の効果は現れつつあるらしいけれど、病院のひっ迫状態は変わらないようだ。ワクチン接種について、どの程度正しい情報を政府は流してくれることか、正直おぼつかない思いで様子をうかがう状態みたいだ。お上にとって不都合なことは、徹底的に隠すという姿を見せられ続けたことが、なんとなくトラウマになっていそうな……。
ここ二日ほどは暖かい日が続いて、庭に作った雪洞(ぼんぼり)も、一夜灯をともしただけで、天井の方からつぶれ始めている。庭の雪は、そこをのこしてほぼ融けて、雪洞だけが離れ小島のように雪を残しているのだけれど、ふと思いついて昨日、今日と実家の庭に残っていたミカンをいただいてきて、四つ切にして、残った雪の上に散らすようにして置いておいた。すると、オレンジの色が目を引いたのか、メジロがやってきた。辺りに注意を払いながら、ミカンをついばむ姿はなかなか癒されるものだった。昨日、そして今日とさらにミカンや(私の朝食用の)バナナなども置いておいたら、さらにヒヨドリまでがやってきて、しきりに食い散らしはじめた。体の小さいメジロは追い払われた格好で、ひととおりヒヨドリが漁ったあとのミカンなどを食べている。明日は、天気がわるくなり雨が降るそうだ。明後日からはふたたび冬に逆戻りで、降雪などもありそうだ。
コロナ対策について。別に菅総理に同情するわけではないけれど、今の対策は総理一人の責任というより(もちろん菅総理の責任は重大ではあろうが。任途中で職責を放棄したに等しい前総理の尻ぬぐいの上に、日々悪化する感染状況の中で、かなり辛い状況に陥っているのでは……)ほぼ完全に機能不全になってしまった内閣全体の責任でもあろうと、あらためて思ってしまった。支持率の凋落状況はどうしようもないにしても、コロナ感染状況悪化をなんとか食い止める方策を内閣全体で総合的総括的に考えていってほしいように思う。いまだにおざなりな対応の出し惜しみ状態は、ワクチンが輸入され、すこしずつ接種が広まるまで、いかに非難の声が上がろうとも、いかに支持率が下がろうとも、じっと我慢のほぼ死に体状態で冬眠を決め込んでいるというわけでもあるまい……。
菅総理が、コロナ対策については「仮定の質問には答えられない」と応答して、そのことがワイドショウなどで問題視されているみたいだけれど、個人的には『今頃なにを』という気分。いつだったか、『日々録』の書き込みの中で、政府の答弁に「仮定の質問には答えられない」という言い草が繰り返し用いられて、結果として答弁拒否的な内容になっていることを書いた覚えがあるが、菅総理もまたその当時の答弁逃れの一手法をそのまま今回も繰り返し用いた、ということなのだろう。ただ、あの時との違いは、コロナの状況が深刻さの度合いを増し、そのうえ総理自身への評価が下降傾向をたどっている中でのことなので、昔の様にはその無理押しが通用しなかったというだけのことなのだろう。あの当時から、本質はなんら変わっていないのに、今ごろワイドショーは何を、という気分。
コロナの変異ということについて。、特に若者たちに限らない(とはいえ、感染の絶対数は多いのだけれど)が、自分たちには「風邪程度」でさほど大きな影響はないと、コロナ感染に対してずいぶん気楽で無頓着になっている人たちのことを聞くにつけ、感染したウイルスが細胞内で自己コピーをする際に、遺伝子の書き込みミスがけっこう頻繁に発生して、その中で大半は淘汰されつつも、たくましいもの(我々にとってはどちらかというと不都合なもの)が変異種として生き残り、さらに強力に蔓延を続けるとのことで、つまり感染には常に変異のリスクがつきまとうということではないか、と思ってしまったこと。感染が数量的に増大すれば、変異種が生じる可能性はそれに応じて高まる、という単純な話で、感染者の細胞内で危機的な遺伝子コピーミスが発生している可能性は常にある、それが悪質化する可能性も同様に高まるということで、それは老若男女関係なく、ましてや感性に無頓着で無防備で、実際コロナに感染してしまう多くのものたち一人一人二にも例外なく、変異リスクという大きな圧力が(本人にではなく)その周囲に対してかかるということなのだ、と改めて恐ろしく思った次第。感染症は、被害者が常に加害者になりうる危険な可能性を担っているけれど、単なる加害者ではなく、大いにはた迷惑な加害者になるリスクを背負っていることをさらにちょっと考えた方がよいかも、と思う。すくなくとも、それは可能性であり、仮定のはなしであるとたかをくくる、どこかのトップのように、危機管理能力に問題を持つ、種々の可能性に対する想像力に欠ける、その人自身が文字通り「危険な」存在であるそんな状況から、自らを避難させる方策のひとつかも……。
実のところ、コロナ感染爆発は、都市部のことと、どこかで高をくくっていたところがあるのかもしれない。本日、東京は感染者2000人ということで、昨日の数字からさらに500人近く増加している。恐ろしいことだ。とはいえ、わが地元においても、明らかに今までとは違う様相で、コロナの感染者の数が増加している。こんな地方の片田舎の地域にも、コロナは分け隔てなく浸入してくるのだ。われながら、家族や知人など周囲と注意しあいながら、遠出をやめ、集まりを休み、外食もせず、律儀に引きこもり生活を持続してきたのだけれど、どんな機会に向うの方からコロナがやってくるかもと考えると、こころして毎日の生活を送らねばと改めて思う。
緊急事態宣言。本気でコロナの終息を考えていないということが、なんとなく透けて見える中で、それでもその宣言によって、飲食業を中心に実際に大きな経済的負担がかけられる方たちを思うと、腹立ちのような、苛立ちのようなものを感じてしまう。酷い言い方と思いつつ、あえていえば、この政策は犠牲に見合う対価を支払わないという点で、飲食業関係の人たちに多くの「無駄死に」をもたらすような、そんな致命的弱点を持ったもの、と思われる。すでに終わった朝ドラの中で、戦場で亡くなっていく兵士たちへの言葉に対して、主人公が「命を無駄だなんて言うな」と激高する場面があったのを鮮明におぼえているけれど、この緊急事態宣言について、どこかそれに近い本質を思ってしまったりするのだ。「エール」の主人公からは、怒鳴りつけられてしまうだろうけれど……。国策に殉じ、あるいは銃弾に倒れ、あるいは経済的困窮に倒れ、ということが。どこか救いがない、という点において。
超強力な寒波が襲来しつつある。時折の青空を見せるものの、朝からの連続の降雪。午後に入り、気温はすでに氷点下のせいか、降った雪は解けないで凍り始めている。エアコンで暖をとるのだが、窓際にいると分厚い遮光・断熱カーテン越しに、冷気が伝わってくる。雪はこのまま強まるらしいし、気温はさらに下がって氷点下3〜4度くらいになるらしい。ちょうど、水道管が凍り付き始める温度だ。断水用に湯桶に水を溜めてはいるのだが。午前中、和室で用事を済ませていると、外の方からしきりにばたばたという音が風が強まるたびに聞こえる。何かと思い外にでてみると、はるか上の方で電信柱と電線との双方にからみつくようにして、大きなビニールらしい袋が強風にあおられてバタついていた。まさか電線が切れることはあるまいと思いながらも、念のために地元の電力会社へその旨を連絡する。そのうち外れるかもと思いつつも、時折様子をみているうちに、やがて電力会社の人が車でやってきて、風雪の中を電柱にのぼり、ひっかかっていた袋をひきはがすようにして取り除いてくれた。高所での作業で、命綱を装着して、ちょっと恐ろしいような作業だった。仮に停電になると、一気に古代の穴倉生活のようになってしまうので、なかなか厳しい。
寝正月、というわけではないけれど、なぜか眠い。朝も起床時間が普段より1時間ほどずれる。昼食を食べると、すぐに眠くなってきて、「牛になる」という忠告を思いつつ、寝室にあがってつい布団にもぐりこんでうつらうつらと過ごすことになる。それが、ちょっと気持ちがいい。昼寝については、早朝4時から始まる中国歴史ドラマをまたまた見始めたせい、ということはあるのだろうが。お話そのものは、宮中における権力と愛憎の物語ということになるのだろうが、このドラマにおいても、悪役にあたる女性たちの造詣が巧みで、つい悪事のたくらみに乗せられて次回の話の展開を期待するという製作者の術中に陥る破目となってしまう。困ったことだ。それにしても、中国四千数百年の歴史は、「悪人」の創造についても、たくさんのデーターを蓄積しているのかもしれない。それもまた、歴史の厚みのひとつなのかもしれないが……。
小冊子に載せる文章を、今日も書く。毎日、少しずつ書き進めては、同時に文章に手を入れる、ということの繰り返しはいつものことだ。今回は、「雪女」を素材として、短い文章を書いているのだが、冊子の規格が2ページなので、なんとなくそれに収まりそうもないような気がする。若干の支出の増加を覚悟してページ数を増やすか、2回に分けるかなど、少々思案する。とはいえ、書くことそれ自体は楽しい。
年末におくっていただいた俳誌、冊子などを少しずつ読み進める。今日読んだもののうち、私詩としての俳句が、作品として独立したものとなるその点に触れられたものがあり、なるほどと改めて思う。私詩としての俳句は、個々人の日常生活の中から掬い上げられた詩情(感動)を作品化したもので、おそらく私たちが普段接する俳句の多くはそのような性格をもったものであろう。それは、個人の日々の暮らしの日記として、さらには生の記録として、作者にとっても、その周囲の共感的な人たちにとっても意味や価値のあるものであろう。ただ、作品が私詩の地点から、さらに詩情の純度を高め、その結果その作品が個々人の生活という作品の出自を離れて、より自由で広範な世界へと立脚点を移すということがある、そのことを執筆者は私詩からの独立と捉えているのだろう。文芸としての俳句は、そのような私詩からの独立の契機を内包したもののように私自身にも思われる。
雪は時折ちらつく程度。日が差すと、地上の雪が少しずつとけていくのがわかる。実家の犬は、散歩が出来なくて、ストレスが溜まっていることだろうと思う。やむなく、抱いた状態で外に連れ出し(まだまだ仔犬の頃、散歩が無理な時はそのようにして外に連れ出し慣れさせていたので、その時の記憶が犬の中にも残っているのではないか、などとも思うのだが)、外気と雪景色に触れさせたりしてはいるのだが……。効果は、不明。
新年あけましておめでとうございます。今年が、皆様にとって本当に良い年になることを願っています。
年末寒波もどうやら落ち着き、今夜は雲間に月や星を眺めることができます。地上は、寒波の残した積雪がしっかり残ってはいますが、夕方にはちょっと車で買い物に出かける程度には回復しています。今日は、朝風呂に始まり、一日中のんびりと過ごしました。朝晩は実家でごちそうしてもらい、昼間はテレビを見たり、1時間ほど昼寝をしたり、送っていただいた句集を読んだり、小冊子に載せる文章を少し書いたり、と結構充実した新年初日を過ごすことができました。
先行きの見通せない一年となりそうだ、など色々不安材料を伝える報道もないわけではないのですが、いずれにしろ一日一日を思慮深く過ごすことに尽きる、などと思いつつ新年を迎えた気分でいます。分厚い新聞と、雪が残る厳しい状態の中、昼前には届いた年賀状をゆっくり見たりもしておりました。