日々録
日記のようなものを書いてみようかな、と思いまし た。             
備忘録を兼ねて、日々思ったことを書き付けておこうか、とい う事です。
独り言めいた内容もありますが、興味があれば、お読み下さい。

         
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【21年4月30日】
四月も本日で終り。外は晴れたり、突然強雨に変わったり、強い風が吹きまくっってみたりと、ちょっとわけのわからない天気。今は、青空が見え、庭の夾竹桃やハナミズキが風に揺さぶられている状態。つつじは、ほぼ満開状態で、花が雨を含んだ重みで枝がたわみ、それが往復ビンタじみた風で右往左往している有様。落ち着かない。
小冊子は、すでに発注済みだけれど、GWに重なったので、製本されて送られてくるのは8日以降ということになった。発送用の封筒の準備は、せめて住所のシールだけでもこの間にはっておこうと思うけれど、日が伸びたせいで、そのまま放置状態となっている。手作業とはいえ、数百部程度のものなので、送られてきてからやろうか、などと考える。とはいえ、きっと到着までにはシールも貼り終え、封筒の播口も一度きちんと折り目をつけておいて、あとは冊子を封筒に入れて封函するだけという状態にはしておくのだろうと、我ながら思う。手作業のひとつひとつは、イヤでもないし……。
最近、また午前4時くらいに目を覚ますと、BSを見る。以前は、中国の歴史ドラマを楽しく見ていたのだけれど、いまは同じようにやっている歴史ドラマがかなりえげつなくて、早朝に見ると胸が悪くなりそうでやめておいて、同じくBSでやっている70年代初期のイギリスの音楽番組の録画を見る。出演者たちは、洋楽が好きだった人たちにはきっと懐かしい歌い手たちなのだろうけれど、当時は全くその方面に興味がなかったこちらとしては、逆に新鮮な印象で、見ていて結構楽しい。日本でいえば、きっと久米宏・黒柳徹子が司会をやっていた音楽番組的なもの(今どこかのチャンネルで再放送しているはずだが)のような気がする。とはいえ、私が知っているような世界的に著名な歌手はまるででていなくて(もちろんこちらが知らないだけなのだろうが。ただ、本日はロッド・スチュアートが一曲歌っていた)、ちょっとローカルな感じがいろいろ楽しくて、そのかなり手のこんだしかも時代がかった演出を含めて面白い。今朝は、どちらかというとフォークソング系の人たちが出ていたみたいで、それはそれで懐かしいような気分になったものだった。


【21年4月26日】
コロナワクチン接種が現実味を帯びてきた。その機会があれば、受けるつもりでいる。市内の知人は、すでに昨日第1回目の接種を済ませたということだ。
衆参補選、自民党の三連敗(名古屋市長選を含めれば、4連敗)とのこと。別に、野党が政権を取ってほしいとは思わないけれど、少なくとも現在のような自公1強の体制は変わった方が良い。多くの人がそう思っているのではないか。与野党が伯仲して、緊張感のあるまともで真面目な政治が少しでもなされれば、それが一番だと思う。その一歩になれば。絶対多数の自民の腐敗も、すでに極まれりという状態。ただ、コウモリ政党の維新だけは、御免蒙りたいとつくづく思うけれど。
今日は、一日ばたばたと過ごすこととなった。あれやこれやとやるべきことが重なって、結局読書の時間は取れなかった。そんな中で小冊子は、どうにか4月中に印刷まで進みそうなメドが立つ。ありがたい。
一日、寒かった。花冷えと青葉冷えの間の、これは何冷えといえば良いのか。ちょうどツツジの開花の時期と重なっているみたいで、ツツジ冷えとでも呼ぼうか……、今一つの呼称ではあるけれど。ともかく、寒い。庭は、ツツジで華やいではいるとはいえ。


【21年4月23日】
辺見庸の詩集『眼の海』を読む。久しぶりに、その言葉によって喚起される異様なイメージの世界に浸ることができた、なんとも気持ちの悪い詩集。すごいな、と感心する。ごく短期間(2011年の中盤の時期)に集中的な創作された作品群を1冊の詩集にまとめたような印象。作品の中核には、3・11の大地震と引き続く原発事故が動機としてあるようだ。そう限定もできない内容の作品も含まれているけれど。
岩波の日本思想体系から『近世仏教の思想』を読む。単純に好奇心と近世に対する関心から選んだ1冊。実は、ある時、俳句で師事するI先生からまとめていただいた全集本の1冊。神道・儒教・仏教の本質的な共通性を語る大我の『三彙訓(さんいくん)』は、用語が難しすぎてまったくちんぷんかんぷん状態ではあったが、徳竜の『僧分教戒三罪録』は、蓮如の「坊主ト云者ハ、大罪人ナリ。」という言葉を出発点として、僧侶のあり様を問うという内容で、こちらは仏教徒でもなんでもないのだけれど、読んでいくうちに、宗教という観点でなくても人としての善悪とか罪過について考えさせられるところがあって、引き続き読んでみようという気にさせられているところだ。
生活は日々短調になっていくけれど、読書に救われているところは確かにある。犬の散歩も同様(散歩時間が次第に長くなっていく点がちょっと困りものかもしれないが……)。犬と歩調をあわせつつ、見たり聞いたり、時に嗅いだり感じたりすることは、なかなか面白い。

第三回目の緊急事態宣言が発令されたようだ。京都も対象地域に入っていて、気がかりである。先日、京都の知人に連絡した際、不穏な状況になってきていて、薄気味悪いと言っていたけれど、結局、宣言発動ということになってしまったようだ。こんな事態を招いたのも、一般国民の中にコロナ疲れによる緩みが生じた結果という声も一部にあるみたいだけれど、それは意図的に問題の本質をハズす、あるいはズラす、これまた忖度見解のような気がしなくもない。それにしても、こんな事態の中でもあくまでオリパラは実施するという点だけは、確固不動のものであることが、ますますそれ自体の異常さを見せつけられているようで(ほとんど新興宗教の世界のようだ、「オリパラ教」……)、正直、個人的には気持ち悪い。

【21年4月20日】
日常生活は、日ごとに単調さの度合いを増してゆくような気がする。別にいまさら、変化にとんだ生活を求めるわけでもないのだが。今日は、市内の図書館に本を返しにいったついでに、1時間ほど街中を歩いてみた。快晴で暑い上にマスクをしているので、ちょっと気分が悪くなりそうだった。疲れる。駅前広場を歩いてみたけれど、旅行者を含め移動する人の姿は、ぽつりぽつりという状態だった。小さな地方都市ゆえ、平常であってもそんなに人通りが多いわけではなかったけれど、それでも人の姿が少ないな、とという印象を持つ。
街中のあちらこちらで、ハナミズキの白やピンクの花(実は苞という葉の一種らしいけれど)が目に付く。きれいだな、と思いつつ、我が家の庭のハナミズキが今年は異常なほど花をつけていないことが気にかかる。樹勢が衰えてしまったせいなのか、あるいは天候の関係なのだろうか。毎年きれいな花を咲かせるのに、今年のそんな状態が気にかかる。そういえば、庭の馬酔木も、ほとんど花をつけていないし。肥料不足なのだろうか……。わからない。
海につながる水路に沿って植えられたソメイヨシノはすでに葉桜になっているけれど、そんな中で八重桜がぼってりとなかなか濃密な花をつけていたりするのが、車中から見える。八重桜もよいな、と改めて思う。道路の植え込みのツツジは、そろそろ花をひらきつつあるようだ。外出すると、季節の花を目にできるのがありがたい。これも、生活の一変化であろうか。

原発処理水、飲めるんじゃないかと言ったI氏、「率先垂範」で一度飲んでみて下さい。「まず槐より始めよ」という故事成語もある(ちょっと意味は違いそうだけれど)ことだし。ちょうど、福島の野菜は安全というパフォーマンスで野菜を召し上がった政府要人のように。野菜よりは、ちょっと覚悟と決断が必要かもしれないけれど。「清濁、ならびにトリチウムを併せ呑む」政治家としての太っ腹なところを是非、全国民の前で見せていただきたい……、などとついツッコミたくもなるほどの、軽薄なI節である。でも、その軽薄さゆえに深く傷つく人たちもいるのでは……。それって罪作りな発言ということではないのか?

【21年4月16日】
最近、やたらと社会的な問題ばかりを書いてきていて、個人的にもかなり鬱陶しい思いになっているのは正直なところ。ましてや、基本的に(コロナ禍のせいというだけでなく)社会から身を離して、個人的な、あるいはごく内輪的な生活空間の中で息をしている者として、何となく「気掛かり」という動機を除いたら、社会の動きだろうが何だろうが、どうでも良い、我関せずという立ち位置に最も近いような者が、あれこれ口に出すのはおこがましいということになるのかもしれない。
趣味と気がかりと納得と。いずれも「個人的な」この三本柱で生活したり、適当に書き込みを続けている、ということなのであろう。我ながら、そう思う。

汚染水の海洋放出投棄が決定して以来、テレビのワイドショーがしきりに汚染水の安全性を流し始めた。しかし、それは本来政府がきちんと情報を網羅して、国民にアピールすべきことで、マスコミは政府に代わって安全性を宣伝する以前に、すべきことがあるのではないかと、個人的には思う。それは、なぜ汚染水についての正確な情報が、これまでに国民の間に浸透しなかったのかについて、その原因を、きちんと分析し、評価し、その結果をまずきちんと提示することが、マスコミのすべき社会的な役割ではないのか、ということだ。政府に代わって宣伝にこれ勤めるというのではなく(おそらくそれは、次の段階でのことで。同時進行でも一向構わないとは思うけれど)、その前に国民に重要な情報が周知徹底されなかった点について、まず正すのがマスコミの基本的役割ではないか、と個人的には思われる。それが、政府に対する批判であろうが、マスコミとしてのより広範な視点と見識からの提言であろうが、どちらでもよいけれど、その部分を無視あるいは軽視したうえでの情報の拡散は、マスコミが単なる政府の広報機関化したとみなされて、マスコミ自体の価値と信用を貶めることにつながりはしまいか、ということを危惧するという事だ。そしてそのような情勢の中で、おそらくある意味公平な姿勢をかろうじて今のところ保持している(風前の灯とも言われるけれど)のは、なにかと評判の悪いNHKにおける一部の番組ではないか、などとも個人的には思っている。かなり偏ったニュース報道を除き、NHKを個人的には今のところはそれなりに評価しているのだ(私が評価しようが、しまいが、何の意味ももたないけれど、個人的な納得の問題として)。朝ドラには、毎回泣かされたりもしていることだし……。

【21年4月13日】
大阪府は、とうとう感染者が1000人を超えたという。大阪にも親戚はいて、ラインなどでやりとりはしているのだけれど、心配である。片田舎の地元でも、連日感染者の情報が流されて、明らかに今までとは違う動きが生じていることを実感する。
吉村知事は頑張っているとの世評はあるけれど、雨合羽にしろ、例のイソジンにしろ、難波のギャグかと思われるような発言もあり、テレビの露出度では負けるけれど、わが県の知事のコロナ禍に対応するある意味「良識」のある態度などをもう少し見習ってほしい、などと個人的には思ったりもする。そんな吉村氏が、国の要請があれば、トリチウム含有の「汚染水」を大阪湾に放出することを前向きに考えていると、ネットニュースに出ていた。風評被害を福島のみに背負わせるのは気の毒で、その負担の一部を肩代わりしたいという、男気なのか、政府への忖度なのかはちょっと判別できないけれど、時宜に即した発言ではあろう。ただ、ちょっと気になるのは、それが果たして福島への風評被害の対策になり得るのか、という疑問があるということだ。そのやり方は、「汚染水」の安全性のアピールというより、風評被害のさらなる拡散という意味を持ちえないか。特に、以前からいわれているように、太平洋への放出ではなく、瀬戸内海というある意味閉鎖的な海域への「汚染水」放出は、一層「ヤバイ」という思いを煽ったりはしまいか、ということだ。どうなのだろうか……。
それは、ちょうど原発は安全だから(いまでは一部の人を除いて手放しでそう考える人はいないと思うけれど)、その安全性をアピールするために東京近郊に原発をひとつ新設しよう、みたいな発想と同列のものではあるまいか。誰も、東京近郊に原発を作ろうなんて、考えないよね。安全ではない、と分かっているから。少なくとも、東京近郊に原発を真剣に作ろうとしたら(なにしろ、地産地消ではないけれど、自分とこの地域で使う電力ぐらい、自分とこで作れ!ということだろうし)、必死になってその安全性を、科学的な裏付けを含めて東京都民や周辺の県民へと「不退転」の覚悟で必死になって説明しなければ、埒はあかないだろうし。
イソジンがほとんどギャグの世界であったように、大阪湾への「汚染水」放出も、あまりまともな提案とは思えないけれど。どうなのだろうか……。

【21年4月10日】
我ながら、ちょっとアホちがうかと思いつつも、たまにやってしまうこと。美味しいけれど、高カロリーのものを体重を気にしながらも食べたいと思う時、朝と昼との二回に分けて食べるというやりかた。一回分の接種カロリーが、計算上は半分になること、さらに昼間の時間帯で運動等によって高カロリーの部分が消費されるのではないか、という期待。結局、一日を通してみると、摂取カロリーは1回で食べるのと同じことだし、運動で解消と言っても、そもそもの日々の運動量に大きく追加荷重をかける必要があって、それは実際なかなかつらいこと、さらにいえば、運動で消費されるカロリーは、本格的なアスリートでもなければ、たかがしれていること、などを冷静に考えてみると、1回分を日中に二度に分けて食べるということは、ほぼ気休めに近いことということになりそうだ。すると、残るは結局食べたいという誘惑に打ち勝つしかない、ということになるのだが、聖人君主ならぬ我が身として、きびしくつらいことではある。
福島の放射能汚染水を海洋投棄することが、決まったようである。世界の原発では、汚染水を海洋に投棄することはごく当たり前に行われていることなので、何ら問題はないとの見解があるけれど、それは安全で問題がないということではなく、それくらいしか安全そうでさらに安価に処理する方法がない、ということの結果だろうなと思われる。とりあえず、眼前のめざわりなものを、海洋という広大と思われるものに託して(丸投げともいえるかもしれないが)、当面の安泰を保つということなのだろう。こんなことを言えば、言うだけなのはただ、とかそれがダメなら対案を出せなどという声がありそうだけれど、そんな妙案がこちらにあるはずもない。ただ、こと福島に関しては、一度海洋に投棄すれば、その先何十年、あるいは壊れた原子炉内からデブリが取り出され、処理されるまで、百年単位くらいでずるずると海洋投棄が継続して続くことはありえそうな気がする。一度の排水は、放射能汚染水を希釈して流すとしても、その総量は膨大なものになりはしないか。そうでなくても、様々な人為的汚染にさらされる現在の海洋が、はたしていつまでその無限にも思われる胃袋で、人類の汚染物を飲み込み続けてくれるのか、気がかりになるのは当たり前のことではないか。汚染水貯蔵タンクの頑健化、タンク設置用地の確保、あるいは他国の放射能除去に対する研究とその成果の検討など、根本的な解決ではないものの、海洋投棄とは別の処理案もないわけではないらしい(いずれにしても、海洋投棄を含め、それが根本的な解決でない以上、未来にかけてあらたな放射能処理技術が開発されるまでの「つなぎ」の意味しかもたないようにも思われる。新技術の開発を切に期待しつつということであるけれど……。これもまた遠大な先送りということのようだ。)。ただ、それらの点についてはろくに検討もなされないまま、海洋投棄が推し進められるのは、結局一番金がかからず、さらに責任の所在があいまいになる海洋投棄「ありき」という、最近はやりのやり口の結果のように思われて仕方がない。
「水に流す」というのは、古来からの日本民族お得意の手法ではあるけれど、放射能に対して、はたしてどこまで通用するのだろうか。この問題については、自然崇拝や神仏の加護はほとんど期待できず、「人間力」のみの勝負ということなのだろうけれど。


【21年4月9日】
良い天気が続いている。とはいえ、少々寒い。いまさら寒の戻りというわけでもないと思うのだけれど。「歩き」の最中、しきりに雲雀が滑舌よくしゃべくりまわりながらホバリングしている姿を見かける。耕作放棄地や荒蕪地が周辺に広がっている中で、雲雀にとっては営巣に絶好の環境ということなのだろう。雉の甲高い声や、走り過ぎる姿を見かけたりもする。雉は、しっかり自分のテリトリーを守っているらしい(この時期、雉に限るまいが……)。時には、雄同士の争いを目撃したりするのも、この時期ではある。雉はちょうど子育て真っ最中なのだろう。つがいで、上空を徘徊するカラスは、ゴミ捨て場のゴミだけでなく、雉の雛なども見つければ襲うこともあるのだろうと思う。物騒なことだ。寒いなりに、春という季節は進みつつあるようだ。
一冬、和室に炬燵というスタイルで、読書の時間を過ごしたけれど、これはもうしばらく続きそうだ。夜などは、ついそのまま炬燵の中でひと眠り(窮屈なので、そのまま朝を迎えることは難しいけれど)ということもある。4月いっぱいくらいは、このままの環境で、五月に入ったら二階の方へ読書の場を移そうと思う。先日、図書館で新たに本を借りてきて、古典と同時進行的に読み始める。韓国の奇妙な短編小説集とか、詩集、詩人の書いたエッセイ、さらに「源氏物語」を含む物語文学が、千年という時間の流れの中で、どのように人々の間に広まっていったのかを追尾する、そんな内容の本とか。近世の宗教関係の論文とかも挑戦してみるが、これは言葉が難しくて難渋している。儒教・仏教・神道について、対立やら調和やら当時の指導的立場の人たちの主張が語られているのだろう、などと薄々思う。

フジ・サンケイグループの外資比率超過の問題は、結局政府の忖度によっておとがめなし、ということになるのだろう。東北新社は免許取り消しになったのにねー、などと皮肉っぽく言ってみたところで、ごまめの歯ぎしりですらない、ということだ。フジ・サンケイって、露骨に政府系のマスメディアだから、お目こぼしも当たり前ということなのだろう。

ちょっと楽しみにしていた対面句会は、地元のコロナ感染増加によって、やっぱり中止となりました。郵送です。残念。

【21年4月7日】
三日前から、それまで毎日庭にやってきていたつがいのひよどりが、ぱたりと姿を見せなくなった。ちょうど、三日前、庭に用意しておいたミカンは、そのままの状態で、すこしずつ干からびていくようだ。家の出入りの際、そんなミカンの様を眺めては、ひよどりのことをちょっと思ったりもする。なんとなく、物足りないような気分を感じながら。ひよどりも季節を選んで移動することはあるのだろう、きっと。ただ、そんなことを今まで考えもしなかった。餌を与えることで、ひよどりに注意が向き、やってこなくなって、初めて来なくなるということを意識したということだ。あるいは、ちょうどカラスが子育ての時期にさしかかり、子供を守るためにちょっと狂暴化する時期でもあり、近所の小山にはからすが群れをなして出没することもあって、強引に追い払われたのだろうか、とも思ってみたのだが、よくわからない。ひと冬、姿を見ていたものが見えなくなるのは、少々さびしいことだ。
大阪を中心とする関西圏は、コロナ禍でかなり厳しい状態になっている。東京は、まだそこまではいっていないけれど、明らかに感染数は増えつつあるようだ。大阪で影響を与える変異種が、すでに東京の方でも確認されつつあるらしい。東京が、一気に感染者数を増やす可能性が大きいにもかかわらず、もう少し様子を見たいという、呑気な総理大臣もいることではあるが……。個人的には、オリ・パラが感染症対策の足引っ張りになっているのは明らかであろうと思われ、こんな状況の中でも、聖火リレーだとか、お祭り騒ぎにうつつをぬかす状態が一方であることに、???マークが幾つも頭の中で並ぶ、そんな心境ではあるけれど……。
狂句。「ニホンタンポポ恥ずべき国となりにけり」。
「ニホンタンポポ」は「タンポポ」の在来種。やたらに威勢の良い「セイヨウタンポポ」に比べ、可憐で楚々たる「タンポポ」です。

【21年4月4日】
今日は、終日雨。「歩き」も犬の散歩もなく、自宅で主に読書。人の「感情」について、考察的な内容の入門書を読む。源河亨・著『感情の哲学 入門講義』という一冊。普段、特に考えてもみない話題だったので、とても興味深いものだった。書名はそれらしく固いものではあるけれど、内容は一般向けにとっつきやすく書かれ、ホラー映画とか、コントなどを含むユーモアについてなど、話題の近しさと広がりがあって、面白かった。「感情」には、「知性」が不可欠のものなど、「感情」と「知性」とは別物的な漠然と思っていたことが、くつがえされたりすることも、「ああ、さすが、哲学!」と感心しきりだったりしたことだ。。
お昼の時間帯、冬の間和室の障子窓に、防寒用に貼り付けていた荷造り用の「プチプチ」のシートを外す。はたして、どれほどの保温効果があったかは、実感としてはいまいち不明ではあったけれど、はずしてみて室内が春らしい雰囲気になったことは確か。今日はあいにくの雨だったけれど、晴れの日に障子を通じて日差しが差し込むのは、気分の良いことだと思う。
そろそろ小冊子の春号の編集を始める。ネット上の連句も、しばらくの休憩から再開。数か月間、手紙を通じて行われた句会も、少人数の対面形式で、様子を見つつではあるが、始まることにもなりそうだ(すぐ、手紙形式に戻るかもしれないが)。地元でも、東部・中部を中心に、コロナ禍が侵攻しつつあって、変異種を含むクラスターの発生など、穏やかならぬ状況ではあるけれど……。


【21年4月1日】
新年度が始まった。とはいえ、コロナ禍は収束の様子をみせないどころか、事態は悪化しているようだ。今日は、エイプリル・フール。せめて、「コロナ特効薬完成!」、ぐらいの嘘はついてみたいような気にもなることだ。

昨夜は、いろいろあって、年度末の夜を実家で「会食」。おいしい日本酒を知り合いから送っていただき、実家へもおすそ分けと言いながら、半分ぐらいは自分が飲んでしまった。大吟醸のおいしいお酒だった。普段は、日本酒やビールは一切飲まないのだけれど、昨夜のお酒はつい、盃が進んでしまった。冗談ではなく、10年ぶりくらいに、日本酒を堪能した気分。夜中に、ちょっと悪酔いの気配を感じるくらいに、日本酒というのか、お酒をたっぷり飲んだ。ちょっとやばいかも、と思いながら夜明け近くまで眠れず、はっと気が付くとしっかり7時過ぎまで二度寝している有様だった。体調は回復。とはいえ、当然、今夕はアルコール類はなし。

確定申告、終了。税務署へ書類を出しに行くだけだったので、予約をいれる必要もなかった。10分足らずで終了。所得税以外の税金にも微妙にかかわってくるみたいなので、毎年きちんと済ます。基礎控除額が、380000円から480000円へと変更された結果、税の還付金が大幅に減る。なんとなく、損をしたような気分になる。

毎度のことだけれど、今日も快晴(すこし黄砂が残ってはいたけれど……)、そして猛烈な風。晴れと強風とのワンセットは、なんとも鬱陶しい。もう少し、駘蕩たる春の晴天というものは、味わえないのだろうか、と天を恨めしく思う。初燕を目撃。風に翻弄されているようなありさまであった。