日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし
た。 備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。 独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。 |
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日本人が「聖火」と呼ぶものは、外国では「オリンピックの松明」とか「オリンピックの火・炎」と呼ばれているらしい。なんとも即物的な呼称ではあるけれど、少なくとも「聖なる火」というちょっと宗教がかった呼び名とは、その意味するところの本質が異なっているのかもしれない。「火」に対して、なにか「神聖」なものを感じるメンタリティー自体は、別に日本人のみのものではなく、世界中に結構共通したものなのだろうけれど。「火」はそもそも神からの簒奪という神話など、その感覚の反映なのだろうし……。前回のオリンピックにはずいぶん興奮もした我が身であってみれば、コロナ禍のもと、経済と政治のための行事と化したような今回のオリンピックには、白々とした思いしか持てないけれど、とはいえ「聖火リレー」とか、まるで関心がないわけではないので、ちょっとユーチューブなどを覗いてみて、三密状態とか、ランナーを先導するスポンサー企業のどんちゃん騒ぎに、………、という気持ちにはなる。もちろん、実際にトーチを手に、走るランナーの一人一人の思いは様々あることだろうけれど。
「聖火」というものの意義を認めるとして、はたして今回のオリンピックが、その「聖なる火」が象徴するものにふさわしい大会たりえるのだろうか、と改めて思う。
オリンピックは当然のように実施するらしい。国民の6〜7割が中止、ないしは延期を考えている中での実施。ほとんど、強行ということなのだろう。非常事態宣言は解除され、並行して感染者数が増加しつつある状況の中で、外国から数万人規模での入国を許し、チケットを再発行して多くの日本人が関東圏に集中する状況を作ろうとしているらしい。最近では、第四次の感染拡大のために、病床数を2倍にするとともに、コロナ治療を優先して、そのためには通常の医療行為や手術なども後回しにするという形での医療体制を考えているらしい。後回しにする、ということは、すでに医療崩壊が実現しているということを意味しているような気もするのだが。おそらく、その病床2倍計画も、実はオリンピックでの医療体制を勘案してのことなのでは、などと邪推したりもすることだ。まあ、それでもやるのだろう。始めてしまえばなんとかなる、終わってしまえばあとは野となれ的な無責任状態が残るだけなのだろうな、とオリンピックなどやらなくてよいと思っている一人として、悲観的な予想を重ねるばかりだ。何かあっても、誰も責任をとらないだろうし、ツケは国民に回されるだけということになるのだろう、いつもの事ながら。すでに賽は投げられたようだから、あとは丁半博打で、どんな賽の目がでるのか、運を天にまかせる、ということなのだろう……。
数日前、地元の山へ行ってきた。残雪の時期である。行ったと言っても、登ったわけではなく、北壁といわれる稜線から切れ落ちた断崖の聳え立つ谷の奥(というより底)まで、出かけてきたということだ。雪の残る山道を谷の底に向って歩き、たっぷり雪の残った北壁を眼前にしながら、壁の近くまで行った。今回は、アイゼンもピッケルもなしで、登山用のストックだけ準備をして出かけた。雪の上の歩行はけっこう楽しめたけれど、午後から荒天という天気予報に従って、北壁の写真や動画をスマホに収めて、そそくさと下山。来たときは、太陽を覗かせていた空も、帰る頃には分厚い雲がかぶさってきていた。駐車場に着き、車で山を下りる頃には小雨がぱらつきだしていた。天気予報は本当に精度を高めたものだと感心する。谷底で出会った4人パーティは、北壁のバリエーションルートを登るそうだ。稜線へ逆S字風に登っていく、尾根ともいえない急峻な雪壁をルートに取るとのこと。雨も覚悟に入れての登攀だそうだが、次第に強まってきていた風の影響も大きいことだろうな、と思う。
今年は、残雪の谷を歩いたということで満足して、残雪の春山を楽しむのは来年にしよう、と帰宅後のわが身体の状況から考える。
BS夕方の番組で「駅ピアノ」を見ていた。場所は、京都駅。京都タワーが正面に見えるところなので、あの辺りかなと思いながら、見ていた。演奏者は皆ピアノ演奏を楽しんでいるようで、聞いているこちらも気持ちが良かった。ちょっと、京都に行ってみたいなという思いにもなった。見ているうちに、あるいはこれは再放送かもと思っていると、金髪のジャズピアニスト(プロ)の方が登場して、おしゃれな演奏を披露された。そのあとの会話の中で、自分は音を聞くと色が見える、という話をされた。ああ、この人だったんだ、と思った。再放送かも、言い換えると前に一度見たことのある番組かも、という思いは確実になった。このジャズピアニストのお話を聞いて、音楽で色の見える人をもとにして、モーツアルトなどもそうだったんじゃなかったか、などと思い出しつつ一句作ったことがあったのだ。「共感覚」というものらしいけれど、音楽を演奏しつつ、眼前の空間に色彩を構成していくなんて、どんな世界なのだろうかなどと思っていたのだ。
どんな世界と言えば、政治家の世界にも、「記憶にない」を質的に軽く凌駕する「無意識」からの発言というものが、飛び出した。議場で自分が発言したことが、自分では了解しねない深層意識からの声というのは、一体どんな世界での話なのだろうか。「無意識」の側からの発言なので、責任はもちかねるなどという答弁が、今後まかり通っていったりして……。
今日も一日、強風の世界。体感温度はずいぶん低く感じる。おかげで、がたがた震えながらの「歩き」「散歩」となった。明日から、雨。地元でも、桜の開花宣言が出たようだ。満開が近づいたら、海沿いの公園に一人でふらりと桜を見にでかけよう。どう考えても、密になる恐れも気遣いもないのがありがたい。田舎の強みである。
自分の幼少期の経験との比較ということになるのだろうけれど、特にここ数年、なぜか晴れると強い風が吹く、というそんな天気がくりかえされているように思う。地元を長期間離れていたので、いつごろからそうだったとはきちんとは言えないけれど、こちらに帰って来た当初は、気にするほどでもなかったので、個人的にはやはりここ数年で、という思いがぬぐいがたい、風が強い、ということは、気圧配置のうちの高気圧と低気圧の気圧の差が大きい、ということなのだろうし、さらにいえば、気象の傾向がなんとなくくっきりとしてきたというような気もする。さらに広げて考えれば、これもまた温暖化の特徴の一つかも、というところにつながってくるような気がしている。とにもかくにも、晴れた日はもう少しのんびりと屋外ですごしたい。強い風をうけながらの「歩き」や「犬の散歩」は、かなり鬱陶しい、ということだ。
厚生労働大臣。いろいろ意味不明のことを繰り返し国会で答弁していたけれど、いわゆる「文春砲」の一撃で、会食を認めることとなった。とはいえ、会食の主宰はNTTではなく、JRみたいだし、呼ばれて行ったみたいだし、時間も1時間程度、食事はとらずビール二三杯、1万円を払ったとのこと。職務に関係ない話をしただけ、らしい。ならば、あんな聞き苦しい、見苦しい答弁などすることなく、NTTとの同席の会食はあった。内容は職務外、きちんと1万円払った。なにもやましいことはない。と、すっきり堂々と答えればよかったのに、と思う人はきっと多いことだろう。それを、奥歯にもののはさまったような物言いをするから、ネット上に散見する意見のように、何かあったのではと「痛くもない腹を探られる」ということにもなるのだろう、と普通は考えるのでは……。
近代以前の俳論、和歌論を読む機会はあるけれど、詩論(この場合、詩とは「漢詩」のこと)を読む機会は、少ないように思う。今現在、その漢詩論をちょっと読んでいるのだけれど、内容的に流派間の対立の様相も含めて、なかなか面白い。流派の領袖に対して、はっきりと名前を挙げつつ、かなり露骨に批判の弁を展開するのは、実は読んでいる側にしてみれば、その対立や批判の内容が、実作の対比で語られるよりは、格段に分かりやすい、ということがあって、その意味でも面白い。実作を元に実作に即しての説明、というのは、正直わからない。特に、おそらく微妙な興趣の違いが、みたいなところなど、まるでわからない。同じやん、と思ってしまう……。
うちの自治会では、年に2、3回ゴミ捨て場所の点検当番が回ってくる。当番とはいえ、内容はゴミ袋がきちんと回収されてあるかを確認に行く程度のものであるのが通常だ。今日も、昼過ぎにちょっと点検にと、雨がびしょびしょ降る中を車で見に行く。だいたいマナーは守られているので、一瞥程度で役割は終了と気楽に思っていたのだが、ゴミ捨て場へ行ってみて、呆然とした。まだゴミが収集されていないだけではなく、ごみそのものが歩道から道路にかけて散乱状態になっている。カラスだ。カラスが、ごみ袋の上にかぶせてある網の間から袋を引きずり出して、ビニール袋を食いちぎって中のもろもろを周辺にまき散らしていたのだ。きちんと網がかかったところは手がつけられていないので、いい加減に置き去りのゴミ袋が狙われたようだ。放置するわけにもいかず、一度自宅に引き返し、新しいゴミ袋とゴミばさみを持ってきて、雨の中、傘をさして周辺のゴミ拾いをするはめになった。半分腹を立てながら、それでも雨でびしょびしょ、ぬるぬるのもろもろを袋の中に押し込みながら、ふとカラスに引き出されたゴミ袋の中身がろくに分別もされていないことに気づいた。びんや発泡スチロールまでごちゃごちゃに詰め込まれてある。分別もいい加減な人間だから、ごみ捨てもいい加減なのか、とみじめ半分、腹立ち半分で後片付けを終えた。そういえば、半年ほど前のペットボトル回収の日、たまたま当番だった私は、中身入り、ラベルとキャップそのままの二袋分、40本ほどの回収されなかったペットボトルを、放置するわけにもいかず、横の公園でひとりきれいに洗っていたことを思い出した(幸い、晴天だったが……)。点検当番の廻りの運の悪さということだろうか。あるいは、似たような不愉快な思いをした人が同じようにいたのだろうか。
安倍晋三以来、国会答弁は同じことを繰り返すという手法が定着したようだ。何をきかれても、一つ覚えよろしく、同じことを繰り返す。繰り返して、誠実に自分は答弁していると強弁する。国会が行政の監視機関としての役割を骨抜きにされたのは、こんな答弁が閣僚や、さらには官僚の中にまで浸透、蔓延したことによる。その一因を野党の非力によるものというけれど(確かに、それも否定できないけれど)、今の国会の体たらくを野党の無能さに置くのは、現状の改善にはほぼ意味はないか、さらには転倒の論理にすぎないと思われる。そもそも、のどの乾いていない馬を泉に連れて行って水を飲まそうとしても、それは無理、という格言かなにかがあったように思う。その気がないという以上に、誠実に答えようとするまいという意志を固めた人間に、まともな答弁を期待することがそもそも無意味ということか。そんなこんなが国家の中枢機関で平然とおこなわれているとは、なかなか日本もすごい国であると、国会中継を見ながら、つくづく思ったことだ。
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とりあえず、確定申告の書類完成。今年度から基礎控除額が10万円引き上げられた結果として、税の還付金ががっくりと減った。どこで引かれどこで返ってくるかの違いとは言え、気分的には年度当初のボーナスがすっかりなくなったような、少々ガッカリ気分ではある。申告期間は3月15日から一か月延長されたけれど、地方公共団体によっては延長なし、みたいな情報がネットの良く見るページに上がっていて、そんなことはあるまいと思って、念のためにわが町の納入期間を検索したら、1か月延期という公示が見当たらなくて、ちょっと慌てたりもしたものだ(結局、以前の情報のままで更新されていないページを見ていたみたいだけれど……)。まあ、そのおかげで二人分の書類が一気呵成に完成、ということではあったけれど。お仕事一つ終了。
地元句会のひとつがここしばらく通信句会という形で行われていたのだけれど、その作品取りまとめ役の方が今月都合悪く、今回だけ代行ということになった。総括の責任者(固い言い方だけど……)から投句作品をこちらに転送してもらい、字足らずの句の確認電話を入れ、選句のために句をアトランダムに並べた一覧表を作成し、さらに選句と鑑賞文の用紙を作り、連絡事項をまとめ、パソコンに住所を打ち込んで宛先ラベルを作り、封筒に貼り、、こちらの住所を印刷した変形角形封筒に用紙三枚をきれいに折りたたんで入れ、封をして、この際なので「歩き」のついでに最寄りの郵便局まで30分歩いて持っていき、投函。これもまた、一仕事であった。数日後には、転送された選句と鑑賞文をまとめる作業が残っている。これまた、もう一仕事。
今日はなんとなく蒸し暑いような日中。散歩の犬も、本日はゆっくりペースで、歩き。その分、たっぷり時間もかかる。帰宅後、「水を飲め」と本人(本犬?)にうながすが、無視される。。などと書いているうちに、午後になって上空の雲が次第に分厚くなってくるようである。明日は、雨らしい。
江戸時代の歌論(和歌関係)、詩論(漢詩関係)を読んでいくにつれ、用語上の壁を感じつつも、その着想や発想、さらに論理展開など、基本的な動きについては現代人と同じだ、と思わせられる。もちろん、思想的な背景の違いはあるので、語られる内容について、賛同しづらい部分もあるけれども。漢詩などは、その構造などについては、なるほど、と納得させられることが多かった。明治時代の作家たちが、漢詩の素養が深く、自らも漢詩創作を楽しんだということが可能であった背景の一端を了解できたような気がした。中には、「how to 漢詩」的な、(創作に関しては)ごく実用的なものまであったりして、作例を紹介しつつの、懇切な説明には感心したりもした。なんとなく、昔に対する偏見的なもの(昔ゆえに現代と比較して遅れている、劣っている的な)をますます感じたりもしたものだ。ともかく、読むのが面白いし、楽しい。
本日は、午後から天気は荒れ気味。午前中の早い時間帯に、実家の犬の散歩を行っていたのは正解。その後、夕方まで用事で家籠りであったせいで、様子を見に行けなかったけれど、夕食の前に出かけてみると、やたらに犬の愛想がよくて、結構ストレスを感じていたのだろうな、と同情する。仔犬ということもあり、旺盛な好奇心が散歩によって拡散(拡大も)しつつ、お昼寝へとつながるライフスタイルが、天候不良は一気に突き崩して?しまうことになるようだ。こちらがセーブしなければ、1時間でも2時間でも戸外にいて、歩いたり、じっと観察したり(じっくりと腰を据える、という表現があるけれど、文字通り路上にじっくり腰を落として興味の対象の観察をするときもある。この子の頭の中で、どのように思考が回転しているのか、知りたいという思いは強い)という状態。ずっと京都への出稼ぎ状態だったせいで、今回初めて三代目の衰弱と死をまのあたりにし、さらに四代目の引き取りからその成長ぶりを最初から見るという経験があって、いろいろと考えたり、感じたりすることは多い。特に三代目の、生き死にに処する姿は、自分の中で強い印象として刻まれているように思われる。いまでも、その姿を思うと、心のどこかが強く震えるのを感じてしまう。たかがペット、たかが犬、ということではない、と思う。
少し間があったけれど、庭にミカンをおいておく。一段落して、様子を見に行くと、皮のみ残してきれいに果実の方は食べられていた。ひよどりの甲高い声がどこからか聞こえてくる。
図書館で本を返却し、あらたに借りてくる。返却した中には、3回借り換えして読み終えた『長田弘全詩集』もあった。少しずつ読み続けて、昨日の夜、やっと読み終えた。今は、読み終えたという満足感がまず大きい。社会科学系の本で、水野章二著『災害と生きる中世』は、継続して借りる。返却まで時間がない、もう読めないかな、などと思いつつ、昨日からちょっとだけでもと思いつつ読み始めたら、これがずいぶんおもしろい。鴨長明『方丈記』なども引き合いに出されてあることが、文系人間にとってのとっかかりの良さにつながったのかも。読んでみると、いろいろ知らないことが書かれてあったけれど、中でも個人的に一番驚いたのは、平安時代の年々の雨量の多少が科学的に判断できる、ということだった。もちろん、平安時代の雨量記録など残っているはずもない。にもかかわらず、その年の雨の多い少ないが判断できるという、うそのような話。雨量はもちろん、農業生産における干ばつや洪水などの災害に直結した問題である。数値等の記録が残されていないのに、何に基づいて判断したのか。ちなみに、気温の問題はその高低を樹木の年輪の幅で判断することが可能だということは、なんとなく了解していたけれど、雨量の多少もまた年輪に含まれる酸素の同位体で判断ができる、らしい。酸素の三つの同位体のうちのひとつが、気候が乾燥しているほど年輪内における含有比率が高まるということで、その年が乾燥していたか、否か、言い換えると相対的に雨が多かったか、少なかったかが判断できる、ということらしい。物理学的な知見が、社会科学に有益な情報提供につながるとは……。とても感心した。面白い。
今日は、ひさしぶりに隣接する美術館にも行ってみた。知人の書道家のグループ展を見に行ったのだが、あわせて別の書道展、さらに「きめこみ人形展」、地域の活動グループの創作展、さらに「絵画とバードカービング(鳥の彫刻)展」と、多彩な催しが行われていたのだ。多様な内容がいずれも楽しかった。たまには、出かけてみるものだと思う。変化にとんだ一日であった。約束をしておりながら、結局知人と行き違いになったのは、残念であったけれど。
本日も、春寒という状態。地元の山は、新たに新雪が少し降ったよう。今年は、コロナ禍の中でも、比較的雪が安定して積もっていた結果、二月いっぱいスキー場が開設されていて、多くはないにしろ、県内外からのお客さんもあって、ともかくよかったなと思う。一部のゲレンデとリフト・施設はもうしばらく営業するようで、積雪が55センチと一時期より増えている状態で、今週土日辺りまでは続けるのだろうか、などと思う。頂上辺りは、おそらくまだ積雪は1メートルくらい残っているのではないか、などとも思う。春山シーズンに入っているということだろう。無雪期の山腹の旅館街に、ほとんど人の姿を見ない時もあったので、なんとか引き続き頑張ってほしいと思う。
江戸御時代の和歌論集を読む。読んでいくにつれ、この時代にすでにこのような研究やそれにともなう古典に対する見識や、近代に引けをとらない発想のあたらしさなどを見出して、感心もし(感心すること自体、実は江戸という時代の文化や芸術に対する認識や判断に対する、こちらがわの偏見や見下しがあるのかもしれないが)、とてもおもしろくも思った。ちょっと沈滞気味だった読書生活が、一気に活性化されたような思いになった。ありがたい。
オリ・パラはあくまで実施するらしい。無観客、あるいは外国人を入れない日本在住の人のみを観客とするオリ・パラとなるらしい。開催国以外の人は、テレビによる視聴。「復興五輪」といい、「コロナ勝利の証しとして(勝利してない、と思うけれど……。でも、こんな困難なコロナ状況下でも開催した、ということがひとつの勝利の証しとなるのかもしれない、ものは言いようだけれど)」といい、正直もうどうでも良いような思いになる。やっても、2兆円超、中止すれば4兆円超の損失となるというタイムリーな試算もでたけれど。いずれその損失は国民が税金という形で補填することになるのだろうか。知り合いには、オリパラを楽しみにしていて、是非見に行きたいと意欲的なひともいる。ひとそれぞれ、ということなのだろう。
山田広報官、やっぱり辞職しましたか。病気を理由とする退職という、既視感のあるなんとなく歯切れの悪いやめ方だった。これもまた、総理と政権に対する忖度の一儀式という印象が強い結末だった。ずいぶん有能な方で、活躍もされていたようだけれど、官僚を切り捨てては延命を図る安倍政権以来の手法の中で、この人もまた(本人にも諸般の事情があったのかもしれないけれど)菅政権の犠牲者の一人なのかもしれない。もっとまともな政権の下であれば、文字通り女性活躍の旗頭の一人として、まともな形でさらに活躍できたかもしれない。その点は、若干お気の毒なような思いにもなる。一般人の感覚では追随しかねる部分はあるにしても、ご本人は忸怩たる思いの中で、しかし「臥薪嘗胆」「捲土重来」の思いで過ごされるのかもしれない。前政権の場合は、官僚トップクラスで、政権のために我が身を犠牲にして尽くした人たちには、それなりの復権策が用意されてあったようだが……。
ミャンマーで、軍事政権は本格的に一般市民の弾圧を、殺害という形で始めたようだ。軍事政権が、その本性をむき出しにし始めたということなのだろう。日本国内でも、軍事政権反対のデモが展開されているということだけれど、それに対しごく一部の日本人からSNSを通じて、「デモをしたければ、ミャンマーへ帰れ」などと、排外的な書き込みが行われているらしい。日本の社会に根付いて暮らす一般人に対して、「韓国へ帰れ」「中国へ帰れ」(それにしても、「欧州へ帰れ」「米国へ帰れ」などと言う声は、全く聞かないけれど)と叫ぶのと同じ文脈での書き込みのような印象を持つ。
三月に入って、本日は朝から雨。昨夜は、寝ていても蒸し暑いような感じがして、室内の気温を確かめると20度近くあった。蒸し暑いはずだと思い、ちょっとだけエアコンをいれて室内を冷やし、その後毛布だけで寝る。とはいえ朝方には、雨のせいか気温が下がって、いつもの状態にもどる。今日は一日、家籠りの日。実家の犬も散歩が出来なくてさぞ退屈するのではなどと思う。最近は、一日の予定の中に「歩き」と「犬の散歩」が日中の時間にがっちり食い込んでいて、夜に入って本を読む時間が増える。目をいたわれば、夜の読書は避けたいけれど。まあ、犬のためには致し方ない、と割り切る。