日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。 |
20.9「日々録」 | 20.10「日々録」 | 20.11「日々録」 | 20.12「日々録」 | 21.1「日々録」 |
【21年2月28日】 【21年2月26日】 【21年2月23日】 【21年2月17日】 【21年2月15日】 【21年2月12日】 【21年2月11日】 【21年2月10日】 【21年2月7日】 【21年2月1日】
二月は「にげる月」といわれるけれど、日数が他の月より少ないというだけではなく、気分的にも年度がいよいよ押し詰まって来た、という感触が、そんな思いをさそうのかもしれなと思われる。日々、とくに代わり映えもなく過ごしてはいるけれど、小さな変化はそんな中でも起こる。月半ばに、いつもの病院に出かけ、その際の担当医の助言で、水を多めに飲む方が良いと言われ、寒い日々にも関わらず意識して水(というか、お茶)を飲み始めた。コーヒーではダメ、という点が残念ではあったけれど、ともかく朝、お湯を沸かしてお茶を作り、大きくはない保温瓶2本に入れて、気が付くたびに飲むようにした。そのせいで、明らかにトイレに通う回数が増えはしたのだけれど、こころなしか体重が減少を始めているように思われる。歩きは8000歩から10000歩前後に増やし、食事は通院時の指導に従って少しは注意しているけれど、さほど大きな違いはないように思われるので、それまでずっと現状維持?的状態を続けてきたので、体重が少し減少傾向に転じた大きな要素は、どうも意識的に水を大目に飲むということにあるのではないか、などと思っている。民間療法的なものでなく、医師の助言に基づいているが、(とはいえ、水をたくさん飲むことは体重減少ということではなく、別の方面に効果がありますよ、ということではあったのだが)水を大目に飲むことで、体を生理的な面で整える効果があるのだろうか、あるいは気は心というけれど、そう意識することが肉体方面になんらかの影響をもたらしているのかも、などとも思ってみる。わからないけれど。ともかく、当面次の通院日に向けて、気長に勤めてみようと思う。季節は、一歩ずつ春に向っているようだ。
所属結社をはじめ、いくつかの結社から雑誌を送っていただいており、それを隅から隅まで読むということは困難ではあるけれど、作品や文章を読ませていただいている。それ自体が、自分自身にとっての勉強という意味が大きいのだけれど、と同時に、自らを省みる大事な機会にもなっているなとは思う。正直言って、内心もう今更自分の好きなように作っていけばよい、という開き直りに近いものも一方では感じつつ、とはいえ、面白い、あるいは味わい深い、さらには斬新だと思われる作品に出会う時に、いろいろ考えさせられてしまう。さらに、自分自身としてはとても苦手な「生活詠」の中に、なるほどなとしみじみさせていただくような作に触れると、我が身とわが暮らしの貧しさ(もとをただせば、感性の貧弱ということになるのかも)をつくづく感じてしまう、などということにもなってしまう。すべてひっくるめて勉強、ということにはなるのであろうが……。なかなかシンドイものもあるのは現実。「春愁」などという季語を、ふと思う。
庭にミカンを四つ切とか八つ切りとかにして置いておく。しばらくすると、つがいのヒヨドリがやってきて、皮だけ残してきれいに食べていく。同じヒヨドリのように思われる。たまに糞害をこうむるにしても、まあいいかなと思う。もう少し季節がよくなったら、やめた方がよいかもと最近は思いつつも、しばらくは続けようかとも思う。メジロの方は、ごくたまに朝夕に姿を見せて、山茶花の咲き残っている花の花粉なのか、蜜なのか、小さなくちばしを差し込んで食しているようだ。土鳩のつがいは、裏庭の紅葉の木にとまっていることがあるけれど、どうやら隙をみて巣をつくろうと狙っているような気配を感じる。京都時代、マンションベランダへの鳩の糞害に苦労した記憶が、絶対に鳩だけは巣をつくらせまいという意志につながっている。つがいを見つけると、当然追い立てようとするのだが、近づいても鳩はちょとんとして逃げるそぶりすらみせない。マンションの時は、エアコンの室外機の裏側に避難してその身を隠したりもしていたのだが。鳩というのはいかにも図太い(鈍感)!。
「寒の戻り」というけれど、昨日今日と寒い。昨日の朝は、氷点下まで気温が下がり、屋根が霜で白くなっていたりもした。今日は、そこまでではないけれど、風が冷たくて、実家の犬の散歩が少々きつい。犬の方は、さすがに上着を着たりはしていないけれど、もう少し気温が下がれば、毛糸の上着を着せたほうがよいかのしれない。雪が降ると「犬は喜び庭かけまわり」という歌のように、犬は寒さに強いというイメージがあるらしいけれど、室内犬として飼われる犬は寒さは苦手のようだ。小型犬は特にそうなのかもしれない。冬の暖房、夏の冷房は、室内犬が快適に健康に過ごすための温度管理としてとても大切なことのようだ。
K川『H』に一月一句ずつ、一年間にわたって載せていただいた俳句が、3月号をもって終了。一つのテーマを念頭に、作った12句も、今回が最後の作。見てますよと言ってくださる人もいて、なかなかありがたかったと思う。こんな機会はもうないかもなあ、と感慨深い。某公的機関の文芸コンクール俳句部門の選者としての役目も、コロナ化で多忙を極めたであろう関係で、選句・選評を送って以降、連絡が全くなかったのだけれど、先日謝金が振り込まれていることに気づき、無事コンクールが行われたことを知る。俳句関係のお仕事として、今年度できたのは、以上二つであった。ちょっとだけ、社会につながっていることを感じさせてもらったことであった。
誰かさんが言っていたけれど、内閣広報官の方。これから先、広報官としての仕事を切り盛りするさいに、常に「例の人」という視線を意識しつつ仕事をしこなすことになるのだろうか。「人の視線?も七十五日」とか言われるけれど、お互いやりづらいことだろうな、と思う。一般人には測りがたい、そんなことには全く動じないタフな人物なのかもしれないけれど……。
大都市を含む府県に比べると、コロナの発生状況は微々たるものという数値の地元とは言え、やはり生活全般は、マスク・三密注意・不要不急の外出禁止とか、他府県と変わらない。日々の生活は淡々と進むとは言え、時にはその日常からちょっとはずれてみたいと思う気持ちが動くことはある。とはいえ、県内の移動はさておき、時には関西圏、関東圏への遠出を思わないわけではないが、実際にそれを実行すれば、通院や付き添いを含めて色々鬱陶しい問題が生じるので、ぐっと我慢するほかはない。沖縄にもいずれ行ってみたいと思うけれど、いつになることやら、おぼつかない。せめて、ちょっと非日常ということで、地元の山の春山山行を実現できれば、などと思う。地元の山は、今年も雪山遭難などが発生している、かならずしもお気楽に登れる山ではないけれど、春の天候が落ち着き、積雪も減った状況であればどうだろうか、と思う。一通り雪山の装備は手元にあるし、あとは体力的になんとかなれば少なくとも、頂上まではということでなく、登ることは実現可能尾なのではあるまいか。そこで、「歩き」に山道歩行を追加して、近所の小山をうろつきまわることとなる。事情を知らない人が見れば、不審者の奇妙な行動のようにも見られるかもしれないけれど。
官僚の接待疑惑。それにしても、公務員のことばかりが取りざたされているけれど、一方の当事者、例の会社と総理の息子を含む接待する側の人間について、なんらかの社会的処断というのは、なされないのだろうか。そちらの話はまるで聞こえてこないので、ちょっと気になる。このまま、官僚たちの処罰のみでことが終了するのなら、公務員を進んで接待するという会社や、その接待に直接間接に関係した人たちは、特に問題なし、ということとなり、結局公務員への民間企業の度を越えたお接待も、社会的に黙認ないしは公認されるということになるのでは、などと思うのだが。どうなっているのだろうか……。どうせ会社ぐるみのお接待だから、例の会社のBS・CS電波使用権の凍結とか認可取り消しとか、関係者の馘首とか、処分とか、是非実行してほしい。さて、どうなることやら、分らない。
2月22日が「猫の日」とは知らなかった。「ニャンニャンニャン」で、2月22日と決まったのだろうか。すると、「ワンワンワン」で、「犬の日」もあって当然と思い、1月11日がその日ではないかと思って、ネット検索をかけたら、残念ながらそれは外れで、11月1日が「犬の日」ということだった。個人的には、新年早々、まだめでたい気分の残る1月11日の方が、と思ったのだけれど。「猫の日」と隣接した月違いでもあることだし。知人にそんなこんなをラインすると、「ホワッツ・マイケル」の画像が返ってきた。
寒い。外は風も強く、吹雪のような状態。一日で、がらりと季節が戻る。明日辺りまでは、この天候が続くらしいけれど、暦の上では春、天気は冬というこの両者の乖離状態は、あたかも株価の上昇と実体経済との関係のごとき現象であるな、とふと思う。いずれにしても、お寒い現実である。
図書館で借りてきた「長田弘全詩集」を読み進める。上下二段組み、600ページ余。物理的にもなかなかよみごたえのありそうな1冊。正直言って、最初のあたりは若書き風な調子が強く、あるいは言葉遊び風な作品が一人遊び的な印象が強くて、この先読み進めようか、あるいはほかのものを読む時間にあてたほうが良いかも、などと考えたりしていた。しかし、散文詩風の作品を集めた詩集に至って、その考えは一気に転倒した。こんな詩的世界をこの人はもっていたのか、それがこんな表現を通じて詠われているのか、とその繊細な感受性の発露やその豊かな叙情性を含めて、胸にどんっと来た。これは、ぜひ読み進めてみたい。この世界が、さらにどのようにこの詩人の中で広がり、深まっていくのか、あるいは変化を遂げていくのか、見てみたいという思いにつながった。返却まで残り1週間を切るけれど、まずはどこまで読み進められるだろうか……。
今日は通院。待合室で、同じく図書館で借りてきた長嶋有の句集『春のお辞儀』を読む。解説部分で、俳人の池田澄子氏が、いみじくもこの作者は自分が面白いと感じることを素直に口にのせ、その結果作者と波長の通じる彼の(私は途中までこの作者はてっきり女学生かな、となぜか思っていた)ファンにとってはとても心惹かれるものとなり、そうではない俳人諸氏にとってはナニコレ的な無反応に近い反応を招いてしまう、的なことを書いておられた。それがまた、長嶋有の個性であるとも。実は、私自身はその意見に共感するところが多かった。作品自体もなぜか(なぜか、は余計かもしれないけれど、妙に心惹かれるところがあって)面白かった。
ワクチン接種。医療関係者の中で、職場内の同調圧力の結果、退職を余儀なくされた例があると本日のワイドショウで。効率的なワクチン接種の方法として、職場を通じての集団接種という案もあるとか、ないとかいう情報がネット上にあった(当然出てくるだろう一案とは思う)けれど、職場内で、ましてや医療機関においては、その圧力は職を辞するところまで人を追い詰めるのか、と思ってしまう。
土曜日,深夜の地震。たまたま、目を覚ましてテレビのニュースで知る。地元も震度1だったらしい。朝になって、震度4の東京の知人にメール。ラインで、大笑いするキティーちゃんの画像と一緒に、ひさしぶりに大きな地震だったと返事がある。飼っていた猫たちもパニック状態になったらしい。もう笑うほかないという、キティーちゃんのメッセージらしい。東日本大震災から10年。しかし、その余震はさらに10年くらいは続くらしい。自然の時間スケールはやはり大きい。さらに、その余震が南海トラフなどの呼び水になるのではないか、などとちょっと心配する。科学的にはどうなのかは、わからないけれど。
地震がらみで、また差別的な書き込みがネット上に多数出現したらしい。関東大震災での朝鮮人たちについてのデマが、殺戮まで招いたという日本人にとっての歴史上の汚点を知っておりながら(事実を知らなければ、オリジナルでそんな書き込みをすることはなかなかないのでは、と思う)、泥の上に泥を塗る一部の人間の行為が不快だ。そんな者たちも、ネット上に逆に自分のデマの指摘の書き込みがなされると、多くは慌てて自分から書き込みを削除するという。いかに軽い気持ちで人々の心を不快にさせ、ざわつかせることを楽しんでいるのか、ということが伺える。書き込む人間がいれば、それを読んで面白がる人間もいるということではあろうけれど……。
日曜日。庭の枯芝のうえに小鳥が死んでいた。ひよどりのようだった。土曜日のうちに死んでいたらしい。両脚をたたんで、縮こまるような姿だった。体のどこも痛んでいないようなので、何かに襲われたりしての死ではないようだった。そのままにしておくわけにはいかないので、裏庭のすみに穴を掘って埋めた。そばに小さな石があったので、墓石かわりに立てておく。これから先、庭に出た時には、きっと目につくことになるだろうと思う。庭にミカンなどを置いておくことが、何かつながりがあったのだろうか、などとちょっと考える。
昨夜からの雨が、今日も一日降り続くらしい。このまま、天気は回復せず、明日以降の寒の戻りの雪へとつながりそうだ。
森氏後継問題、七転八倒の様相。川渕氏に決まりそうな状況の中で、本当に突然の政府の横槍。それにしても、そもそも政府を代表する菅総理は、この問題は独立法人の内部の問題であり、法人の独立性を尊重する自分の立場から、会長指名には政府は(自分は)一切関与しない、と明言していたのではなかったっけ。森問題のとばっちりが、自分の尻に火をつけることを危惧して、そうそうに、尻に帆掛けて逃げ出したのは誰だったっけ?今更法人内の人事に口出しする何らの権限も持たない者が、突然に得体のしれない強権を発動しようとするのは、どういうこと……。というのか、自らの政権を維持するための重要なコマがこのオリパラの実現であり、オリンピックの政治利用は厳に慎むべきという世界的なコンセンサスの中で、平然と自らの政治的立場の維持のためにオリパラをなんとしてでも実現させねばという、露骨なオリンピックの政治利用を国民と世界に対してやってみせようとは、さすが決断力と実行力に富むとか言われる方ならではの手腕の発揮だと、感心するばかりだ。オリンピックの守るべき基本理念を、無知ゆえに、あるいは自らの政治的利害のゆえに、平然とねじまげようとするとは、「あの人」も「この人」もしょせん、「同じ穴の狢」ということなのだろうか……。全く、難しい問題ではある。
オリパラを延期・中止するのは、今までがんばってきたアスリートたちがかわいそう、という多くの人たちに共感されそうな心情論でまとめられ、かなり無理してでも今年オリパラの実現を目指そう的な雰囲気ではあるけれど、実際のところはそのアスリートたちもまた、口実として利用されているということは、当事者を含め誰でも普通に、薄々、あるいはかなりはっきりと気づいていることだろう、口には出せないけれど。そしてこれまた口には出せないけれど、「本当にかわいそう」なのは、オリパラが今年実現しなければ色々と面倒なことになる政権維持に汲々とする人たちと金銭がらみの利害関係者たちであり、「別の意味でかわいそう」なのはアスリートと国民なのではないか、などと個人的には思うことだ、内緒だけれど。
なんとなく、曜日の感覚が変になっているみたいだ。今日は、てっきり土曜日だと思い、しばらくしていやいやそんなはずはない、今日は金曜日だったと思い直し、NHKの朝ドラを見つつ、なんとなく筋が終わりそうもないので(だいたい金曜日で、お話がひとまとまりするサイクルになっている)、これは珍しく来週に持ち越しかと思い、チャンネルを変えて、プレバトの番宣をみて、ようやく今日が木曜日だった、と気が付く。かなわんなあ。生活のメリハリの欠如だろうか。それにしても、朝のテレビが曜日確認の主な手段となっているとは……。
漢文『史記』の下巻に入る。「孔子世家」。なかなか面白い。だいたい「世家」は国家通史的な感じで、個人のエピソードが薄くて、少なく、その点が物足りないと思いつつ、読み進めてきたのだけれど、「孔子世家」になって俄然、孔子本人とその周辺のお話が厚くなってきたので、読みごたえが増す。『論語』において、「怪力乱神は語らない」はずの孔子が、その方面について豊富な知識を披露したり、役人として斉。魯両国国王の懇親会の担当者となった際、余興の芸人たちを場を乱すものとして、厳しく処罰させたり(芸人たちの手足がばらばらとなった?などと書いてあるのだが……。呼ばれてやって来た芸人たちこそは気の毒としか言いようがないが)、孔子の人としての厳しい一面が垣間見えたりもしたものだった。「世家」を終えたら、「列伝」を読もうと思っているけれど、こちらは個人が中心の内容になるので、さらに読みごたえがあるだろう。ただ、漢文大系を中途半端にしかそろえていなかったので、あらたに購入しなければならない。極力本は増やすまい、図書館でなんとかしたいと思っているのだが、これは仕方ない。
森氏の問題は、辞任という形で決着がつくらしい。後任は安倍晋三か、などというガセネタも一部でささやかれてたみたいだけれど(そうなったら、そうなったでその先行きを見てみたいような思いもあったが)、良識的な人物できまりそうだ。ただ、森退任、後任がもめたのは、先行きの見えない東京オリパラの最終責任を誰が取るのか、ということも背景にあったらしい。誰であれ、完全な形での開催がほぼ無理な状況の中で、不完全なオリ・パラに対するその責任のツケを自分が担わされることは願い下げ、というもっともな思いが小池都知事をはじめ、各実行委員会役員(菅総理は早々に逃げを決め込んだけれど)の人たちの中にあったことだろうな、と推測する。森氏に対する「余人にかえがたい」との周囲の賛辞とも響く発言には、「最期はあいつに責任を取ってもらえばよい。格好の、うってつけの人材だ」との響きが含まれていたような……。そう考えると、差別発言は措いて、ほんのちょっと、ごくわずかばかりは同情的な部分がないわけではない。
今日は、メキシコ産の大型柑橘類を八分割して(なにしろ大きいので)、庭のあちらこちらに置く。時折様子を眺めに外に出たりするのだが、ひよどりも来ていないような様子。夏ミカンの方が、魅力的なのだろうか。昨日置いておいたバナナは、皮を残してきれいに食べられていたので、そちらの方は受け入れられたらしい。昨夕には、メジロが一羽、残ったバナナの実をついばんでいる姿を見かけたこともあり、たまには朝食用のバナナを少しおすそ分けしようかとも思う。バナナの皮は、本日回収。柑橘類の方は、すこしだけ食べた跡が見受けられる。そのまま置いておく。いずれ季節が良くなったら、エサ台と水浴び場など作ってみても良いか、などとも思う。
歩いていると、いろいろな人に出会う。自前の物置を一人で作っている元大工さんとは、その作業の進捗状態を出会ったときに尋ねたりする。現在、波板で屋根と壁の一部ができつつある。仕上がっていく様子を伺い見ることは楽しい。時には、建築関係の蘊蓄を披露していただくこともある。こちらの知りたいことを、ちょっと尋ねたりもする。今日は、広い干拓地の農道で、自転車に乗ったおじいさんと出会う。白髪白髭のかなり年配そうな人。自転車を止め、おもむろに道のわきの丈低い木の枝を、剪定用ハサミでちょんちょんと切り始めるので、何をしておられるのかと尋ねる。生け花用の素材を集めているのだとの返事。細い枝には、点々と冬芽がついていて、なかなかいい感じ。道端の自然の中にも、生け花の素材はあるよ、とおっしゃる。時には、山の方まで、出かけることもあるらしい。その折も、かなり古びたその自転車ででかけられるのだろうか、と思う。2,3分の会話だけれど、なんとなく新鮮な気持ちになることだ。先日は、歩きの途中で浮かんだ句を立ったままスマホに入れていたら、家に何か用か、と声をかけられた。気が付くと、他人の家の門近く。掃除をしておられた中年の女性が、不審者と思って話しかけてこられたのだろう。あわてて、スマホの画面を示しつつ、実は忘れてしまわないうちにと思いついた句を入力していたと説明。なんとなくまだ不審感がとけていないふうなので、今作ったのはこんな句ですと、西空に傾く月を指さしながら、出来立ての句を朗読。所望されて二度ほど繰り返し声に出し、きれいな作品ですねと感想をいただく。なんともいい気分で、その場を離れる。とはいえ、改めて不審者そのものの所業であったと思う。コロナ禍の閉塞的気分の中で、こんなちょっとしたやりとりが、楽しい(相手にとっては、迷惑至極かもしれないけれど……)。
いつの間にやら、もう七日。歳をとると、相対的に一日の時間の経過が短くなる(主観的なものなのでしょうが)と言われるが、そのことを実感する毎日。生きてきた時間との相関関係でいえば、子供の頃の一日の長さと、年齢を重ねてからの一日の長さとは、あきらかに子供の頃の時間が相対的に長く感じられる、ということなのか。コロナ禍の影響もあって、日々がさらに単調に流れているということもあれば一層……。
森氏の女性蔑視発言。厄介なのは、本人にその自覚が欠如している、ということらしい。だから、形だけの謝罪となり、逆切れ謝罪などと言われることにもつながるのだろう。他人の事とはいえないけれど、時代や社会状況の変化に対応できないくらいに、閉鎖的な状況の中で生きているということなのだろうか。おそらくそれは、実のところ老若男女に関係なく、今の僕たちが陥っている全体状況なのかもしれない、などと、昔の「タコつぼ状況論」などを思い出しつつ、考えてしまう。一人一人が「タコつぼ」の中に閉じこもって、見たくもない状況に対しては墨を吐き出して、みずからに目くらましをかけてしまう(「タコつぼ論」はそこまでは言っていなかったかもしれないけれど)、そんなことなのだろうか。なんとなく、鬱陶しくも恐ろしい。
夏ミカンを四つ割りにして庭に置く。主にヒヨドリ、そして朝夕にメジロが、地面におかれたミカンを食べにくる。食べにといっても、大半はヒヨドリに食われて、その残りをメジロがついばみに来るという様子。「ウグイス餅」のあの色は、実は「ウグイス」ではなく「メジロ」の体の色、というのはやってくる鳥の姿をみれば、納得できる。態度の大きいヒヨドリはちょっと癪にさわるところがあるけれど、まあ仕方ないかと思う。ふんだんに餌をおくと、糞害のおそれが大きいのだけれど、今のところはしれたものだ。糞害といえば、庭に浸入してくるご近所猫の方がつらい。猫の糞のにおいというのはかなり強烈で、庭のどこかに遺されているのは、その匂いでだいたいわかる。残されたものをシャベルで掬って、埋めるわけにいかないので下水管の方に捨てるようにしてはいるのだが、かなり面倒くさい。姿をみたら追っ払えばよいのかもしれないが、日差しを受けて溜まった落ち葉の上でひなたぼっこをしている姿などを目にすると、なんとなく情にほだされるみたいな気分にはなる。もちろん、エサはやらないけれど……。困ったものだ。
2月に入った。明日は、節分ということで、とりあえず福豆は買ってきた。恵方巻は、簡単に一食分としてすますことができて重宝なのだけれど、今日は買わず。終日ぐずついた天気だったけれど、思ったほど寒くもないというのが、春近しの兆しなのだろうか。とはいえ、2月も例年ならばかなり厳しい寒さの日もあることで、油断はならない。電気不足、水不足で、気がかりなこともある。そういえば、先月の電気代は、エアコンの使用などで、近年まれに見る金額となって、少々驚く。けっこう遠慮なくエアコンを使ったとはいえ、思った以上の額であった。今月は、気を付けて、寒さは重ね着・厚着で対処しようか、とも思う。とはいえ、郷里に帰還した数年は、夏・冬ともにほぼ冷・暖房は使用せずという生活を送ってきたので、さすがにもう無理は禁物という気分ではある。
図書館で借りてきた中村稔の『現代詩の鑑賞』を読む。全400ページ弱のボリュウムで、27人の詩人とその作品が紹介してある。「現代詩」とまとめてあるけれど、第二次大戦の影響の有無(厳密には区別は難しいとも思うけれど)によって、「戦後詩」と「現代詩」とに分けられてある。中村稔選によって、各詩人数編ずつの作品が紹介され、短くコメントが付されてある。内容は、個人的に大好きな詩人や、名前のみ知ってはいる、あるいは初めて知る詩人など、とりどりで、興味深く、また面白くもある。現代詩の通覧として読みごたえがある一冊だと思う。
会食で、また自民・公明の議員が複数、辞職あるいは離党をする羽目となる。公明の辞職は、背後の創価学会の締め付けが厳しいのだろうなと思うけれど、それなりに一定のけじめのつけ方を示したものだと思う。議員の進退は、議員自身の判断によるというお定まりの文句に対する、一つの身の処し方の前例となるかもしれない。自民党の三人は、結局自民党を離脱ということらしいけれど、引き続き議員は続けるらしい。平時であれば、特に問題もない振る舞いであろうけれど、コロナ禍にともなう非常事態宣言下であってみれば、仕方ないよね、と思う。それにしても、時季をわきまえるということに考えが及ばなかったのだろうか……? やっぱり上級国民は、などと批判が出てもしかたがないのかもしれない。
先日、海まで「歩き」に出かけた際、波打ち際に奇妙なものを見つけた。近寄ってみると、体調1メートルほどの「マンボウ」の死骸だった。すでに死んでしばらく時間がたっているような状態であった。この海にマンボウが泳いでいるのかと、ちょっと驚く。近くを歩いているおじいさんにそのことを話すと、ごくまれにもう少し小さなマンボウが打ち上げられることがあると言う。青いきれいな魚が時々打ち上げられることもあるよ、とそのおじいさんは話すけれど、そちらの魚の正体はわからない。